2018年4月29日日曜日

コリント人への手紙第一2章1節~9節「人間の知恵によらず、神の力によるもの」


イソップ物語に「胃袋と足」という小話があります。「胃袋と足が能力のことで言い争った。足が事あるごとに『自分の方がずっと有能で役に立つ、お前なんかそっくり運べるほどだ』と胃袋を見下す。すると、胃袋も足に、『しかしな、お前さん、わたしが栄養を補給してあげなかったら、お前さんたちだって何も運べないのだよ』」と応酬するというものです。

「あれ、この話し、どこかで聞いたことがある」と感じた方もいるでしょう。胃袋と足を目と手に変えれば、そっくりそのままのお話が、コリント人への手紙にも登場してきます。

同じ教会に属しながら、四分五烈していたコリント教会。同じキリストの体の器官同士でありながら、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者たちはキリスト派を名乗って、争うコリント教会。この手紙を書いた時点から遡ること6年前、自ら苦労して生み出した大切な教会が、分裂寸前にあることを知らされたパウロは、矢も楯もたまらず手紙をしたためた。それが、このコリント人への手紙第一です。

しかし、コリント教会の問題は、分派、対立だけではありませんでした。教会員同士の揉め事をこの世の裁判所に訴える者、性的不道徳に陥る者、聖餐式の後の食事の席で貧しい兄弟を辱める者など、これが本当にキリスト教会かと嘆きたくなる程、様々な問題が存在したのです。

この時、コリントの町から海を隔てた対岸の町エペソにいたパウロは、我が子のような教会が、ここまであるべき状態から落ちてしまったことに胸を痛めました。けれども、その様な教会であっても神の教会と確信する使徒は、この大切な教会をあるべき姿へと回復すべく、一つ一つ問題を取り上げては、処方箋を与えてゆくのです。

そして、問題を整理したパウロは、まず取り上げるべきは分派対立の問題と考えたのでしょう。挨拶を述べた後、早速こう勧めています。

 

1:10「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」

 

どうか、あなた方にお願いします。仲間割れせず、一致するように。1章から4章まで、手紙の前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっていました。この点を心にとめて、今日のところ読み進めてゆきたいと思います。

 

2:12「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」

 

当時この地方には、町々を巡り歩く巡回哲学者と呼ばれる人々がいて、人々は彼らの話を聞くことを楽しみにしていたと言われます。ことばと知恵を重んじるギリシャ人の例に漏れず、コリントの人々も雄弁に語る者、知識や教養を感じさせる話をする者を、格別に尊敬し、好んだと言われます。例え内容が良くても、訥弁の人、単純な話をする人は軽んじられました。巡回哲学者も、演説で糧を得るわけですから、雄弁な語り方や機知に富む話し方を磨くことになります。

そんな町の風潮に影響されたのでしょうか。コリント教会も、使徒や指導者の語ることが、神様からのメッセージかどうかよりも、語り方が雄弁か、話し方に知識や教養が感じられるか。その様な点で評価し、各々の好みによってグループに分かれ、争っていたらしいのです。

勿論、雄弁や機知に富むことにも意味があります。あったらよいものと思われます。しかし、それらは大事ではあっても、キリスト教信仰にとって最大事ではありません。まして、それらがキリスト教信仰にとって最大事である、イエス・キリストを伝える上で邪魔になるとしたら、自分はそれを捨てる、いや捨てたと、パウロは語るのです。

それも、キリストはキリストでも、十字架につけられたキリストのほかは知るまいと決心して、コリントの町に乗り込んだと言う点が心をひきます。真理の教師、人間の理想としてのキリストではなく、私たちの罪のために十字架につけられたキリストを示すことに、専念したと言うのです。人間が考えた宗教や哲学ではなく、神の御子が十字架の上で肉を裂き、血を流して、私たちの罪の贖いとなられたという歴史の事実を伝えることに集中したのです。

そして、その訳は、あなた方の信仰が、人間の知恵に支えられるものではなく、神の力に支えられるものとなるためだったと言うのです。

 

2:35「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」

 

思い返せば6年前。コリントの町に入った時、自分は弱く、恐れおののいていたと、パウロは告白します。大都市コリントの中でただ一人の孤独。ともに労苦する仲間のいない寂しさ。加えて、ヨーロッパに入ってから苦しめられ続けた、キリスト教信仰への迫害、ユダヤ人の妨害、人々の冷淡な態度も骨身にしみる辛さだったことでしょう。また、罪人である自分が、尊い福音を伝えることへの畏れがあったとも考えられます。わ使徒と言っても鉄人ではない。傷つき、疲れ切り、弱く、壊れやすい一人の人間でした。しかし、ある夜、神様が幻に現れて、パウロを励ましたのです。

