2018年5月20日日曜日

一書説教(44)「使徒の働き~聖霊が臨む~」使徒1:3~11


私たち皆で聖書を読み通すことに取り組みたいと願い、行ってきました一書説教。今日は四十四回目とります。聖書は六十六巻ですので、これで三分の二が終わることになる。ここまで六年の歩みでした。これまでと同じ速さで取り組むと、あと三年で聖書全体が終わるということになります。ここまで皆さまとともに取り組めたことを感謝しつつ、思いを新たに残り三分の一を駆け上がりたいと思います。

 聖書を読む姿勢として大事なことの一つは、「自分に語られている言葉として受け止めること」です。ただ字面を追って読み終わることのないように。聖書に記されていることが、私にも関係があること。聖書で教えられていることが、神様が私に語られていることと受け止めることが出来るように。聖書を読み進めると同時に、優れた聖書の読み手となれるように、皆で励まし合い、祈り合いたいと思います。


 四十四回目の一書説教は、新約聖書第五の巻き、使徒の働きとなります。四つの福音書の後、天才ルカが記した福音書の続編、新約聖書唯一の歴史書です。復活後のイエス様が天に昇られた後、弟子たちを通して福音が広がる様が記されます。

使徒の働きと言えば、全六十六巻の中でも特に話しの筋道が明確で面白い書。苦難の中で素晴らしい信仰を見せる弟子たちの姿もあれば、目を覆いたくなるような失敗、珍事件、怪事件もある。手に汗握る伝道旅行の記録もあれば、仲間割れの記録もある。この書を通して、神様は私に何を語ろうとされているのかという姿勢を持ちつつ、同時に使徒の働きを読むこと自体も楽しみたいと思います。

毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、どうぞ扱われた書を読んで来て下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。


 ルカの福音書の続編にあたる使徒の働き。前編の最後、ルカの福音書の最後は次のようなものです。

 ルカ24章45節~53節

それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。


 復活後のイエス様が、これから起こることを確認し、約束を語られる場面。弟子たちに、キリストの証人となる使命を与え、力を得るまではエルサレムに留まるように指示を出します。ルカの福音書における大宣教命令の記録、極めて有名、重要な箇所です。その後、イエス様は天に昇り、弟子たちは指示されたとおりにエルサレムにいたところでルカの福音書は閉じられます。

 それでは、この後どうなったのか。実に気になるところですが、それを記したのが使徒の働きです。福音書は四つ。ところがその後の弟子たちの様子を記したのは使徒の働き一つ。よくぞ記してくれたとルカに感謝するところ。

 それでは、使徒の働きの冒頭はどのようなものでしょうか。著者ルカは、天に昇られる直前のイエス様と弟子たちの姿を、今一度記録します。つまり福音書の終わりと、使徒の働きの始まりを、重ねるのです。使徒の働きは大宣教命令から始まる書。

 使徒1章8節~9節

「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。


 先に言いましたように、使徒の働きは筋道が明確な書です。その筋道がどのようなものかと言えば、イエス様がここで語られた約束が筋道となります。つまり、弟子たちに「聖霊が臨む記録」、「エルサレムでの出来事」、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」、「地の果てへ向けての出来事」、という順番でルカは記していくのです。1章8節は、テーマを示すと同時に、目次としての意味合いもある、使徒の働きの鍵となる聖句です。使徒の働きを読む私たちは、この筋道を意識しつつ読みたいところ。


 弟子たちに約束と使命を与えたイエス様が天に昇られた後、聖霊が臨むという約束が実現した記録は2章に記されます。五旬節、ペンテコステと呼ばれる祭りの日に起こった出来事です。

 ところで、聖霊が臨み、力を得るとはどのようなことなのか、誰も分からないこの時。この最初の時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。そのためでしょう。本人も、周りにいる人も、確かに聖霊が臨んだと分かる出来事が起こりました。

 使徒2章1節~4節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。


風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば「言葉」ですが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。(神様は必要に応じて奇跡を行われますが、この場面は最初の時で、弟子たちにはこのような奇跡が必要だったと考えられます。聖霊が臨み力を得るとは、必ずしも他国の言葉を話せるようになることではなく、キリストの証人として生きていく力を得ることだと考えられます。)

聖霊が臨み、弟子たちはキリストの証人として力を得て、具体的に何をしたのか。キリストを宣べ伝えたのです。この日、ペテロは説教をし、その結果、三千人ものクリスチャンが生み出されることになります。大事件と言える場面。主イエスの約束が実現した日のペテロの説教。三千人ものクリスチャンが生み出された説教。その説教が聖書に収録されている。必見の箇所です。(今日は、2018年のペンテコステを祝う聖日。今日、使徒の働きを一気に読み通すことは出来ないとしても、二千年前のペンテコステのペテロの説教、2章までは読み通したいと思います。)この時のペテロの説教は、その終わりに非常に重要な約束の言葉が語られます。一書説教の最後に確認いたします。


