2018年12月30日日曜日

「なすべきことを」ルカ17:7~19


今年最後の聖日礼拝となりました。ここまで礼拝の歩みが守られた恵みを心から感謝いたします。

この一年、皆さまの歩みはどのようなものだったでしょうか。「神様がどのようなお方で、神様の前で私はどのように生きると良いのか。神様は私にどのような恵みを与えて下さり、私はその恵みにどのように応じているのか。」これらのことは日々意識し確認すべきことですが、一年の終わり、この聖日には特に考えたいと思います。この一年はどのような歩みだったのか。次の一年、私はどのように歩みたいのか。

とはいえ、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのか。私の視点、私の受け止め方は誤ったもの、偏ったものになっていないか。自分の考え方、自分の姿勢を判断するのは意外と難しいもの。自分の為してきたこと、頂いた恵みに、どのように向き合えば良いか、主イエスの言葉を聞きたいと思います。


 開きます聖書はルカの福音書17章の中盤の記事。17章は、1節から10節まで、イエス様が弟子たちに語られた言葉が収録されています。弟子に向けてのメッセージ。今日はその後半部分と、その後に起こった出来事を確認していきます。まずは弟子に語られた教え、自分の為したことをどのように振り返れば良いか語られるところ。

 ルカ17章7節あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて


 イエス様は様々なたとえを語られましたが、「主人としもべ」はよく用いられるモチーフ。その多くは、「主人」が神様、「しもべ」が人間として、神様と人間、神様と私たちの関係が語られます。しかし、今日の箇所は珍しいことに弟子たちが主人の場合。一般的に、主人はしもべにどのように振る舞いますか。いや、あなたがしもべの主人だったとしたら、そのしもべにどのように振る舞いますか、という投げかけなのです。


ルカ17章7節~9節あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。


 自分が主人で、しもべがいるとして、食事の場面でどうするのか。現代の日本に住む私たちが想像するのは難しいですが、当時の社会ではよくある状況の一つ。

畑仕事を終えたしもべが帰ってきた。これから、しもべが食事を準備する。その時に、「さあ、一緒に食事をしよう。」と言う主人がいるだろうか。(これはつまり、しもべのために食事を用意して待っていたる主人ということでしょう。)いや、いない。しもべには食事の用意をさせ、まず自分が食べる。その後で、しもべは食べる。ここに出てくる主人の食べる「夕食」という言葉と、その後でしもべが「食べたり飲んだり」という言葉も区別されていまして、食事の内容も異なるのです。また主人はしもべに感謝するのか、この感謝するという言葉は、「恩を感じる」とも訳せる言葉です。しもべがその働きをした時に、主人は恩を感じるか。

畑仕事から帰って来て、食事の準備もさせるのは酷い。食べる順番も、その中身も異なるというのは冷酷なのかと言えば、そうではない。当時の一般的な感覚からすれば、主人としもべの立場には決定的な違いがあり、これは当然のこと。あなたにしもべがいる場合、しもべに対して、このように振る舞うでしょう。しもべがすべきことをしたからと言って、あなたはしもべに感謝しますか、恩を感じますか、と聞かれれば、感謝することはない、恩を感じることはないと答えることになる。


 この話を枕にして、イエス様は次のように言われます。

 ルカ17章10節同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。


 この結論部分、「あれ?」と思います。先ほどまでは、私が主人の場合の話でした。ところが、ここで私はしもべの場合の話となっている。「同じように」と言われますが、少なくとも視点は逆転している、正反対になっているのです。

 自分が主人の場合、しもべが命じられたことをすべて行っても、それは当然のこと、感謝するとか、恩を感じることではないでしょう。そうだとすれば、自分がしもべの場合も同じように考えるべきしょう。すべきことを行うのは当然のこと。すべきことを果たしたとして、誇ることが出来るのか、特別な報酬を求めることになるか、主人は感謝すべきだと言えるのかと言えば、そうではない。「なすべきことをしただけ」と言うべきでしょう。それも、自分のことを、取るに足りないしもべと受け止めるようにと、まとめられます。謙遜、慎み深さの勧め。

 キリストの弟子は、神様のしもべ。私たちキリストを信じる者は、神のしもべでもある。私たちは、神様の前で自分を何者とするのか。自分の為したことをどのように受け止めるのか。皆さまは、この謙遜、慎み深さの勧めをどのように受け止めるでしょうか。

私は、これだけの人に聖書の話をした。これだけの人を教会に連れてきた。毎週の礼拝を守り、様々な奉仕をした。あれやこれやの役職を果たした。祈ること、聖書を読むことに取り組んだ。多くをささげた。何も教会のことだけではないでしょう。よく働き、よく学び、家族に仕え、地域に貢献した。神の民として、十分に使命を果たした。私は立派な神のしもべである。このような私は、多くの恵みを受けるべきではないか。そこまで露骨に自分を誇る思いはないにしても、このような思いが自分の中にないか、心探られます。


