ラベル ジョセフ・コンドン宣教師 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ジョセフ・コンドン宣教師 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年12月9日日曜日

アドベント「神の求めるもの」ヨハネ1:1~5


皆さん、クリスマスの時期が好きでしょうか。私自身は本当に大好きですね。遠くから来る親戚と一緒に集まったり、プレゼント交換したり、クリスマスの曲を歌ったり、イエス様の誕生の話を聞けたりする時なので、ものすごい貴重な時だと思います。一年中楽しみにしているでしょう。

 しかしながら、皆様が私の場合のように、クリスマスはそんなに特別な季節ではないと感じる時もあります。毎年毎年、時間が経つにつれて私たちの心が暗くなる危険があるのではないかと思います。そうなると、どうすればいいでしょうか。アドベントはイエス様の誕生を覚える機会として貴重な時なのに、たまに祝いたくない気持ちがあるでしょう。神様に近寄る気がないでしょう。クリスマスってイエス様と非常に親しく歩む時ですけど、正直に言えば、闇の中にいるんじゃないかと毎日感じていますと。

 その距離は時々うちの妻との関係でも覚えます。この間、妻と喧嘩になって、もうしばらく仲直りはしたくない、話したくないとの態度をとってしまいました。おそらく、私たちだけかもしれませんが、一緒に時間を過ごすのは難しい、謝りたいけど、何も言えないとの状態でした。クリスチャン生活の中には、神様との関係でも、同じ現象は珍しくないでしょう。クリスマスの時には闇の中に一人で居たい、神様以外はなんでも求めるが、神様を仰ぐことが難しい人は居るでしょうか。このような時、まさにクリスマスの真実が最も良い治療なのです。こんな時でも、イエス様は私たちを全く諦めません。今日の箇所はちょうどそのテーマです。私たちは神様のそばから逃げる傾向があるのに、神様は私たちを絶対に見捨てません。


 まず初めに、ヨハネ1章でイエス様はご自身を表してくださることが確認できます。「ことば」として、「神」として、そして「創造主」として、イエス様が世界に表されました

 普通は、聖書の書の初めの数節でその著者は全体的に何を言いたいかに触れています。ヨハネの福音書もその通りです。ですが、マタイとルカとちょっと違い、イエス様の誕生から始めず、ヨハネはもうちょっと神学的に、全般的な話から始めます。ヨハネの福音書は、旧約聖書創世記の最初のできごとよりも、前のことから始まります。ヨハネ1章1節です。


「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」


 この「ことば」というのはイエス自身です。天と地が創造された前、イエスは神様と共にありました。四つの福音書の中では、ヨハネの福音書は歴史的に一番最後に書かれました。一世紀の後半に書かれて、他の福音書とは、書かれた目的も聞き手もちょっと違います。例えば、マタイはユダヤ人へ書いたので、マタイの福音書は「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」から始まります。ヨハネはもっと広い世界の人々のために、ギリシヤ世界のために記していたので、もっと根本的な時から始めます。イエス様の重要さを理解してもらうため、哲学界からとった(ロゴス)「ことば」と名付けました。

 古代ギリシャの哲学者のプラトンやアリストテレスなどにとっては「ロゴス」というのは宇宙の秩序と最高の目的という意味でした。当時の世界観と関連させるために、著者のヨハネはイエス様を紹介する時、「ことば」と呼んだのです。旧約聖書にも神様の出来事を語る時、「ことば」と言う手段を使う時もあります。[1]   神様は一番効果的な方法で私たちとコミュニケーションをとりたいといことが明らかです。人間も自分のことばで、自分を表します。イエス様が神様の「ことば」であるならば、神様に興味があるならば、イエス様を見るだけで、すぐ分かることができます。

 続いて、「ことば」として表すだけでなく、「神」として表してくださいました。神様は永遠の昔から存在していました。始まりも終わりもない、時間も造った神様です。イエス様もその時に、神様とともにいました。


「この方は、初めに神とともにおられた。」(2節)


永遠の昔から、神様と一緒にいるからこそ、この方も「神」であることが明らかです。創世記1章を見ますと、「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と神様は言われす。皆様が見ているように、神様は一人で造ることはしませんでした。イエス様、ヨハネ1章の「ことば」と一緒に創造されました。ヨハネの福音書1章と創世記1章を一緒に見ますと、三位一体という教理の証拠が見られると思います。イエス様はこう言いました「わたしを見た人は、父を見たのです。」[2]

 旧約聖書の時代、モーセとか預言者を代弁者として、神様は民へご自分のことばを語りました。神様と民とは離れていたため、神様は民に直接語りませんでした。だが、現代は違います。イエス様の登場から、信じられないほど親しい方法でご自分のことばを私たちに言ってくださいます。[3] 新約聖書の時代から、代弁者なしに、神様、ことばが人となって私たちとともにおられました。人となったからこそ、私たちの状況、痛み、戦い、日常の詳細は全て知っておられます。

