2018年12月16日日曜日

アドベント「光といのち」ヨハネ1:6~13


救い主の誕生を祝うクリスマスへ歩みを進めています。神の一人子が人として生まれた。神が人となられた。およそ人間には理解出来ない、奇跡中の奇跡が起こりました。無限の方が有限の存在へ。時間を作られた方が、時間の流れる世界へ。全知全能の方が、人間の赤子として生まれた。それも罪人の身代わりとして死ぬために生まれた。私たちでは、論理的にも心情的にも理解出来ないことが起こりました。

今は一年の終わり、多くの方にとって忙しい時期。教会も続々とクリスマス関連のプログラムがあり、忙しくなる時期。とはいえ、忙しさに目を回したままクリスマスに突入するのではなく、一度しっかりと立ち止まり、イエス様の誕生の意味、イエス様がもう一度来られるという約束に心を向けたいと思います。


 今日、皆さまとともに読み進めるのは、ヨハネ伝におけるキリスト誕生の記録です。キリストの誕生と言えば、星に導かれた東方の博士たちが宝をささげた場面。御使いに導かれた羊飼いたちが、飼い葉おけに生まれた幼子を礼拝する場面。ヨセフやマリアの葛藤や信仰深い姿が思い出されるところ。しかし、そのような場面、出来事の記述は他の福音書に譲って、ヨハネは象徴を用いてキリストの誕生を記します。

 ヨハネと言えば、ガリラヤ湖の漁師。特別な教育を受けたわけではない。無学な普通の人(使徒4章13節)。気性荒く、イエス様より雷の子とあだ名をつけられたような人。しかしキリストの弟子となり、信仰生活を続けるうちに、その品性と知性は練りに練られました。そのヨハネが書いたキリスト誕生の記録は、象徴が散りばめられ、詩的な表現でまとめられた非常に美しいもの。多くの人に愛されたその書き出しは天地創造からでした。


 ヨハネ1章1節~3節「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。


 聖書の始まり、創世記の冒頭は「はじめに神が天と地を創造された。」であり、神様が発せられた言葉の通りに世界は造られていく様が記録されます。私たちの住むこの世界は、神のことばで造られたもの。

ヨハネは、その神のことばが、主イエスであると書き始めます。神である方、ことばである方、世界の造り主である方。主イエスは、人間の中で最も優れた存在というのではない。神のような存在というのでもない。神様そのもの。世界の全てのものは、この方によって造られた。他でもない、この方が人として来られたという驚きを味わうようにと私たちを招くヨハネの筆です。


 イエス様を「ことば」と記したヨハネは続けて、「いのち」「光」と表現しました。

 ヨハネ1章4節~5節「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。


 創世記に記された神様の最初の言葉は「光、あれ」。神様によって造られた世界は「いのち」が溢れる世界。「いのち」も「光」も天地創造を連想させるものです。「いのち」である救い主。「光」である救い主。

この「いのち」や「光」という象徴は、ヨハネの福音書を読む上で極めて重要なもの。ヨハネの福音書の二大テーマと言えるものです。

 ヨハネの福音書に記されたイエス様の言葉には、繰り返し「いのち」についての教えが出てきます。(「いのち」、あるいは「いのちを持つ」とか「生きる」という言葉は、この福音書に計五十回以上使われます。)冒頭でイエス様を「いのち」と紹介したヨハネは、終わりで、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがた信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20章31節)とまとめています。ヨハネの福音書は「いのち」の福音書。

 同時に、ヨハネが記したイエス様の言葉には、繰り返し「光」についての教えが出てきます。イエス様自身、自分のことを光と呼び、自分を救い主と受け入れる者たちを「光の子」と呼びました。ヨハネの福音書は「光」の福音書でもある。


 「いのち」である主イエスを信じる者は「いのち」を得る。「光」である主イエスを信じる者は「光」となる。このヨハネの福音書の二大テーマと言えるものを、ヨハネはキリストの誕生の記録でも、しっかりと提示していきます。まずは「光」から。


