2018年6月17日日曜日

一書説教(45)「ローマ書~確信していること~」ローマ8:31~39


「聖書はどのような書物か」説明するために、よく使われる表現の一つに「神様から私へのラブレター」というものがあります。聖書は、世界の造り主から、私たちへ宛てられた言葉。その中心テーマは、「神様がどれほど私を愛しているか」ですので、「神様から私へのラブレター」と表現されます。

 とはいえ、聖書の多くの部分は、神様が直接語られた言葉ではなく、神様から特別な力(霊感)を受けた人間の著者が、その人の言葉として記したものです。聖書の殆どの箇所は、私たちが「ラブレター」と聞いてイメージするものとは、だいぶ異なる内容です。そのため、聖書を読む際には、神様がどれほど私を愛しているのかを考えながら読むのと同時に、その書の著者がどのような状況で、どのような思いで記したのかを考えることが大事な視点となります。

 私たち皆で聖書全体を味わいたく、断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り六回目。福音書、歴史書(使徒の働き)が終わり、「手紙」に突入します。新約聖書は全部で二十七の書ですが、そのうち二十一の書が「手紙」。さらにそのうちの十三が、パウロが書いたものです。つまり、新約聖書の約半分の書はパウロが書いた「手紙」となっているのです。

 手紙を読む時は、著者が、どのような状況で、どのような思いで、その書を記したのかを意識したいと思います。ここからしばらく読むのはパウロの手紙。(これまでと同じペースだと、ここから二年間はパウロの手紙を読むことになります。)数々の教会を立て上げた牧師、世界宣教を繰り広げた宣教師、信仰の在り方を明確にした神学者、あのパウロの知恵と信仰と情熱に触れることになる。胸躍ります。

今日は新約聖書第六の巻き、ローマ人への手紙です。手紙の中では比較的大きな書。聖書はどの書も神の言葉、それぞれ優劣はないのですが、その上でローマ書は多くの人に愛され、極めて重要な書と目されてきました。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 新約聖書の登場人物の中で、パウロは最もよく知られている人の一人と言えます。その活躍は使徒の働きに記録され、その考えたことは多くの手紙で知ることが出来る。多くの情報が聖書に記録されている人物です。パウロは、当時のユダヤの社会では大変なエリート。ローマの市民権を持ち、著名な人物のもとで学びを積み、影響力のある地位に就いていた人。当初は、キリスト者を迫害し、何人も牢に入れ、殺しました。ところが、イエス様こそ約束の救い主であると信じてからは、イエス・キリストを伝える急先鋒となる。これだけでも激動の人生を送った人。 神様が、パウロとはこのような人と語っている箇所があります。

 使徒9章15節~16節

しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。』


 異邦人、王、イスラエルの子に主の名を運ぶ。つまり、あらゆる人にキリストを宣べ伝える働きをする。しかも、そのために大変な苦しみを味わうと言われたのがパウロでした。その宣教の様は、使徒の働きに記録されています。大きく三回の伝道旅行があり、様々な苦難の中で、キリストが宣べ伝えられ、教会が立て上げられていきました。

 

 このローマ人への手紙が書かれたのは、三回目の伝道旅行の最中、ギリシアにいる時(使徒20章2節~3節)のことです。

ギリシアと言えば、問題山積みのコリント教会があったところ。パウロは、コリント教会の立て直しに取り組みつつ、ローマ人への手紙を記したことになります。コリントに滞在し、ローマにも目を向けつつ、しかしこの時、パウロの胸にあった第一のことは、エルサレムに行くこと。集めた献金を携えて、経済的に困窮しているエルサレム教会に駆けつけることでした。その後で、パウロはローマに行くことを願います。(使徒19章21節)

