2018年8月26日日曜日

Ⅰコリント(12)「仲裁することができる賢い人」Ⅰコリント6:1~11


毎年8月になると、新聞やテレビが先の戦争について、様々な記事を載せ、番組を放送します。それを読み、見ることで、私たちも戦争の悲惨を思い、平和への願いを新たにすることができます。しかし、世界の現実は平和とは程遠いことを感じます。武器をもって行う戦いこそないものの、日本でも政党と政党、経営者と労働者、地域の隣人関係、家庭における夫と妻、親と子、兄弟姉妹に至るまで、対立争いは後を絶ちません。

何故でしょうか。人はみな平和を願うのに、どうして対立するのか。各々が平和のために努力しているのに、なぜ争いはなくならないのか。一言で争い、対立と言っても、状況は様々で、簡単な解決方法などないことは承知の上ですが、聖書の視点から見れば、罪の問題について真剣に考えること、神様に信頼し、従うことがなければ、根本的な解決はないと言えるでしょう。

礼拝において読み進めているコリント人への手紙第一も、今日は第6章に入ります。紀元1世紀半ば。この手紙の著者パウロがギリシャ、コリントの町に建てた教会は、様々な問題を抱えていました。仲間割れ、性的不道徳、偶像礼拝、富める者の高慢、礼拝の乱れなど。これが本当にキリスト教会と言えるのかと思われる程の有様、混乱ぶりだったのです。

カルバンはコリントの町について、こう説明しています。「コリントに不品行がはびこっていたことは、歴史が証明している。コリントは経済的に豊かな町であった。そこには有名な市場が立ち、各国の商人が船を寄せた。その結果、財宝はあふれ、これが不品行を生むもとともなった。その上、もともと不品行に傾きやすい性質のコリントの人々は、他の多くの腐敗のために、いっそう拍車をかけられ、さらに不品行と高慢にはまり込んでいった。」まるで、現代のどこかの町の様子を描いたようなことばではないでしょうか。私たちとしても、他人事とは思えません。

神様が私たちを罪から救い、教会に集められたのは、教会が置かれたその地域で、人間本来の幸いな生き方を示すため、良い影響を与えるためでした。それなのに、コリント教会はこの世の悪しき生き方や風習、習慣を教会に持ち込み、立てるべき証しを立ててはいなかったのです。

しかし、この様な教会をも神の教会と認めるパウロは、忍耐を尽くして、一つ一つ問題を取り上げ、適切な勧め、命令を出してきました。第1章から第4章では、仲間割れの問題を取りあげ、教会の一致を説きました。先回の第5章では、性的不道徳に陥った兄弟が罪を悔い改めるため、厳正に対応することを命じたのです。そして、今日の6章は、訴訟の問題、裁判沙汰です。


 6:1「あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。」


 この場合、「仲間と争いを起こしたら」の仲間争いとは、後に出てくる不正、だまし取る、つまり詐欺のことです。先の父の妻と同棲すると言う不品行にも驚きますが、教会の中で詐欺行為が行われたと言うことにも驚かされます。

 しかも、不品行を行った者に対しては、罪の悔い改めに導くための戒規を下すことなく、教会内にとどめておいたのに、些細な財産問題となると大騒ぎをして、町の裁判所に訴える。教会として熱心に取り組むべきことには無関心、不熱心でありながら、自分の問題それも金銭の問題となると、少しの不利益も被るまいと、大騒ぎする。教会として,クリスチャンとして、本末転倒したコリント人の姿です。

 そして、パウロが、より深く心を痛めたのは、詐欺問題に対する人々の対応の仕方でした。彼らは「それを聖徒たちに訴えずに、正しくない人たちに訴えた」らしいのです。

 正しくない人たちと言うのは、イエス・キリストを信じ、神様に義と認められた信仰者に対して、神様に義と認められていない世間の人、この場合はこの世の裁判官をさしています。この世の裁判官が道徳的に正しくないと言うのではありません。神様と正しい関係にないと言う意味で「正しくない人」と言われています。それなのに、どうもコリントの人々は、教会の中で起こった金銭的トラブルを教会内で解決しようとせず、この世の裁判官に、そのまま訴え争っていたらしいのです。

 もちろん、裁判制度そのものは神様が建てられたものです。聖書は、この世に存在している権威は神によるもの。神がこの世の秩序を守るために定めた制度と教えていました。パウロ自身、ユダヤ人から訴えられ、殺されそうになった時、皇帝カイザルに上訴し、無実を証明しようとしました。

