2019年1月20日日曜日

信仰生活の基本(3)「交わりの祝福」詩篇133:1~3


 年が明けてから数回の礼拝にて、信仰の基本的事柄をテーマに説教するよう取り組んでいます。第一週が「礼拝」、第二週が「伝道」そして今日は「交わり」がテーマとなります。
 私たちは「交わり」が、私たちの人生に大きな影響力を持っていることを知っています。夫婦、親子、家族、友人、同じ志を持つ者、教会の仲間。大切な人、愛する人、憧れの人との関係や共に過ごす時間は、私たちの人生の中で極めて重要なものです。交わりを通して、喜びや感謝は倍に。交わりを通して、苦しみや悲しみは半分に。交わりの中で、信仰生活の取り組み方、情熱や能力や知識、積極的な思いや良い習慣が、人から人へ伝わります。神様は様々な方法で恵みを下さいますが、「人」を通して下さる恵みには格別なものと感じます。仮に私たちの人生から、交わりが無くなるとしたら、喜んで生きることはとても難しいものとなる。自分の人生に与えられた「交わりの祝福」と聞いて、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。
 しかし、「交わり」の持つ影響力は、必ずしも良いものだけではありません。一般的に、人が抱える悩みのうち九割以上は人間関係に関するものと言われます。交わりを通して、傷つけられること、傷つけてしまうことに、私たちは苦しみ、悩みます。交わりの中で、良いものが伝わるだけでなく、不道徳、不品行、怒りや憎しみ、悪い習慣を受け取ること、与えてしまうことがあります。そのため、私たちは時に交わりを喜べない、交わりを避けようとする。本来良いものと分かりつつ自分で交わりを壊してしまうことがあります。自分の人生で、交わりで苦しんだこと、交わりを避けようとしたことと聞いて、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。

 なぜ「交わり」は良くも悪くもなるのでしょうか。本来、人間は交わりを喜べる者として神様に造られました。それが罪の結果、神の愛を受け取ることが出来なくなり、互いに愛し合うことが出来ない存在となる。罪の結果は、交わりに色濃く出るのです。しかし、イエス様が下さる救いは、罪からの解放でした。キリストが下さる恵みの一つは、罪人を本来の交わりが出来る者へと造り変えられていくというものです。
キリストを信じる私たちは、罪の結果、正しく交わりを持つことが出来ない者から、本来の交わりを持つことが出来る者へ変えられている。その途上にあります。「神様の愛を受け互いに愛し合う」、この本来の交わりを知る者として。キリストによって造り変えられている者として。しかしまだ罪の影響があり、周りの人を傷つけ、悪影響を与えてしまう者として。どのように「交わり」に向き合ったら良いか。どのような思いで「交わり」に加わったら良いか。今日は一つの歌から、考えていきたいと思います。

 詩篇133篇1節~3節
見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 詩篇の中に燦然と煌めく「交わり」の賛歌。交わりに対する恐れや心配など一切見えない。「なんという幸せ、なんという喜び」と喝采を上げる、ひたすら明るい歌。それもたった三節、短く言葉がまとめられています。「仲良し万歳、油、露、祝福」と詠めば、覚えることも簡単。詩人が味わう交わりの祝福、友情の幸福感に誘われます。

 ところで、この歌は詩篇百二十篇から始まる「都上りの歌」と言われる連歌の一つです。十五の歌が連なる、十四番目がこの歌となります。
 「都上りの歌」とは、その名の通り都エルサレムに向かう際の心情を歌ったもの。しかし、ただ都に向かうのではなく、エルサレムにある神殿を目指して上っている。巡礼歌、礼拝者の歌です。この連歌には、「遠方の地にいる者が神殿を目指し、礼拝をささげ、帰路に着く」流れがあり、交わり賛歌もその中の一つとなります。この流れを少し追ってみますと、

 詩篇120篇5節~6節
ああ嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留しケダルの天幕に身を寄せるとは。この身は平和を憎む者とともにあって久しい。

 「都上りの歌」は、都から遠く離れた地に住む詩人が、苦境に立たされながら、望郷の思いを歌うところから始まります。望郷と言っても、故郷に思いを馳せるというだけでなく、神殿を、礼拝を渇望する歌となります。(イスラエルの地から見ると、メシェクは北方、ケダルは南方です。「メシェクに寄留し、ケダルの天幕に身を寄せる」とは、都、礼拝からしばし離れている状況を歌ったものと思われます。)
 しかし、実際に都に向かうのには様々な困難がある。どうしたら良いかと歌が続きます。
 詩篇121篇1節~2節
私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。