 先日インターネットである調査の結果を見てびっくりしました。その調査は一つの質問だけでした。「神様が創造したものの中で、初めて創造されたのはイエスだった。賛成か、反対か」という調査でした。4分の3は賛成だと。しかし、3節はこうです。


「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、

この方によらずにできたものは一つもなかった。」節)


分かるでしょうか。イエス様は被造物ではなく、かえって創造主なのです。[4]  イエス様はこの世界を創造したからこそ、この壊れた世界を治す力が確かにあります。イエス様によらず、何も造られなかった。イエス様によらずこの世界の一つも治らない。この真実を理解すれば、イエス様の力も、栄光も、私たちをいやすものに見えるでしょう。

 何でもできるお方、何でも知っているお方と一緒にいると安心するでしょう、力強いでしょう。小学3年生の時から一人の親友がいます。エリックさんというアメリカ人です。小学校のころからすごい賢くて、エリックは名門の大学にいって、今弁護士として働いています。日本に来る前の頃でしたが、私と弟二人とエリックさんは四人のチームで地方のトリビア大会に毎週の水曜日に出ていました。私と弟たちはまあまあトロイのですけど、エリックは何のテーマでもそのトリビアの答えのことばは知っています。時々、残業でエリックは行けなかった日もあったけど、その日は絶対負ける。しかし、エリックさえ一緒にいれば、他のチームを負かすのはお茶の子さいさいでした。

 エリックのそばにいると安心できる、ましてイエスと一緒にいれば安心できます。私と弟たちは自分の分担を十分果たす事は出来なかったけれど、エリックさんはそれを気にせず、親友だから喜んで手伝ってくれました。イエス様もそうでしょう。この世界の全てを理解して、全てを支配できる、全てを知っておられます。私たちを愛しているから、安心ができます。神だから、私たちを造ってくださり、私たちの家族を造ってくださり、このイエス様が知らないことは、この世界に何も起こりません。このイエス様はビックリすることも、心配することありません。その上、このお方は私たちとともにいるために来てくださいました。安心できるでしょう。イエス様に近寄りましょう。


 でも、イエス様はご自分を表すことのみならず、私たちのために戦っています。4節、5節を見て、「いのち」と「光」として私たちのために戦ってくださっていることが確信できます。


「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)


 イエスにはいのちはありますが、これはどのようないのちでしょうか。「人の光」なので、全世界のために輝いています。普遍的な規模で輝いています。世界の全てを創造されたので、全てのいのちはイエス様から来るものです。聖霊的ないのちで、非常に豊かないのちです。このいのちにおける喜びは別のところには見つかりません。イエス様のみを通して得ることができます。ヨハネによると、イエス様は人類の光の一つだと言っていなくて、たった一つの光なのです。20章31節には、ヨハネは福音書の目的を語っています。「 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

 いのちって新約聖書の元々の言語のギリシャ語でいうと「ゾエー」です。長女の名前はゾイですけど、この「いのち、ゾエー」から名付けました。ゾイが、イエス様から永遠のいのち、豊かないのちを得られますようにと、生まれた時に祈りました。

 うちの父親は電球を売る会社をやっています。建築業者や他の業者と協力して、新しい建物の電気を備える仕事です。父はいつも行ったことのない部屋に入ると、そこの電気の十分さと明るさを、ごく自然に計っています。私が子供の頃、自分の部屋で本を読んでいて、父が入ってきて、光の十分さがないところで読むのがバレて、叱られました。だから、光の大切さは幼い頃からよく分かりました。五節はこうです。


「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」


 もう一度、ヨハネは創世記と関連づけています。創世記1章3節はこうです「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」。神様が天と地を創造したように、イエス様は世の光を通して、この創造を癒すために遣わされました。

 光は何のためでしょうか。光が輝くと、身体が暖かくなったりします。迷ったら、光が道を示してくれます。光があるところでは、いのちが促されています。イエス様はこう言われました。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」[5]  なのに、不思議なことに、私たちは闇の中に残る傾向があります。

 先週山崎先生がおっしゃった通り、この闇は神様のことばに従わないこと、預言者の警告を聞かないことなのです。現代の私たちも同じ誘惑と戦っています。聖書にはこう書いてあります。「悟る者はいない。神を求める者はいない。」[6]  それから、イエス自身によりますと「光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」 [7]

 そこで、私たちの問題は思っていたより大きいかも知れません。愛を持ってイエス様は私たちを創造したのに、イエス様を喜ばない、自分がやりたいことしかやりません。重要な第一の戒めは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」[8]なんだけど、私のようであれば、しばしばいのちを尽くして自分だけを愛しています。これが闇なのです。自分にとっては赦しが必要ないと思うとしたら、自分の心を詳しく知らない、もしくは神様の光を、その人は知らないと思います。