 ところで、謙遜、慎み深さの勧めをするために、イエス様が枕としたのは、一般的な主人としもべを考えた場合、私たちが主人の場合でした。その場合、命じられたことを果たしたとして、しもべに感謝することはない、恩を感じることはない。

 しかし、私たちは誰のしもべなのかと言えば、神様のしもべでした。そして、神様が主人の場合はどうなのかと言えば、これはまた別の話。私たちが主人の場合とは、全くことなるのです。イエス様が語られたたとえには、次のようなものがあります。

 ルカ12章37節帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。


 これが、私たちの主の姿。人の常識では考えられない姿。しもべが命じられたことを果たした時に、それだけで大喜びをし、大きな報いを用意するというお方。神様がこのようなお方であると分かると、自分を誇る必要がないことが分かります。何しろ、私たちのなすことを良く知り、喜ぶお方。この主人を前に、そのしもべは、「なすべきことをしただけです。」と言うので十分なのです。


 このようにイエス様の言葉を通して、自分の為したことにどのように向き合うべきか記したルカは、続けて、神様の恵みにどのように向き合うべきか、出来事を通して記していきます。

 ルカ17章11節~13節さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、『イエス様、先生、私たちをあわれんでください』と言った。」


 ツァラアトに冒された十人が、イエス様に癒しを求める場面。ツァラアトという病気については、旧約聖書にある程度、詳しく記されていますが、それでも、どのような病気だったのか、正確には分かりません。人間にだけ感染するのではなく、聖書には衣服のツァラアト、家のツァラアトと出てきますので、病原菌ではなくかびのようなものと考える人もいます。人間に感染しますと、皮膚に症状が表れ、患部を見ることでツァラアトかどうか判断することが出来ました。

旧約聖書の規定では、ツァラアトの症状が出た場合も、治った場合も、その人は祭司の所に行き患部を祭司に見せます。もし祭司がツァラアトだと判断した場合、その人はどうなるのか。

レビ記13章45節~46節患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。


ある人がツァラアトだと分かったら、その人はその場で、自分の衣を引き裂き、髪の毛を乱さなければならない。患部を剥き出しにし、髪の毛を乱すという異常な状態。周りの人に、自分がツァラアトであると示すためでしょうか。唾が飛ばないように、口ひげを手でおおいながら、「汚れている、汚れている」と言わなければならない。そしてそのまま、宿営の外、町の外に行く。悲惨です。この病気はただの病気ではなかった。その人の人生に絶望的なダメージを与える病気。

 ここに十人のツァラアトに冒された者たちが登場します。本来、村の外にいるべき者たちが、村の中でイエス様を迎えます。患部が見えるようにボロをまとい、髪を乱し、口を覆い、汚れていると言いながら、待っていたでしょうか。ツァラアトの人が、十人揃って町の中に入るというのは、相当の覚悟が必要だったでしょう。しかし、何としても救い主に会いたいと願ったのです。


 「私たちをあわれんで下さい」との願いに、イエス様はどのように応えられたのか。

ルカ17章14節「イエスはこれを見て彼らに言われた。『行って、自分のからだを祭司に見せなさい。』すると彼らは行く途中できよめられた。」


 ツァラアトの人が、自分のからだを祭司に見せるというのは、病が治った時にすること。十人はツァラアトが治っていない状況で、それでもイエス様に言われた通り、祭司のもとに向かいます。これは凄い信仰。その行く途中で皆がきよめられた、癒されたのです。

 十人が同じように願い、十人が同じように信じ、十人が同じように癒された。自分ではどうしようもない、しかしどうしても解決したい問題を救い主によって解決された。ここまで十人、全て同じ。


 しかし、この後で違いがありました。

 ルカ17章15節~16節「そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。」


 皆が癒される中、一人がそれに気がつくと、大声で神をほめたたえました。自分が癒されたと分かると、神様を賛美せずにはいられなかった。嬉しくてしょうがない。飛んで引き返して、イエス様の足もとにひれ伏して、感謝を示す。印象的な姿です。

 ところでルカは、この一人がサマリア人であったと記しています。ユダヤ人からすれば、サマリア人とは異端者、非常に関係の悪い者たち。しかし、イエス様のもとに戻ってきたのは、サマリア人一人であった。


この状況に驚いたような、落胆したようなイエス様の言葉が響きます。

ルカ17章17節~19節「すると、イエスは言われた。『十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。』それからイエスはその人に言われた。『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』」


 戻ってきて感謝を述べたのは、サマリア人一人だけ。重大な問題に解決が与えられたにもかかわらず、戻って来て感謝を述べたのは、十人中たったの一人。この状況にイエス様は、あとの九人はどこに行ったのか、との細い声です。

