2018年12月23日日曜日

クリスマス「恵みとまことに満ちた方」ヨハネ1:14~18


1225日のクリスマスは、キリストの誕生日である。これは、〇か×か。」こう質問されたら、皆様は何と答えるでしょうか。答えは×。クリスマスはキリストの誕生日ではなく、キリストの誕生をお祝いする日でした。

 キリストの誕生日については歴史的な証拠がなく、16日を始めとして五つ程の説があります。何故、1225日がクリスマスに指定されるようになったのかと言うと、紀元3世紀の昔、ローマ人たちが太陽の誕生日として、この日を祝っていたことに関連しているという説が有力だそうです。当時ローマ人は、冬至即ち日の出から日没まで、昼の時間が一年で最も短い日を境に、日が長引くのを「太陽の誕生日」と呼んでいました。

 そして、太陽の誕生と言えば、キリスト教会が、世の光であるイエス・キリストのことを連想したのは当然のことだったでしょう。聖書において、特にこの福音書において、キリストは繰り返し光として紹介されているからです。

 今年のアドベントの礼拝、私たちは第一回目はイザヤ書を、第二回目と三回目はヨハネの福音書を読み進めてきました。旧約の預言者イザヤは、来るべきキリストのことを「闇の中を歩む民が見る大きな光」と呼びました。それを受け継いだ新約のヨハネも、キリストを「闇の中に輝く光」「この世界に来ようとしている真の光」と表現しています。尤も、ヨハネがキリストを紹介するために用いたことばは、光だけではありません。「ことば」とも「いのち」とも表現されていることを、私たちは確認してきました。

ヨハネは、全世界の人々にキリストがどの様なお方かを紹介することを願い、この福音書を書いたと言われます。旧約聖書を持つユダヤ人は勿論、旧約聖書を知らない他の国の人々にも理解し易いことばを、頭をひねって考えたのでしょう。その結果、選ばれたのが「ことば」「光」「いのち」、三つのことばでした。

キリストは、神の口から出ることばとして、この世界のすべてのものを創造した神。キリストは、闇の中から人々を救い出す光。霊的に死んでいる者に、永遠のいのちを与えることのできるいのちの源。ユダヤ人は旧約聖書を通して理解できるように、旧約聖書を知らないギリシャ人、ローマ人も、彼らの文化を背景として理解できるように。すべての人にキリストのことを伝えんとする、ヨハネの工夫と配慮がうかがえるところです。特に、光と闇、いのちと死と言う象徴的なことばは、私たち日本人でもキリストについて、私たち人間の問題について、イメージが掴めるのではないかと思います。

以上、キリストを世界の造り主、光、いのちとして紹介してきたヨハネですが、次は「神のひとり子」として紹介しています。ここに、ヨハネの福音書が伝える三つのテーマ、光としてのキリスト、いのちとしてのキリスト、神のひとり子としてのキリストが出揃いました。


1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」


ことば、即ち世界を創造した神が人となって(別の訳では肉体を取ってと訳されています)、私たちの間に住まわれた。これがヨハネ流のクリスマス物語です。神が神であるままで、人間となられた。キリストは真の神にして、真の人。私たちはイエス様とともに生活をした者、その教えを聞き、その働きを目撃した者。私たちは、キリストの中に神のひとり子としての栄光を見た。受肉と言う奇跡の目撃者なのだ。そう力を込めて語るヨハネの姿が目に浮かんできます。

と言うのも、当時ユダヤ人も、ギリシャ・ローマの人々も、神が神であるまま人の肉体を取って生活をしたと言うヨハネが目撃した事実を認めようとせず、大反対していたからです。

ユダヤ人は、人間の両親に助けて貰わなければ生きていけない様な、赤ん坊として生まれた神、人々から嘲られた神、十字架につけられて死んだ神、そんな無力な神等あり得ない。キリストを神とするのは、神を冒涜することと反対しました。ギリシャ人は、肉体を健全な精神の活動を邪魔するもの。人を悪に誘い、思い煩いや苦しみをもたらす悪い物ものと考えていました。ですから、神が肉体を取るはずがないと、やはり大反対だったのです。

しかし、ヨハネは、この世界の造り主が罪人の友となり、救い主となるために、赤ん坊として生まれ、人として歩まれた事実の中に、神の信じられないようなヘリ下り、謙遜を見ていたのです。この謙遜こそ、神のひとり子の栄光の現れと考え、世界中に人に伝えているのです。

