2018年6月24日日曜日

Ⅰコリント(8)「思い上がることのないように」Ⅰコリント4:1~13


 皆様は世界一短いラブレターについて、知っているでしょうか。南極探検隊の昭和基地・第1次南極越冬隊でのエピソードです。1973年の元日、隊員に家族からの電報が届けらました。それはモールス信号で伝えられ、隊員たちは喜びに沸き返えりました。各々和気藹々、ひとりひとりが自分に宛てられた電報を読んで披露しました。ある隊員の番になり、新婚の奥さんからの電報を読もうとしました。ところが隊員は声にならず嗚咽がもれてきたと言うのです。周囲では訃報でもあったのかとざわめきました。電文にはたった一言、「アナタ」と書いてあったのです。 多くの文字を打つことができない。でも伝えたいことはつきない。そこで「アナタ」とだけ入れた。奥さんの想いがつまった、たった3文字のラブレター。世界一短いラブレターです。

 もし、私が妻から「アナタ」と言う三文字の手紙を受け取ったとしたら、それをラブレターと理解するか、お叱りの手紙と考えるか、意味が分からず不安な気持ちになるか。それは、その時の二人の関係、状況次第ではないかと思います。また、仮に「アナタ」と書かれた手紙だけを見て、この手紙の書き手と受け取り手の関係はどのようなものか判断せよ。そう言われても、私たち誰ひとり想像もできないでしょう。

 今日最初にお話ししたいのは、ラブレターのことでも、夫婦愛のことでもありません。手紙を読む場合、誰が誰に対して書いた手紙なのか。書き手と受け取り手はどの様な関係にあったのか。手紙が書かれた時、二者はどの様な状況にあったのか。これらのことを踏まえないと、手紙の内容は勿論のこと、そこに込められた思いも、私たちは理解することはできないと言うことです。

 今私が礼拝で説教を行う際、読み進めているのはコリント人への手紙第一です。この手紙の書き手はパウロ、受け取り手は、ギリシャ、コリントの町にある教会の人々であること、これまで確認してきました。

それでは、パウロとコリント教会はどのような関係にあったのか。これも何度も確認してきたことですが、パウロは使徒、教会を建て上げる者。コリント教会は、この手紙が書かれた時点から遡ること6年前パウロによって建てられた教会です。

 6年前、キリスト教は初めて、パウロによってヨーロッパ大陸に運ばれました。しかし、コリントに到着した最初の頃、長期間にわたる伝道旅行で心身ともに疲れ果てていたパウロは「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」(2:3)と心境を吐露しています。

 当時コリントは、ギリシャで最も栄えた商業都市。ギリシャ人、ローマ人にユダヤ人、加えてアジア、アフリカからも人々が集まる人種の坩堝、巨大都市でもありました。また、偶像崇拝と悪徳でも知られ、「あの人はコリント人の様だ」と言われたら、性的にふしだらな人を意味する程悪徳を極めていたのです。

しかし、この様に極めて伝道困難と思われた大都市に腰を据えること一年半。ついにパウロはギリシャでも有数の教会を建て上げることができたのです。そのことを振り返り、パウロはこう語っていました。


415「たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」


パウロが父親で、コリント教会のメンバーはその子ども。パウロにとってコリント教会は大切な存在、愛の対象だったのです。しかし、子どもである教会の成長は順調とは言えませんでした。むしろ様々な課題、欠点を抱える問題児で、その一つが1章から4章で扱われている仲間割れの問題です。

パウロを始めとしてコリント教会で奉仕してきた教師は何人かいました。それを、コリントの人々は各々の好みに従って、ひとりの教師を崇拝し、別の教師はこき下ろす。ある者たちがパウロ派を名乗れば、別の者たちはアポロ派やペテロ派と称する。どの教師も気に入らない者は自分達をキリスト派と呼び、お互いに対立、争っていたと言うのです。「そんなことでは、イエス・キリストを信じてはいても、考え方や言動において、あなた方は未熟な者、キリストにある幼子ですね」と使徒を嘆かせる、親泣かせの教会。それがコリントの教会でした。

そして、この様に未熟な教会に対し、これまでパウロが勧めてきたことの中心点は、自分の知恵を誇らず、神の知恵であるイエス・キリストを誇ることだったのです。


1:30,31「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」


当時文化、文芸が盛んであったギリシャでは、人間の知恵が重んじられていました。その影響があったのでしょうか。コリント教会の中にも、この世の知恵やことばの雄弁を何よりも重視する人々がいて、その点で教師の価値を判断、優劣を論じていたらしいのです。しかし、この様な知恵自慢こそ、仲間割れの原因であることを見抜いたパウロは、重んじるべきは神の知恵、イエス・キリストであるとし、誇る者は主を誇れと説きました。主を誇れとは、彼らを罪から救い、人間本来のいのちに生かすため、十字架の死に至るまでも忠実に、しもべとして仕えたイエス・キリストの生き方に倣うように、との勧めです。