ところで、ここでイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。このように言うことで、ツァラアトが治ったのは、この時偶然に治ったとか、今までしてきた何らかの処置がこの時になって効いたというのではない。救い主に対する信仰によって、ツァラアトが直ったことを明らかにされたわけです。また、ここでイエス様は魂の救いも宣言されたと考える人もいます。


 それはそれとしまして、この記事で印象に残るのは、戻って来たのが一人であったということです。十人同じ問題を抱え、同じ様にイエス様を信じ、同じ様にイエス様に願い、同じ様にイエス様に従い、同じ様に癒された。しかしイエス様のもとに戻ってきたのは十人中、一人だけだった。

 感謝するために戻ってきた人がいないわけではなかった。一人いて良かったと思うことも出来ます。しかし、イエス様が言われた「九人はどこにいるのか」という言葉からすれば、やはり感謝を示す者が少ない、残念な記録と言えるでしょう。大きな恵みが与えられながら、その恵みに感謝を表す者が少ない。これが人間の姿でした。

 果たして自分がこの十人のうちの一人だったら、どうしていたか。ツァラアトの癒しどころではない。キリストによって罪から救い出された私たち。与えられた恵みに、どれだけ感謝をあらわしてきたか。よくよく考える必要があります。

 十人中、感謝を示したのは一人であった。残念な記録。しかし、覚えておきたいのは、それでも十人全員癒されていたということです。感謝を表す者にだけ恵みが注がれるのではない。感謝を表さないと恵みが取り上げられるのでもない。私たちの神様は、私たちが与えられる恵みにどのように応じるかは関係なく恵みを注いで下さる方。私たちの神様は、どこまでも憐れみ深い方だと覚えておきたいと思います。


 以上、ルカの記した二つの段落を確認しました。一つはイエス様の説教。一つはイエス様の癒しの記録。どちらも、ルカの福音書にだけ記されたものです。そして、この二つの記録を並べて記したところにルカの意図を感じます。

私たちは、自分の為したことを、過剰に重要視し、自分を誇る傾向がある。それにもかかわらず、神様のして下さったこと、神様が下さる恵みは覚えない、感謝しない傾向がある。自分の為したことと、神様がして下さったことに対して、正反対の向き合い方をしてしまうのです。そのようになっていないか、問いかけるルカの筆です。今日、私たちはこのルカの問いかけに心探られたいと思います。

キリスト教は恵みの宗教。私が何をするかではなく、神様が何をされているのかを大事とする。一年の終わりの時。一年を振り返り、次の一年に備える時。神様のなされたことに目を向け、感謝すること。自分の為したと思うことがあれば、神様が導いて下さったことを覚え、なすべきことをしましたと首を垂れる。私たちの主である神様が、どのようなお方なのか、再確認して新たな年を迎えたいと思います。


今年最後の聖日礼拝となりました。一年の終わり、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのか、今日のイエス様の言葉から考えたいと思います。


1.     主人としもべ:主人の場合

(1) イエス様は様々なたとえを語られましたが、「主人としもべ」はよく用いられるモチーフ。

(2) この箇所は珍しく、弟子たちが主人の場合として語られます。

(3) 当時の一般的な感覚からすれば、主人としもべの立場には決定的な違いがある。

(4) 自分が主人の場合、しもべに感謝することは考えられない。


2.    主人としもべ:しもべの場合

(1) 「自分が主人の場合」を枕にして、結論部分で視点が反転します。

(2) 自分がしもべであれば、なすべきことをしただけ、取るに足りないしもべと言うべきでしょう。

(3) 謙遜、慎み深さの勧めとなります。

(4) しかし、私たちの主人が神様だと考えると、このたとえで語られた主人とは全く異なります。


3.  十人のツァラアトの者たち

(1) ツァラアトとは、その人の人生に絶望的なダメージを与える病気。

(2) 何としてでも救い主に会いたいと願い、イエス様を待っていた者たち。

(3) 治っていない状況で、言われた通り祭司のもとに向う。凄い信仰。

(4) 癒されたことを知り、イエス様の元に戻ってきたのは、十人中一人でした。

(5) しかし、感謝を表す者にだけ恵みが注がれるのではない。感謝を表さないと恵みが取り上げられるのでもないのです。


4.  まとめ

(1) 二つの記録を並べて記したところにルカの意図を感じます。

(2) 私たちは、自分の為したことを、過剰に重要視し、自分を誇る傾向がある。それにもかかわらず、神様のして下さったこと、神様が下さる恵みは覚えない、感謝しない傾向がある。

(3) キリスト教は恵みの宗教。私が何をするかではなく、神様が何をされているのかを大事とする。


一年の終わりの時。一年を振り返り、次の一年に備える時。神様のなされたことに目を向け、感謝すること。自分の為したと思うことがあれば、神様が導いて下さったことを覚え、なすべきことをしましたと首を垂れる。私たちの主である神様が、どのようなお方なのか、再確認して新たな年を迎えたいと思います。

