2018年7月29日日曜日

ウェルカム礼拝「信じることについて」Ⅰコリント13:13


逆転劇、どんでん返しと聞いて、皆さまは何を思い出すでしょうか。小説でしょうか。映画でしょうか。スポーツでしょうか。こうなるだろうと予想、推測していたことが覆されていく場面を見聞きするのは楽しいもの。小説にしろ、映画にしろ、スポーツ観戦にしろ、逆転劇、どんでん返しは醍醐味の一つです。

 約一か月前、サッカーワールドカップ、「日本 対 ベルギー戦」は見事な逆転劇の試合。弱小と思われた日本チームが、強豪ベルギーと見事に戦った試合。前半は0対0、手に汗握る状況。後半に入り、日本が先制。立て続けに二点目も奪取。残り時間も多くはない。観戦していた多くの人が、日本が勝つと思った場面。しかし、ここから一挙にベルギーに三点奪取され、ベルギーの勝利となりました。日本チームを応援する者としては、これほど残念なことはないですが、サッカーの試合として、非常に面白い試合。見事な逆転劇。残念でありながら、良い試合を観れた満足もある。負けた試合にも関わらず、日本代表史上、ベストゲームと評する解説者もいました。


 一般的に逆転劇、どんでん返しは見聞きする分には楽しいもの。小説、映画、スポーツ観戦、でも、どんでん返しは痛快、爽快です。

しかし、実際に自分が体験するとなると話しは変わります。特に今日の礼拝のテーマ、「生きるために必要なもの」。生きていくのに何が必要なのか。人間らしく、私らしく、あるいは喜んで生きるために必要なものは何なのか。このようなテーマで、自分の人生に逆転やどんでん返しが起こると大変。これがあれば生きていける。これがあるから私は安泰。そう思っていたものが、間違いであったと思うようになる。このような変化は痛快とか爽快と言っている場合ではない。大変なことです。


 「生きるために必要なもの」とは一体何でしょうか。生きていくのに、本当に必要なものは何でしょうか。

お金でしょうか。安定した仕事でしょうか。他の人にはない能力を身につけることでしょうか。人から賞賛されるような地位、経歴でしょうか。有力な人と良い関係を持つことでしょうか。健康でしょうか。配偶者や子ども、家族でしょうか。これらのものは、生きて行く上で大切なものですし、実際に、このようなものが「生きるちから」であると考えて生きてきた人が多くいます。経済が安定し、健康で、自分のやりたいことが出来ているうちは、それで良かった。ところが、経済不況、事故や病気、家庭内不和、人間関係のこじれ。巨大な災害によって、私たちが積み上げてきたものが瞬時に失われることもあります。

 果たして「生きるために必要なもの」とは、何なのか。どのような状態になっても喜んで生きていくためには、何が必要でしょうか。


 ところで、先に言いましたように、逆転劇、どんでん返しが自分自身の価値観で起こるのは大変なことだと思います。しかし、キリスト教「信仰」を持つと、逆転が起こります。一般的に大切な事柄が、聖書の世界では無用のものとなることがあります。逆に、一般的に不幸なこと、避けるべきことが、キリスト教の世界では良いこととなる場合があります。世界の造り主を信じる。罪からの救い主を信じると、私たちは大きな変化を味わうことになるのです。


 ある病院の壁に記されていた祈りの言葉として、以下のようなものがあります。

「大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと神に求めたのに
 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
 よりよきことができるようにと病を与えられた
 幸せになろうとして富みを求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった
 世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
 高慢にならないようにと失敗を授かった
 人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにといのちを授かった
 求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた
 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず心の中で言い表せないものはすべて叶えられた
 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ


 力を願いながら弱くなった。健康を願いながら病となったとしたら、喜べるはずもないところ。しかしここに、私以上に私を良い状態にしようと考えている神様の存在を見出した途端、どんでん返しが起こる。これがキリスト教の世界でした。この世界を造った神様を信じて「生きるために必要なもの」を考えるのか。それとも、神無しとして「生きるために必要なもの」を考えるのか。それにより、答えが変わるのです。