さて、以上、パウロとコリント教会の関係、この時コリント教会に何が起きていたのか、また、彼らの為にパウロが勧めてきたことを見てきました。これらを心に留めながら、今朝は4章に入ります。


4:1 「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。」


「私たち」とはパウロとアポロのことです。ペテロが省かれたのは、二人がペテロよりもコリント教会で長く奉仕し、関係が深かったからでしょう。当時コリントでは、パウロ派の人々はパウロを崇拝し、アポロを批判する。アポロ派はアポロを崇拝し、パウロを批判していたと思われます。

しかし、パウロは、ふたりが神の前では対等な存在と教えています。教師を崇拝する者には「私たちはキリストのしもべ」と言いました。教師は彼らの主人ではなく、彼らと同じくキリストに従うしもべであることを示し、過大評価せぬよう注意しています。他方、徒に教師を批判する者には「私たちは神の奥義の管理者」と告げています。教師には福音を伝え、教会を建てると言う尊い働きが与えられていることを示し、過小評価せぬよう戒めたのです

こうして、何よりも大切なのは、尊い賜物や働きを託してくださった神に忠実であることと説いたパウロは、少し驚くようなことを語りだします。


4:25「その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」


「あなたがたにさばかれる」とありますから、人々からの批判の声はパウロの所にも届いていたのでしょう。しかし、彼らの批判は自分にとって非常に小さなことだと言うのです。人の声を気にして一喜一憂。人の批判に振り回されて、神が自分に託された本来の働きを忠実に行うことができなくなるとしたら、本末転倒。そうパウロは言いたいのでしょう。

また、自分をさばくことさえしないとして、自分を責める思いに心とらわれ、神に忠実な心を失う者でありたくないとも語っています。何故なら、私たちを正しくさばくことのできる方は主イエスだけだから、と言うのです。

勿論、私たちには人の批判に耳を傾ける謙虚さが必要です。自分の言動を省みて反省することも必要でしょう。しかし、往々にして人の評価も自分の評価も不完全であったり、一面的であったりします。だから、私が何よりも大切にしたいのは、神からの正しい評価だと、パウロは語るのです。

果たして、私たちがよく気にかけているのは、人の評価でしょうか。神からの評価でしょうか。気がつけば、人の評価で心が支配され、神の評価があることを忘れていることはないでしょうか。私たちが最も大切にすべきは神様からの評価であることを、いつも心に刻みたいと思うのです。

さて、この後に続くのは非常に厳しいことば、痛烈な皮肉でした。


4:68「兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。」


ここに「書かれていることを越えない」とあるのは、聖書全体を通して教えられている信仰の原点、自慢高慢を戒め、神様を畏れる生き方から離れないように、と言う意味でした。それなのに、コリント教会の実態はと言うと、人々は一方にくみし、他方に反対して思いあがっていたのです。

一人の教師を崇拝し、別の教師を劣っていると判断することができる程、自分には知恵があると考える高慢。神だけが下すことができる正しい評価を、自分が先に下してしまっていると言う高慢。しかも、彼らは自らの高慢さに気がついていませんでした。むしろ、自分には何の問題もない。良いもので満ち足りている。自分たちは良いクリスチャン、良い教会であると自己満足に浸っていたのです。

そこに、突き付けられたのが「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たちから福音の教えを貰ったことも忘れ、私たち抜きで王様になっています。」との、痛烈な皮肉でした。

そして、イエス・キリストを誇る者は、あなた方と違い、人々から見れば愚かで、弱く、卑しめられていると語り、例として、闘技場に最後に登場する囚人の姿を挙げたのです。


4:9,10「私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。」


当時、平和に飽きた群衆が刺激を求めて、お祭りの日等に、囚人を円形競技場コロッセウムに引き出し、猛獣と戦わせると言う余興が行われていました。その時、哀れな犠牲者は行列の最後に回されたのです。パウロは、この死をも覚悟して戦わねばならない囚人に自分を例えました。それは、主を誇る者の人生が、困難な戦いの連続であることを伝えたかったからでしょう。