とはいえ、事が兄弟同士の個人的問題であったとしたら、何よりもまず、これを教会内で解決すべく力を尽くさなければならないとも考えていたのです。

 それは、教会内のトラブルを外に出したら恥ずかしい、外聞が悪いというようなことではなく、教会は教会に与えられた神の教えに基づいて、問題の解決にあたるべきであったからです。ところが、コリントの人々は、その様な自覚を持たず、問題をすぐさま町の裁判所に持ち込み、互に争っていました。先には、不道徳の罪に陥った兄弟の問題は放っておくかと思えば、今度は、個人的で、小さな問題を外部に持ち出すと言う。いったい、どれだけキリスト者としての自覚があるのか。そうパウロは嘆き、彼らに自覚を促します。


 6:25「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。」


 「聖徒たちが世界をさばくようになること」「私たちは御使いたちをさばくようになること」を、あなた方は知らないのですか。そうパウロはコリント人に語っていますが、皆様はこのことを知っていたでしょうか。これをどれぐらい自覚して、生活しているでしょうか。

 世界が創造された最初の時、神様は人間にこの世界の造られたものを支配し、管理すると言う使命を与えられました。しかし、人間は神様に背いたため、正しく支配し、管理することができなくなりました。人間による自己中心的な管理、支配のために、この世界は様々な問題を抱えるようになったのです。

 けれども、イエス・キリストを信じる者に、神様は正しく支配し、管理する能力を回復してくださいました。そして、キリストが再度この世界に戻られ、神の国が完成する時、私たちキリストを信じる者に与えられた、その能力は完全に回復することを聖書は教えています。パウロが「聖徒たちが世界をさばくようになる」とか「私たちは御使いたちをさばくようになる」と言っているのは、この来るべき時のことを示しているのです。

 尤も、さばくとか支配する、管理すると言っても、それはやがて私たちがこの世の権力者や裁判官の様に振舞うことを意味していません。この世の支配者は軍事力や経済力など権力をもって支配することが許されています。しかし、その為に権力を悪用する支配者の圧政、暴虐に、しばしば民衆は苦しめられてきました。私たちの中にも、力で人を思い通り支配したいと言う罪の思いは、しっかりと根付いています。ですから、誰が一番偉いのかと争いを繰り返す弟子たちのため、イエス様が、正しい支配について教えられた箇所があります。


マルコ104245「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」


神の国の民は、皆に仕える者となれ、皆のしもべとなれ。与えられた力をもって人を自分の思い通り支配するのではなく、隣人の幸いのため与えられた力を活用する者となれ。特に力なき者、小さき者に仕えよ。これが、私たちが聞き取るべきメッセージではないかと思います。

そのような恵みを受けているにもかかわらず、あなたがたは些細な問題さえ治めることができず、これを外に出して、神を知らない人の手に委ねようとしている。何と情けないことか。もっとしっかりと、神の国の民として受けた恵みについて考え、自覚せよ。そんな使徒の声を、私たちここに聞くことができると思います。私たち自身も、世界を、み使いを治める者となると言うこの恵みを、どれだけ自覚して行動しているかを問われるところです。

さらにパウロは、知恵を誇るコリントの人々の心を抉ることばを、突き刺してゆきます。


6:57「私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。」


「あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。」これは知恵を誇るコリントの人々に対する、痛烈な皮肉です。また、「敗北」とは、お互いの権利や利益に拘る訴訟沙汰が、世間の顰蹙を買うばかりか、教会の評判を貶め、神の栄光に泥を塗ることに気がつかないのですか、と言う叱責のことばでしょう。

さらに、「どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。」ということばは、金銭問題ともなると眼の色を変え、自分の権利、自分の立場を譲ろうとはしないコリントの人々への戒めです。兄弟愛を忘れ、権利や利益ばかり主張するコリントの人々が、本当に和解するためには、自分の権利を譲ること、忍耐することも必要との勧めでした。

もとより、こうした配慮を費やした上で裁判に進む場合もあるでしょう。しかし、先ずは個人的に、また教会として十分な努力をすることが原則であることは変わらないと思います。

しかし、それでも、まだパウロはコリント教会のことが心配だったのでしょう。当時コリントの町に蔓延っていた不正、悪徳を数え上げ、それらに染まって神の国を相続すると言う恵み、祝福を失うことがないように、注意しました。