 だからこそ、私たちの外から来る救い主が必要でしょう。この闇に打ち勝つのはたった一人、イエス様のみです。なので、クリスマスが必要です。イエス様は私たちのために闇と戦って、完全な勝利を遂げました。闇の中に、私たちを見捨てませんでした。誰一人として、神様を求めないのですが、神様の方が私たちを求めました。そうして、この光は人となって、私たちと一緒にいる神様、インマヌエルと呼ばれました。なぜかというと、神様は私たちを愛してくださいました。「あなたたちが神様の大好物ですよ。」クリスマスはちょうどその証拠なのです。

 不思議なことに、イエス様以外のものを求めるこの世の流れがあるでしょう。イエス様以外の、「いのち」と「光」のないものを信頼しようとしているでしょう。例えば、もし新しい家を建てれば、もし結婚すれば、もし昇進すれば、もし子供たちがいい成績取れれば、それで必ず幸せになるというふうに思うでしょうか。そのようなものは、別に悪い訳ではないのですが、それぞれのものにはいのちを与える力が全くありません。そのようなものは、イエス様と違います。イエス様は皆様のありのままで愛しています。罪だらけ、失敗だらけ、ありのままあなたたちを求めています。クリスマスというのは、その求めの重要な印なのです。


 神様を求めるものは一人もいないのですが、イエス様を通して神様のほうは熱心を持って私たちを求めています。私たちは自分で自分の欠点を直すことができれば、クリスマスは必要じゃなくなります。しかし、欠点だらけ、恥いっぱいで、恐怖いっぱいで、孤独感を覚えている状態の中の私たちのために、イエスは闇を滅ぼしに来てくださいました。今の状態の私たちを求めてくださいます。

 それは、他の宗教の教えとどう違うのかを考えてみてください。皆様は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という話を知っているでしょうか。ある日、御釈迦様は池の側で独りでぶらぶら歩いています。水の面を蔽っている蓮の葉の間を見て、その下には地獄の闇の中にいるカンダタという男が一人いました。出来るなら、その男を闇から救い出してやろうと考えました。御釈迦様は蜘蛛の糸をとって、カンダタを救うために闇の底へ下ろしました。

 カンダタはこの糸を見ると、思わず手を打って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでも登って行けば、きっと闇から抜け出せるのに違いないと考えました。こう思いながら、早くその蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐり登り始めました。「しめた!しめた!」と笑いました。ところが、ふと気がつくと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが自分の登った後をつけて、やはり上へ上へ一心によじ登って来るではないか。

 そこでカンダタは大きな声を出して「これ、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ。」と喚きました。その瞬間に、糸がぷつりと切れて、カンダタと他の罪人はまた闇に中に落ちてしまいました。御釈迦様はこのシーンを見て、悲しそうな顔をしながら、またぶらぶら歩き始めました。

 私たちみんな、カンダタのように闇の中にいて、自分のことばかり考えて、自分で自分を救うことはできません。しかし、私たちのイエス様は御釈迦様と全然違います。イエス様は私たちのプライド、私たちの自己中心、私たちの罪の全てを見て、闇の外にある安全なところにいるのではなく、闇の中に飛び込みました。私たちのためにイエス様は闇とされました。その闇はイエス様の光に打ち勝たなかった。十字架で私たちの一番大きな敵、罪、死、サタンを滅ぼしてくださいました。

 だから、このイエス様に近づきましょう。人は闇を愛しているのに、神様は私たちを求めています。私たちを救うためにイエス様はこの闇に来てくださいました。今年のクリスマス、自分で自分を癒すことをやめて、この真実を理解しましょう。イエス様の真実によよって、慰め、励ましを受け取りましょう。


2018年10月7日日曜日

ガラテヤ(4)「福音の真理に歩む」ガラテヤ2:11~21


世界宣教の中には様々な活動、様々な歩みがあります。宣教師の一人の友達はきれいな飲み水を確保できない国に行って、井戸を掘る活動をしています。ある時、東アフリカのある国に行って、ある村の人々のために新しい新鮮な水の井戸を掘りました。次の朝家を出て、とても驚くことに、その村の子供達は井戸の水を飲まずに、道の水たまりから飲んでいることを見てがっかりしました。道にはゴミが散らばり、人間や動物の汚物もあるので、その水を飲んで色んな病気をもらう恐れがあります。井戸がられたことを知っていたのに、道の水たまりから飲むことに慣れていました。きれいな水が与えられたのに、そこから飲むことは今までの生活習慣でなかったので、新しい井戸を恐るということでした。


 この話を聞いて胸が痛むかも知れないんですが、私たちクリスチャンは毎日同じ誘惑と戦っていると思います。信仰の歩みの中にイエス様を通して、新しい命の水が与えられたのに、それをもらう前の生活に戻るきらいがあります。つまり、救いを得るために、神様の恵にではなく、自分自身の良い行いに頼ることに戻る誘惑です。例えば、良い行いをすれば神様がますます愛してくださるというふうに考えたりします。さらにまた、他人に対しても、認めるかどうか相手の良い行いによることとなります。 聞いてわかるように、イエス様を信じるのみでは、十分ではないと恐れています。こういう恐れは、他の人との関係も、神様との関係をも滅ぼす危険があります。しかし、今日の箇所を読んで、この問題の対策の一つは福音の真理に向かって歩むことだということが明らかです。この対策はどのようなことかというと、主に二つの方法に分かれます。すなわち、偽善者にならないことと、律法に死ぬことです。 