 

使徒18:9 10「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」

 

この後一年半。パウロがこの町に腰を据えて教会建設にあたることができたのは、この神様の激励があったからでした。さらに言うなら、弱さと怖れを経験したのは、パウロが真に神様に頼り、神様の力によって強められるために必要な経験だったと考えられます。

もし、私たちの信仰が、人間の知恵によって支えられているなら、さらに優れた知恵によって、ひっくり返ってしまうかもしれません。もし、私たちの信仰が、雄弁なことばによって支えられているなら、もっと雄弁に語るキリスト教反対論に挫かれてしまうでしょう。

「あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるために…」。果たして、私たちの信仰は人間の知恵や、雄弁に支えられているのか。それとも、神様の力に支えられている信仰なのか。自分自身の信仰の土台を確かめたいところです。

さて、ここまで、「すぐれたことばや知恵を用いず」とか「説得力のある知恵のことばによるものでなく」、「人間の知恵によらず」と述べてきたパウロ。「でも、それでは余りにも知恵と言うものを軽視している」と反論する者があると考えたのでしょうか。

「いや、私たちクリスチャンも知恵を知っている。但し、その知恵は神の知恵。私たちが語るのは神の知恵だ。けれど、この知恵を、生まれつきの人間はだれ一人知ることができない」と力説します。人間の知恵が無用とか、何の役にも立たないと言うのではありません。パウロが言いたいのは、人間の知恵は、神の知恵を知ることができないこと、人間の知恵の限界でした。

 

2:68「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

 

「井の中の蛙、大海を知らず」と言うことばがあります。小さな井戸の中に住む蛙が、大きな海を知らないように、狭い知識にとらわれて、ほかに広い世界があるのを知らない様、自分の知っていることがすべてだと思い込んでいる人のことを言います。

世界を創造した神が人間の罪を悲しみ、自ら人となって地上に下り、一人のしもべとなって罪人に仕える。ついには身代わりに十字架にかかって罪人を救うという出来事。神が世界の初めから考えていたこと、神の知恵を、ユダヤの支配者、ローマの支配者は知る由もなく、自分たちが正しいと思い込んで、キリストを十字架につけました。

彼らだけではありません。この手紙を書いたパウロ自身が十字架の意味を言理解できず、キリスト教反対、クリスチャン迫害の鬼として活動していました。この手紙にも「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人には躓き、異邦人にとっては愚かなこと」とある様に、当時多くの人々が、神が罪人に代わって死ぬなど、そんな馬鹿なことがあるはずがないと考えていました。今でも、神が世界を創造したとか、人間になったとか、まだ、そんな時代遅れのことを信じている者がいるのかと、キリスト教否定論者が沢山いるでしょう。

昔も今も、人間は井戸の中の蛙なのです。自らの知恵の限界をわきまえず、自分の知っていることがすべてと思い込み、せっかく差し出された神の知恵を拒んできたし、今も拒み続けています。

大学生の時、信仰の恩師からかけられたことばに、忘れられないものがあります。それは、私が神学校に進むきっかけになった一言でもありました。

ある日曜日夕礼拝の後のこと。「俊ちゃん、大学卒業したらどうするの」と卒業後の進路について尋ねられたのです。私は「出版社に入って、本の編集とかやりたいと思っています」と答えました。

すると、「ふ~ん。それも向いているかもね。でもね、どんなに良い本も、時間がたてばゴミの山。忘れられてゆくんだよね。人間の思想とか哲学とか知恵と言うのは、流行り廃りがあるんだよ。でも、聖書は違う。聖書の福音、聖書の真理は永遠で、廃ることはない。世界中の人を救い、生かして来た永遠の真理なんだよ。生涯かけて仕事をするなら、流行り廃りのある真理と永遠の真理、どちらのために仕事をすることにやりがいがあるのかな。」

人間の知恵と神の知恵。流行り廃りのある真理と永遠の真理。どちらのために仕事をすることにやりがいがあるのか?もしかすると、先生の心には、このパウロのことばあったのかもしれません。

それでは、この神の知恵は、一体誰に示されたのでしょうか。イエス・キリストの十字架が福音、良き知らせであると知ることができたのは誰なのでしょうか。

 

2:9 「しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。」

 

人間と言う人間が、見たことも、聞いたこともないもの。思ってみたこともないこと、つまり神の知恵を、神様は、その愛する者たち、実は私たちのために備えてくださったのではないですか。そうパウロは、コリント教会の兄弟姉妹に、また今の私たちにも語っています。