 聖書の中にパウロという人が出てきます。一世紀の人物。その学歴は凄まじく、ユダヤの社会で大きな影響力を持っていた人。エリート中のエリート。当時の社会で、誰もが羨むような力、地位を手にしていた人が、次のように言います。

 ピリピ3章5節~8節

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。


 キリストを信じることによって、それまで大事と思っていたものが、そうではなくなった。大事ではなくなったどころか、「ちりあくた」とまで言います。ここにも「信仰」による逆転を見ることが出来ます。キリストに対する信仰を持った上で、「生きるために必要なものを考えるのか。」信仰抜きに「生きるために必要なもの」を考えるのか。それにより、答えが変わるのです。そのため聖書は、世界の造り主である神を信じること、キリストを信じることを、極めて重要なことだと教えていました。

Ⅰコリント13章13節

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。


 「生きるために必要なもの」という表現ではないですが、聖書は人間にとって最も重要なものとして、「信仰」「希望」「愛」の三つを挙げます。(今年度のウェルカム礼拝は三回を予定していますが、「信仰」「希望」「愛」をテーマに一回ずつ行う予定です。)今日は、「信仰」に焦点を当てます。

 生きるために「信仰」は大事。なぜなら、信仰があるかないかで、「生きるために必要なもの」の答えが変わるから。しかし、それだけでなく、神様を信じること自体が、あるいはキリストを信じること自体が、人間にとって重要であると教えています。


 ルカ9章24節~25節

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。


 この言葉はイエス・キリストが語ったもの。実は、聖書に何度かに出てくる有名な言葉ですが、よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉と言えるでしょうか。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失う。」果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。

 ここで言われている「自分のいのちを救おうと思う者」とは、どのような人か。一つ言えるのは、自分のいのちは自分で救うことが出来る。自分で何とかすることが出来ると考えている人、いのちの所有権は自分にあると考えている人のことです。

お金があれば、仕事があれば、能力があれば、名誉や地位があれば、健康であれば、良い人間関係があれば、これで私のいのちは大丈夫と思う。それは結局のところ、自分のちからで自分のいのちを救うことが出来ると考えている。ここで言う「自分のいのちを救おうと思う者」のことです。そしてそのような生き方は、結局のところいのちを失う生き方なのだと言われます。何故なのか。

 いのちの所有者を無視しているからです。本当にいのちを大切にしたいのであれば、自分のいのちを所有している方に委ねるしかないのに、自分が所有しているかのように振る舞うこと。それがここで問題にされているのです。

 この自分のいのちを救おうと思う者が、それを失うということの具体例をイエス・キリストがたとえ話でしている箇所があります。


 ルカ12章16節~21節

それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」


 この箇所で言われる神の前に富まない者というのが、自分のためにいのちを救おうと思う者の姿です。

この話に示される、自分のいのちの所有権が自分にはないという聖書の考え方に、納得いくでしょうか。生まれてからこの方、自分の力で生き抜いてきたという方にとって、自分のいのちの所有権がないというのは納得しづらい話ではないかと思います。ところが、世界を造られた神を信じると、いのちの所有者が私ではないということが、非常にしっくりきます。世界の造り主を信じることで逆転が起こるのです。

いのちは、神様に与えられたものとして生きていく。その時に初めて味わう喜びや感動があります。本当にそのように思いながら生きることが出来るとしたら、どのような場面、状況になっても、生きることへの感動、喜び、使命感、生きるちからを失うことはなくなります。そのためでしょう、聖書は私たちにとって「信仰」が重要と教えるのです。


 世界の造り主である神様がおられ、その方に生かされていると信じる。その信仰が大事であると聖書は教えていますが、それだけでなく、その世界の造り主である神様から送られた救い主、イエス・キリストを信じる信仰も大事であると言います。何故、イエス・キリストを信じることが、私たちにとって重要なのか。

 ヨハネ3章16節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


 聖書によれば、私たちがすでに手にしている命、この地上での命の他にもう一つ命がある。「永遠のいのち」と呼ばれ、それはキリストを信じることで頂くもの。この地上の命は、神様が下さったものとして生きることが大事。しかし、それだけで終わらないように。この地上での生涯の後に、もう一つの世界があること。天国と呼ばれる世界で復活するためには、「永遠のいのち」が必要で、それはイエス・キリストを信じることで与えられる。