 まず、今日の箇所で、使徒パウロは自分の教え、自分の福音、自分の権利について言い切っています。何故ならば、数年前、ガラテヤの諸教会を開拓したんですけど、皆さんが覚えている通り、偽りの教師はその教会に行って、別の教えを伝えていました。パウロはもちろんガラテヤ人を愛していて、偽りの教えから守るために、この手紙を送りました。使徒パウロは、自分教え、唯一福音だということを証明するために、ペテロについてこの話を語ります。(この箇所ではケファと呼ばれていますが、ギリシヤ語の名前はペテロ。)クリスチャンたちが偽善者にならないため、この話をします。

 いつか、はっきり言えないのですが、教会が幼い頃でした。アンティオキアにある教会でペテロは異邦人のクリスチャンと一緒にすごく親しい交わりを喜んでいました。使徒の働き10章によるペテロは、もし誰かがキリストを救い主として信じていれば、ユダヤのクリスチャンと異邦人のクリスチャンに、何の差別もないことを経験しました。それに従って、ペテロはユダヤ教のクリスチャンであるのに、アンティオキアの異邦人のクリスチャンと一緒に礼拝に出て、聖餐式をいただいて、差別なしに教会活動をしました。

 しかし、エルサレムから割礼派という偽教師がアンティオキア教会に行くと、ペテロは彼らを恐れて異邦人から身を引き、離れました。この割礼派の偽教師によると、ユダヤ教のクリスチャンと異邦人のクリスチャン交わりをすることは全くダメでした。何故かというと、異邦人のクリスチャンは割礼や他の儀式律法に従わなかったので、本当に救われていないと考えていました。驚くこと、ペテロはその偽教師を怒らせないため、神様の声を忘れて、異邦人から離れました。

 それで、パウロからするとペテロの行為は非難すべきことでした。ペテロは偽善者のような真似をしていました。つまり、心の中信じていたことと、手でやったことの間に、大きな矛盾がありました。「異邦人とユダヤ人のクリスチャンのに差別はありません」ということを神様から直接受け入れたのに、アンティオキア教会でこのメッセージに従わない行動をとってしまいました。パウロとペテロ、二人ともイエス様の使徒であったのに、何故このケースでパウロは皆の前でペテロに強く抗議したのでしょうか。三つの理由があると思います。



 一、バルナバもペテロのように異邦人から離れました(13節)。教会の中には一人の偽善者がいれば、その影響でより多くの人々も迷わせる可能性があります。

 二、教会に偽善者がいれば、大きな混乱が生じます。聖書は一体何を教えているのか。本当の福音はどういうことなのか、などの疑問出たりします。もし、パウロペテロの行為抗議しなかったら、世界中教会の教えは明らかにならなかったのかなと思います。

 三、ペテロは偽善者の行為をして、そうしたことでキリストの犠牲の十分さを否定しました。「律法を行うことによっては義と認められない」のですが、ペテロの行為はそうではないということでした(16節)。14節によりますと、この偽善者の行為は「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないの」です。この行動はどれぐらい危ないかというと、パウロペテロ抗議する程でした。恐らく、パウロ何も言わなかったら、現代の私たちは本当の福音を理解できる機会はなかったかも知れません。


 先々週の土曜日は長女の運動会でした。しかし、その日大雨で中止となり、日曜日に開催することになりました。安息日の大切さを守る気持ちもありましたし、長女はずっと前から運動会のために備えてました。私と妻、どうすればいいか迷ってしまいました。運動会に行くべきか、教会に行くべきか、神様どちらでしょうか」と祈りました。多分、その日教会に来て誰出席したのか、誰が欠席したのかを気にする人が恐らくいるでしょう。こういう問題について自分と違う態度をとる人に対し、私たちは批判的に考える傾向があります。偽善者になる危険もあります。

 パウロによると、安息日に何をすべきかについて、ある程度自由さがあります(例:コロサイ2章16節)。しかし、一つはっきり言えるのは、他のクリスチャンに対して律法を行うことによって救われるような態度で接しないことです。偽善者にならないことです。それは、本当の福音を否定するようなことです。私たちは、自分自身にとってイエス様を信じることのみ十分ではないと恐れると自分の行いに頼るしかありません。他の人も行いによって非難するしかないでしょう。しかし、イエス様の犠牲は十分であることをわかったら、自分神様から憐れみを受けたので、他の人を憐れむことができるようになります。


 続きまして、福音の真理に歩むことは、人間関係に影響を与えるだけではなく、神様との関係とも繋がっています。16節から21節を見れば、「律法に死ぬこと」の大切さがわかると思います。どのようなことかを説明するため、三つのポイントを中心にして見ていきたいのです。        