2018年12月23日日曜日

クリスマス「恵みとまことに満ちた方」ヨハネ1:14~18


1225日のクリスマスは、キリストの誕生日である。これは、〇か×か。」こう質問されたら、皆様は何と答えるでしょうか。答えは×。クリスマスはキリストの誕生日ではなく、キリストの誕生をお祝いする日でした。

 キリストの誕生日については歴史的な証拠がなく、16日を始めとして五つ程の説があります。何故、1225日がクリスマスに指定されるようになったのかと言うと、紀元3世紀の昔、ローマ人たちが太陽の誕生日として、この日を祝っていたことに関連しているという説が有力だそうです。当時ローマ人は、冬至即ち日の出から日没まで、昼の時間が一年で最も短い日を境に、日が長引くのを「太陽の誕生日」と呼んでいました。

 そして、太陽の誕生と言えば、キリスト教会が、世の光であるイエス・キリストのことを連想したのは当然のことだったでしょう。聖書において、特にこの福音書において、キリストは繰り返し光として紹介されているからです。

 今年のアドベントの礼拝、私たちは第一回目はイザヤ書を、第二回目と三回目はヨハネの福音書を読み進めてきました。旧約の預言者イザヤは、来るべきキリストのことを「闇の中を歩む民が見る大きな光」と呼びました。それを受け継いだ新約のヨハネも、キリストを「闇の中に輝く光」「この世界に来ようとしている真の光」と表現しています。尤も、ヨハネがキリストを紹介するために用いたことばは、光だけではありません。「ことば」とも「いのち」とも表現されていることを、私たちは確認してきました。

ヨハネは、全世界の人々にキリストがどの様なお方かを紹介することを願い、この福音書を書いたと言われます。旧約聖書を持つユダヤ人は勿論、旧約聖書を知らない他の国の人々にも理解し易いことばを、頭をひねって考えたのでしょう。その結果、選ばれたのが「ことば」「光」「いのち」、三つのことばでした。

キリストは、神の口から出ることばとして、この世界のすべてのものを創造した神。キリストは、闇の中から人々を救い出す光。霊的に死んでいる者に、永遠のいのちを与えることのできるいのちの源。ユダヤ人は旧約聖書を通して理解できるように、旧約聖書を知らないギリシャ人、ローマ人も、彼らの文化を背景として理解できるように。すべての人にキリストのことを伝えんとする、ヨハネの工夫と配慮がうかがえるところです。特に、光と闇、いのちと死と言う象徴的なことばは、私たち日本人でもキリストについて、私たち人間の問題について、イメージが掴めるのではないかと思います。

以上、キリストを世界の造り主、光、いのちとして紹介してきたヨハネですが、次は「神のひとり子」として紹介しています。ここに、ヨハネの福音書が伝える三つのテーマ、光としてのキリスト、いのちとしてのキリスト、神のひとり子としてのキリストが出揃いました。


1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」


ことば、即ち世界を創造した神が人となって(別の訳では肉体を取ってと訳されています)、私たちの間に住まわれた。これがヨハネ流のクリスマス物語です。神が神であるままで、人間となられた。キリストは真の神にして、真の人。私たちはイエス様とともに生活をした者、その教えを聞き、その働きを目撃した者。私たちは、キリストの中に神のひとり子としての栄光を見た。受肉と言う奇跡の目撃者なのだ。そう力を込めて語るヨハネの姿が目に浮かんできます。

と言うのも、当時ユダヤ人も、ギリシャ・ローマの人々も、神が神であるまま人の肉体を取って生活をしたと言うヨハネが目撃した事実を認めようとせず、大反対していたからです。

ユダヤ人は、人間の両親に助けて貰わなければ生きていけない様な、赤ん坊として生まれた神、人々から嘲られた神、十字架につけられて死んだ神、そんな無力な神等あり得ない。キリストを神とするのは、神を冒涜することと反対しました。ギリシャ人は、肉体を健全な精神の活動を邪魔するもの。人を悪に誘い、思い煩いや苦しみをもたらす悪い物ものと考えていました。ですから、神が肉体を取るはずがないと、やはり大反対だったのです。

しかし、ヨハネは、この世界の造り主が罪人の友となり、救い主となるために、赤ん坊として生まれ、人として歩まれた事実の中に、神の信じられないようなヘリ下り、謙遜を見ていたのです。この謙遜こそ、神のひとり子の栄光の現れと考え、世界中に人に伝えているのです。

普通、私たちが思い描く栄光とはどの様なものでしょうか。多くの護衛官に守られ、色鮮やかな衣装と煌びやかな宝石に身を包み外国を訪問する王。舞台の上で、明るいスポットライトと多くの観客の拍手を浴びるスター。人々が思い描くこの世の栄光とはそういうものでしょう。

しかし、神がこの世界にお生まれになった時、寝かされた場所は飼い葉おけ。世話をしたのは、貧しい大工とその妻。最初にこの赤ん坊を訪問したのは、世間から除け者にされていた羊飼いです。