6:811「それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」


もう一度カルバンのことばを聞きたいと思います。「人間には、自分の罪を実際よりも軽いものと思い、神を侮ることに慣れてしまう性質がある。私たちを罪の中にとどめようとするこの様な甘やかし程危険な毒はない。神を畏れることを忘れた人は、神の審判も冗談ごとに変えてしまう。」パウロが、本当に心配していたのは、罪を実際よりも軽いものとみなし、神を侮ることに慣れてしまう風調がコリント教会の中に広がってしまうことではなかったかと思われます。

だからこそでしょう。パウロは再度イエス・キリストを信じた者が受け取る恵みについて、確認しています。「…しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によってあなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

ここには、私たちがイエス・キリストを信じた時、三つの恵みを受け取ることが教えられています。即ち、神様は私たちの罪を洗い、赦してくださいました。私たちを聖なる者とし、罪あるままで義と認めてくださいました。この三つの恵みを事実受け取ったこと、この恵みのゆえに神の国を相続できることを確信できる時、私たちの生き方は変えられてゆくのです。

さて、今日の説教のテーマは平和です。本来なら、平和な関係とはどういうものなのかを証しすべき教会が内輪で争い、教会として証しを建てることができない状態にあった。これがコリント教会の実態でした。しかし、その様な教会に対するパウロの戒めから、私たちも教えられることがあると思うのです。

それは、平和とは神様の恵みであると同時に、私たちが造るものであること、私たちは平和を造る者として召されていることです。コリントの人々のように、私たちも兄弟姉妹や社会の隣人と対立することがあるかもしれません。あるいは、両者の間に入り、仲裁の役割を果たす立場に立つこともあるでしょう。

いずれの場合でも、私たちは平和を造る者として生かされていることを忘れてはならないと思います。自分の中にある、思い通りに人を動かそうとする思い、自分の権利や利益を優先する思いを捨ててかからねばなりません。自分に与えられた権利や力を、相手の幸いのために用い、相手に仕えると言う思いに立たなければ平和を造ることも、和解に導くことも難しいでしょう。

しかし、イエス・キリストは、私たちにとって本当に難しいことを、私たちのために成し遂げてくださいました。神の御子としての権利を捨て、持てる力のすべてを使って私たちに仕え、罪の贖いを成し遂げ、神様との平和な関係に入れてくださったのです。

このキリストの恵みに感謝し、心動かされながら、私たちは平和を造る者としての歩み、続けてゆきたいと思います。今日の聖句です。


コロサイ 3:15 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。」

2018年8月19日日曜日

「平和を作る」マタイ5:9


八月の中旬になりました。八月十五日は、一般的に終戦記念日と言われる日。また堀越暢治先生は、この日を「いのちありがとうの日」にしたいと活動されていました。私たちは、いつでも「平和」について、「いのちの大切さ」について考えるべきですが、この時期、特に取り組みたいと思い、「平和を作る」ことをテーマに説教を行います。

 二千年前、主イエスが語られた山上の説教。その冒頭は八福と呼ばれる、祝福の言葉が述べられます。「〇〇な者は幸いです、〇〇だからです」と八つ続く。この「幸いな者」とは、キリストを信じる者の姿であり、キリストを信じるとはどういうことなのか教えてくれるものでした。

 キリストを信じる者がこの言葉を聞く時、自分がどのような存在なのか確認することになります。キリストを信じていない方がこの言葉を聞く時、キリストを信じる者に与えられる恵みがどのようなものか、知ることになります。八つ並ぶ「幸いな者」。その七番目が、「平和をつくる者」の姿でした。


 マタイ5章9節

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。


 「平和」はいつの時代、どこででも、皆から期待され望まれるもの。平和であるとは、人が生きていく上で極めて重要なこと。

どの時代、どこででも願われる平和。しかし、人類の歴史を見る時、また今の世界を見る時に、平和とかけ離れた状態にあります。人類史上、戦争がない時代は、ごく僅かと言われます。世界の中で見れば、日本は比較的平和な国と言えるでしょうが、それでも毎日のように殺人、強盗のニュースを耳にします。皆が平和を望みながら、平和の実現がなされない。この世界は、どうもおかしいと感じます。

 なぜ、この世界は平和とは程遠い状態にあるのか。聖書は、この世界がつくられた当初は、平和であったこと。非常に良い状態であったことを記していました。

 創世記1章31節

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。


世界が造られたその最初の時。造り主に「非常に良かった」と言われたこの世界が、最初の人、アダムとエバが罪を犯してから一変しました。アダムとエバの子、カインとアベルの時に殺人が起こる、兄弟殺しです。アダムから七代目、レメクという人は、人を殺したこと、殺す力を持っていることを自慢します。ノアの時代には、人の悪があまりにひどい状態になり、大洪水の裁きが下されました。