「神を愛する者」とは、神を信頼する者とも読み変えることができます。自分の罪を認める者、自分の弱さ、限界をわきまえる者、自分を頼らず神を頼る者の心に、イエス・キリストの十字架の福音は知られ、受け入れられると言うのです。

ここで確認したいのは、私たちが救われたのは、決して偶然ではないと言うことです。神様は、本来人間が知ることのできない神の知恵、十字架の福音を知ることができるよう、神様が私たちを備えてくださった。それゆえに、私たちは救われ、神を愛する者とされたのです。私たちの信仰が、人間の知恵に支えられるものではないこと、神の力に支えられていることを確かめ、感謝したいと思います。

こうして、今日の箇所を読み終え、改めて考えたいことがあります。それは、私たちが人生の中で、自分の罪、体や心の弱さ、知恵や力の限界を経験することには、大切な意味がある、と言うことです。

先に話したように、パウロは「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。」と告白しました。自分の体と心の弱さ、自分の罪、自分の知恵や力の限界を嫌と言うほど経験し、認めていたのです。私たちも同じことを経験してきましたし、これからもすることでしょう。

しかし、そのような時こそ、私たちが真に神様に頼ることを学ぶべき時ではないかと思います。パウロが、神様の励ましに支えられて厳しい現実に留まり、取り組むべきことに取り組んでいったように、私たちも神の力に支えられた歩み、続けてゆきたいと思います。

もう一つは、自分の弱さや限界をわきまえること、へりくだって罪を認めることは、私たちを自慢、高慢から救うと言うことです。コリント教会の分裂、対立の源には、各々が自分の知恵を誇るという問題がありました。知恵は神様の賜物、良いものです。しかし、それを誇って人と争い、人を責めることは、霊的に未熟な証拠です。

パウロは自分の弱さや怖れについて証しました。それは、私たちが自分の弱さや限界をわきまえるように、へりくだって各々が罪を認め、自慢、高慢を戒めることができるように。そんな配慮からではなかったかと思います。

心から神に頼ること。自慢、高慢を戒めること。弱さの中で、私たちには学ぶべき教訓があり、味わうべき恵みがある。このことを覚え、信仰の歩みを続けてゆきたいと思います。

 

Ⅱコリ 12:10「…私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 

2018年4月22日日曜日

ペテロの手紙第一2章1~3節「みことばに親しみ、みことばで養われ、成長する教会」


私たちの教会のビジョン、それは「神と人とを愛する教会」です。私たちがみな、何をするにおいても神と人を愛する思いをもって考え、行動する者でありたい。神と人を愛することを、生涯をかけて追い求めてゆく教会でありたい。そう願い、このビジョンを立てました。

しかし、私たちは、イエス・キリストを信じたから、自動的に神と人を愛する者となれるわけではありません。洗礼を受けたからと言って、すぐに愛の人になれるわけでもありませんし、聖書もその様には教えていません。

むしろ、神と人とを愛することにおいて成長するために、私たちには取り組むべきことがあります。その内のひとつが、みことばに親しみ、みことばで養われることと教えているのが今日の箇所なのです。

私は、多くの兄弟姉妹から、聖書を読むことの大切さはわかっているけれど、なかなか忙しくて、読めないという声を聞くことがあります。聖書を読み始めても、なかなか続かないとか、読む気になる時もあるが、全くなれない時もある。そんな声も聞きます。

忙しさ、目に入り耳に入ってくる情報の氾濫、根気のなさ、聖書に対する思いが不安定であること。私たちにがみことばに親しむことを妨げる原因は、内にも外にもあります。けれども、だからこそ、今朝使徒ペテロのことばに励まされ、みことばに親しみ、養われるものとして歩んでゆく、新たな思いを抱くことができればと思います。

さて、ペテロの手紙は紀元65年ごろ、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビテニヤに散って、寄留している」クリスチャンたちに宛てて書かれたものです。世界地図を見ると黒海の沿岸から西アジア辺り。あまり世界の脚光を浴びない地域です。何らかの事情があって、この地域にもユダヤ人クリスチャンたちが散在し、肩寄せあって生活していたらしいのです。

故郷を離れた寂しさ。親戚縁者等、頼る者なき社会で働き、生活する厳しさ。圧倒的な少数者であるクリスチャンたちに対する迫害。その様な境遇に置かれた兄弟姉妹が集う教会に、この手紙は持ち回りで運ばれ、礼拝の際に読まれました。その様な兄弟姉妹が、どんな思いでペテロの勧めを聞いたのか。私たちも想像しながら、読み進めたいと思います。

 