主イエスは成長してからも、大工の仕事をし、貧しさに悩み、疲労を覚え、苦痛を味わい、涙を流しました。聖書を読み、神に祈り、様々な試練に会いながら、みこころに従うことを何よりも大切にされたのです。神としての能力を用いるのは、苦しむ者を助けるため。ご自分を助けるため、ご自分が栄誉を受けるために、それを用いることはありませんでした。生涯、罪人の友として過ごし、罪人に仕えるしもべとして歩まれたその謙遜の中にこそ、私たちの神の栄光が表れている。そうヨハネは語るのです。

全能の神にして、私たちと同じ限界や弱さをもつ人間。主イエスがこの様なお方であることを、私たちの小さな頭では理解することはできません。しかし、主イエスが真の神であり真の人であると信じるか、信じないか。それは、私たちの人生に大きな影響をもたらします。

もし、主イエスが人ではないと考えるなら、私たちは、私たちの弱さをよく理解し、心から同情することのできる親しい友を、失うことになるでしょう。また、もし、主イエスが神ではないと考えるなら、私たちの祈りに応え、様々な苦しみや困難から助けることのできる全能の神を失うことになるのです。

世界を創造し、すべての物を生かしておられる神が、ちっぽけな人間となられた。この驚くべき謙遜な姿に、ヨハネと同じく、私たちも神の栄光を見る者でありたいと思います。

さらに、ヨハネは、主イエスが神であり、人であることを目撃したのは、自分達弟子だけではない。あの、バプテスマのヨハネも同じ証言をしたことを記しています。バプテスマのヨハネは、主イエスに先んじて活動を開始した預言者。罪の悔い改めを説いて、ユダヤの人々の大きな影響を与えた人物です。ヨハネが福音書を書いた時代になっても、なおユダヤの人々はこの預言者を尊敬していたのかもしれません。


1:15「ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」


バプテスマのヨハネが、主イエスを私にまさる方と考えたのは何故でしょうか。彼はこう言っていました。「私より先におられたからです。」これは、ヨハネよりも主イエスの方が先に生まれたと言う意味ではありません。ヨハネもまた、主イエスが永遠の昔から生きておられる神にして人であることを信じていた。そういう意味です。こうして、自分たちの証言を補強したヨハネは、再び自分たちが目撃した主イエスのことを私たちに紹介してゆきます。


1:16、17「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。



 律法は旧約聖書の時代、出エジプトの英雄モーセを通して、神の民イスラエルに与えられました。それには、神の民がどう生きるべきか、どのような社会を作っていくべきなのかを示す律法と、神を礼拝する際にささげる供え物などについて指示する律法が含まれていたのです。

 しかし、イスラエルの民は、律法が示している神の恵みと神のまこと、真理を理解することができず、次第に自らの行いを誇り、形式的な礼拝や儀式に満足するようになりました。そして、その度に、神のさばきが民に下されたのです。旧約聖書の歴史は、人間がいかに自らの罪を悟ることができない者か、神の恵みと真理に立ち帰る能力がない者であるかを示しています。人間による律法違反、それに対する神のさばきの繰り返されると言う残念な歴史でした。

 けれども、神が罪人を見捨てることはなかったのです。何度人間が背いても、神の愛は途絶えることがありませんでした。神は自らへりくだって人となり、この闇の世界、死の世界に到来されたのです。神のひとり子は、自らのいのちを十字架にささげました。裁きこそふさわしい者に罪の赦しの恵みを与える為です。墓の中から復活しました。死すべき者に永遠のいのちを与える為です。

 また、主イエスは、律法において最も大切なのは、私たちが心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神と隣人とを愛することであると示してくださいました。神を愛し、隣人を愛するとはどういうことなのか、律法本来の意味、真理を示してくださったのです。律法が示していた神の恵みと真理とは、ヨハネの言う通り、まさに主イエスの歩みにおいて実現したのです。

 例えば、十戒の中で、神は「殺してはならない」と命じています。しかし、文字面だけを読んで事足れりとする私たちは、実際に人を殺めたことがない自分は善人だと思いこんでいたでしょう。しかし、人を馬鹿にしたり、見下したりする思いを心に抱くことが、既に神の前には殺人であり、神のさばきに値すると、主イエスに教えられ、ようやく罪を悟ることができました。

自分の救いがたい罪を悟ること、これは神の恵みです。主イエスによって罪の赦しの恵みが与えられ、心の平安を得ること、これも神の恵みです。さらに、苦々しい思いを抱く隣人と和解しようと言う思いを与えられること、和解に取り組み続ける力を与えられること、これも、神の恵みなのです。

 主イエスが与えてくださる神の恵みの豊かさは、私たちの人生のあらゆる場面に必要であり、十分であると、ヨハネを自らの経験を証しています。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」このことばには、自分の意に反した行動をとる者は容赦しない、徹底的に攻撃すると言う激しい気性のゆえに、雷の子とあだ名をつけられたヨハネが、練りに練られ、愛の使徒と呼ばれる者へとに変えられた。そんな人生を歩んできたヨハネの実感が込められているように思われます。