 自分の人生を、この地上での生涯だけのものとして生きるのか。もう一つの命、もう一つの生涯(それも永遠に続く)があるとして生きるのか。全く異なる生き方になります。また、この地上での命も、永遠のいのちも、どちらも大事ですが、敢えてどちらが大事かと問われれば、どうなのか。


 イエス・キリストの言葉で次のような言葉があります。

 ルカ12章4節~5節

わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。


 この地上の生涯が大事でないということではありません。この地上の生涯も大事。しかし、そこに集中して終わらないように。もう一つの命、永遠の生涯を見据えて、生きるようにとの勧めです。

有名な方なのでご存知の方も多いと思いますが、星野富弘さんという方がいます。体育教師をしている時に、模範演技で事故に会い、首から下が動かなくなった。その後、キリスト教信仰を持ち、口で絵と詩を書き、多くの人に影響を与えている人です。その方が作った詩の中に、このようなものがあります。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。

 いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

 この詩に出てくる「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。」という言葉が、「自分のいのちを救おう思う者は、それを失う」という言葉と重なります。あるいは、「この地上でのいのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。この地上でのいのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」と受け取ることも出来ます。このような聖書の考え方、キリスト教の考え方を、皆さまはどのように受け取るでしょうか。


 最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは普段教会に来ていない方へのお勧めです。聖書が教える「生きるために必要なもの」の一つは、いのちは神様から頂いたものであると信じることにあると申し上げましたが、これはそのように信じたら人生が楽になりますとか、そのように思い込んだら幸せになりますと言いたいのではありません。そうではなくて、本当に神が世界を造り、私たちのいのちを治めている。そのような神様がいて、そのような神様の前で私たちは生きているのです、とお伝えしたいのです。少なくとも私は本心からそのように信じ、このことをどうしても伝えなければならないと思って今日を迎えました。どうぞ、この聖書の神様を知って下さい。信じて下さい。

 自分で自分のいのちを支えないといけないと思っていた時は、生きることが大変だった。聖書の神を知ってから。生きることが喜びとなり、楽しみとなった。そのようなどんでん返しを経験されることを、心からお勧めいたします。


もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方。クリスチャンの方へのお勧めです。私たちは、なぜ存在しているのか。何のために生きているのか。既に答えを持っているものです。実にこれは凄いこと。この答えが分からず、何も考えないで人生を生きるのか、苦しみながら人生を生きる人が多い中、私たちはこの答えを持っている。これがどれ程の恵みか実感があるでしょうか。時に、自分の思い通りにいかなく、悲しみや苦しみに沈む私たちですが、今一度、本当の意味で生きるちからを既に得ていること。その恵みに与っていることを確認して、与えられた人生を喜びと期待を持っていきていくことをお勧めいたします。

2018年7月22日日曜日

Ⅰコリント(10)「一致を生み出す生き方とは?」Ⅰコリント1:22~25


マザーテレサのことばには、よく知られたものが多くあります。今朝皆様に紹介したいのは、マザーテレサの祈りですが、これは最も知られていることばの一つではないかと思います。


主よ、あなたの平和を人々にもたらす道具として私をお使いください。

憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。

分裂のあるところには一致を。疑惑のあるところには信仰を。

疑っているところには真理を。絶望のあるところには希望を。暗闇には光を。

悲しみのあるところには喜びをもっていくことができますように。

慰められることを求めるよりは慰めることを。

理解されるよりは理解することを。

愛されることよりは愛することを求める心をお与えください。」


カトリックとプロテスタント。立場こそ違いますが、この祈りには、神様が教会、私たちクリスチャンに与えた使命が述べられています。

私たちはイエス・キリストを信じて救われました。救われた者は罪赦され、天国に行くことができます。けれども、私たちが受けた救いはそれにとどまりません。キリストの平和をもたらす道具として生きること、この社会の憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。分裂のあるところには一致を。絶望のあるところには希望を。悲しみのあるところには喜びをもっていく。その様な働きをするための新しい命を与えられたことも、私たちの受けた救いの大切な側面です。