2:1「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

「ですから」とあります。前の内容を受けて、具体的な勧めのことばが語られてゆきます。123節で、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とペテロは語っています。「あなたがたは、朽ちない種、神のことばによって新しく生まれた者ですよ。ですから…」と言う勢いです。

そして、次の2節では「求めなさい」と勧めるペテロは、まずその前に「捨てなさい」と命じていました。まず捨てる。植物の種も蕾となれば、蕾を覆う外皮を脱ぎ捨てなければなりません。蝉も脱皮して成長します。神のことばによって新しく生まれた私たちも、捨てるべきものを捨てよと教えられます。

ここで捨てるべきものとして挙げられている五つのことは、どれも隣人との関係、隣人との交わりにかかわっています。「悪意」とは、隣人の成功や幸せをけなし、妨げようとする心。「ごまかし」は、偽りのことば。「偽善」とは、外側はきれいでも、内側はどん欲で、卑しいこと。「ねたみ」は、世間はこれで動いているとも言われる心の病気で、隣人の幸せや豊かさ、評判をねたむ心。そして「悪口」。妬みがたまると悪口になって噴出します。

これらすべてを捨てよ。根こそぎ放り出せと勧められているのです。悪意が、どんなに大切な人間関係を険悪なものとするか。ごまかしが、どれ程真実な関係を壊してしまうか。偽善が、どんなに交わりを腐らせるか。妬みが、どれ程人を醜くさせてしまうか。悪口が、どんなに人を高慢にすることか。せっかく、神のことばによって新しく生まれ変わったというのに、こうした黴菌が教会の交わりを、家族の交わりを、地域の隣人との交わりを汚してしまう。

私も胸に手を当てれば、思い当たること、多々あります。そもそも、こう勧めたペテロ自身が、ユダヤ人を恐れて本心を偽り、ごまかしの行動をとったことがありました。ヤコブ、ヨハネの兄弟が栄光の座を願うのを見てねたみ、腹を立てたこともありました。悪口と言って、主イエスのことを「そんな人など知るもんか」と呪い、誓ったさえありました。

ペテロも、イエス様と教会の兄弟姉妹に迷惑をかけてきた一人だったのです。だからこそでしょうか。神のことばによって新しく生まれた者として、恥ずべきことを捨てよ。神様との交わり、隣人との愛の交わりを妨げるものを捨て続けよと勧めたのでしょう。私たちも、このことばをもって自分の足元を戒めたいと思います。

続くは、「求めよ」です。捨てるべきものを捨てるだけでなく、求めるべきものを求めることが勧められます。

 

2:23「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」

 

旧約聖書の詩人は、みことばを、行くべき道を示す灯に例えました。主のことばは金銀にも勝ると言い、最高の宝物とほめたたえました。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出ることばによって生きる」と語り、みことばをパンにも勝るいのちの糧と表現しています。そして、ペテロはと言うと、みことばを乳に例えると、みな生まれたばかりの乳飲み子にならえ、と勧めたのです。

お腹をすかせたら、矢も楯もたまらず乳を欲しがる乳児。母親の乳房にしゃぶりついて、ひたすら乳を飲む乳飲み子。あなた方は、その赤ちゃんのようにみことばを慕い求めて、成長せよ。そう命じていました。

赤ちゃんは乳飲み子と言われるように、乳を飲むのが仕事です。ひたすら成長するために、乳を飲み続けてやみません。どんなご馳走にも目を向けず、ひたすら乳を飲む。母乳を最高の食事として味わう。離乳までを6か月とすると、平均165リットルもの乳を赤ちゃんは飲むことになるそうです。

また、一口に母乳と言っても、その味は赤ちゃんの成長に合わせて、三段階に変化しているのだそうです。初乳、最初の乳はタンパク質と脂肪を多く含み、未だ飲む量の少ない新生児に適している乳。それが、移行乳、成乳となると、水分とともに糖分が多くなり、甘くて美味しい乳に変化する。赤ちゃんはこうした乳を飲み続けることで、お母さんの慈しみ、愛情を味わい、成長してゆくのです。

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」あなたがた大人も、主の慈しみを味わうことにおいては、乳飲み子であれ。生まれたばかりの赤子のように、みことばの乳を慕い求めて成長し、救いを得よ。救いの完成に向かって進め。

ペテロは、愛する兄弟姉妹が神様の慈しみを味わうことができるよう、みことばに親しみ、みことばで養われることを強く勧めています。故郷を遠く離れ寂しさを感じている人々。頼る者のいない外国の地で厳しい生活を送っていた人々。キリスト教信仰に対する批判や迫害に苦しむ人々。こうしたクリスチャンが、自らの経験を通して語る使徒のことばにどれ程励まされたことでしょうか。