 詩篇全体の中でも非常に有名な歌。これは都上りの歌の第二歌でした。礼拝に向かう途上、山がある。その山を見上げて恐れを抱きます。登山、行楽ではない。旅の困難、危険を案じてのこと。とても乗り越えられない。助けが必要。どうしたら良いか。もとより、どこから助けが来るかは、礼拝を望む詩人はよく知っていること。しかし、ここで今一度、確かめるのです。助けはどこから来るのかと自問自答し、すぐさま「私の助けは主から来る。」と告白する。礼拝に加わることが出来ることが、本来は大きな恵みであること。霊肉の健康、あらゆる状況が整えられて、礼拝をささげることが出来る。その恵みは、主なる神様が下さっているからと覚えます。

 こうして都エルサレムに着いた詩人の喜びが続きます。
 詩篇122篇1節~2節
『さあ主の家に行こう。』人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。

 待ちわびた礼拝を目前にして、「さあ、主の家に行こう」との呼びかけを喜ぶ。都エルサレムの門をまたぎ、「エルサレムよ、私たちの足は、あなたの門の内に立っている。」と言うだけで嬉しい。この詩人の喜びを前に、果たして私は教会に来ることを、礼拝をささげることを、どれ程の喜びとしていたのかと心探られます。(また、この歌はこの後で、都の街並みに焦点を当て、都賛歌と続いていきます。)

 このように、遠方の地から都エルサレムでの礼拝を目指してきた詩人が、エルサレムに到着しました。続く百二十三篇は、「わなたに向かって私は目を上げます。」と始まり、遂に礼拝をささげることが出来た詩人の姿が描かれます。礼拝を通して、神様との交わりで味わったこと、考えたこと、確信したこと、決心したことが続々と歌われて行きます。
時間の都合で全てを確認することは出来ませんが(礼拝とは何かという視点で、都上りの歌を通して詠むことをお勧めします)、有名なところをいくつか見てみますと、
 詩篇126篇1節~2節
主がシオンを復興してくださったとき私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき私たちの口は笑いで満たされ私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき諸国の人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなさった。』

 背景にあるのはバビロン捕囚からの帰還、復興のこと。歌われているのは、救いの喜び。罪の奴隷から神の子とされた。壊れた人生が、回復された。神の民の歩みとしても、自分の歩みとしても、神様が下さる救いは現実のものとは思えない程素晴らしい、夢のようなもの。それを味わう時、笑いや喜びで満たされたという歌です。礼拝の度に、この喜びを味わうようにと招かれます。

 それでは、礼拝では神様を見上げること、罪や救いにだけに焦点を当てるのかと言えば、そうではない。日々の生活、全てにおいて、神様を覚えることも大事なこと。
 詩篇127篇1節~2節
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 「宗教とは心の問題を扱うもの。心の平安さえ得られれば、それで十分。」と考える人がいます。しかし、聖書はそうは言いません。礼拝の中で、自分の仕事のこと、日々の糧のことも考えるように。勤勉、努力、精進したところで、神抜きの歩みはいかに虚しいか確認するよう歌われます。どのように仕事に向き合っているか、どのように家庭生活に向き合っているか。礼拝の度に、生活の全ての分野で、神様を信頼することを再確認する。

 このように都上りの歌は、礼拝を通して受ける恵みを様々な表現で繰り返し歌っているのです。その終わりに、今日確認したい交わり賛歌が出て来ます。(連歌の最後、百三十四篇は、帰路に着く時の歌、頌栄、祝祷の歌となっています。)
 詩篇133篇1節~3節
見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 この一篇だけ読むのか、都上りの連歌の一つとしてこの歌を読むのか、違います。交わり賛歌と言っても、これは礼拝に集まる者たちの交わり。同じ神様を信じる者たちの交わり。仲良し万歳と言っても、ただ仲が良いことが素晴らしいというのではなく、神の民が集まることの喜び、聖徒の交わりの幸いを歌っているのです。
 皆さまが詩人として、信仰の仲間と過ごす喜びを歌うとしたら、何にたとえるでしょうか。ともに神様に賛美をささげ、ともに神様に祈り、ともに御言葉を聞くこと。ともに食事をし、ともに奉仕をささげ、ともに伝道する。ともに悩み、ともに苦しみ、ともに戦う。ともに感動し、ともに感謝をする。互いに愛し合い仕え合う、その交わりの喜びを何にたとえたら良いでしょうか。