 一、「律法に死ぬこと」というのは、キリストを信じるだけで完全に義と認められることに安心するという意味です。旧約時代のモーセの時から、ユダヤ人は神様から律法が与えられました。パウロもペテロもユダヤ人だったのに、律法に従うことで救われる人は一人もいないことは知っていました。ユダヤ人もユダヤ人じゃない人も救われる道は一緒です。つまり、律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められます(16節)。

 当時、割礼派の偽教師は律法の役割を誤解したのです。神様の律法というのは、救われるための方法ではなく、救い主イエス・キリストの必要性、私たちに見せてくれる手段なのです。17節で、パウロは偽教師の一つの訴え答えています。彼らが言っていたのは、キリストを中心するとは、律法を捨てると同じだということです。律法を捨て勧めるとしたら、キリスト自身も罪に仕える人となる、と彼らは言いました。しかし、パウロはそう言っていないのです。パウロの考え方としては、律法そのものを見捨てることではなく、罪人を救う手段としないことだけ勧めています。

 二、「律法に死ぬこと」は信仰によって救われた人々、律法に戻らないことです律法をわれる手段としないことは、パウロによると、律法を打ち壊す事です。但し、打ち壊した、また律法によって救われようと行動するなら、自分が違反者であると証明することになるのです(18節)。私たちは、「天は自ら助くる者を助く」と言う教えを信じる誘惑が強いのですが、


これはイエス様の福音と全然違います。神の救いは進行中のものではないのです。クリスチャン神様に受け入れられた理由は、自分自身の服従によるものではなくて、イエス様の完全な犠牲によります。

 三、「律法に死ぬこと」は、キリストが私たちのうちに生きておられることです。20節はこう語ります「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」これは非常に個人的な関係です。仮に、神の御子は世界中の人々のためにご自分を与えたとは言えるとしても「私のために」「この私を愛して、この私のために死んでくださった」と言えるでしょうか。あなたがたのうちにはキリストが生きておられますか。

 このことについては、言うなれば「義認」ということです。日常会話の中に「義認」や「義」ということはあんまり言わないんですが、神様の働きを理解するためにものすごく重大な聖書の教えなのです義認とは私たちが罪あるままで、神様に義と認められること、イエス様のように義しい者として受け入れられることです。

義と認められることは、神の子とされることと一緒です。どういう子であるかというと、世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選び、私たちに神の子としての身分を与えられたのです。この全ての例を見れば、全ての働きは神様のものだとわかると思います。救いにおいて、私たちがやることは全くゼロです。

 全ての人間は先天的に、神様の目から見て、自分正しい人間と思われたい願う傾向があります。しかし、もし主イエス・キリストの名前を呼び求めれば、すべての人は、もうすでに自分が神様から完全にされていることを確信できます。パウロペテロを強く責のは、この福音の真理が危うくなるからでした。神様の敵であった私たちが、イエスの死によって神様と和解させていただきました。神様は私たちが律法に従うまで待たなくて、私たちが一生懸命に良い行いをするまで待ちませんでした。罪人であった時にも私たちのことを愛して、ご自分を与えてくださいました。なので、パウロのように律法に死ぬべきです。そうしないと、神の恵みを無にすることになります(22節)。

 自分自身にとってイエス様のみでは十分ではないと恐れると、自分の行いに頼るしかありません。そうならば、自分の罪を隠すしかない、神様は本当に自分のことを愛しているかどうか疑問が生じます。キリストと離れていると感じると、自分がやっていることは十分ではないのではないかという気持ちになります。

しかし、パウロのように律法に死ねば、この状態は変わります。そうすると、自分の罪を自由に他の人にも、神様にも告白できるようになりますし、聖霊様の助けがないと神と人を愛する人になれないと認めることができるようになります。律法に死ねば、イエス様に対して個人的な愛溢れるようになります。


 それでは、まとめとして、ニュースで聞いた話を伝えたいと思います。ダ二エルさんはルーマニアの孤児院で生まれ育ちました。その孤児院は資源が限られていたので、その子供たちはベビーベッドから出られず、外にも出かけられず、誰にも愛されずに育ちました。しかし、7歳の時にアメリカ人の夫婦に養われることになり、ダ二エルさんはオハイオ州に移り住みました。

 最初はダニエルさんと新しいお父さんお母さんはお互い、大変喜んでいましたが、時間が経つにつれて大きな問題が出てきました。ダニエルさんは幼い頃から本当に愛してくれる人が誰もいなかったので、誰も愛することができなくなっていました。恐れがいっぱいで、新しい親たちに愛されるのに、一緒に歩むことが難しかったです。いわゆる「愛着障害」という精神病でした。なので、かわいそうなダニエルさんは思わず出てしまう乱暴なふるまいをやめられずにいました。ダニエルさんは孤独で、恐れでいっぱいで、とても混乱していました。 親達も彼を怖がり、年を追うごとに数人のカウンセラーにみてもらうようになっても、無駄でした。 愛する息子は親の愛を決して知ることはないんじゃないかとさえ思われました。