 何故、パウロはローマに行きたかったのか。ローマ帝国の首都。巨大な都市に、教会が無いから、教会を立て上げにいくというのではないのです。パウロが手紙を書いた時、ローマにはすでに教会がありました。誰が中心となって立てた教会なのか分かりませんが、すでにある程度の人が集まっており、その中にはパウロが知っている人も多数いました。まだ訪れたことのないローマの教会。そこに行きたい。ローマの教会を励ましたい。いや、交わりを通して自分も励まされたい。(ローマ1章11節~12節)キリスト者の交わり、あるいは伝道を願い、ローマに行きたいというパウロ。

またローマが最終地点なのではなく、ローマの教会から派遣されてイスパニアでの伝道を目指しているとも言います。イスパニア、スペイン。ヨーロッパ大陸の西端と見れば、パウロは当時の西の端、「地の果て」を目指していたことになります。「地の果てまでキリストの証人となる」という使命に、これほどまでに真剣に向き合っていたパウロの情熱が見えるところ。

 ローマ15章23節~24節

しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。


 長い前口上になりましたが、ローマ人への手紙が書かれた背景をイメージして頂けたでしょうか。

 派遣元のアンティオキア教会を出発して足掛け五年となる伝道旅行の終盤。肉体的にも精神的にも、限界をとっくに超えていると思われる状況。パウロ自身、自分の心情を「様々な苦難に会い、労し苦しみ、眠れないこと、飢え渇いたこと、寒さの中で着る物がなかったこと。肉体的な苦しみだけでなく、すべての教会への心遣いがあり、自分の心が弱く、痛んでいる。」(Ⅱコリント11章29節)と吐露しています。

 それでも、コリント教会の問題に向き合い、エルサレム教会を助けることに取り組み、その後でローマ、イスパニアに行きたいと思っている。片一方に痛み弱さを抱え、もう片一方に地の果てまでキリストを宣べ伝えたいという情熱を抱くパウロ。ローマに行った時、良い関係を持てるように。イスパニアを目指す時には、ローマの教会から派遣してもらいたい。このような状況、このような願いとともに、まだ行ったことのないローマの教会に宛てて書かれた手紙。一体、どのような内容となるのか。

 パウロ自身は、この書に記す内容について、次のように述べています。

 ローマ1章15節~17節

ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。


 これから記すのは、パウロ自身が信じている「福音」について。「福音」とは人に「救い」をもたらすものであり、「救い」とは、「信仰によって神の前で義とされること」とまとめられます。「信仰によって神の前で義とされる。」このテーマがどのように展開していくのか。概観していきます。


パウロはまず、あらゆる人が神の前で正しく生きられない。義とされないことから語り始めます。旧約聖書を知らない異邦人も、旧約聖書を持っているユダヤ人も。その人自身の行いによって、神の前に正しいという人は一人もいません。誰も正しく生きられない。そのため、神様の前で義とされるのは、ただ神様の恵みによるのです。その恵みを受け取るのは、キリストを信じる信仰によると述べます。(1章~3章)

ローマ3章23節~24節

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。


 信じるだけで義と認められるというのは、私が言い始めたことではなく、そもそも聖書が教えていることです。アブラハムも信じて義と認められ、ダビデも行いと関係なく義と認められる幸いを伝えています。(4章)

 キリストを信じるだけで義とされる。それは、神様が私たちを愛していることの証でもあります。そのため、キリストを信じる者は、義とされるだけでなく、神の愛が分かる者とされたもの。神の愛を味わう者は、たとえ苦難の中にあっても、平安や喜び、希望も与えられます。(5章)


 ところで、罪ある者が、キリストによって義とされることで、神様の愛が分かるのであれば、これからも積極的に罪を犯し続けることで、ますます神様の愛を味わうことになるでしょうか。それはありえません。キリストを信じる者は、義と認められるだけでなく、実際に正しい生き方が出来る恵みを頂いた者です。罪の奴隷の人生は終わり、神のしもべの人生が始まったのです。罪の性質が残り、善を行いたいと願いながら罪を犯すことはあっても、自ら望んで罪を犯すことは相応しくありません。(6章~7章)