それでは、パウロが経験した困難な戦いとはどのようなものだったのでしょうか。


4:1113「今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。」


生活の最低条件である衣食住さえ欠く貧しさ。迫害。受け取る権利のある給料をもらわず自給自足で伝道したこと。パウロの伝道旅行について書かれた使徒の働きを見ますと、まさにこのような経験を味わってきたことが分かります。また、これを読んでいると、私たちの心には、主イエスの歩みが重なってきます。あの「十字架につけられたイエス・キリスト」が、パウロの中に生きていることを思うのです。

最後に、考えてみたいことは、パウロが自分のことを証した理由です。何故、使徒は自分の経験をコリント教会の人々のために語ったのでしょうか。それは、彼らに、イエス・キリストを信じる者の知恵とは何か。イエス・キリストを信じる者の強さとは何か。神様に尊ばれる人生とは何か。それを考え、理解して欲しかったからではないかと思います。

パウロは、自分は愚かで、あなた方は賢い。自分は弱いが、あなた方は強い。自分は卑しめられているが、あなたがたは尊ばれている。そうコリント人に言いました。しかし、です。衣食住にさえ事欠く貧しさに、満ち足りた生活を送るコリント人は忍耐できるでしょうか。イエス・キリストにある祝福の豊かさを知らなければ、忍耐できないのではないかと思います。知恵を誇るコリント人が、生活費を受け取る権利を捨てて、自給自足の生活を選ぶことができるでしょうか。相手の状況を配慮し、最善の道を考え、選び取る知恵がなければ、できることではないと思います。知恵を誇って争うコリント人には、パウロのように、ののしられては祝福し、中傷されては優しいことばをかける知恵も力もないように思われます。高ぶるコリント人には、この世の人から屑とか滓と思われるような生き方は、耐え難いでしょう。

本当に知恵があるのはコリント人でしょうか。パウロでしょうか。本当に強いのは、コリント人でしょうか。パウロでしょうか。神様に尊ばれる人生を歩んでいるのはコリント人でしょうか。パウロでしょうか。

教会が一致するための近道はない。皆が、十字架につけられたイエス・キリストのように、謙遜に生きること。パウロのように、言い返す権利、やり返す権利を捨てて、相手のために最善を願い、実行すること。これを今朝、神様からのメッセージとして、私たち心深く受けとめてゆきたいと思うのです。


Ⅰコリント131a「誇る者は主を誇れ。」

2018年6月17日日曜日

一書説教(45)「ローマ書~確信していること~」ローマ8:31~39


「聖書はどのような書物か」説明するために、よく使われる表現の一つに「神様から私へのラブレター」というものがあります。聖書は、世界の造り主から、私たちへ宛てられた言葉。その中心テーマは、「神様がどれほど私を愛しているか」ですので、「神様から私へのラブレター」と表現されます。

 とはいえ、聖書の多くの部分は、神様が直接語られた言葉ではなく、神様から特別な力(霊感)を受けた人間の著者が、その人の言葉として記したものです。聖書の殆どの箇所は、私たちが「ラブレター」と聞いてイメージするものとは、だいぶ異なる内容です。そのため、聖書を読む際には、神様がどれほど私を愛しているのかを考えながら読むのと同時に、その書の著者がどのような状況で、どのような思いで記したのかを考えることが大事な視点となります。

 私たち皆で聖書全体を味わいたく、断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り六回目。福音書、歴史書(使徒の働き)が終わり、「手紙」に突入します。新約聖書は全部で二十七の書ですが、そのうち二十一の書が「手紙」。さらにそのうちの十三が、パウロが書いたものです。つまり、新約聖書の約半分の書はパウロが書いた「手紙」となっているのです。

 手紙を読む時は、著者が、どのような状況で、どのような思いで、その書を記したのかを意識したいと思います。ここからしばらく読むのはパウロの手紙。(これまでと同じペースだと、ここから二年間はパウロの手紙を読むことになります。)数々の教会を立て上げた牧師、世界宣教を繰り広げた宣教師、信仰の在り方を明確にした神学者、あのパウロの知恵と信仰と情熱に触れることになる。胸躍ります。

今日は新約聖書第六の巻き、ローマ人への手紙です。手紙の中では比較的大きな書。聖書はどの書も神の言葉、それぞれ優劣はないのですが、その上でローマ書は多くの人に愛され、極めて重要な書と目されてきました。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 新約聖書の登場人物の中で、パウロは最もよく知られている人の一人と言えます。その活躍は使徒の働きに記録され、その考えたことは多くの手紙で知ることが出来る。多くの情報が聖書に記録されている人物です。パウロは、当時のユダヤの社会では大変なエリート。ローマの市民権を持ち、著名な人物のもとで学びを積み、影響力のある地位に就いていた人。当初は、キリスト者を迫害し、何人も牢に入れ、殺しました。ところが、イエス様こそ約束の救い主であると信じてからは、イエス・キリストを伝える急先鋒となる。これだけでも激動の人生を送った人。 神様が、パウロとはこのような人と語っている箇所があります。

