2019年3月31日日曜日

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31


 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダントを身に着ける女性も少なくありません。
 しかし、主イエスの時代、十字架は人々が格好良く身に着けることのできる飾りではありませんでした。建物の屋根に十字架を立てようと考える人等、いるはずもなかったのです。十字架は死刑の道具、この世で最も恐ろしい死刑台。囚人は生きながらはりつけにされ、吊るされる。生き殺しの道具でした。
 それでは、何故、キリスト教会が十字架を大切にするようになったのか。十字架は私たちにとってどのような意味があるのか、また、私たちは主イエスとどう向き合うべきなのか。4月の第三週イースターの礼拝に至るまで、一緒に考えてゆきたいと思うのです。
 ところで、主イエスの十字架には様々な人が関わっていますが、今日の箇所で、私たちは三種類の人々の姿を見ることになります。第一に、主イエスに刑を宣告したローマの総督ピラト。第二に、思いもかけず十字架を担うことになったクレネ人シモン。最後に、主イエスに心から同情を寄せた都エルサレムの女たちが登場します。
 先ずは、今に至るまで、キリストを十字架につけた張本人として名指しされてきたピラトです。ピラトは、当時最大の世界帝国ローマの権威を帯び、主に都エルサレムの統治を託された総督でした。ローマは様々な国様々な民族を支配していましたが、特に神の民を自負するユダヤ人は独立の気概にみち、度々抵抗したため、ユダヤの国を治めることは至難の業とされたのです。為に、ユダヤの総督には特に有能な人物が任命されました。ピラトも、その例に漏れず、主イエスの裁判に当たり、賢明さを発揮しています。

23:13~15「ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。」

ピラトが、主イエスの裁判に当たるのは二度目のことになります。一度目の裁判の際、ユダヤの宗教家たちに突き出された主イエスを一目見たピラトは、彼らの訴えを根拠なき告発と見抜きます。賢明な総督は「この人は無罪」と判断したのです。
しかし、決断力を欠くピラトは、ユダヤ人の声に押されました。ちょうど都に来ていたガリラヤの領主ヘロデに、この厄介な問題を押し付けたのです。ガリラヤで活躍したイエスなのだから、ガリラヤを統治するヘロデが解決すべき問題と考えたのか。あるいは、これ以上イエスという人物に関わって、ユダヤの有力者を敵に回すのは得策ではない、そんな計算が働いたのでしょう。
ところが、一旦はたらい回しにしたものの、主イエスは再び戻ってきました。そして、二度目の裁判に当たり、イエスと言う人物について、ピラトは入念に取り調べたようです。
そうするとどうでしょう。民衆を惑わした者として訴えられたこの人物が、実は病める者、苦しめる者に仕え、力を尽くしてきたこと、都の宗教家たちとは異なり、聖い心の持ち主であること、王となりローマ帝国を倒そうなどと言う野心等、全く持ち合わせていないことが分かってきました。「このイエスが、どうして民衆を惑わすことなどありえようか。この事件は、宗教家たちの妬みから生まれた冤罪ではないか。」最初は、直感的に無罪と感じ、二度目は取り調べの結果「イエスに罪なし」と判断した。「イエスは危険人物ではない。この人は死に値するようなことは何もしていない。」そう確信したピラトは、釈放を宣言します。

23:16「だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」

気になるのは、「懲らしめたうえで」ということばです。これを加えたのは、何もしないのでは宗教家たちや民衆は満足しない、と計算したからでしょう。無罪と判断したなら、即釈放すればよいはず。それを、「私が懲らしめたうえで」と加えたところに、ピラトの中途半端さ、弱腰が見え隠れします。
その弱腰は、人々に見抜かれていました。「一体、何をごちゃごちゃ言っているのか。早くイエスを殺せ。釈放するならバラバを釈放して、イエスを十字架につけろ。」そんな叫び声が沸き上がったのです。

23:18~21「しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。」

ピラトのとりなしは、火に油を注ぐ結果となりました。主イエスを釈放するどころか、既に暴動殺人で刑が確定していた「バラバを赦せ、その代わりにイエスを消してしまえ。それも、十字架につけてしまえ」と言う叫びがピラトを圧倒したのです。
顔色を失ったピラト。無罪なら無罪で釈放すればよかったものを、中途半端にユダヤ人におもねった結果、事は極端な方向に走ってしまいました。それでも、漸く振り絞るような声で、ピラトは三度目の無罪を宣言しますが、結局は民衆の大声に押されてしまうことになります。

23:22~25「ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」

 三度イエスの無罪を公言したピラト。しかし、その弱気、その弱腰を民衆に見抜かれて、バラバを釈放し、主イエスの処刑を許してしまいました。ローマの総督ピラトが、無実の人イエスを十字架につけた張本人として、歴史に汚名を残した瞬間です。法の番人、正義の守護者たる者が、法を曲げ、一個の人間としての志をも放棄してしまったのです。同じような弱さを持つ私たちも、よほど気をつけなければと自戒したいところです。
 次は、主イエスの十字架を肩代わりした男、クレネ人シモンです。