 私たちの人生にも、恵みの上にさらに恵みを受けると言う経験が必要ではないかと思います。順境の時と逆境の時、健康な時と病の時、成功した時と失敗した時、青年期と老年期。私たちは各々の状況に応じて、ふさわしい恵みを必要としています。どんな状況に置かれても、私たちに必要な恵みを、十分に与えてくださる主イエスに信頼する者でありたいと思います。

 さらに、私たちが主イエスを信頼できるのは、主イエスだけが父なる神がどの様なお方であるかを解き明かすことができたからと、ヨハネは証ししています。


 1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」


 神を信じると言っても、目で見ることも触れることもできないものを、どうやったら知ることができるのか、信じることができるのか。信仰など雲を掴むような話ではないかと考える人に最適なことばがこれでしょう。神を知り、神を信じるためには、主イエスの教えと行いを調べればよい。主イエスの歩みそのものが、神の恵みと真理を示しているのだから、神を知りたいと言う者は、この方を見よ。私もそうして神に信頼することができたから。そうヨハネは勧めているようです。

 神について知ることを願うなら、主イエスの歩みを見よ。自分はこう思うとか、誰々はこう言っていると言う前に、主イエスの教えと行動を調べよ。人となられた神が来て、私たちはその方を見た。迫害の中、地中海の孤島パトモスに流されたヨハネが命がけで記したこのことばを、しっかりと心に刻んで、私たちも主イエスを証しする者として歩みたいと思うのです。

 最後に、確認したいのは、主イエスを神のひとり子と信じる者は、神の恵みと真理の中に生きることができると言うことです。飛行機が正しく、自由に飛ぶためには、右翼と左翼、二枚の翼が必要であるように、私たちの人生にも神の恵みと真理が必要ではないかと思います。

 神との関係、隣人との関係はどうあるべきか。この人生をどう歩むべきなのか。この世界をどの様な世界にすべきなのか.私たちには神の示す真理が必要です。同時に、神との関係、隣人との関係において、私たちが犯す罪を示す恵み、その罪を赦す恵み、ありのままの私たちを愛してくださる恵み、何度失敗しても、なすべき真理に取り組み続ける力を与えてくださる恵み。私たちには、神の恵みが必要なのです。

 聖書は、私たちに必要な神の恵みと真理を与えるため、二千年前神のひとり子が到来したことを証言しています。全ての人が神の恵みを喜び、神の真理に従う世界を完成するため、神のひとり子が再びこの世界に到来することを、約束しているのです。主イエスの到来を証したヨハネが、主イエスの到来を待ち望む思いを黙示録に記しています。


 黙示録2220,21「これらのことを証しする方が言われる。しかり、わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」


このことば、この思いを私たちも抱いて、今日からの歩みを進めてゆきたいと思うのです。

2018年12月16日日曜日

アドベント「光といのち」ヨハネ1:6~13


救い主の誕生を祝うクリスマスへ歩みを進めています。神の一人子が人として生まれた。神が人となられた。およそ人間には理解出来ない、奇跡中の奇跡が起こりました。無限の方が有限の存在へ。時間を作られた方が、時間の流れる世界へ。全知全能の方が、人間の赤子として生まれた。それも罪人の身代わりとして死ぬために生まれた。私たちでは、論理的にも心情的にも理解出来ないことが起こりました。

今は一年の終わり、多くの方にとって忙しい時期。教会も続々とクリスマス関連のプログラムがあり、忙しくなる時期。とはいえ、忙しさに目を回したままクリスマスに突入するのではなく、一度しっかりと立ち止まり、イエス様の誕生の意味、イエス様がもう一度来られるという約束に心を向けたいと思います。


 今日、皆さまとともに読み進めるのは、ヨハネ伝におけるキリスト誕生の記録です。キリストの誕生と言えば、星に導かれた東方の博士たちが宝をささげた場面。御使いに導かれた羊飼いたちが、飼い葉おけに生まれた幼子を礼拝する場面。ヨセフやマリアの葛藤や信仰深い姿が思い出されるところ。しかし、そのような場面、出来事の記述は他の福音書に譲って、ヨハネは象徴を用いてキリストの誕生を記します。

 ヨハネと言えば、ガリラヤ湖の漁師。特別な教育を受けたわけではない。無学な普通の人(使徒4章13節)。気性荒く、イエス様より雷の子とあだ名をつけられたような人。しかしキリストの弟子となり、信仰生活を続けるうちに、その品性と知性は練りに練られました。そのヨハネが書いたキリスト誕生の記録は、象徴が散りばめられ、詩的な表現でまとめられた非常に美しいもの。多くの人に愛されたその書き出しは天地創造からでした。