 やがてお母さんはある実験段階にある治療法のことを聞いて、お医者さんと相談のうえ、すぐそれをやり始めました。親の愛を明らかにするため、6ヶ月間お母さんのそばを全然離れず、生まれたばかりの赤ちゃんのように親は愛情にあふれる接触を計っていくというセラピーでした。6ヶ月後、ダニエルさんは治りました。親が親の愛を明らかに示してくれたおかげで、ダニエルさんの悩みは消え、愛することができるようになったのです。


 皆さんは、私と同じように考える方なら、神様との関係の中、時にダニエルさんのように振る舞うことがあります。自分に対して神様の愛は十分ではないと恐ると、罪を犯して不安を感じると思います。しかしながら、ダニエルさんのお母さんのように、天のお父様は私たちに対して、どれぐらい愛しておられるかを示すために、自分のすべてを犠牲にするまで行動しました。十字架の上でこの愛を示してくださいました。あなたを愛し、あなたのためにご自分を与えてくださいました。もし、今朝、イエス様救い主として信じていれば、今日皆さんやること、やらないことによって、神様の愛を減らすことも、増やすこともできません。たった今、完全に神様に義と認められています。恐れることはありません。このようにして、福音の真理から目を離さずに歩みましょう。

2018年6月10日日曜日

ガラテヤ(3)「福音の真理が保たれるため」ガラテヤ2:1~10


もうそろそろ夏になりますよね。子供の頃夏の思い出が忘れられないんです。学校の休みになって、一日中自然で友達と遊んだり、祭で花火を観たり、家族と一緒にキャンプしに行ったりして、どれも忘れられない思い出です。しかし、夏の中何が嫌いだと言って蚊ぐらい嫌いなものはありません。信じられないほど素晴らしい催しでも、蚊さえいれば悲惨になり兼ねません


 一世紀の使徒パウロの周りにも、福音を台無しにする虫もいました。この虫は蚊ではなく、偽教師でした。パウロの宣教活動の最初から最後まで、その偽教師の虫は邪魔してしまいました。彼は、パウロ自身も、パウロの教えを攻撃して、パウロの働きをやめさせようと努力しました。このようにして、信じられないほど素晴らしい福音の真理を妨げたのが偽教師達でした。

 現在も、聖書の真理を攻撃する人たちがいます。彼らの教えを信じて、その行動を真似する危険性は私たちの教会にもあります。正直に言えば、私たち皆、福音を信じなくなるきらいがありますので、そうならないために使徒パウロはこのガラテヤ人への手紙を書いたのです。

 この誘惑戦うために、今日の聖句ガラテヤ2章の冒頭で、パウロはエルサレムへの旅について語ります。2018年の私たちは、この話は自分の人生に全く関係がないと考える傾向があると思いますが、そうではありません。今朝、パウロの言葉をよく聴いていれば、神様の愛、神様の恵をよりよく理解できるでしょう。この知恵を得るために三つのことをみて行きたいと思ます。第一にパウロの仲間、第二にパウロのメッセージ、第三にパウロの宣教です


 みなさんは覚えているかも知れませんが、パウロはガラテヤという地方でいくつの教会を建ててから、別のところに新しい教会を建てに行きました。パウロガラテヤにいない間に偽教師がそこの教会に忍び込んで、教会員を騙すためにパウロを責めていました。訴えたのは、パウロは本当の使徒ではない、キリスト教の本部と違う教理を教えているということでした。なので、パウロは自分自身の教えを守るために、自分で建てた教会の信徒の信仰を守るために、このガラテヤ人への手紙を送りました。1章、2章で、パウロが焦点をあてているのは、使徒である権利を裏付けるために自分の働きの召しの背景を説明することです。

 そうすると、一節にはエルサレムに上ることについて記しています。キリスト教が始まったころ、イエス様の弟子、教会の使徒達の本部はエルサレムでした。今回はバルナバと一緒に行って、テトスも連れて行きました。バルナバはユダヤ人だったんですが、テトスの方はギリシア人つまり異邦人でした。パウロにとっては、これは重大な戦略でした。

 偽教師達によると、神の民になる前にユダヤ教の律法に従わなければなりませんでした。例えば、割礼を受けないと救われません。でも、パウロは、救いは信仰のみによると教えていたのです。ユダヤ人もギリシア人も行いに関わらず、「神は罪人を救う」というのは本当の福音だと宣伝しました。これは、福音の自由にかかわることでした

 理解しないといけないのは、パウロは一体なぜ、再びエルサレムに行ったのかということです。2節によると、神様から啓示を受けました。もう一つの理由は、「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」。つまり、パウロはいつも教会員のことを大切にして、自分の安全より教会員を守ろうとしていたのです。もしガラテヤの教会員偽教師の影響で他の福音に移っていけば、パウロの働きは無駄になるということでした。パウロの関心は自分の評判というよりも教会員の信仰生活でした。パウロからすると偽教師の方が間違っていると示さずにおかないゆえに、キリスト教の本部のリーダー達と相談しに行きました。