 使徒9章15節~16節

しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。』


 異邦人、王、イスラエルの子に主の名を運ぶ。つまり、あらゆる人にキリストを宣べ伝える働きをする。しかも、そのために大変な苦しみを味わうと言われたのがパウロでした。その宣教の様は、使徒の働きに記録されています。大きく三回の伝道旅行があり、様々な苦難の中で、キリストが宣べ伝えられ、教会が立て上げられていきました。

 

 このローマ人への手紙が書かれたのは、三回目の伝道旅行の最中、ギリシアにいる時(使徒20章2節~3節)のことです。

ギリシアと言えば、問題山積みのコリント教会があったところ。パウロは、コリント教会の立て直しに取り組みつつ、ローマ人への手紙を記したことになります。コリントに滞在し、ローマにも目を向けつつ、しかしこの時、パウロの胸にあった第一のことは、エルサレムに行くこと。集めた献金を携えて、経済的に困窮しているエルサレム教会に駆けつけることでした。その後で、パウロはローマに行くことを願います。(使徒19章21節)

 何故、パウロはローマに行きたかったのか。ローマ帝国の首都。巨大な都市に、教会が無いから、教会を立て上げにいくというのではないのです。パウロが手紙を書いた時、ローマにはすでに教会がありました。誰が中心となって立てた教会なのか分かりませんが、すでにある程度の人が集まっており、その中にはパウロが知っている人も多数いました。まだ訪れたことのないローマの教会。そこに行きたい。ローマの教会を励ましたい。いや、交わりを通して自分も励まされたい。(ローマ1章11節~12節)キリスト者の交わり、あるいは伝道を願い、ローマに行きたいというパウロ。

またローマが最終地点なのではなく、ローマの教会から派遣されてイスパニアでの伝道を目指しているとも言います。イスパニア、スペイン。ヨーロッパ大陸の西端と見れば、パウロは当時の西の端、「地の果て」を目指していたことになります。「地の果てまでキリストの証人となる」という使命に、これほどまでに真剣に向き合っていたパウロの情熱が見えるところ。

 ローマ15章23節~24節

しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。


 長い前口上になりましたが、ローマ人への手紙が書かれた背景をイメージして頂けたでしょうか。

 派遣元のアンティオキア教会を出発して足掛け五年となる伝道旅行の終盤。肉体的にも精神的にも、限界をとっくに超えていると思われる状況。パウロ自身、自分の心情を「様々な苦難に会い、労し苦しみ、眠れないこと、飢え渇いたこと、寒さの中で着る物がなかったこと。肉体的な苦しみだけでなく、すべての教会への心遣いがあり、自分の心が弱く、痛んでいる。」(Ⅱコリント11章29節)と吐露しています。

 それでも、コリント教会の問題に向き合い、エルサレム教会を助けることに取り組み、その後でローマ、イスパニアに行きたいと思っている。片一方に痛み弱さを抱え、もう片一方に地の果てまでキリストを宣べ伝えたいという情熱を抱くパウロ。ローマに行った時、良い関係を持てるように。イスパニアを目指す時には、ローマの教会から派遣してもらいたい。このような状況、このような願いとともに、まだ行ったことのないローマの教会に宛てて書かれた手紙。一体、どのような内容となるのか。

 パウロ自身は、この書に記す内容について、次のように述べています。

 ローマ1章15節~17節

ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。


 これから記すのは、パウロ自身が信じている「福音」について。「福音」とは人に「救い」をもたらすものであり、「救い」とは、「信仰によって神の前で義とされること」とまとめられます。「信仰によって神の前で義とされる。」このテーマがどのように展開していくのか。概観していきます。


パウロはまず、あらゆる人が神の前で正しく生きられない。義とされないことから語り始めます。旧約聖書を知らない異邦人も、旧約聖書を持っているユダヤ人も。その人自身の行いによって、神の前に正しいという人は一人もいません。誰も正しく生きられない。そのため、神様の前で義とされるのは、ただ神様の恵みによるのです。その恵みを受け取るのは、キリストを信じる信仰によると述べます。(1章~3章)

ローマ3章23節~24節

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。


 信じるだけで義と認められるというのは、私が言い始めたことではなく、そもそも聖書が教えていることです。アブラハムも信じて義と認められ、ダビデも行いと関係なく義と認められる幸いを伝えています。(4章)