普通、私たちが思い描く栄光とはどの様なものでしょうか。多くの護衛官に守られ、色鮮やかな衣装と煌びやかな宝石に身を包み外国を訪問する王。舞台の上で、明るいスポットライトと多くの観客の拍手を浴びるスター。人々が思い描くこの世の栄光とはそういうものでしょう。

しかし、神がこの世界にお生まれになった時、寝かされた場所は飼い葉おけ。世話をしたのは、貧しい大工とその妻。最初にこの赤ん坊を訪問したのは、世間から除け者にされていた羊飼いです。

主イエスは成長してからも、大工の仕事をし、貧しさに悩み、疲労を覚え、苦痛を味わい、涙を流しました。聖書を読み、神に祈り、様々な試練に会いながら、みこころに従うことを何よりも大切にされたのです。神としての能力を用いるのは、苦しむ者を助けるため。ご自分を助けるため、ご自分が栄誉を受けるために、それを用いることはありませんでした。生涯、罪人の友として過ごし、罪人に仕えるしもべとして歩まれたその謙遜の中にこそ、私たちの神の栄光が表れている。そうヨハネは語るのです。

全能の神にして、私たちと同じ限界や弱さをもつ人間。主イエスがこの様なお方であることを、私たちの小さな頭では理解することはできません。しかし、主イエスが真の神であり真の人であると信じるか、信じないか。それは、私たちの人生に大きな影響をもたらします。

もし、主イエスが人ではないと考えるなら、私たちは、私たちの弱さをよく理解し、心から同情することのできる親しい友を、失うことになるでしょう。また、もし、主イエスが神ではないと考えるなら、私たちの祈りに応え、様々な苦しみや困難から助けることのできる全能の神を失うことになるのです。

世界を創造し、すべての物を生かしておられる神が、ちっぽけな人間となられた。この驚くべき謙遜な姿に、ヨハネと同じく、私たちも神の栄光を見る者でありたいと思います。

さらに、ヨハネは、主イエスが神であり、人であることを目撃したのは、自分達弟子だけではない。あの、バプテスマのヨハネも同じ証言をしたことを記しています。バプテスマのヨハネは、主イエスに先んじて活動を開始した預言者。罪の悔い改めを説いて、ユダヤの人々の大きな影響を与えた人物です。ヨハネが福音書を書いた時代になっても、なおユダヤの人々はこの預言者を尊敬していたのかもしれません。


1:15「ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」


バプテスマのヨハネが、主イエスを私にまさる方と考えたのは何故でしょうか。彼はこう言っていました。「私より先におられたからです。」これは、ヨハネよりも主イエスの方が先に生まれたと言う意味ではありません。ヨハネもまた、主イエスが永遠の昔から生きておられる神にして人であることを信じていた。そういう意味です。こうして、自分たちの証言を補強したヨハネは、再び自分たちが目撃した主イエスのことを私たちに紹介してゆきます。


1:16、17「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。



 律法は旧約聖書の時代、出エジプトの英雄モーセを通して、神の民イスラエルに与えられました。それには、神の民がどう生きるべきか、どのような社会を作っていくべきなのかを示す律法と、神を礼拝する際にささげる供え物などについて指示する律法が含まれていたのです。

 しかし、イスラエルの民は、律法が示している神の恵みと神のまこと、真理を理解することができず、次第に自らの行いを誇り、形式的な礼拝や儀式に満足するようになりました。そして、その度に、神のさばきが民に下されたのです。旧約聖書の歴史は、人間がいかに自らの罪を悟ることができない者か、神の恵みと真理に立ち帰る能力がない者であるかを示しています。人間による律法違反、それに対する神のさばきの繰り返されると言う残念な歴史でした。

 けれども、神が罪人を見捨てることはなかったのです。何度人間が背いても、神の愛は途絶えることがありませんでした。神は自らへりくだって人となり、この闇の世界、死の世界に到来されたのです。神のひとり子は、自らのいのちを十字架にささげました。裁きこそふさわしい者に罪の赦しの恵みを与える為です。墓の中から復活しました。死すべき者に永遠のいのちを与える為です。