私が神学生の時、奉仕していた教会に韓国出身の老婦人がいました。クリスマスの祝会でのことでした。ある者は賛美を、ある者は聖書朗読を、ある者は手品を、ある者は楽器演奏をと言う風に、各々得意とする賜物を披露する時間がありました。

その老婦人も順番が回ってくると、すくと立って、「山上の説教の朗読をします。」と言われました。私はてっきり山上の説教を読むのだろうと思っていたのですが、違っていました。何と彼女は聖書を開かずに、前を向いて山上の説教を朗読し始めたのです。女性らしい優しい声で、聞く者の心に響く,見事な朗読。まるでガリラヤの山で話しをするイエス様と、それを聞く弟子たちの姿が目の前に浮かんでくるようでした。

皆が感動して拍手を贈ったこと、今でもよく覚えています。その後、彼女が山上の説教を覚えた理由を話してくれました。戦争中、教会に迫害が迫り、聖書を奪われる危険を感じた時、彼女は教会の仲間と手分けして、新約聖書を覚えたのだそうです。彼女が担当したのは、マタイの福音書で、戦後もしばらくはマタイの福音書全体を諳んじて、朗読することができたそうです。

その後、生活の忙しさに追われ、年を重ねるにつれ、覚えた聖書の記憶も徐々に薄れてゆきましたが、山上の説教だけは忘れまじという思いで、繰り返し口ずさんできた。お陰で、80歳になっても、しっかり心に刻まれており、それを朗読できるというのが何よりの喜びです、と言われました。

特に、短気でかっかしやすい私にとって、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ544)と言うみことばは、いつも自分を戒めてくれました。そう証してくださったのです。

乳飲み子のように、みことばの乳を慕い求めて、成長する。まさに、ペテロの勧めを文字通り生きた信仰者の姿です。ちょっとばかり聖書を読んで、神学校で学んで、いい気になっていた私は鼻をへし折られました。クリスチャンになるなら、こういうクリスチャンになりたい。そう思わせてくれた今でも憧れのクリスチャンの一人です。

私たちも、みことばに親しみ、みことばに養われて、神様の慈しみを味わう。神様の慈しみを味わって、自分の中にある偽善、ごまかし、ねたみ、悪意と言った黴菌を捨ててゆく。そうした人生を目指したいと思うのです。

しかし、乳飲み子が乳を求めることは本能です。ですから、私たちが、みことばを乳のように求めるためには、みことばに親しむ方法、養われる習慣を身に着ける必要があるかと思います。旧約の時代の人々はどう取り組んでいたのか。ヒントになる言葉があります。

 

申命記649「聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。」

 

一つ目は、「聞け」とある様に、みことばを聞くことです。礼拝の聖書朗読や説教を聞く。録音された聖書朗読や説教を聞く。聞くことを通して、私たちはみことばに親しむことができます。二つ目は、みことばを心にとどめること。心にとどめるとは覚えること、思い巡らすことです。みことばの意味をよく考えて、生活に適用することです。

三つ目。ここでは親の立場から子供たちに教えることが勧められていますが、みことばから教えられたことを他の人と分かち合うことと考えることもできます。家族や兄弟姉妹と分かち合う時間を作るとよいと思います。

四つ目は、みことばを書き記すこと、書くことです。心に残ったみことばに線を引くだけでも良いですし、ノートにみことばと、教えられたことを書き記すのもよいと思います。手も口も、耳も目も、頭も心も使う。全身全霊でみことばの恵み、栄養分を吸収することです。

そして、これらを実際に行う時と場所を決めておくことが助けになります。みことばに親しむこと、神様と一対一で交わることに集中できる時間や場所を決めておくと、実行しやすいと思います。

最後に、みことばに親しみ、みことばで養われると、私たちはどのような点で成長することができるのでしょうか。神様を愛すること、人を愛することにおいてです。神様のみこころをわきまえ、神様に従うこと、人に仕えることにおいてです。ことばを代えれば、自分ひとりのための人生から、兄弟姉妹のための人生、家族や社会の隣人、広く世界の隣人のための人生への転換です。

みことばに親しみ、みことばで養われ、成長する教会。これを心にとめてこの一年の歩み進めてゆきたいと思います。今日の聖句、年度聖句です。

 

ペテロの手紙第一2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

2018年4月15日日曜日

ヨハネの福音書1章1節~18節「一書説教 ヨハネの福音書~神である方~」


「四日市キリスト教会はどのような教会ですか?」と聞かれたら、皆様はどのように答えるでしょうか。「教会」と言っても様子は様々。それぞれの教会に強い点や課題、特徴があります。教会に対する印象、思いは人によって様々。「どのような教会ですか?」との質問に対する答えは、十人十色となるのではないかと思います。