 キリストを信じるだけで義とされる。それは、神様が私たちを愛していることの証でもあります。そのため、キリストを信じる者は、義とされるだけでなく、神の愛が分かる者とされたもの。神の愛を味わう者は、たとえ苦難の中にあっても、平安や喜び、希望も与えられます。(5章)


 ところで、罪ある者が、キリストによって義とされることで、神様の愛が分かるのであれば、これからも積極的に罪を犯し続けることで、ますます神様の愛を味わうことになるでしょうか。それはありえません。キリストを信じる者は、義と認められるだけでなく、実際に正しい生き方が出来る恵みを頂いた者です。罪の奴隷の人生は終わり、神のしもべの人生が始まったのです。罪の性質が残り、善を行いたいと願いながら罪を犯すことはあっても、自ら望んで罪を犯すことは相応しくありません。(6章~7章)


 それでは、罪の性質がなくなることはあるのでしょうか。キリストを信じる者は、キリストの霊を受ける。その御霊が、今も私たちを作り変えているが、やがて完全に私たちを作り変えて下さる日が来る。その日が来ることを、私たちも、全被造物も待ち望んでいる。(8章)

 信仰によって義として下さる神様は、今も私たちを作り変え、やがて主イエスと同じ姿にまで変えて下さる。一体、これは何を意味しているのかとして、パウロの絶叫が響きます。

 ローマ8章31節~39節

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。』しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


 ローマ書の前半のクライマックス。パウロの述べる福音の中心。神様が私を愛すると言ったら、それを妨げるものは何一つないという大宣言です。この宣言を私たちも自分の告白としたいと思います。


 ところで、この宣言をした後で、パウロの口調は少し落ち着きます。神の愛は、何も妨げることは無いと口にして、思い出されるのは神の民、ユダヤ人、イスラエル人のこと。

キリストの到来まで、守り導かれてきたイスラエル人。主イエスも、パウロもイスラエル人。その同胞の多くが、信仰による義を受け入れない状態にあることが苦しい。とはいえ、全てのイスラエル人が福音を拒絶しているわけではない。福音は今や異邦人に広がり、しかしやがてイスラエル人の中でも福音を信じる者はおこされる。こうして、異邦人、イスラエル人の区別なく、全ての人がキリストの救いを喜ぶことになる。(9~11章)とまとめられます。

 このように、「信仰によって神の前で義とされる。」ということが、どのようなことなのか。様々な視点で語ってきたパウロが、信仰によって神の前で義とされた者は、具体的にどのように生きたら良いのかと語り始めます。前半(1~11章)が教理篇と見れば、後半(12章~16章)は実践編と言えるでしょうか。


 ローマ12章1節~2節

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


 神様が私たちにして下さったことを受け止める者は、その愛に応えて生きるのが良いでしょう。その生活全てが、神様への礼拝となりますように。また、キリストを信じる者は、教会の一員でもあります。教会を立て上げるために、自分の歩みを整えていきましょう。(12章)

 また、教会の中だけでなく、自分の生活する地域で責任を果たすことも重要なことです。権威ある者に対して、なすべき義務を果たすことは正しいことです。(13章)

 信仰の仲間に対して、優しさや思いやりを示しましょう。信仰の根幹に関わること以外で、一致しないことがある時。イエス様を模範としましょう。(14章)

 私はこれからエルサレムに行き、その後でローマを目指します。ローマで過ごした後、皆さんに遣わされてイスパニアにも行きたいと考えています。どうぞお祈り下さい(15章)

 手紙の末尾は、この手紙をローマに運ぶフィベという女性の推薦の言葉。ローマにいる信仰の仲間に対する挨拶。パウロとともにいて、ローマの教会に挨拶したい人たちの言葉が綴られます。(16章)


 以上、ローマ人への手紙のまとめでした。申し訳ありませんが、うまくまとめられた自信がありません。他にも触れておくべき重要なことは、多く記されていると思います。是非とも、ご自身で読み、確認して頂ければと思います。

 まだ訪れたことのない教会へ。自分の信じていること、「福音」について。思う存分記されたローマ人への手紙。「信仰によって神の前で義とされる。」ということが、どのようなことなのか。この福音に込められた、恵みの大きさ、希望の大きさ、神様の愛の大きさに震えたパウロが、この凄さを知ってもらいたいと情熱を傾けた書。

前半(1章~11章)を読み進め、私たちも今一度、私たちに届けられ、与えられた福音が、どれほどの恵みなのか。この福音を知り、信じて生きることが、どれほどの希望を生むのか。神様が、どれほど私を愛して下さっているのか。味わいたいと思います。