人類の歴史は、暴力と殺人の歴史。拳がうなり、拳は刀となり、刀は銃となり、銃は大砲、爆弾となる。今では、暴行、詐欺、収賄、強盗、殺人ははびこり、戦争はまるで日常のこととなっています。

非常に良かった世界、平和に満ちていた世界が、平和からかけ離れた状態にあるのは何故なのか。聖書の答えは、人が神様から離れたから。平和が壊れる根本的な理由は、罪でした。人が神から離れた、神に従うことをやめたこと。それにより、この世界はひどい状態になっているということです。そのため、平和を得るためには、罪の問題を解決することが必要です。


 ところで、平和と聞いて、皆さまはどのような状態を考えるでしょうか。一般的に、日本語で平和と言いますと、戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険がない状態。命の危険がない状態。

 しかし、聖書が言う平和は、それよりももう少し大きな概念です。聖書の言う「平和」とは、完全な状態を意味する言葉。つまり、平和とは、人と人との完全な状態、人と人との理想的な関係を意味します。

 戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険がない状態。命の危険がない状態だけでなく、人と人との間に、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、などが無い状態。むしろ、愛があり、喜びがあり、平安、寛容、親切、善意、誠実がある。悪がない状態というだけではなく、善がある状態。それが平和であるということです。


このように聖書が教える意味での「平和」を考えると、平和であるということが実に難しいと思います。私たちの毎日が、平和から程遠いと、ますます感じます。一般に平和であるという状態。戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険が身近にはないという状態だとしても、私たちの毎日の歩みの中に、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみが、入り込んでくる。一般的には、今の日本は平和な国と言えると思いますが、聖書の言う平和で考えるとどうなるのか。むしろ、日本は、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみが溢れかえっていると言えるかもしれません。

私たちの日々の生活では、平和をつくるどころか、平和を乱さない。平和を壊さない。それだけでも、なかなか出来ないものです。憤らない。ねたまない。人の陰口を言わない。仲違いや争いに加担しない。そのような一日が、私たちの一週間でどれだけあるでしょうか。

 しかも、キリストが言うのは、「平和を乱さない者は幸いです」ではありませんでした。「平和をつくる者が幸い」なのでした。

陰口をしている会話に加わらないというだけでなく、その陰口が愛のある話に変わるように努めること。争いは好まないと傍観しているのではなく、争っている人がいるならば、身を乗り出して、割り込んで、争いを治める者となる。それが、平和をつくる者の姿と言えます。私たちの家族の間に、教会員の間に、私たちの学校、職場に、私たちの友人・知人の間に、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実があるようにする。そのような関係をつくる者。それが、平和をつくる者でした。


そして、誰がそのような平和をつくる者となるのかと言えば、イエス・キリストを信じる者が、平和をつくる者となるのでした。平和からかけ離れたと思えるこの世界に住む私たちに、キリストは言うのです。「いいですか。平和をつくるものが、幸いなのですよ。」「キリストを信じるあなたこそ、平和をつくる者なのですよ。」と。


 世界を平和にするために、多くの人が色々な方法で労しています。政治、経済、教育、医療。様々な分野で、この世界を良いものとするために、多くの人が力を使っています。そして、そのような働きは、非常に貴いもの。私たちは、世界をより良いものにしよと労している方々の働きによって、守られ、助けられています。

 しかし、真の意味で平和をつくるのに、政治、経済、教育、医療をより良いものにすれば良いのかと言えば、それだけではない。真の意味で平和をつくることが出来るのは、キリストを信じる者。キリストを信じる私たちが、その働きを担うのだと教えられる。世界の平和のカギは、キリストを信じる私たちなのだと言われる。

神様の、私たちに対する期待は、なんと大きいのでしょうか。皆さまは、このような聖書の教えを、どのように思われるでしょうか。平和をつくるという、とてつもない大事業をなすのは、他でもない、キリストを信じたあなたなのだというメッセージを、どのように受け取るでしょうか。


 さて、キリストを信じる者が平和をつくるのだとして、それでは具体的にはどのようにして平和をつくるのでしょうか。今日は二つの視点で考えたいと思います。

 平和をつくる働き。その第一は、キリストのことを伝えること。まだ真の平和を知らない人に、神との平和を伝える働きです。


 ローマ5章1節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。


 先に確認したように、平和を壊す根本的な原因は、罪です。ですので、平和をつくることは、この罪の問題を解決する必要がある。罪の問題を解決すること。これが、神との平和です。

 敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ。このような思い、行動をどうにも制御出来ない。どうにも解決出来ない。その人にとって最も必要なことは、罪が赦され、罪から解放されること。そのような思い、行動から解放されることです。そして、それが出来るのはキリストのみであり、平和をつくる働きをする私たちは、このキリストを宣べ伝えるのです。

 想像出来るでしょうか。世界中の人がキリストを知り、信じ、神との平和を味わったとしたら、今の世界と全く異なる世界となると思います。私たちは世界中の人が神との平和を持つことを目指します。そして、それぞれ遣わされたところで、キリストを伝える働きをするのです。


 平和をつくる働き。考えたい第二のことは、私と隣人の間に平和をつくること。良い関係、愛し合う関係になるようつとめることです。

 この世界に平和をつくる。そのために私たちが出来ることは、口先で世界平和を願うことではなく、与えられている関係の中で実際に平和をつくることです。遠くの人を愛することは容易く、近くの人を愛することは難しい。世界平和を夢見て終わるのではなく、目の前の人を愛していくこと。平和をつくると働きとは、毎日毎日の生活の中で、地に足をつけた働きと言えます。

 皆さま、自分に与えられている人間関係を思いだして下さい。夫、妻、親、子。友人、知人。上司、部下、同僚。先輩、後輩。その中で、今よくない状態にある。平和な関係、愛し合う関係ではなく、憎しみ、妬み、無関心の状態になっていることはないでしょうか。平和をつくる働きをする私たちは、まず身近なところから平和な関係になるようつとめていくのです。

 キリストは、私たちが平和な関係をもつことを非常に大切なこととして教えていました。


 マタイ5章23節~24節

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。


 祭壇の上に供え物をささげるとは礼拝のことです。ここで言われている兄弟とは、血縁の兄弟だけでなく自分と関係のある人のことです。

 キリストを信じる者にとって、礼拝は非常に大切。しかし、キリストは礼拝の途中であっても、関係が壊れていることを思いだしたら、平和をつくりにいくよう教えています。それほど互いに愛し合う関係、平和であることは大切だと教えられます。

 時に自分としては、なんとか平和な関係を持ちたいと思い、関係修復にあたったとしても、受け入れてもらえないことがあります。それでも、私たちは平和をつくる働きを続けて行く。大変な働きが託されているわけです。

 もう一度お聞きします。自分に与えられている人間関係の中で、このテーマで取り組まないといけない人はいないでしょうか。キリストの言葉に応じて、私たち一同で「私と隣人の間で平和をつくること」に取り組んでいきたいと思います。


 さて、このような平和をつくる者に対する祝福はどのようなものだったでしょうか。

 マタイ5章9節

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。


 平和をつくる者に対する祝福は、「神の子と呼ばれる」というもの。「神の子と呼ばれる。」誰に呼ばれるのか。

神に呼ばれるととるならば、これ以上の祝福はないことのように思います。ひと際輝く祝福。最高最大の祝福。全地の造り主、我らの神に、あなたは神の子だと呼ばれる。わたしの子だと。

キリストを信じる者は、それだけで神の子となる。神の子とされるのでした。しかし、ここで言われているのは、神の子となるだけでなく、神の子と呼ばれるというのです。キリストを信じ、神の子となった者が、その特徴である平和をつくる働きをする時に、たしかにあなたはわたしの子だと呼ばれる。私たち人間にとって、これ以上の祝福はないと思える祝福。それが、平和をつくる者に与えられる祝福でした。


また、これを隣人に呼ばれるととるならば、私たちの姿を通して、神の素晴らしさを表わすことを意味します。あなたのような生き方は見たことがない。「あなたは神の子ですね」と言われる。これまた大きな祝福です。

この神の子という言い方は、ユダヤ人独特の表現方法とも考えられます。ユダヤ人は何々のような人と言う場合、〇〇の子と表現しました。慰めに満ちた人は、慰めの子と呼ばれましたし、気性のあらい人は、雷のような人ではなく、雷の子と呼ばれました。

ですので、神の子というのは、神のような人、あるいは、「神のような働きをする人」という意味です。私たちが平和をつくる時、私たちは人間には出来ないことをしている。神の働きに参与していることになる。それも、呼ばれると言われていますので、私たちの周りにいる人が、あの人は神のような働きをする人だと認めることになる、ということです。

 神の子と呼ばれるという祝福。神から呼ばれるのか。隣人から呼ばれるのか。どちらかだけというのではなく、神様からも、隣人からも「神の子」と呼ばれる祝福として、覚えたいと思います。