 しかし、客観的なこととして、自分たちとしてはこのような教会でありたいと宣言していることを、特徴と見ることも出来ます。日本長老教会が掲げている三原則があることをご存知でしょか。「改革主義信仰」「独立自治」「長老政治」の三つです。四日市キリスト教会の特徴は、色々と挙げることが出来ると思いますが、少なくとも「改革主義信仰」「独立自治」「長老政治」を大事にしていることは、公に宣言していることです。

 この三原則のうち、「改革主義信仰」とは何でしょうか。非常に大きなテーマで、説教で詳しく扱うとしたら、何十回に渡る説教を行うことになると思うのですが、極々簡単に説明するならば、自分自身、自分の生活を、「聖書によって絶えず改革され続けること」に取り組むということです。「聖書によって変えられ続ける」ことを大事にする。いかがでしょうか。普段の信仰生活の中で、「聖書によって絶えず改革され続けること」を、どれだけ意識しているでしょうか。

 「聖書によって絶えず改革され続ける」と言う場合の「聖書」とは、聖書の一部分のことではありません。私の気に入っている聖書箇所によって改革されることを目指すとか、私が納得した聖書箇所によって改革されることを目指すというのではありません。ここで言う「聖書」とは聖書全体のこと。聖書全体を通して、日々、自分自身が変えられることを目指す、という意味です。このように考えますと、改革主義信仰に立つというのは、信仰生活の中で、とても聖書を大事にするということ。聖書全体を意識して、繰り返し聖書を読む歩みと言えます。

 

 私たち一同で、繰り返し聖書全体を読む歩みを目指し、そのための助けとなるように取り組んできました一書説教の旅。断続的に取り組んできましたが、今日で四十三回目。新約聖書の四冊目、大きな山、ヨハネの福音書を登ることになります。多くの人に愛され、有名な言葉が多く収録された福音書。単語や文法としては比較的簡単な言葉で記されているものの、その意味するところは深遠。

著者のヨハネと言えば、ガリラヤ湖の漁師。特別な教育を受けたわけではない。無学な普通の人(使徒4章13節)です。気性荒く、イエス様より雷の子とあだ名をつけられたような人。しかしキリストの弟子となり、信仰生活を続けるうちに、その品性と知性は練りに練られ、この福音書を記すほどとなった人。(ヨハネは、この福音書の他、ヨハネの手紙三つ、ヨハネの黙示録を記しています。)

ある先輩牧師に、「ヨハネの福音書から説教するのは、牧師として年数を重ねてから取り組んだ方が良い。難しいから。」と言われたことがあります。別な先輩牧師からは「ヨハネの福音書は、若いうちから取り組んだ方が良い。一生涯かけても、探りきることは出来ないから。」とも言われました。年を重ねてから、若いうちからと、正反対の勧めですが、理由は同じ。ヨハネの福音書は深遠にして難解なところがある。心して読みたいところ。一書説教の際は、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 新約聖書の冒頭、四つの書は、イエス・キリストの生涯と活動に焦点を当てた書。その名も「良き知らせの書」、「福音書」ですが、最初の三つと、ヨハネの福音書は大きくことなります。最初の三つは、「共観」福音書と呼ばれ、同じ出来事、同じ言葉が、重なって記録されています。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書を読み進めた人が、何度も同じ話が出てくると思ったら、それで間違いがない、その通りです。ヨハネの福音書に入ると、それまで三つの福音書と重なる内容はごく僅か。共観福音書に記されていない記事が、多く出てきます。何故なのか。

 一般的に、ヨハネがこの福音書を記したのは、他の福音書が記された後のこと。歳を重ねた老ヨハネが、他の福音書を知っている状態で記した書。意図的に、内容が重ならないように記されたものと考えられています。最後に書かれた福音書。

 さて、それではヨハネは、どのような思いでこの福音書を記したのでしょうか。この福音書を書いた目的について、明確に記された箇所があります。

 ヨハネ20章31節

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

「イエスとは何者なのか。」「私はイエスを何者とするのか。」これが、この福音書の中心テーマです。ヨハネの願いは、この福音書を読む者が、イエスを「神の子キリスト」と信じることで、永遠のいのちを得ること。そのために、イエス様が「神の子キリスト」であるとは、どのようなことなのか。「永遠のいのち」とはどのようなものなのか。この福音書全体を通して、記していると言えます。