 また、主イエスは、律法において最も大切なのは、私たちが心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神と隣人とを愛することであると示してくださいました。神を愛し、隣人を愛するとはどういうことなのか、律法本来の意味、真理を示してくださったのです。律法が示していた神の恵みと真理とは、ヨハネの言う通り、まさに主イエスの歩みにおいて実現したのです。

 例えば、十戒の中で、神は「殺してはならない」と命じています。しかし、文字面だけを読んで事足れりとする私たちは、実際に人を殺めたことがない自分は善人だと思いこんでいたでしょう。しかし、人を馬鹿にしたり、見下したりする思いを心に抱くことが、既に神の前には殺人であり、神のさばきに値すると、主イエスに教えられ、ようやく罪を悟ることができました。

自分の救いがたい罪を悟ること、これは神の恵みです。主イエスによって罪の赦しの恵みが与えられ、心の平安を得ること、これも神の恵みです。さらに、苦々しい思いを抱く隣人と和解しようと言う思いを与えられること、和解に取り組み続ける力を与えられること、これも、神の恵みなのです。

 主イエスが与えてくださる神の恵みの豊かさは、私たちの人生のあらゆる場面に必要であり、十分であると、ヨハネを自らの経験を証しています。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」このことばには、自分の意に反した行動をとる者は容赦しない、徹底的に攻撃すると言う激しい気性のゆえに、雷の子とあだ名をつけられたヨハネが、練りに練られ、愛の使徒と呼ばれる者へとに変えられた。そんな人生を歩んできたヨハネの実感が込められているように思われます。

 私たちの人生にも、恵みの上にさらに恵みを受けると言う経験が必要ではないかと思います。順境の時と逆境の時、健康な時と病の時、成功した時と失敗した時、青年期と老年期。私たちは各々の状況に応じて、ふさわしい恵みを必要としています。どんな状況に置かれても、私たちに必要な恵みを、十分に与えてくださる主イエスに信頼する者でありたいと思います。

 さらに、私たちが主イエスを信頼できるのは、主イエスだけが父なる神がどの様なお方であるかを解き明かすことができたからと、ヨハネは証ししています。


 1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」


 神を信じると言っても、目で見ることも触れることもできないものを、どうやったら知ることができるのか、信じることができるのか。信仰など雲を掴むような話ではないかと考える人に最適なことばがこれでしょう。神を知り、神を信じるためには、主イエスの教えと行いを調べればよい。主イエスの歩みそのものが、神の恵みと真理を示しているのだから、神を知りたいと言う者は、この方を見よ。私もそうして神に信頼することができたから。そうヨハネは勧めているようです。

 神について知ることを願うなら、主イエスの歩みを見よ。自分はこう思うとか、誰々はこう言っていると言う前に、主イエスの教えと行動を調べよ。人となられた神が来て、私たちはその方を見た。迫害の中、地中海の孤島パトモスに流されたヨハネが命がけで記したこのことばを、しっかりと心に刻んで、私たちも主イエスを証しする者として歩みたいと思うのです。

 最後に、確認したいのは、主イエスを神のひとり子と信じる者は、神の恵みと真理の中に生きることができると言うことです。飛行機が正しく、自由に飛ぶためには、右翼と左翼、二枚の翼が必要であるように、私たちの人生にも神の恵みと真理が必要ではないかと思います。

 神との関係、隣人との関係はどうあるべきか。この人生をどう歩むべきなのか。この世界をどの様な世界にすべきなのか.私たちには神の示す真理が必要です。同時に、神との関係、隣人との関係において、私たちが犯す罪を示す恵み、その罪を赦す恵み、ありのままの私たちを愛してくださる恵み、何度失敗しても、なすべき真理に取り組み続ける力を与えてくださる恵み。私たちには、神の恵みが必要なのです。

 聖書は、私たちに必要な神の恵みと真理を与えるため、二千年前神のひとり子が到来したことを証言しています。全ての人が神の恵みを喜び、神の真理に従う世界を完成するため、神のひとり子が再びこの世界に到来することを、約束しているのです。主イエスの到来を証したヨハネが、主イエスの到来を待ち望む思いを黙示録に記しています。


 黙示録2220,21「これらのことを証しする方が言われる。しかり、わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」


このことば、この思いを私たちも抱いて、今日からの歩みを進めてゆきたいと思うのです。

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