 パウロを批判する人と同じ考え方の人は、現代にも少なくはないと思います。聖書によりますと、救いは神の贈物です。救い「が律法によって得られるとしたら、それこそ、キストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2章21節)。それなのに、いくつかの団体は現代自分の行いで救いを得られると信じています。モルモン教や、エホバの証人などがこういう団体なんです。パウロによると、全く違う宗教になってしまいます。パウロのようにこの考え方を避けて、神の恵みによる自由の福音を守らなればなりません。

 そうするため、一つの方法は信仰を確認することです。何を信じているかはっきりと説明するために、私たちの教会、日本長老教会は世界中の長老教会と一緒に十七世紀に書かれたウエストミンスター信仰告白というのがあります。もう一つは、三世紀ごろにまとめられた使徒信条です。隔月この礼拝の中一緒に読んでいます。なぜかというと、私たちは何を信じてるか、何を告白するかをお互いに思い出すことができるからです。そうすると、偽の福音は接するとすぐ分かると願っています。自分は何を信じているかを説明するため、広く世界中の教会に承認されている基準があればものすごく役に立つでしょう。パウロにとっては、エルサレムにいる使徒達はこういう基準でした。もし、彼らパウロの教えを承認すれば、偽教師の訴えの方は無駄になります。

 となると、エルサレムへの旅の結果は何なのでしょうか。はっきりいうと、「テトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした」(3節)。その偽教師の標語は「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」ということでした(使徒15章11節)。これにより、エルサレムのリーダーたちテトスは割礼を受けなくても良いと判断したことはすごく大事なポイントでした。彼らは、パウロを支持しました。


 割礼というのは、日本の文化にはないことなので、割礼についてちょっと説明してみたいと思います。割礼はユダヤ教どのような意味だったのか、割礼は何かを。

旧約聖書の時代、神様にエジプトの奴隷の家からユダヤ人が救われました。神様はこう言いました「わたしはあなたがたを取って、わたしの民とし、わたしはあなたがたの神になる」(出エジプト6章7節)。神の民として、どういう生き方が相応しいかを説明するために神様は律法を民に与えたんです。律法というのは救いを得るための条件ではないんです、旧約聖書の時代にも、新約聖書の時代にも、現代にも。

 この律法の中一つは儀式律法でした。儀式律法というのは、他の偶像礼拝をする部族との間に境をはっきり示すためでした。割礼というのは、儀式律法の一つで、契約の印として、ユダヤ人の男性の性器の皮を切り取ることでした。しかし、この儀式律法はキリストによる罪の贖いを示す型、しるしだったのです(ヘブル人10章)。なので、神の民はイエス様が登場してから、救いと聖は信仰によるものなので、儀式律法はもう従わなくても良いです。

 ということで、エルサレムにある教会の本部の支配者達はテトス割礼を強制しませんでした。パウロの教え、パウロの福音は間違っていないと認めたのです。


 パウロは福音の真理が保たれるため、わざとユダヤ人と異邦人の仲間を連れていったんですが、そのメッセージはなんだったのでしょうか。4節から6節までをみれば、簡単にいうとパウロのメッセージはキリスト・イエスにあって自由があると言うことです。この自由はわれるために律法従う必要がないという意味エルサレムにいるほかの使徒たちも、このメッセージに対して、何も付け加えませんでした。私たちの中には、誰一人完全に律法に従うことはできないので、このメッセージは非常にいい知らせですけど、不思議なことに攻撃されるのです。もっと不思議なことに、私たちの方も攻撃するんです。 

 なんらかの理由で、私たちクリスチャンは、自分のルールを自分で作ることが好きです。プライドがありますので、自分で自分を正しくすることができると、声を出して言わないかもしれないけど、心の中で言う恐れがあります。誰か割礼を受けさせようとすることはしないけれども、パウロの敵の偽教師真似しないわけではないでしょう。これは危ないです。


 私の人生から、一つの例をげていきたいと思います。言うのが本当に恥ずかしいですけど、先週家に帰ってきた時に、妻は食事の準備はまだできてない状態でした。疲れていて、お腹が減ていたので、心の中いらいらを感じました。怒鳴ることはしなかったんですが、私がやったのはもっと冷酷でした。「あ、晩御飯はまだできてないの?」と何気なく言いました。でも、その単純な言葉を通して「君の努力は足りないよ」というメッセージを伝えてしまいました。

 どちらかというと、このアプローチは律法主義で、絶対罪なのです。ダメなのは妻ではなく、私の方でした。私は手伝おうとしたんでしょう憐れみを持って、忍耐深く接しようとしたんでしょうか?いや。恵みを示す代わりに、自分のルールで妻を裁くだけでした。つまり、その瞬間に自分がしてほしいことはしていなければ、私は妻を愛していないというメッセージを伝えてしいました。