 ヨハネ1章1節~3節「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。


 聖書の始まり、創世記の冒頭は「はじめに神が天と地を創造された。」であり、神様が発せられた言葉の通りに世界は造られていく様が記録されます。私たちの住むこの世界は、神のことばで造られたもの。

ヨハネは、その神のことばが、主イエスであると書き始めます。神である方、ことばである方、世界の造り主である方。主イエスは、人間の中で最も優れた存在というのではない。神のような存在というのでもない。神様そのもの。世界の全てのものは、この方によって造られた。他でもない、この方が人として来られたという驚きを味わうようにと私たちを招くヨハネの筆です。


 イエス様を「ことば」と記したヨハネは続けて、「いのち」「光」と表現しました。

 ヨハネ1章4節~5節「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。


 創世記に記された神様の最初の言葉は「光、あれ」。神様によって造られた世界は「いのち」が溢れる世界。「いのち」も「光」も天地創造を連想させるものです。「いのち」である救い主。「光」である救い主。

この「いのち」や「光」という象徴は、ヨハネの福音書を読む上で極めて重要なもの。ヨハネの福音書の二大テーマと言えるものです。

 ヨハネの福音書に記されたイエス様の言葉には、繰り返し「いのち」についての教えが出てきます。(「いのち」、あるいは「いのちを持つ」とか「生きる」という言葉は、この福音書に計五十回以上使われます。)冒頭でイエス様を「いのち」と紹介したヨハネは、終わりで、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがた信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20章31節)とまとめています。ヨハネの福音書は「いのち」の福音書。

 同時に、ヨハネが記したイエス様の言葉には、繰り返し「光」についての教えが出てきます。イエス様自身、自分のことを光と呼び、自分を救い主と受け入れる者たちを「光の子」と呼びました。ヨハネの福音書は「光」の福音書でもある。


 「いのち」である主イエスを信じる者は「いのち」を得る。「光」である主イエスを信じる者は「光」となる。このヨハネの福音書の二大テーマと言えるものを、ヨハネはキリストの誕生の記録でも、しっかりと提示していきます。まずは「光」から。


ヨハネ1章4節~9節「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。


「光」「光」「光」「光」「光」「光」と短い文章の中で合計六回。多くの教会が、待降節(アドベント)に蝋燭を灯し、燭火礼拝を行いますが、最初の取り組みはヨハネがしたこと。六本の灯で、キリストの誕生を祝います。ヨハネは「光」の詩人、「光」の使徒。

(キリスト教の三大祭りは、キリストの誕生を祝うイースター、聖霊降臨を祝うペンテコステ、そしてキリストの誕生を祝うクリスマス。聖書の記述に沿えば、イースターは早朝の出来事から記され、ペンテコステは日中の出来事(朝九時)、クリスマスは、夜番の羊飼いや、博士たちが「星」に導かれたとあり、夜のイメージとなります。闇の中に光が来たというのも、夜のイメージに重なります。)

 このように、ヨハネは主イエスの誕生を、「闇の中に光が来た」、「光の到来」と表現しました。果たして、これはどのような意味なのか。皆さまは「光」あるいは「闇」と聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。何を意味していると考えるでしょうか。


 この「光」と「闇」という象徴的な表現、モチーフはヨハネが生み出したものかというと、そうではありません。旧約聖書で繰り返し出てくるもの。それも、神様が使われたことのあるもの。神の民イスラエルがエジプトを脱出する際、エジプトには十の災いが下りますが、その九番目の災いは「闇」でした。


 出エジプト記10章22節~23節「モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。


 印象的であり象徴的な災いです。神様に従わない者たちには闇が覆い、しかし神の民には光があった。「闇」とは、不信仰、悪、罪、あるいは裁きを意味するもの。反対に「光」とは、神様の恵み、神様の守り、神様がともにおられることを意味するもの。

 旧約の預言者も、「闇」と「光」をモチーフに、救い主の到来を告げていました。


 イザヤ8章22節~9章2節「彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。


 苦難、苦悩、追放、苦しみ、辱め、神無し、これらを闇と見て、その闇の中にいる者を救い出す方が「光」であるという見立て。まさに「闇」と「光」をモチーフとし、救い主の到来を「光の到来」として告げる預言者。

 ヨハネが、主イエスの到来を「光の到来」として表現したのは、旧約聖書のこのような背景をもとにしてのことです。旧約聖書を知る者たちに、「光の到来」と言えば、何を意味しているのか良く伝わるのです。

 同時に、「光」と「闇」という象徴は、旧約聖書を知らない人にも意味が伝わるもの。旧約聖書を知らなくても、「闇の中を歩く日々」と言えば、困難な状況、絶望的な日々であると理解出来る。「光が来た」と言えば、困難の解決、良いことが起こったと受け止めることが出来る。

 つまりヨハネは、旧約聖書を知る者に対して良く意味が分かり、旧約聖書を知らない者にも意味が伝わる言葉として、「光」という言葉を選び、キリストの誕生を「光の到来」と記したのです。