 後半(12章~16章)に入り、キリストを信じる者は、どのように生きたら良いのか。自分自身の今の状況で、この書で教えられたことに取り組むとしたら、具体的にどのような生き方を選ぶのか。真剣に考えたいと思います。

 パウロから、そして神様から。私に宛てられた言葉として、向き合うことが出来ますように祈りたいと思います。

2018年6月10日日曜日

ガラテヤ(3)「福音の真理が保たれるため」ガラテヤ2:1~10


もうそろそろ夏になりますよね。子供の頃夏の思い出が忘れられないんです。学校の休みになって、一日中自然で友達と遊んだり、祭で花火を観たり、家族と一緒にキャンプしに行ったりして、どれも忘れられない思い出です。しかし、夏の中何が嫌いだと言って蚊ぐらい嫌いなものはありません。信じられないほど素晴らしい催しでも、蚊さえいれば悲惨になり兼ねません


 一世紀の使徒パウロの周りにも、福音を台無しにする虫もいました。この虫は蚊ではなく、偽教師でした。パウロの宣教活動の最初から最後まで、その偽教師の虫は邪魔してしまいました。彼は、パウロ自身も、パウロの教えを攻撃して、パウロの働きをやめさせようと努力しました。このようにして、信じられないほど素晴らしい福音の真理を妨げたのが偽教師達でした。

 現在も、聖書の真理を攻撃する人たちがいます。彼らの教えを信じて、その行動を真似する危険性は私たちの教会にもあります。正直に言えば、私たち皆、福音を信じなくなるきらいがありますので、そうならないために使徒パウロはこのガラテヤ人への手紙を書いたのです。

 この誘惑戦うために、今日の聖句ガラテヤ2章の冒頭で、パウロはエルサレムへの旅について語ります。2018年の私たちは、この話は自分の人生に全く関係がないと考える傾向があると思いますが、そうではありません。今朝、パウロの言葉をよく聴いていれば、神様の愛、神様の恵をよりよく理解できるでしょう。この知恵を得るために三つのことをみて行きたいと思ます。第一にパウロの仲間、第二にパウロのメッセージ、第三にパウロの宣教です


 みなさんは覚えているかも知れませんが、パウロはガラテヤという地方でいくつの教会を建ててから、別のところに新しい教会を建てに行きました。パウロガラテヤにいない間に偽教師がそこの教会に忍び込んで、教会員を騙すためにパウロを責めていました。訴えたのは、パウロは本当の使徒ではない、キリスト教の本部と違う教理を教えているということでした。なので、パウロは自分自身の教えを守るために、自分で建てた教会の信徒の信仰を守るために、このガラテヤ人への手紙を送りました。1章、2章で、パウロが焦点をあてているのは、使徒である権利を裏付けるために自分の働きの召しの背景を説明することです。

 そうすると、一節にはエルサレムに上ることについて記しています。キリスト教が始まったころ、イエス様の弟子、教会の使徒達の本部はエルサレムでした。今回はバルナバと一緒に行って、テトスも連れて行きました。バルナバはユダヤ人だったんですが、テトスの方はギリシア人つまり異邦人でした。パウロにとっては、これは重大な戦略でした。

 偽教師達によると、神の民になる前にユダヤ教の律法に従わなければなりませんでした。例えば、割礼を受けないと救われません。でも、パウロは、救いは信仰のみによると教えていたのです。ユダヤ人もギリシア人も行いに関わらず、「神は罪人を救う」というのは本当の福音だと宣伝しました。これは、福音の自由にかかわることでした

 理解しないといけないのは、パウロは一体なぜ、再びエルサレムに行ったのかということです。2節によると、神様から啓示を受けました。もう一つの理由は、「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」。つまり、パウロはいつも教会員のことを大切にして、自分の安全より教会員を守ろうとしていたのです。もしガラテヤの教会員偽教師の影響で他の福音に移っていけば、パウロの働きは無駄になるということでした。パウロの関心は自分の評判というよりも教会員の信仰生活でした。パウロからすると偽教師の方が間違っていると示さずにおかないゆえに、キリスト教の本部のリーダー達と相談しに行きました。


 パウロを批判する人と同じ考え方の人は、現代にも少なくはないと思います。聖書によりますと、救いは神の贈物です。救い「が律法によって得られるとしたら、それこそ、キストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2章21節)。それなのに、いくつかの団体は現代自分の行いで救いを得られると信じています。モルモン教や、エホバの証人などがこういう団体なんです。パウロによると、全く違う宗教になってしまいます。パウロのようにこの考え方を避けて、神の恵みによる自由の福音を守らなればなりません。