この福音書を読む者、私たちは「イエスとは何者なのか。」「私はイエスを何者とするのか。」を考えながら読むのが良いでしょう。

 その書き出しは有名な言葉で始まります。

 ヨハネ1章1節~5節

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 単語や文法は簡単、意味は深遠と言われるヨハネの福音書の特徴が早速、如実に出ています。イエスを「神の子キリスト」と紹介する福音書。その書き出しにおいて、イエス様を「ことば」と紹介し、ひかり、いのちというモチーフも添えられています。

 イエスは「ことば」であり、「ことば」は神であり、「ことば」によって世界は作られた。この書き始め。多くの神学者が、ヨハネが意識している旧約聖書の箇所があると言いますが、皆様はどこだと思うでしょうか。この冒頭の言葉で、連想する旧約聖書の箇所があるでしょうか。

ヨハネが意識していた箇所。それは聖書の冒頭、創世記の最初、天地創造の箇所です。

「初めに」と書き始める。「ことば」による天地創造。いのちや光も、天地創造を連想させるものです。

イエスを「神の子キリスト」と紹介する福音書。ヨハネが選んだ最初の一手は、イエスこそ世界の造り主であり、神であるという主張でした。

そして、造り主であり、神である方が、人となられたと続きます。

 ヨハネ1章14節~18節

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 冒頭、創世記が意識されていたのに対して、ここは出エジプト記が意識されていると言われます。シナイ山にて、モーセが神様と出会う時。神様はご自身のことを、「恵みとまことに富む」ものとして語られましたが(出エジプト記34章7節)、ヨハネは主イエスが「恵みとまことに満ちておられた」と言います。モーセは、神様の御姿を完全に見ることは許されなかった(出エジプト記33章23節)のに対して、主イエスは父なる神のもとから来て、父なる神を解き明かすと言われます。幕屋が完成した時、人々は幕屋を通して神の栄光を目撃しましたが(出エジプト記40章34節、35節)、ここでは、人々の間に住まわれたイエス様を通して御子の栄光を見ると言われます。

 世界の造り主であり、神である方が人となられた。それは旧約時代、様々なものを通して示されていた父なる神様のことを、より鮮明に、より正確に示すため。これから記す「イエス」を通して、父なる神のことを知ることが出来るという主張です。

 ヨハネは、イエス様のことを「神の子キリスト」であると伝えたく福音書を記しました。福音書の冒頭、イエスは「ことば」であり、「ことば」は神であり、「ことば」によって世界は作られたとして、イエス様が「神の子」であることは十分に示されています。

 では、イエス様が「キリスト」であることは、どのように示されているでしょうか。私たちは、「キリスト」とは「私たちを罪から救うために十字架にかかり死に、復活された方」と考えます。死と復活が、キリストの最たるしるしと考えます。その考えは間違いではなく、ヨハネの福音書でも、主イエスの死と復活が極めて重要な出来事として記されています。しかし、ヨハネの考えるキリストの重要な働きはもう一つあります。キリストとは、「父なる神がどのようなお方か示す者」という理解です。

 つまり、「イエス」を通して、父なる神のことを知ることが出来るということは、まさに「イエス」こそ、キリストであるという主張となっているのです。

 イエス様を通して、父なる神様のことを知ることが出来るというテーマは、ヨハネの福音書で繰り返し扱われるテーマです。様々な表現が用いられますが、イエス様ご自身が繰り返し、自分を通して父なる神様が示されると言われたことを、ヨハネは記録しています。

父と一つであると言われる時もあれば(17章22節など)、いつも共におられると言われる時もあります(8章29節、14章20節など)。ご自身の言葉が、父なる神の言葉であると言われる時もあれば(12章49節、14章24節など)、ご自身の行われることは、父なる神の御業であると言われることもあります(10章32節、14章10節)。ご自身の使命は、父なる神の栄光を現すことと言われることもあれば(11章4節、13章31節など)、「わたしを見た人は、父を見た。」(14章9節)と言われることもあります。

 表現は様々ですが、イエス様を通して、父なる神様を知ることが出来ることが、ヨハネの福音書では繰り返し主張される。イエスとは、「父なる神がどのようなお方か示す者」であるということが、ヨハネの福音書の重要なテーマなのです。

 それでは何故、キリストとは「父なる神がどのようなお方か示す者」という理解を、ヨハネは持ったのでしょうか。何故、キリストの重要な働きが、「父なる神がどのようなお方か示す」働きなのか。おそらく、イエス様が祈られた次の言葉を、ヨハネ自身が聞いたからではないかと思います。

 ヨハネ17章3節

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 永遠のいのちと、父なる神を知ることが関連付けられています。永遠のいのちとは、父なる神を知ること。だからこそ、キリストとは「父なる神がどのようなお方か示す者」と理解し、イエス様を「父なる神を示す者」として記録したヨハネ。