 以上、今日は「平和を作る」ことについて、八福の言葉を中心に確認しました。これがキリストを信じた者に与えられる恵み。キリストを信じた者の姿です。

 最後に一つだけ確認して終わりたいと思います。キリストを信じた者は、確かに平和をつくる者となります。キリストを伝えること。愛の関係を築き上げること。そのような働きが託されます。

 しかし、これらの働きは、私たちが自分の力で達成するものとして託されたわけではありません。真の意味で平和をつくる。これはとてつもない働きであり、とても人間の力で出来るものではない。まさに神業です。キリストを信じたあなたには、平和をつくる働きが託されています。それだけ言われますと、尻込みします。いや無理です。この働きは、平和の神とともに行う。神様を信頼しての働きなのだと覚えたいと思います。

 二千年年前。パウロの祈り。この祈りを互いに祈り、励まし合いながら、平和をつくる働きをしていきたいと思います。


 第二テサロニケ3章16節

どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。

2018年8月12日日曜日

一書説教(47)「第二コリント書~宝を土の器に~」


 私たちは人と会話する時、初めて会う人、関係が深くない人とは丁寧にします。相手の言いたいことは何か。自分の言いたいことは伝わっているか。確認しながら話を進めます。よく知っている人、関係が深い人とは、言葉が簡単になります。丁寧に話さなくても、それまでの関係から何を言いたいのか、お互いに分かるようになる。家族、夫婦の間であれば、「そこの、あれを取って」という言葉でも、何を取って欲しいのか通じる場合があります。そのため、関係の深い人たちの会話を、第三者の立場で聞くと、理解するのは難しいものです。それまでの関係に基づいて話されているので、背景を知らない人がその会話を理解しようとすると、多くの推測をすることになります。

 手紙でも同様です。まだ会ったことのない人、関係が深くない人に宛てて書かれた手紙の場合。第三者でも、その内容は理解しやすいもの。しかし深い関係がある中で記された手紙。また何往復もしている手紙を途中から読み、その中身を理解するのは難しいものです。

 新約聖書には多くの手紙が含まれています。二十七の書のうち、何と二十一が手紙。個人に宛てた手紙もあれば、教会宛ての手紙もあります。教会宛ての手紙の中には、一つの教会に宛てた手紙もあれば、複数の教会、つまり多くの人に読んでもらうことを前提にして書かれた手紙もあります。

一つの教会に宛てた手紙にも、色々とあります。「ローマ人への手紙」は、著者パウロがまだ行ったことのない教会に宛てた手紙。著者が送り先の教会と関係が深くない中で書かれた。そのため、自分のこと、自分の信じていること、自分の伝えたいことが丁寧に記された書で、このような意味で、ローマ人の手紙は比較的読みやすいものです。「コリント人への手紙」は、著者パウロと、コリント教会は関係が深く、実際の行き来も、手紙のやりとりも何度もされている。そのため、背景を知らずに読むと、理解しづらい、読みにくいと感じられる書となっています。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り八回目。コリント人への手紙第二となります。大牧師、大宣教師、大神学者であったパウロによる手紙。お伝えしましたように、背景を知らないと理解することが難しい書。しかし、背景を知って読むと実に面白い書。パウロとコリントの教会がどのような関係だったのか。パウロとは、どのような人なのか。このような手紙を通して、神様は私たちに何を教えようとされているのか。考えながら読み進めたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 背景を知らないと読みづらい書。そこで、コリントの教会とパウロの関係を、少し丁寧に確認したいと思います。使徒の働きでは、パウロが最初にコリントを訪れた時の記録が十八章に出てきます。第二次伝道旅行と言われる度の後半です。通常、パウロは新しい町に行くと、まずはその町にいるユダヤ人にキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人が、キリストを受け入れないと、異邦人に専念する。コリントでも同様で、まずは主にユダヤ人たちに語り、拒絶が大きくなると、異邦人への宣教に専念するようになります。このコリントでの伝道の際、神様がパウロを励ました有名な言葉が記録されています。

 使徒18章10節~11節

「『わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。


 神様の言葉に励まされて、パウロは一年半もの期間、教会開拓に取り組み、その結果建て上げられたのがコリントの教会でした。コリントでの一年半の伝道、教会形成を終えたパウロは、エペソ、エルサレムを経由し、派遣元のアンティオキア教会へ戻り、第二次伝道旅行が終わりとなります。