ヨハネ1章4節~9節「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。


「光」「光」「光」「光」「光」「光」と短い文章の中で合計六回。多くの教会が、待降節(アドベント)に蝋燭を灯し、燭火礼拝を行いますが、最初の取り組みはヨハネがしたこと。六本の灯で、キリストの誕生を祝います。ヨハネは「光」の詩人、「光」の使徒。

(キリスト教の三大祭りは、キリストの誕生を祝うイースター、聖霊降臨を祝うペンテコステ、そしてキリストの誕生を祝うクリスマス。聖書の記述に沿えば、イースターは早朝の出来事から記され、ペンテコステは日中の出来事(朝九時)、クリスマスは、夜番の羊飼いや、博士たちが「星」に導かれたとあり、夜のイメージとなります。闇の中に光が来たというのも、夜のイメージに重なります。)

 このように、ヨハネは主イエスの誕生を、「闇の中に光が来た」、「光の到来」と表現しました。果たして、これはどのような意味なのか。皆さまは「光」あるいは「闇」と聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。何を意味していると考えるでしょうか。


 この「光」と「闇」という象徴的な表現、モチーフはヨハネが生み出したものかというと、そうではありません。旧約聖書で繰り返し出てくるもの。それも、神様が使われたことのあるもの。神の民イスラエルがエジプトを脱出する際、エジプトには十の災いが下りますが、その九番目の災いは「闇」でした。


 出エジプト記10章22節~23節「モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。


 印象的であり象徴的な災いです。神様に従わない者たちには闇が覆い、しかし神の民には光があった。「闇」とは、不信仰、悪、罪、あるいは裁きを意味するもの。反対に「光」とは、神様の恵み、神様の守り、神様がともにおられることを意味するもの。

 旧約の預言者も、「闇」と「光」をモチーフに、救い主の到来を告げていました。


 イザヤ8章22節~9章2節「彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。


 苦難、苦悩、追放、苦しみ、辱め、神無し、これらを闇と見て、その闇の中にいる者を救い出す方が「光」であるという見立て。まさに「闇」と「光」をモチーフとし、救い主の到来を「光の到来」として告げる預言者。

 ヨハネが、主イエスの到来を「光の到来」として表現したのは、旧約聖書のこのような背景をもとにしてのことです。旧約聖書を知る者たちに、「光の到来」と言えば、何を意味しているのか良く伝わるのです。

 同時に、「光」と「闇」という象徴は、旧約聖書を知らない人にも意味が伝わるもの。旧約聖書を知らなくても、「闇の中を歩く日々」と言えば、困難な状況、絶望的な日々であると理解出来る。「光が来た」と言えば、困難の解決、良いことが起こったと受け止めることが出来る。

 つまりヨハネは、旧約聖書を知る者に対して良く意味が分かり、旧約聖書を知らない者にも意味が伝わる言葉として、「光」という言葉を選び、キリストの誕生を「光の到来」と記したのです。

 ところでヨハネは、主イエスを「光」と紹介しつつ、ここにもう一人紹介している人がいます。バプテスマのヨハネ、光について証する人。自分自身は光ではない。キリストというまことの光をあかしする人物。「あかし」とは何かと言えば、まことの光を指し示すこと。まことの光を伝える働き。

 今の私たちが、救い主の誕生を祝う。その一つの方法は、このバプテスマのヨハネに続く者となること。まことの光を指し示す者となる。まことの光を浴びて、その光を反射する。まことの光を受け入れて、光の子となること。

まことの光である方を、私たちはどのように受け止めるのか。光の到来をどのように祝うのか。真剣に考えたいと思います。


 このように、主イエスの誕生を「光の到来」と記したヨハネは続けて「いのちの到来」として、イエス様の誕生を記します。


 ヨハネ1章10節~13節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。


 いのちである方を知らない世界。いのちである方を受け入れない世界。それは「死」の世界です。そして「死」の世界に、いのちである方が来られた。いのちである方を信じる者は、いのちを得るという重要なメッセージが告げられます。皆さまは「いのち」と「死」と聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。具体的に何を意味していると考えるでしょうか。