しかし、これまで礼拝説教で学んできたように、紀元1世紀、ギリシャの国コリントの町にあった教会では、仲間割れが起こっていました。自分たちが好む教師、優秀だと思う教師を担ぎ上げ、グループに分かれて争い、分裂していたのです。

本来なら、分裂のある所に一致をもたらすべき教会の内に、仲間割れがあり、争いがあった。コリント教会は、果たすべき使命を果たしていない状態にあったのです。それにもかかわらず、自分たちのことを誇る者がいたと言うのですから、手に負えません。

この手紙の著者パウロは、彼らを「キリストにある幼子、肉の人」と呼びました。


3:1、3「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。…あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」


あなた方は、イエス・キリストを信じていても、生き方においては未熟な幼子。いや、キリストを信じた人らしくない肉の人、ただの人のようではありませんか。そうパウロは叱っているのです。

コリント教会は、仲間割れの他にも多くの問題を抱えていました。ペテロやパウロと言った力ある使徒たちが活動していた初代教会に、こんな教会があったのかと思われる様な世俗的な教会でした。しかし、パウロは、この様な教会をも神の教会と認め、兄弟と呼びかけ、問題の一つ一つに適切な処方箋を出してゆきます。

最初に取り上げた仲間割れの問題には、第1章から第4章が費やされました。私たちは、先回4章の終わりまで読み進めたのですが、今朝は「一致を生み出す生き方」と言うテーマに絞り、改めてこの4章全体から、神様のメッセージを確認することができればと願っています。

まず整理しておきたいのは、知恵の問題です。パウロは、人間の知恵は良いものであり、神様から与えられた賜物であると考えていました。コリントの人々がことばや知恵を、豊かに与えられている様子を、神様に感謝していたほどです。


1:4、5「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」


歴史始まって以来、人間は知恵を用いて文化、文明を築いてきました。自然を観察して農業を営み、作物を生み出してきました。それを様々なところに運ぶ交通手段も発明してきました。知恵を用いて医学を発達させ、様々な病いを克服してきました。文学や芸術、各国の芸能など、人間の知恵が生み出したものによって、どれ程私たちの人生は豊かにされたことでしょうか。

この様に、知恵が良いものであるならば、コリント教会の問題はどこにあったのでしょうか。

第一の問題は、彼らが、自分を知恵の所有者と考えていたことです。パウロは知恵を「神の恵み」と言いました。「あなたがたは、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされた」と、注意深く書いています。つまり、人間の知恵の源は神様、人間の知恵は神様からの賜物だと言うのです。

この「神様からの賜物」という信仰を欠いたコリントの人々は、知恵をもって自らを誇りました。しかし、それは思い違いも甚だしいことと、パウロは皮肉っています。


4:7、8a「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。…」


ここに「人からもらわなかったものがあるのですか」とあります。但し、「人から」と言うことばは、元の文章にはありません。以前の新改訳聖書では、「あなたには、何かもらったものでないものがあるのですか」となっていて、人からもらったのか、神様からもらったのか、どちらとも考えられるところです。神からもらったものか、人からもらったものか。いずれにしても、人間の生活全般に関する知恵も、聖書を理解する知恵も、神様が直接にか、様々な人を通してか、私たちに与えてくださる賜物という考え方においては、変わりがありません。

第二の問題は、彼らが、ことばの巧みさや知恵、つまり能力によって、人間の優劣を判断し、決めていたことです。その頃ギリシャでは、土を耕したり、物を運んだりする肉体労働に従事する人は卑しめられていました。他方、政治家、哲学者、教師、芸術家など頭脳労働に従事する人は尊ばれていました。知恵ある人々は、政治、哲学、芸術など高尚な仕事に専念するため、単純な肉体労働から解放される権利があるという考え方が、一般的だったのです。

勿論、これは、聖書の教えるところではありません。この物質世界を創造したと言う意味では、神様ご自身が肉体労働者です。イエス様も、生涯の大部分を大工として働きましたし、パウロもテントづくりの職人として働きながら、伝道を行っていたのです。