 しかし、私たちに対してイエス様はこんな態度はとりません。イエス様の愛は無条件の愛なので、私たちの行いは関係がありません。他人に向かって、相手に対しての愛行いを土台にしていれば、人間関係が悪くなります。こういう態度を悔い改めなければなりません。

 自分に向かっても、同じ危険があると思います。良い行いを頑張っていれば、プライドが高くなり、一方、罪との戦い負けていればがっかりする傾向があります。例えば、ますます良い行いをすれば、ますます神様に愛される。男性はたくさんお金を稼いだら、価値がある証明できると思う。ちゃんと毎週礼拝に出席すると神様は喜。子供は成績がいいといいママになる。その一方で、いい仕事は見つけないと自分の人生は無駄だ。経済的に自立していないと、自分には価値がない。有名な学校へ進学できないと無駄な存在だと思う

 それに伴って、どちらの谷に陥っても、本当の福音の意味は忘れたということになります。神様が愛してくださったのは、私たちの行いではなく、イエス様の完全な行いだからです。ルールを作ったり、他人自分にルールを強制したりすると神様の恵による救いを見失います。パウロのようにこの偽教師の考え方に譲歩したり屈服したりしないようにしましょう(5節)。キリストの福音の真理によると、私たちは律法の要求から解放されました。パウロの自由なメッセージをしっかり握りましょう。

 

 続きまして、パウロの仲間も、パウロのメッセージも見たんですけれども、パウロの宣教はなんだったのでしょうか。7節から10節を見ますと、異邦人への福音を伝えることがパウロの宣教だということが明らになります。パウロは自分自身も使徒なので、他のエルサレムにいる使徒達はパウロに命令するよりも、パウロの召しを承認しだけだったのです。「割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました」とパウロが7節に記しています。伝統的にいうと、異邦人は割礼受けていなかったので、「割礼を受けない者」というのは異邦人だという慣用句でした。 

 神様はアブラハムの時代から、ユダヤ人を通して全世界を祝福するという約束をしたんですが、これどのようにして成就するかイエスが来るまで誰も理解できませんでした。しかし、バプテスマのヨハネによると、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」でした(ヨハネ1章29節)。イエスはユダヤ人で、イエスの死と蘇りを通して、神様は全世界への救いの約束を成就したのです。 その上に、イエスは旧約聖書の儀式律法も完全に成就したゆえに、その時から「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです」(ガラテヤ5章6節)。

 エルサレムにいる教会の一番トップの3人、ヤコブ、ペテロとヨハネがパウロによる異邦人への宣教を認めました。ペテロユダヤ人の中に教会を建てることと全く同じように、パウロは異邦人のところにいって教会を建てるため遣わされました。なので、ユダヤ人も、異邦人も、全世界の人々が、教会の伝道の相手なのです。

 この二つのグループの間で、一致が重要な目標でした。なので、エルサレムの使徒たちは10節に「貧しい人たちのことを心に留めるように」とパウロに勧めました。もちろん、貧しい人の配慮は大事な活動ですが、この勧めは、もう一つの理由があります。当時、異邦人の教会に比べると、エルサレムの諸教会は貧乏だったのです。すなわち、異邦人への使徒パウロは貧しいユダヤ人の教会を顧みることは、二つのグループの教会をお互いに一致にする機会になると考えました。この活動もパウロの宣教の一つでした。


 まとめとして、パウロの仲間、パウロのメッセージ、パウロの宣教を見れば、福音の真理が保たれることが明らかです。どのように適用すべきでしょうか。特に二つの視野で見られると思います。

 一つ目は私たちの模範としてのパウロです。私たちも、パウロのように努力して福音の真理を守りますように。偽教師の教えに対して戦ったり、神様に救われるため律法従う必要がないことを忘れないことです。他人に対して、自分に対してもルールを強制しないことです。福音による自由を守ること。教会にはユダヤ人もギリシヤ人もなく、キリスト・イエスにあって一つだから、世界中の各教会を支援すること。教会の一致が守られますように。

 二つ目の適用は、この話を聞いて、あらゆる出来事は現在の私たちに対して、神様が愛を保ったという証拠です。神様が四日市キリスト教会のみなさんを愛してくださったので、今まで福音の真理たれてきました。使徒たちの働きを通して、福音の自由と真理は汚れませんでした。パウロの戦いを通して、現在にも「神は罪人を救う」という福音は私たちの町まで伝わてきました。御言葉を通して、神様の無条件な愛、深い恵について学べます。私たちは異邦人でも、自分の部族を問わず、心の中に罪があっても、神様の愛を確信できます。

 神様は私たちを愛してくださったので、私たち神の民のためにこの福音が保たれてきました。私たちも、この出来事を覚えて、感謝をもって、お互いに福音の自由を現して愛し合いましょう。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...