 その後、第三次伝道旅行に取り組むことにしたパウロは、まずエペソに行きます。このエペソでの伝道、教会形成は足掛け三年にも渡る期間。パウロにしては、実に長い間、エペソに滞在します。そして、このエペソにいる時に、パウロとコリントの教会で、様々なやりとりがなされていました。

 まず、手紙のやりとりがあったことが分かります。コリントの教会からパウロに対しての手紙(Ⅰコリント7章1節など)もあれば、パウロからコリントの教会への手紙もありました。「パウロからコリント教会への手紙」。私たちは聖書の中に、第一、第二と二つの手紙を読むことが出来ますが、実際にパウロが書いたのはもっと多かったことが分かっています。

 Ⅰコリント5章9節

私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。


 ここに記された「前の手紙」は、失われたもの。つまりパウロが教会へ宛てて書いたものが、全て聖書として残っているわけではないのです。(パウロがコリント教会へ宛てて書いた手紙がどれ位あったのか正確には分かりませんが、多くの人が四つ以上と考えています。)


手紙だけでなく人の交流もあり、コリントの教会からパウロのもとへ訪問客も来ていました。(Ⅰコリント16章17節、Ⅰコリント1章11節)パウロが、コリントの教会へテモテを送ること(Ⅰコリント4章17節)、テトスやその他の人たちを送ることもありました。(Ⅱコリント8章18節)。使徒の働きからは、パウロは計二回、コリントの教会へ行っていますが、手紙によるとパウロは三回コリント教会に行っていることが分かります。

 Ⅱコリント13章1節

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。


 テモテやテトスを送っただけでなく、(使徒の働きには記されていない)パウロ自身によるコリント教会の訪問もあった。他の教会と比べて、パウロとコリントの教会はよく交流していたことが分かります。

 なぜ、パウロはコリント教会と頻繁に関わりを持つことになったのか。一つの理由は、コリントの教会に多くの問題があり、その問題を解決するためです。もう一つの理由は、パウロとコリントの教会の一部の人たちと関係が良くなかった。緊張関係があり、それを何とかしたいと考えたからです。いくつか確認すると、

 Ⅰコリント4章18節~19節

あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。

 Ⅰコリント9章3節~4節

私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。


 「思いあがっている人たち」とか「私をさばく人たち」と、強い表現が使われています。第一コリントの手紙を書く段階で、それなりに緊張関係があったことが分かります。

 パウロ自身による伝道、教会形成によって建てられたコリント教会。様々な問題を抱え、緊張関係にある人もいる。人を送り、手紙を送り、自分自身も行き、何とかコリント教会を良い状態にしようと取り組んできたパウロ。そのパウロが三度目の訪問(第三次伝道旅行の終盤、使徒の働き20章3節)を前に記したのが、このコリント人への手紙第二という書です。


 さて、それではこの手紙を書く段階で、コリントの教会はどのような問題を抱えていたのでしょうか。パウロとコリント教会の関係はどのようなものだったでしょうか。手紙から分かるのは、コリント教会に新たに起こった問題は、「偽使徒」に関する問題。そして、パウロとコリント教会の関係は、より深刻になっている印象です。

 Ⅱコリント11章4節、13節

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。


 もともと、コリント教会の一部の人たちとパウロは緊張関係にありました。そこに、大使徒を自称し(Ⅱコリント11章5節)、話し方は雄弁(Ⅱコリント11章6節)、その振る舞いによって自分自身を偉大な者と思わせることが出来る(Ⅱコリント11章20節)者が現れます。結果、パウロは「顔を合わせている時はおとなしいのに、離れていると強気になる人」(Ⅱコリント10章1節)、「手紙は重みがあるが、会うと弱々しく、話は大したことない。」(Ⅱコリント10章10節)と攻撃されたようです。

 様々な問題を抱えていたコリント教会。パウロからすれば、緊張関係があり、さらに偽使徒が現れ、自分と教会を引き離そうとしている。この状況で、手紙によって、自分の伝えた福音に引き戻す必要がある。非常に難しい状況だと思います。果たして何を、どのように書いたら良いのか。


 この問題にパウロはどのように解決を与えようとしたのか。偽使徒たちが語ったとされる「別のイエス」や「異なった福音」について、それがいかに間違った教えであるか。手紙の中で、具体的にその間違いは指摘されていません。それよりも、話し方が雄弁であるとか、偉大な者であるかのように振る舞うことが出来る。語られている内容でははく、語り方に魅かれたコリント教会の姿勢を正そうとします。教会が、伝えるべき福音よりも、いかに伝えるかに集中する時。キリストよりも、伝える人自身に注目する時。それ自体が、教会の問題となる。「異なった福音」に陥る危険があると言う指摘。