 この「いのち」と「死」という表現も、ヨハネが思いついたものではなく、旧約聖書に出てくるもの。これもまた、神様が用いられたモチーフの一つで、人間が最初に接した象徴が「いのちと死」でした。


 創世記2章9、17節「神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。・・・善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。


神様が世界を造られた時、エデンの園の中央には、「いのち」と「死」がありました。つまり、人間は造られた当初から、「いのち」と「死」を意識して生きるものとされていたのです。神様とともにある「いのち」と、神様から離れたところにある「死」。どちらを選ぶのか。

 この「いのちと死」というテーマは、聖書の中で繰り返し出てくるものです。例を一つ挙げますと、モーセが遺言説教の中で、次世代の者たちに、神様に従うか、従わないか、迫る場面。


 申命記30章15節~18節「見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、主は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。


 神様を愛するのか、神様を無視するのか。神様に従うのか、神様に背くのか。「いのち」を選ぶのか、「死」を選ぶのか。神の民も、「いのち」と「死」、どちらを選ぶのか、問われました。

 ヨハネは、キリストの誕生を「いのち」の到来と表現したのは、旧約聖書のこのような背景をもとにしてのこと。旧約聖書を知る者たちには、救い主を「いのち」と表現することで、その意味することがよく伝わりました。自ら神様に背き、神様から話された人間。自ら「死」を選んだ者たちのところに、「いのち」である方が来た。「死」を選び続ける者たちのところに、「いのち」そのものである方が来られた、という宣言です。

 同時に、「いのち」と「死」という表現は、旧約聖書を知らない人にも意味が伝わるものでしょう。ヨハネは、旧約聖書を知る者に対して良く意味が分かり、旧約聖書を知らない者にも意味が伝わる言葉として、「いのち」という言葉を選び、キリストの誕生を「いのちの到来」と記したのです。

 ところでヨハネは、「いのち」である方を受け入れる者、信じる者は「神によって生まれた」言います。「神によって生まれる。」これは、どのような意味でしょうか。

 主イエスを信じる者だけが、神様の意志によって誕生し、主イエスを信じない者は神様の意志とは関係なく生まれた者ということでしょうか。それはありえません。神様は世界を支配しておられる方。全ての人は、神様の意志に基づいて生まれた者。それでは、この「神によって生まれる」とは、何を意味しているのか。これは、「永遠のいのち」、「まことのいのち」、「神のいのち」を持つ者であるという意味です。死の世界に、「いのち」である方が来られた。この方を受け入れる者、信じる者は、神によって生まれた、つまり永遠のいのち、まことのいのち、神のいのちを持つ者であるという宣言です。

私たちは、この「いのち」である方をどのように受け止めるのか。


 以上、ヨハネ伝におけるキリスト誕生の記録でした。

キリストの到来は、闇の中に光が来たこと、死の中にいのちが来たこと。そして、光として来られた方を信じる者は、闇の中にあって、光の子となる。いのちとして来られた方を信じる者は、死の中にあって、いのちを持つ者となる。この待降節、ヨハネの主張を真正面から受け止め、主イエスの誕生の意味を再確認したいと思います。自分は闇の中にいないか、死の中にいないか。光であるキリストを受け入れているか。いのちであるキリストとともに生きているのか。光の子として、まことの光である救い主をあかししながら生きているか。永遠のいのちを頂いた者として、神を愛し隣人を愛して生きているのか。
 どうぞ、キリストを信じるように。どうぞ、光を受け取るように。どうぞ、いのちを持つように。このヨハネの招き、神様の招きに応じつつ、次週のクリスマス礼拝へと歩みを進めていきたいと思います。

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