聖書には、所謂頭脳労働が上で、肉体労働が下と言う考えはありません。ティンダルと言う人が「教会の講壇から説教することも、家で家族のために皿を洗うことも、神に仕える思いをもって行うなら、どちらも等しく神の目に尊い奉仕なのである」と言っています。職業に貴賎なし。仕事に上下なし。仕事の種類によって、人間の価値が決まるのではない。どのような仕事であれ、自分に与えられた賜物を精一杯使い、神に仕え、人を愛する者を、神様は喜ぶ。そう聖書は教えているのです。

コリントの人々が、自分はパウロ派、自分はアポロ派、自分はペテロ派などと言って、争っていた時、彼らは、教師たちを頭脳労働者と考えていたのでしょう。教師たちの知識、ことばの巧みさや雄弁さを比べては、その上下、優劣を論じ、判断していたと考えられます。

人の能力は能力として、正しく評価される必要があるでしょう。しかし、能力によって、人間の存在価値を決めてしまうことは、知恵の間違った使い方であり、高慢の罪でした。

パウロを批判する人々は、パウロの説教が単純であること、パウロが他の使徒と違い、生活のために肉体労働をしていたことを批判しました。彼らの価値観からすれば、パウロは、教師として下の下と思われていたのでしょう。しかし、パウロは彼らの批判を一蹴しています。


4:1~3a「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。」


パウロは、自分を神の奥義の管理者と考えています。管理者とは、神様から仕事と賜物を与えられた者と言うことです。そして、管理者として自分が何よりも気にかけるべきは、仕事と賜物を与えてくれた神様に忠実なこと、神様のみこころを知り、それに従って生きることと弁えていたのです。

事実6年前、パウロは与えられた賜物を用いて、全力でコリントの人々に仕え、教会を建て上げました。まだ小さな群れであった、コリント教会の人々に経済的な負担をかけまいと、教会から報酬を得ると言う権利を捨て、自ら額に汗して働き生活の糧を得ていたのです。

ですから、神に忠実と言う点において、私は精一杯力を尽くしているので、やましいことはない。神様の評価こそ第一のことなので、あなたがたの批判は、私にとっては小さなこと。そうパウロは言うのです。

それなのに、あなた方ときたら、神様から豊かな賜物をもらっていながら、間違って用いていませんか。ことばの賜物を、争いに勝って、人の上に立つために使っていませんか。知恵の賜物を、自分の正しさを示すため、人を攻撃し、人を倒すために使っていませんか。自分の立場や権利が、そんなに大事ですか。どうか、あなたがたに賜物を与えてくださった神様のみこころを踏みにじらないでください。そう訴えるパウロは、4章の最後でこう勧めていました。


4:16「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。」

それでは、パウロに倣うとはどういうことでしょうか。パウロの生き方に倣うことです。そして、パウロの生き方は、このことばに集約されていました。


1:22~25「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」


イエス・キリストは、人々に嘲られ、罵られ、十字架に死にました。その姿は、ユダヤ人にとって余りにも弱弱しく、神とは思えませんでした。ギリシャ人は、そんなひどい死に方をした男を神とするキリスト教信仰を、愚かなものと考えました。

しかし、パウロはキリストの十字架に、神様が罪人を救うために全力で仕える愛を見ていたのです。キリストの十字架に現れた神様の愛が、自分を生かす力と感じていたのです。また、パウロは、キリストの十字架に、人に仕えるため与えられた賜物を使い尽くすという、あるべき人間としての生き方を見ていたのです。キリストの十字架こそ、パウロが倣うべき神の知恵でした。

キリストの十字架を見つめ、神様の愛を味わい、感謝する。キリストの生き方に倣い、イエス様だったらこの場合、どう相手に仕えたかを考える。これが、仲間割れをやめ、一致を生み出す生き方として、パウロが勧めたことではなかったかと思います。

NHKでは、大河ドラマ「西郷どん」が放送されていて、ご覧になっている方もおられるでしょう。西郷隆盛は明治維新の英雄。この時代活躍した人々の中でも、一際人気があります。しかし、この西郷隆盛に勝るとも劣らない人気を誇るのが、坂本龍馬です。

若くして暗殺された龍馬には子どもがいませんでしたが、姉の子どもを養子として迎え、可愛がっていたそうです。その養子が坂本直寛。直寛は熱心なクリスチャンで、高知教会の会員でした。その直寛が龍馬の法要を行った際、今井信雄と言う元武士を招きました。