このように見ていきますと、ヨハネの福音書を読む私たちは、「私はイエスを何者とするのか。」を考えながら読むだけでなく、「イエス様を通して示された父なる神様はどのようなお方なのか」を考えながら読むのが良いと言えます。

 

 ヨハネの福音書の概観ですが、前半(12章まで)と後半(13章から)に分けられます。後半は十字架にかかる直前の記録。キリストの生涯が記されていると言っても、時間配分としてはだいぶ極端です。

 前半は、イエス様の奇跡や、特定の人とのやりとりが多く記されます。その殆どが、ヨハネの福音書にだけ記された記録です。主なものを大雑把に確認していきますと、

二章にカナの婚礼、水をぶどう酒に変える奇跡。

三章で、ニコデモとの会話。おそらく聖書中、最も有名だと思われるヨハネ3章16節はニコデモとの会話の延長に出てきます。

四章でサマリヤの女とのやりとり。女性に水を求めたイエス様が、いつの間にか、永遠のいのちにいたる水をあげようと言われる麗しい会話の記録。

五章が、ベテスダの池の男の癒し。三十八年間、病気の中にいた男を癒し、しかし安息日論争が起こる場面。

六章で五千人の給食の奇跡。この奇跡とそれに続く出来事が、イエス様のなされた奇跡で唯一、全ての福音書に出てくるものです。五千人の給食の奇跡は、余程弟子たちに印象深かったのだと思います(キリストの復活は全ての福音書に出てきますが)。

七章が仮庵の祭りでの出来事。

八章がパリサイ人との論争。この段階で、イエス様を石打にしようとする者たちが出てきます。

九章が盲目の男性を癒す奇跡と、それをきっかけに起こる論争。

十章が宮きよめの祭りでの出来事。敵対する者たちは、イエス様を捕らえようとします。

十一章がラザロを生き返らせる奇跡。この奇跡をきっかけに、敵対する者たちは、イエス様を明確に殺そうと考えます(11章53節)。

十二章で過越の祭りの直前、エルサレムへ入場されるイエス様。

 他の福音書と比べて、一つ一つの出来事が詳細に記されているため、登場する人たちの気持ちが分かりやすい。有名な箇所、多くの人に愛された場面が多くあります。

 十三章は、キリストが十字架にかかる前日の場面。イエス様が弟子たちの足を洗い、最後の晩餐となります。ここから、十字架の死まで。他の福音書と比べて、圧倒的な分量で、キリストの語られた言葉を記していきます。

 この夜に語られた言葉で有名なものはいくつもあります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14章6節)とか、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(15章5節)とか、「大祭司の祈り」として知られるイエス様のとりなしの祈り(17章)とか。

 十字架の死の場面も、他の福音書に記されていないことが出てきます。ヨハネが強く意識しているのは、イエス様の死が、過越の小羊と同様の意味があるということ。この思想はヨハネに強くあり、ヨハネの黙示録にも関連が見られます(ヨハネの黙示録5章6節)。

 復活後のイエス様の姿も、ヨハネ独自の記録が収録されています。マリアとイエス様とのやりとり。トマスとイエス様のやりとり。ペテロとイエス様のやりとり。どれも必見の箇所となります。特に、ヨハネの福音書のテーマの一つが、「イエスとは何者なのか。」と見れば、この福音書の終幕にトマスが復活のイエス様に出会った時の告白。「私の主、私の神よ。」(20章28節)は、クライマックスの場面と言えます。

 

 以上、ヨハネの福音書についていくつか確認しました。他の三つの福音書と、内容が重ならないように意図されて記されたヨハネの福音書。この福音書のおかげで、私たちはイエス様について、新たに多くのことを知ることが出来ます。

「イエスとは何者なのか。」をテーマに掲げたヨハネ。その結論は「神の子キリスト」でした。イエスが、神の子キリストであると信じるように。またヨハネの考える「キリスト」の重要な働きは、「父なる神様がどのようなお方か示すこと」でした。神ご自身であり、父なる神がどのようなお方なのか示す方として、イエスの姿を見るようにとの勧めです。

 是非とも、このヨハネの勧めに従って、この福音書を読みたいと思います。読み終わる時には、「私の主、私の神よ。」との告白を、自分自身の告白としたいと思います。

 イエス・キリストを知ること。イエス様を通して示される父なる神様を知ることを通して、私自身が変えられる。改革され続ける恵みを皆で味わいたいと思います。

三十四回目となる一書説教。ヨハネの福音書に取り組みます。一書説教の時は、扱われた書をご自身で読むことをお勧めいたします。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...