 伝えるべき福音よりも、いかに伝えるかに集中している。キリストよりも、伝える人自身に注目している。その問題を抱えたコリント教会に、福音を伝えるとはどのようなことか。福音に仕えるとはどういうことか。伝える者も、伝えられる者も、キリストに注目するとはどのようなことなのか。これがこの手紙のテーマです。

 パウロはこのテーマについて、様々な視点、様々な表現で語りますが、特に大事にしているのは、「弱さを誇る」という視点です。

 手紙の後半に、パウロが自分のことを誇るという有名な箇所があります。ここは非常に面白いところで、パウロが、自分で誇ると言い出しながら、誇ることを嫌がるのです。まるで、誰かに自慢話をするよう強制されているかのように、本当は嫌なことだけど、しょうがなくするという雰囲気。繰り返し言い訳めいたものを言いながら、話し始める。面白いところなので、少し確認しますと、

 Ⅱコリント11章1節

私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。

 Ⅱコリント11章17節~18節

これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。

 Ⅱコリント11章21節b

何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私はおろかになって言いますが、私もあえて誇りましょう。


 こうして、やっと話し始めた自慢話ですが、すぐに数々の悲劇を数え挙げる、奇妙な自慢話になります。(Ⅱコリント11章22節~30節)雄弁さを誇った偽使徒に対して、苦しみの数々を通して労してきたことを誇ったと言えるでしょうか。様々な労苦を語った後で、一度、次のようにまとめます。

 Ⅱコリント11章30節

もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。


 しかし、続いてもう一度、自分を誇ると言い出し、今度は本当に誇りと思うことを話すのです。このあたりが、この手紙の分かりづらいところであり、面白いところ。パウロの気持ちが二転三転しているように読めるのです。それでは何を誇ったのかと言えば、パウロが経験した神秘的な体験。天に引き上げられ、天の声を聴いたというのです。たしかにこれは、自慢話になりうる。このような体験を誇ることで、自分は特別な者、偉大な者と思わせることが出来る。ところが、パウロはこの話をした途端に、また弱さを誇ると言い始めるのです。

 Ⅱコリント12章7節~10節

その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」


 結局、弱さを誇る。この信仰の姿勢を保ち続けるパウロの姿が印象的です。福音を伝えるとはどのようなことか。福音に仕えるとはどういうことか。伝える者も、伝えられる者も、キリストに注目するとはどのようなことなのか。様々な答え方をすることが出来ますが、この書におけるパウロの思いをまとめると、「弱さを誇る」ことに集約されているように読めるのです。

 なぜ「弱さを誇る」ことが福音を伝える上で重要なのか。なぜ「弱さを誇る」ことが、キリストに注目することにつながるのか。次の言葉によくまとめられていると思います。

 Ⅱコリント4章6節~7節

『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。


 福音という宝は、土の器の中に入れられた。ここで言う、土の器とは、弱さの象徴です。なぜ、弱さの中に福音という宝は入れられたのか。それは、そもそもキリストを信じることの入り口が、自分の弱さを認めることにあるから。私は弱く、自分で自分を救うことが出来ない。自分で自分を変えることも出来ない。そのように弱さを認めた者が、福音という宝を手にすることが出来るのです。

また、弱いからこそ、その力が神のものであることが明らかになるという意味もあります。人の弱さが、神様の力を示す重要な舞台となる。キリストの力が大いに示されるために、自分の弱さを誇る。


 以上、コリント人への手紙第二でした。是非とも、福音を伝えるとはどのようなことなのか。キリストに注目するとはどのようなことなのか。いかに伝えるべきか考えるとしたら、何を意識したら良いのか。考えながら、この手紙を読み通して頂きたいと思います。

 そして、自分自身の信仰の姿勢はどのようなものか、顧みたいと思います。「キリストが私のために何をされたのか」よりも、「私が何をしたいか」に焦点が向いていないか。神様は、私を弱さの中から救って下さったことは分かっている。しかし、弱さの中で、豊かに生かして下さっていることを無視していないか。「弱さを誇る」という信仰生活。より私たちが使う言葉で言えば、「弱さを認める」「弱さを受け入れる」「弱さを許す」信仰生活と言えば良いでしょうか。神様の前で弱くなり、人の前でも自分の弱さを示すことが出来る。それこそ、神の民にふさわしい。私たちにふさわしい歩みであることを覚え、「弱さを誇る」歩みを送りたいと思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...