 この詩人は、交わりの喜びを、一つは「油」になぞられました。交わりの祝福は、「アロンに注がれた貴い油」のようだ、と。アロンと言えば、モーセの兄にして、初代の祭司に任じられた人。油を注ぐというのは、神様と特別な関係になり、使命が与えられる。神様の役割を担うために、聖別される。聖霊なる神様の特別な恵みが注がれることを意味します。祭司に任命される際、頭に注がれた油は、ゆっくりとしたたって、髪を伝わり、顔を伝わり、ひげに流れる。ひげからしたたり落ちる油は、衣の端まで濡らしていく。香り立つ油が、全身を潤す。神の民の交わりは、アロンに注がれた貴い油のように素晴らしい。
 もう一つは、「露」にたとえています。交わりの祝福は、シオンの山に降りる露のよう。エルサレムがあるシオンの山より、北に百五十キロのところに、ヘルモン山があります。標高二千八百メートルの大きな山。イスラエル地方は地中海性気候で雨の少ない時期、このヘルモン山からの風は、この地方全土を露で湿らせ、作物を育ませる。神様を信じる者の集まりは、この露のように素晴らしい。

 皆さま、分かりますでしょうか。なるほどと思うでしょうか。このあたりは、詩のセンスが問われるところ。油にしろ露にしろ、上から下へのイメージ。厳かさ、雄大さ、芳醇、豊穣のイメージも加わるでしょうか。
 四日市キリスト教会の初代牧師、小畑進先生は、交わりの祝福をこのように表現していることについて「アロンのおひげの滑り台での油の遊戯が飄逸とすれば、巨峰ヘルモンの滑り台による天露の遊弋という大景観。至近から遠大へ。剽軽と雄偉と。双方を合わせて、兄弟相睦ぶ幸福を歌い上げるのです!・・・そのように見て、そのように歌って、兄弟ともども群れている楽しさが、一層こみ上げてくるではありませんか。」と評します。
正直言いまして、私はあまりピンとこない。残念無念です。もっと詩が分かる人間になりたい。「なるほど」、「そうだ」、「上手い」と言いたい。しかし、詩人が言いたいことは分かります。ともかく、素晴らしいと言いたい。それは伝わってきます。

 それでは、神の民の交わり。キリスト者の交わりは、それ程素晴らしいものでしょうか。実際に私たちが味わう交わりは、どうでしょうか。
はい、確かに素晴らしい。しかし、素晴らしいだけかと言えば、やはりそうではない。神の民の交わりにも、罪の影響はあり、傷つけ合うことが起こります。教会の交わりの中で、励まされ、勇気づけられ、喜びに満たされることもあれば、苦しむこと、傷つくこと、怒りや憎しみに満たされることがあります。この詩人のように、手放しで素晴らしいと言い切れるかと言えば、そうは思えない状況がある。
この詩人は、信仰者の交わりで傷ついたことがなかったのでしょうか。交わりの負の側面は無視したのでしょうか。なぜ交わりが幸い、祝福だと言い切れるのか。基本的には良いものだけど、時には傷つくこともあるとは言わず、ひたすらに良いものと歌いきるのは何故か。
 それは、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じたから」でした。私たちがどうであるか、ではない。神様が、信仰者の交わりに祝福を命じたから。それも、「とこしえのいのち」と名付けられた祝福を、神様が与えるからなのだと言うのです。

 私たちが交わりを持つ上で、最も重要なことは、この視点です。キリスト者の交わりについて、神様が何と言われているかを忘れないように。
 自分の経験、自分の姿に注目すると、交わりが怖くなります。傷つくことはないか。苦しむことにならないか。自分のような者が他の人と接することで、傷つけてしまうこと、苦しめてしまうことはないか。悪影響にならないか。自分の為した悪、自分のされた悪によって、交わりを避けたい。面倒に思うようになることがあります。
何しろ私たちは、良いと思ってすることでも、ひどい結果を招くことがあります。ある意味で、私たちは徹底的に罪人。自分の努力や人間性では、本当の意味で人を愛することなど出来ない程、罪にまみれた者です。しかし、そのような私たちの集まりでも、神様は祝福を命じられた。とこしえのいのちの祝福が命じられているとの宣言を、今日はしっかりと受け止めたいと思います。

 マタイ18章20節
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

 私たちの交わりには、主なる神様がとこしえのいのちの祝福を命じておられる。私たちの交わりには、いのちであるイエス様がともにいて下さる。

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