 それでは、罪の性質がなくなることはあるのでしょうか。キリストを信じる者は、キリストの霊を受ける。その御霊が、今も私たちを作り変えているが、やがて完全に私たちを作り変えて下さる日が来る。その日が来ることを、私たちも、全被造物も待ち望んでいる。(8章)

 信仰によって義として下さる神様は、今も私たちを作り変え、やがて主イエスと同じ姿にまで変えて下さる。一体、これは何を意味しているのかとして、パウロの絶叫が響きます。

 ローマ8章31節~39節

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。』しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


 ローマ書の前半のクライマックス。パウロの述べる福音の中心。神様が私を愛すると言ったら、それを妨げるものは何一つないという大宣言です。この宣言を私たちも自分の告白としたいと思います。


 ところで、この宣言をした後で、パウロの口調は少し落ち着きます。神の愛は、何も妨げることは無いと口にして、思い出されるのは神の民、ユダヤ人、イスラエル人のこと。

キリストの到来まで、守り導かれてきたイスラエル人。主イエスも、パウロもイスラエル人。その同胞の多くが、信仰による義を受け入れない状態にあることが苦しい。とはいえ、全てのイスラエル人が福音を拒絶しているわけではない。福音は今や異邦人に広がり、しかしやがてイスラエル人の中でも福音を信じる者はおこされる。こうして、異邦人、イスラエル人の区別なく、全ての人がキリストの救いを喜ぶことになる。(9~11章)とまとめられます。

 このように、「信仰によって神の前で義とされる。」ということが、どのようなことなのか。様々な視点で語ってきたパウロが、信仰によって神の前で義とされた者は、具体的にどのように生きたら良いのかと語り始めます。前半(1~11章)が教理篇と見れば、後半(12章~16章)は実践編と言えるでしょうか。


 ローマ12章1節~2節

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


 神様が私たちにして下さったことを受け止める者は、その愛に応えて生きるのが良いでしょう。その生活全てが、神様への礼拝となりますように。また、キリストを信じる者は、教会の一員でもあります。教会を立て上げるために、自分の歩みを整えていきましょう。(12章)

 また、教会の中だけでなく、自分の生活する地域で責任を果たすことも重要なことです。権威ある者に対して、なすべき義務を果たすことは正しいことです。(13章)

 信仰の仲間に対して、優しさや思いやりを示しましょう。信仰の根幹に関わること以外で、一致しないことがある時。イエス様を模範としましょう。(14章)

 私はこれからエルサレムに行き、その後でローマを目指します。ローマで過ごした後、皆さんに遣わされてイスパニアにも行きたいと考えています。どうぞお祈り下さい(15章)

 手紙の末尾は、この手紙をローマに運ぶフィベという女性の推薦の言葉。ローマにいる信仰の仲間に対する挨拶。パウロとともにいて、ローマの教会に挨拶したい人たちの言葉が綴られます。(16章)


 以上、ローマ人への手紙のまとめでした。申し訳ありませんが、うまくまとめられた自信がありません。他にも触れておくべき重要なことは、多く記されていると思います。是非とも、ご自身で読み、確認して頂ければと思います。

 まだ訪れたことのない教会へ。自分の信じていること、「福音」について。思う存分記されたローマ人への手紙。「信仰によって神の前で義とされる。」ということが、どのようなことなのか。この福音に込められた、恵みの大きさ、希望の大きさ、神様の愛の大きさに震えたパウロが、この凄さを知ってもらいたいと情熱を傾けた書。

前半(1章~11章)を読み進め、私たちも今一度、私たちに届けられ、与えられた福音が、どれほどの恵みなのか。この福音を知り、信じて生きることが、どれほどの希望を生むのか。神様が、どれほど私を愛して下さっているのか。味わいたいと思います。

 後半(12章~16章)に入り、キリストを信じる者は、どのように生きたら良いのか。自分自身の今の状況で、この書で教えられたことに取り組むとしたら、具体的にどのような生き方を選ぶのか。真剣に考えたいと思います。

 パウロから、そして神様から。私に宛てられた言葉として、向き合うことが出来ますように祈りたいと思います。

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