今井信雄は、龍馬を暗殺した見回り組の一員。尋問された際、唯一人「私が殺しました」と罪を認めた人物で、その潔さを知った西郷隆盛が特別に恩赦を願い、釈放されたと言われます。その後、横浜の教会でキリスト教の福音を聞き、心打たれ、改心。静岡県の小さな村で村長となり人々によく仕えていた彼は、法要の席に出席することにします。

坂本直寛の友人は、「父にあたる龍馬を殺した男を法要に招くなんて、そんな馬鹿なことがあるか」と止めようとしました。今井信雄の友人は、「そんな所にのこのこ出かけて行ったら、お前殺されるぞ」と忠告しました。しかし、法要の席で、命を奪った龍馬の子どもに今井信雄が謝罪。父の仇の謝罪を子どもは受け入れ、二人は和解。過去のことは忘れて、これからキリスト教をもって、どう日本を良くしてゆくかを語り合ったと言うエピソードが残っています。

父親の仇を責める権利を捨て、心を開いた坂元直。恩赦で与えられた折角の命を、自ら捨てる覚悟で、和解を求めた今井信雄。二人の間には、十字架のイエス・キリストを力とし、知恵とする者同士の一致が生まれたのです。

私たちも家庭で、教会で、職場で、社会で、対立や仲間割れではなく、一致を生み出す生き方、実践してゆきたいと思うのです。

2018年7月15日日曜日

一書説教(46)「第一コリント書~この福音によって~」


 私たちは日々、様々な影響を受けながら生きています。周りにいる人の考え方、生活スタイル。見聞きする情報。怪我や病気などを通して、自分の考え方、大切にしていること、生活スタイルが変わることがあります。現代は情報が溢れかえる社会。意図していなくても、良い影響も悪い影響も受けながら、私たちは生きています。

この一週間の自分の生活を振り返る時、最も影響を受けたのは何によるでしょうか。これまでの人生を振り返った時、自分の考え方や生活スタイルが大きく変わったのは、何によるでしょうか。

 キリストを信じる者は、日々、新しく作り変えられると約束されています。キリストに似る者へ、神の民として喜んで生きることが出来るように、聖化の恵みが注がれています。それでは、キリストを信じることによる変化と、他のものから受ける影響による変化と、どちらが自分を変えているでしょうか。あるいは、神の子らしく生きたい、神の子らしく作り変えられたいという思いが私たちの中にどれだけあるでしょうか。自分は何から最も影響を受けているのか。どのように変わっているのか。この礼拝の中で、皆で考えていきたいと思います。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り七回目。コリント人への手紙第一を読みます。パウロによる手紙。前回読みましたローマ人への手紙と、同時期に書かれた書で、ところどころ、同じフレーズ、似た表現が出てきますが、全体としては大分異なる印象の手紙。ローマの手紙が普遍的、一般的な教えが多く記されていたのに対して、コリント人への手紙は、問題だらけの教会を、何とか建て直したいと苦心して記されたものです。コリントの教会にどのような問題があり、それに対して、牧師、宣教師、神学者であったパウロが、どのような解決を提案したのか。注意深く読みたいところ。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 そもそも教会は問題を抱えるものです。教会とは、赦された「罪人」の集まり。完全無欠な教会はなく、どの教会も欠けがあり傷があります。とはいえ、それにしても、コリントの教会は問題が山積みでした。不品行の問題などでは、目を覆いたくなる程で「異邦人の中にもないほどの淫らな行いで、父の妻(実母ではない)を妻にしている者がいる。」という状況。先輩カルヴァンは「神よりも、むしろ悪魔が支配しているとでも思われるほど、悪徳の充満していた人間の集団」とまで言っています。


コリントの教会は何故、問題山積みの状態にあったのか。一つの理由は、コリントの町の環境にあると考えられます。

現在の地図を見てみても、コリントが栄えやすい土地であることが分かります。ギリシアの南北結ぶ土地。ギリシアの主要都市、アテネやスパルタの行き来には、コリントを通る必要があります。東西で言えば、ローマからコリントまでのアドリア海と、コリントからアジア方面へのエーゲ海に挟まれているところ。東西南北の交通は、コリントを中継地点としたわけです。交通、貿易の要所。