 ところでヨハネは、主イエスを「光」と紹介しつつ、ここにもう一人紹介している人がいます。バプテスマのヨハネ、光について証する人。自分自身は光ではない。キリストというまことの光をあかしする人物。「あかし」とは何かと言えば、まことの光を指し示すこと。まことの光を伝える働き。

 今の私たちが、救い主の誕生を祝う。その一つの方法は、このバプテスマのヨハネに続く者となること。まことの光を指し示す者となる。まことの光を浴びて、その光を反射する。まことの光を受け入れて、光の子となること。

まことの光である方を、私たちはどのように受け止めるのか。光の到来をどのように祝うのか。真剣に考えたいと思います。


 このように、主イエスの誕生を「光の到来」と記したヨハネは続けて「いのちの到来」として、イエス様の誕生を記します。


 ヨハネ1章10節~13節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。


 いのちである方を知らない世界。いのちである方を受け入れない世界。それは「死」の世界です。そして「死」の世界に、いのちである方が来られた。いのちである方を信じる者は、いのちを得るという重要なメッセージが告げられます。皆さまは「いのち」と「死」と聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。具体的に何を意味していると考えるでしょうか。

 この「いのち」と「死」という表現も、ヨハネが思いついたものではなく、旧約聖書に出てくるもの。これもまた、神様が用いられたモチーフの一つで、人間が最初に接した象徴が「いのちと死」でした。


 創世記2章9、17節「神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。・・・善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。


神様が世界を造られた時、エデンの園の中央には、「いのち」と「死」がありました。つまり、人間は造られた当初から、「いのち」と「死」を意識して生きるものとされていたのです。神様とともにある「いのち」と、神様から離れたところにある「死」。どちらを選ぶのか。

 この「いのちと死」というテーマは、聖書の中で繰り返し出てくるものです。例を一つ挙げますと、モーセが遺言説教の中で、次世代の者たちに、神様に従うか、従わないか、迫る場面。


 申命記30章15節~18節「見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、主は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。


 神様を愛するのか、神様を無視するのか。神様に従うのか、神様に背くのか。「いのち」を選ぶのか、「死」を選ぶのか。神の民も、「いのち」と「死」、どちらを選ぶのか、問われました。

 ヨハネは、キリストの誕生を「いのち」の到来と表現したのは、旧約聖書のこのような背景をもとにしてのこと。旧約聖書を知る者たちには、救い主を「いのち」と表現することで、その意味することがよく伝わりました。自ら神様に背き、神様から話された人間。自ら「死」を選んだ者たちのところに、「いのち」である方が来た。「死」を選び続ける者たちのところに、「いのち」そのものである方が来られた、という宣言です。

 同時に、「いのち」と「死」という表現は、旧約聖書を知らない人にも意味が伝わるものでしょう。ヨハネは、旧約聖書を知る者に対して良く意味が分かり、旧約聖書を知らない者にも意味が伝わる言葉として、「いのち」という言葉を選び、キリストの誕生を「いのちの到来」と記したのです。

 ところでヨハネは、「いのち」である方を受け入れる者、信じる者は「神によって生まれた」言います。「神によって生まれる。」これは、どのような意味でしょうか。

 主イエスを信じる者だけが、神様の意志によって誕生し、主イエスを信じない者は神様の意志とは関係なく生まれた者ということでしょうか。それはありえません。神様は世界を支配しておられる方。全ての人は、神様の意志に基づいて生まれた者。それでは、この「神によって生まれる」とは、何を意味しているのか。これは、「永遠のいのち」、「まことのいのち」、「神のいのち」を持つ者であるという意味です。死の世界に、「いのち」である方が来られた。この方を受け入れる者、信じる者は、神によって生まれた、つまり永遠のいのち、まことのいのち、神のいのちを持つ者であるという宣言です。

私たちは、この「いのち」である方をどのように受け止めるのか。


 以上、ヨハネ伝におけるキリスト誕生の記録でした。

キリストの到来は、闇の中に光が来たこと、死の中にいのちが来たこと。そして、光として来られた方を信じる者は、闇の中にあって、光の子となる。いのちとして来られた方を信じる者は、死の中にあって、いのちを持つ者となる。この待降節、ヨハネの主張を真正面から受け止め、主イエスの誕生の意味を再確認したいと思います。自分は闇の中にいないか、死の中にいないか。光であるキリストを受け入れているか。いのちであるキリストとともに生きているのか。光の子として、まことの光である救い主をあかししながら生きているか。永遠のいのちを頂いた者として、神を愛し隣人を愛して生きているのか。
 どうぞ、キリストを信じるように。どうぞ、光を受け取るように。どうぞ、いのちを持つように。このヨハネの招き、神様の招きに応じつつ、次週のクリスマス礼拝へと歩みを進めていきたいと思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...