23:26「彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。」

 主イエスは、十字架刑の場所まで突かれ、引かれてゆきます。それも、自分が釘付けにされる十字架を背負わされてです。しかし、主イエスは途中で倒れてしまいました。昨夜から続いた鞭打ちの刑罰、たらい回しの裁判。最早精も根も尽き果てていたからです。道半ばにして主イエスの体は大きく揺れて傾き、沿道を埋め尽くす野次馬の群れも動揺したことでしょう。
 ちょうどその時です。遥々アフリカの地クレネから、過ぎ越しの祭りで賑わう都を一目見たいと、シモンと言う男が、道を通りかかりました。シモンも、故郷への土産話に十字架と言う恐ろしい刑罰を見物するのも悪くないと思ったのでしょうか。野次馬の一員になっていた様です。
 そして、一体どこがローマ兵士の関心を誘ったのかは分かりませんが、大勢いる野次馬の中から、「お前が代わりに十字架をかつげ。」と指名されてしまったのが、シモンです。運の悪さを嘆くシモン。しかし、いくら何でも恐ろしい死刑の道具を担ぐことだけは、勘弁して欲しいと思い、必死に抵抗したのでしょう。マルコの福音書には、「兵士たちは、イエスの十字架を無理やり彼に背負わせた。」とあります。
 せっせと働きコツコツ貯めてきたお金で、一生に一度の都登りを楽しみにしていたシモン。楽しかるべき旅が、泣くに泣けない旅に変わってしまいました。けれども、です。このシモンは、後でこの死刑囚が何者であるかを知ることになります。無理やり担がされた十字架が、自分にとっていかに重要な意味を持つものかを悟り、主イエスを信じるクリスチャンとなったのです。

15:21「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」

「アレクサンデルとルフォスの父」とあります。これは、シモンの息子アレクサンデルとルフォスがキリスト教会でよく知られていた証拠です。あのアレクサンデルとルフォスの父親がこのシモンであることを、多くの人が知っていたのです。
また、使徒パウロが書いたローマ人への手紙には、「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私の母によろしく。」(16:13)という挨拶があります。シモンの息子ルポスがローマ教会の教会員であり、ルポスの母つまりシモンの奥さんも同じ教会員で、パウロから信頼されていたことが分かります。わが身の不運を嘆いた男シモンの一家は、シモンも、その妻も、二人の息子もクリスチャンとなると言う恵みに預かっていたのです。
そして、最後は主イエスに同情を示した女たちの登場です。今日聖地旅行でエルサレムを訪れる人々が、必ず訪れる名所の一つが「ヴィア・ドロローサ」、悲しみの道と呼ばれる狭い道でしょう。それこそが、二千年前主イエスが歩かれた道でした。
シモンに十字架の木を肩代わりしてもらいながら、形場へと向かう道の途中。そこで、主イエスが女たちにもらしたことばが記録しています。

23:27~31「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」

都の婦人たちの中には、あわれみの心を持つ者がいて、恐ろしい十字架につけられる主イエス、それもバラバの身代わりに死ぬ運命を背負った主イエスのことを可哀そうに思い、心から同情したのでしょう。実際、当時死刑囚の苦しみを和らげてあげたいと思い、麻酔薬を差し出す慈善婦人会もありました。
もし、私がこの場にいたら、自分のために涙を流し、同情してくれる女性たちに甘え、神に与えられた使命を前に、頽れてしまう気がします。
しかし、主イエスは頽れることなく、十字架に命をささげる尊い使命にしっかりと心を向けておられました。ですから、女たちの方を向いて、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。」と言われたのです。注意してください。主イエスが言われたのは、「もっとわたしのために泣いてくれ。」ではなかったのです。むしろ逆で、「わたしのために泣くな。」でした。そして、婦人たちに顔を向けると「むしろ、自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。」と語られたのです。
この後、神に背いたエルサレムの都は、ローマ軍の猛攻撃に耐えられず、崩壊することになります。主イエスは、この来るべき神のさばきを思い、主イエスは婦人たちのことを心配し、警告されたのです。
その日は、人々が皆、足手まといになる子どもがいない者の方が幸いだと感じる程悲惨な日となる。山々が倒れかかること即ち大地震の方がましだと感じる程の苦しみの日となる。生木の様に強い男の私が酷い目に会うのだから、枯木である弱い女性のあなたたちは、その時どの様な目に会うことか。主イエスに同情していた女性たちは、むしろ、主イエスに同情されていたのです。この期に及んでも、ご自分のことより、隣人のこと、弱き者のために心を尽くす主イエスの姿を、私たちはここに見ることができるのです。
最後に、今日登場した人々を確認しておきたいと思います。有能で賢明さを持ち合わせていたにも関わらず、人々の声に流され、自分の信念を貫くことのできなかった人、優柔不断で、弱腰の人ピラトがいました。不図したことがキッカケで、夢にも思っていなかったクリスチャンになる、家族も皆同じ信仰に生きる者となる。そんな恵みに預かった人シモンがいました。そして、主イエスのことを心配していたつもりだったのに、むしろ、主イエスから心配され、祈られていた婦人たちもいました。
三者三様、各々主イエスに対する関わり方は異なりますが、どの人の姿にも私たちの人生が重なって見えてきます。私たちにもピラトの弱さがあります。しかし、願わくは、主イエスの恵みに支えられて、人に流されずに信念を貫き、正義を実践する者になりたいと思います。
私たちもシモンの様に、キリストの十字架など自分に何の関係もないと思っていました。しかし、不図したきっかけで、主イエスに導かれ、十字架の意味を知る光栄に預かったことを、心から感謝したいのです。また、私たちも、都の女たちの様に、主イエスを愛する私たちの愛よりも、私たちを愛する主イエスの愛がはるかに深いことを喜びつつ、信仰の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

コリント第一1:18「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

0 件のコメント:

コメントを投稿

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...