 交通、貿易の要所ということは、人々が入り乱れる場所。手紙が書かれた当時、港町にはつきものの売春宿が流行り、千を超える神殿娼婦がいたと言われ、「コリント人のように生きる」とは、不道徳、不品行な生き方の代名詞とされました。商人たちのそろばん、旅人の乱交、売春巫女の色気が充満した、欲望が煮えたぎる都市。

 この町に建てられたのがコリントの教会。人間は良くも悪くも環境に左右される。良い環境にあれば良くなり、悪い環境にあれば悪に染まるということが確かにあります。コリントの教会は、その地の風習、文化の影響を直に受けるわけで、教会で問題が起こることは十分分かるのです。


 もう一つ、コリント教会が問題山積みとなった原因として、コリントの教会が、「教会とは何か」ということを理解していなかったことを挙げることが出来ます。

この手紙の中で、パウロは具体的な問題の解決とともに、教会とは何か、教会とはどのようなものなのか、繰り返し説明しています。パウロは、コリント教会の問題の本質に、教会についての理解不足があると考えていたようです。

 そのように考えますと、この手紙を読む私たちは、教会とは何か、教会とはどのようなものなのかを考えつつ、読み進めるのが良いと言えます。


 この手紙は、基本的に問題を挙げて、それに対する解決を示すことを繰り返すことでまとめられた書ですが、具体的にどのような問題があったのでしょうか。手紙からは、大きく見て十個の問題を確認できます。(問題を十個並べることで、この手紙の概観ともなります。)


 二つ目が、不品行の問題のうち、父の妻を妻とするような人を放置していること。(5章)

 三つ目が、教会員同士の問題を、教会の外で訴訟問題とすること。(6章)

 四つ目が、不品行の問題のうち、買春をすることを問題と思っていないこと。(6章)

 五つ目が、結婚についての混乱。(7章)

 六つ目が、異教の習慣についての理解や対応の不一致。(8~10章)

 七つ目が、礼拝での節度ある態度について。(11章)

 八つ目が、キリスト者の交わりとなっていない食事会について。(11章)

 九つ目が、自分の正しさを主張することによる集会の混乱(14章)

 十個目が、死者の復活を否定する考え方。(15章)


 十個の問題に対して、パウロはどのように答えるのか。強い言葉で非難、叱咤激励の時もあれば、寛容に、配慮を示す対応をするところもあれば、このようなことまで言うのかと驚くところもあれば、常識に訴えかけるところもあります。

 強い言葉、非難の色が濃いところをいくつか取り上げると、仲間割れの問題に対して、「あなたがたは、ただの人、肉の人」(Ⅰコリント3章3節、4節)と責め、訴訟の問題に対しては「私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。」(Ⅰコリント6章5節)と非難し、不品行の問題では、そんなことはあってはらないと断言します。

 Ⅰコリント6章15節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。


 寛容さや配慮を示す色が濃いところとしては、偶像にささげられた肉の問題があります。偶像にささげられた肉を食べることは、偶像崇拝に加担することになり、罪であると考える人たちがいる。その人たちに対して、実際には、偶像の神は存在しなく、全てのものは主のものであるため、偶像にささげられた肉を食べることは問題ではない。と伝えつつも、それでも(この手紙を読まなく、また偶像にささげられた肉を食べることは問題だと考える人がいる限りは)パウロ自身は偶像にささげられた肉は食べないと言います。

 Ⅰコリント8章13節

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。


 このようなことまで言うのかと思う言葉としては、結婚についてのことが挙げられます。不品行の問題、買春の問題を挙げ、それはあってはならないことと断罪した後で、淫らな行いを避けるために、結婚するようにと言います。

 Ⅰコリント7章2節~5節

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。


 夫が性的関係を求める場合、妻は断らないように。妻が性的関係を求める場合、夫は断らないように。お互いに、自分のからだは相手のものという原則を示します。このようなことまで言うのかという驚きと同時に、これを、独身のパウロが言っているということに、驚くのです。(七章で、パウロは独身の利点も十分に挙げています。)