 そうするため、一つの方法は信仰を確認することです。何を信じているかはっきりと説明するために、私たちの教会、日本長老教会は世界中の長老教会と一緒に十七世紀に書かれたウエストミンスター信仰告白というのがあります。もう一つは、三世紀ごろにまとめられた使徒信条です。隔月この礼拝の中一緒に読んでいます。なぜかというと、私たちは何を信じてるか、何を告白するかをお互いに思い出すことができるからです。そうすると、偽の福音は接するとすぐ分かると願っています。自分は何を信じているかを説明するため、広く世界中の教会に承認されている基準があればものすごく役に立つでしょう。パウロにとっては、エルサレムにいる使徒達はこういう基準でした。もし、彼らパウロの教えを承認すれば、偽教師の訴えの方は無駄になります。

 となると、エルサレムへの旅の結果は何なのでしょうか。はっきりいうと、「テトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした」(3節)。その偽教師の標語は「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」ということでした(使徒15章11節)。これにより、エルサレムのリーダーたちテトスは割礼を受けなくても良いと判断したことはすごく大事なポイントでした。彼らは、パウロを支持しました。


 割礼というのは、日本の文化にはないことなので、割礼についてちょっと説明してみたいと思います。割礼はユダヤ教どのような意味だったのか、割礼は何かを。

旧約聖書の時代、神様にエジプトの奴隷の家からユダヤ人が救われました。神様はこう言いました「わたしはあなたがたを取って、わたしの民とし、わたしはあなたがたの神になる」(出エジプト6章7節)。神の民として、どういう生き方が相応しいかを説明するために神様は律法を民に与えたんです。律法というのは救いを得るための条件ではないんです、旧約聖書の時代にも、新約聖書の時代にも、現代にも。

 この律法の中一つは儀式律法でした。儀式律法というのは、他の偶像礼拝をする部族との間に境をはっきり示すためでした。割礼というのは、儀式律法の一つで、契約の印として、ユダヤ人の男性の性器の皮を切り取ることでした。しかし、この儀式律法はキリストによる罪の贖いを示す型、しるしだったのです(ヘブル人10章)。なので、神の民はイエス様が登場してから、救いと聖は信仰によるものなので、儀式律法はもう従わなくても良いです。

 ということで、エルサレムにある教会の本部の支配者達はテトス割礼を強制しませんでした。パウロの教え、パウロの福音は間違っていないと認めたのです。


 パウロは福音の真理が保たれるため、わざとユダヤ人と異邦人の仲間を連れていったんですが、そのメッセージはなんだったのでしょうか。4節から6節までをみれば、簡単にいうとパウロのメッセージはキリスト・イエスにあって自由があると言うことです。この自由はわれるために律法従う必要がないという意味エルサレムにいるほかの使徒たちも、このメッセージに対して、何も付け加えませんでした。私たちの中には、誰一人完全に律法に従うことはできないので、このメッセージは非常にいい知らせですけど、不思議なことに攻撃されるのです。もっと不思議なことに、私たちの方も攻撃するんです。 

 なんらかの理由で、私たちクリスチャンは、自分のルールを自分で作ることが好きです。プライドがありますので、自分で自分を正しくすることができると、声を出して言わないかもしれないけど、心の中で言う恐れがあります。誰か割礼を受けさせようとすることはしないけれども、パウロの敵の偽教師真似しないわけではないでしょう。これは危ないです。


 私の人生から、一つの例をげていきたいと思います。言うのが本当に恥ずかしいですけど、先週家に帰ってきた時に、妻は食事の準備はまだできてない状態でした。疲れていて、お腹が減ていたので、心の中いらいらを感じました。怒鳴ることはしなかったんですが、私がやったのはもっと冷酷でした。「あ、晩御飯はまだできてないの?」と何気なく言いました。でも、その単純な言葉を通して「君の努力は足りないよ」というメッセージを伝えてしまいました。

 どちらかというと、このアプローチは律法主義で、絶対罪なのです。ダメなのは妻ではなく、私の方でした。私は手伝おうとしたんでしょう憐れみを持って、忍耐深く接しようとしたんでしょうか?いや。恵みを示す代わりに、自分のルールで妻を裁くだけでした。つまり、その瞬間に自分がしてほしいことはしていなければ、私は妻を愛していないというメッセージを伝えてしいました。

 しかし、私たちに対してイエス様はこんな態度はとりません。イエス様の愛は無条件の愛なので、私たちの行いは関係がありません。他人に向かって、相手に対しての愛行いを土台にしていれば、人間関係が悪くなります。こういう態度を悔い改めなければなりません。