 常識に訴えかける場面としては、礼拝での節度ある態度について。祈る時、男性は被り物をしないように。女性は被り物をするようにと勧める中で、常識で考えるように、自分たちの文化ではこうなのだと言います。

 Ⅰコリント11章13節~16節

あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。


 時に激しく、時に優しく。時に明確に指針を示し、時に自分で考えるように訴えかける。時に大きな視点から、時に微に入り細を穿つようなことまで。牧会者パウロの心が示されます。是非ともこの手紙を読むことを通して、何としてでも教会が教会らしくあるようにと願うパウロの情熱を味わいたいと思います。


 ところで、十の問題に解決を示す際、具体的な解決策とともに、繰り返し、神様がどのようなお方なのか、キリストが何をして下さったのか、教会とはどのようなものなのか、語られています。

 教会とは何かということだけでも、いくつかの表現が出てきます。「神の畑」「神の建物」「神の宮」「聖霊の宮」。当時の手紙は、口述筆記で記されたものが多く、この手紙も口述筆記によるものです。推敲に推敲を重ねた論文というより、心に湧き出てきたことをまとめられた書と言って良いでしょうか。この書で繰り返し、教会とは何かを語ったパウロが、後半で、「これぞ」という表現に行き当たります。

 Ⅰコリント12章19節~22節、26節~27節

もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。


 教会は「キリストのからだ」。パウロが書いた手紙を見渡すと、何度も出てくる表現ですが、最初に出てくるのは、この箇所です。「教会とは何か」、理解されていないことにより、様々な問題を抱えるコリント教会に、「教会とは何か」、どのように伝えたら良いか、苦心して生み出された「キリストのからだ」という言葉。

 「それぞれ違いがあることが大事であると同時に一体である。」「自分のために存在しているのではなく、それぞれからだ全体のために存在している。」「頭の願う通りに動くのがからだだとすれば、キリストのからだとは、キリストの願う通りに生きる者たちである。」キリストのからだという言葉の中に、パウロの言いたかったことが多く含まれる。含蓄に富む言葉です。

 コリントの教会の人たちが、自分たちは「キリストのからだ」であることを理解し、それぞれがからだの部分として生きることが出来たら、教会内に起こっている問題の殆どは解決となるでしょう。


 教会は「キリストのからだ」とまとめたパウロ。しかし問題なのは、自分たちが「キリストのからだ」であると理解したとしても、その通りに生きることが出来るのか、ということです。違いを尊重し、同時に一体である。違いを認めながら、分裂することなく、配慮し合い、苦しむ者がいればともに苦しみ、尊ばれる者がいればともに喜ぶ。そのような教会となるのに、何が必要でしょうか。パウロは、それには「愛」が必要であるとして、「愛の章」として有名な、十三章を記します。

 一部抜粋しますが、Ⅰコリント13章4節~7節

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。


 教会が「キリストのからだ」であるためには、教会が「愛」に生きる必要がある。それでは、教会が「愛」に生きるためには、どうしたら良いのか。自分を打ちたたいて、愛するように頑張るのではない。主イエスがして下さったこと。愛することが出来ない、自分勝手に生きることしか出来ない。罪に死んだ私たちのために、イエス様が死に、復活されたことに注目するように。その「福音」に立つようにとまとめられていきます。

 Ⅰコリント15章1節~6節

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。


 様々な問題を抱えたコリント教会に対して、何とか教会らしくなるように、あれやこれやと手を打ってきたパウロ。その最後の最後で、キリストの十字架と復活を指し示されます。「福音」に立つように。私たちが教会として正しく歩むために、何に焦点を当てるべきなのか、よく教えられるところです。


 以上、コリント人への手紙第一でした。

 大都市コリントの影響を受け、大変な状況にあったコリント教会に、必死に手紙を書いたパウロ。もしこの時代、パウロが生きていたとしたら。もし四日市キリスト教会の現状を知り、手紙を書くとしたら。どのようなことが記されるでしょうか。

クリスチャン人口の極端に少ない国。様々な宗教、文化のしがらみがある状況。同時に、世界中のありとあらゆる情報がなだれ込んでくる現代。その中で生きる私たち。教会は教会らしいのか。私の人生は、神の子らしいのか。この手紙を読みながら、自分自身のこと、教会のことを考えたいと思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...