 自分に向かっても、同じ危険があると思います。良い行いを頑張っていれば、プライドが高くなり、一方、罪との戦い負けていればがっかりする傾向があります。例えば、ますます良い行いをすれば、ますます神様に愛される。男性はたくさんお金を稼いだら、価値がある証明できると思う。ちゃんと毎週礼拝に出席すると神様は喜。子供は成績がいいといいママになる。その一方で、いい仕事は見つけないと自分の人生は無駄だ。経済的に自立していないと、自分には価値がない。有名な学校へ進学できないと無駄な存在だと思う

 それに伴って、どちらの谷に陥っても、本当の福音の意味は忘れたということになります。神様が愛してくださったのは、私たちの行いではなく、イエス様の完全な行いだからです。ルールを作ったり、他人自分にルールを強制したりすると神様の恵による救いを見失います。パウロのようにこの偽教師の考え方に譲歩したり屈服したりしないようにしましょう(5節)。キリストの福音の真理によると、私たちは律法の要求から解放されました。パウロの自由なメッセージをしっかり握りましょう。

 

 続きまして、パウロの仲間も、パウロのメッセージも見たんですけれども、パウロの宣教はなんだったのでしょうか。7節から10節を見ますと、異邦人への福音を伝えることがパウロの宣教だということが明らになります。パウロは自分自身も使徒なので、他のエルサレムにいる使徒達はパウロに命令するよりも、パウロの召しを承認しだけだったのです。「割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました」とパウロが7節に記しています。伝統的にいうと、異邦人は割礼受けていなかったので、「割礼を受けない者」というのは異邦人だという慣用句でした。 

 神様はアブラハムの時代から、ユダヤ人を通して全世界を祝福するという約束をしたんですが、これどのようにして成就するかイエスが来るまで誰も理解できませんでした。しかし、バプテスマのヨハネによると、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」でした(ヨハネ1章29節)。イエスはユダヤ人で、イエスの死と蘇りを通して、神様は全世界への救いの約束を成就したのです。 その上に、イエスは旧約聖書の儀式律法も完全に成就したゆえに、その時から「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです」(ガラテヤ5章6節)。

 エルサレムにいる教会の一番トップの3人、ヤコブ、ペテロとヨハネがパウロによる異邦人への宣教を認めました。ペテロユダヤ人の中に教会を建てることと全く同じように、パウロは異邦人のところにいって教会を建てるため遣わされました。なので、ユダヤ人も、異邦人も、全世界の人々が、教会の伝道の相手なのです。

 この二つのグループの間で、一致が重要な目標でした。なので、エルサレムの使徒たちは10節に「貧しい人たちのことを心に留めるように」とパウロに勧めました。もちろん、貧しい人の配慮は大事な活動ですが、この勧めは、もう一つの理由があります。当時、異邦人の教会に比べると、エルサレムの諸教会は貧乏だったのです。すなわち、異邦人への使徒パウロは貧しいユダヤ人の教会を顧みることは、二つのグループの教会をお互いに一致にする機会になると考えました。この活動もパウロの宣教の一つでした。


 まとめとして、パウロの仲間、パウロのメッセージ、パウロの宣教を見れば、福音の真理が保たれることが明らかです。どのように適用すべきでしょうか。特に二つの視野で見られると思います。

 一つ目は私たちの模範としてのパウロです。私たちも、パウロのように努力して福音の真理を守りますように。偽教師の教えに対して戦ったり、神様に救われるため律法従う必要がないことを忘れないことです。他人に対して、自分に対してもルールを強制しないことです。福音による自由を守ること。教会にはユダヤ人もギリシヤ人もなく、キリスト・イエスにあって一つだから、世界中の各教会を支援すること。教会の一致が守られますように。

 二つ目の適用は、この話を聞いて、あらゆる出来事は現在の私たちに対して、神様が愛を保ったという証拠です。神様が四日市キリスト教会のみなさんを愛してくださったので、今まで福音の真理たれてきました。使徒たちの働きを通して、福音の自由と真理は汚れませんでした。パウロの戦いを通して、現在にも「神は罪人を救う」という福音は私たちの町まで伝わてきました。御言葉を通して、神様の無条件な愛、深い恵について学べます。私たちは異邦人でも、自分の部族を問わず、心の中に罪があっても、神様の愛を確信できます。

 神様は私たちを愛してくださったので、私たち神の民のためにこの福音が保たれてきました。私たちも、この出来事を覚えて、感謝をもって、お互いに福音の自由を現して愛し合いましょう。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...