続けて3章から7章までが「エルサレムでの出来事」となります。ペンテコステの日から数えれば50日前に、イエス様が磔にされたエルサレム。そこで弟子たちはイエスこそ約束の救い主であると繰り返し宣べ伝えます。その結果、多くのクリスチャンが生み出される一方で、イエスを十字架につけた者たちは困惑し、弟子たちを捕えて、イエスのことを宣べ伝えないようにと命じる。ところが弟子たちは、伝道活動を止めるどころか、迫害されたことを喜び、ますます勢いを増していく場面です。福音書に記された弟子たちの姿からすると大違い。キリストの死と復活を目撃し、聖霊の力を得るということが、これほどまでに人を作り変えると確認出来る記録となります。

 ペテロやヨハネの働きによって建て上げられていくエルサレムの教会。麗しの初代教会。良いことだらけかと思いきや、そうではなく、残念な出来事も記録されています。「アナニヤとサッピラ夫婦の事件」(5章)や「食事の問題」(6章)。完全な教会などないということも教えられます。

 「エルサレムでの出来事」の最後に記されるのは、ステパノの殉教の記録です。クリスチャンに対する迫害が強まる中、遂に執事ステパノが裁判にかけられ、石打ちで処刑される。この裁判でのステパノの説教、その死を前にみせる凄まじい信仰者の姿も印象的です。このステパノの裁判と死が契機となって、エルサレムでの迫害が強まり、クリスチャンはエルサレムから離れることになる。迫害によって、その場所にいられなくなり、新たな地で伝道が広がるということが、使徒の働きでは繰り返しみられますが、まさにここもそのような場面。その結果、ユダヤとサマリアの全土へと伝道活動が広がっていくことになります。

 使徒8章1節

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。


こうして、8章から12章までが、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」となります。この「ユダヤとサマリアの全土での出来事」で特に覚えておきたいことが二つあります。

一つは、パウロ(13章まではサウロと表記されます。当時、一人の人が、二つ以上の名前を持つことはよくあることでした。サウロはユダヤ名。パウロはローマ名です。)が、キリストを信じたこと。徹底的にクリスチャンを迫害した人が、キリストを宣べ伝える者に変えられたということ。

もう一つが、コルネリウスの事件です。この時まで、弟子たちがキリストのことを宣べ伝えていたのは、基本的にユダヤ人です。イエス様は大宣教命令において「あらゆる国の人々」「地の果てまで」と言われていましたが、弟子たちはまだ、異邦人に宣教することに取り組めていなかったのです。しかし、ペテロが異邦人のコルネリウスという人のもとに導かれ、その証を聞き、神様は異邦人にも救いをもたらしていると確信することになります。

使徒10章34節~36節

そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』


 ペテロが、コルネリウスの救いの場面を目撃したというのが大きなことでした。教会もペテロの報告を受けて、「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった。」と確認します。

このように8章から12章は、ただ「ユダヤとサマリア」での出来事が記されているだけではなく、異邦人伝道の急先鋒となるパウロがクリスチャンになり、またペテロを通して教会が異邦人の救いを確認していくなど、「地の果てまで」福音を宣べ伝えていく機運が高まっていく記録ともなっています。


 こうして、13章から28章までが、「地の果てへ向けての出来事」となります。ここまで、主にペテロに焦点が当たっていたのに対して、ここからパウロに焦点があたります。

 13章から21章まで、パウロによる三つの伝道旅行の記録。(15章にエルサレム会議という重要な記事もあります。今回の一書説教では時間の都合で触れません。)驚くほど順調に伝道活動が進む順風満帆な時もあれば、命の危険がある場面、それどころか死んだと思われた場面の記録もあります。何故このような状態で、それでも伝道活動を続けられるのかと不思議に思うほど勇猛果敢な時もあれば、安全なはずなのに恐れと疲れに打ちひしがれる疲労困憊の記録もあります。

 興味深いのは、三回の伝道旅行のそれぞれに、パウロの説教が収録されていること。第一次伝道旅行では、ユダヤ人向けの説教(13章)。第二次伝道旅行では、異邦人向けの説教(17章)。第三次伝道旅行では、クリスチャン向けの説教(20章)。読み比べて頂ければ分かりますが、それぞれ全く異なる語り口調。相手に合わせて変幻自在に語るパウロの説教にも注目したいと思います。

 なお、私たちに馴染みの薄い地名や人名が多く出てきます。読み進める際には、その人がどのような人なのかメモを取ること。地図を確認することも有効な読み方となります。


 21章にて、パウロはユダヤ人に捕まります。イエスを救い主と認めない者たちからすれば、パウロは裏切り者。パウロを亡き者にしようと企て、繰り返し裁判が行われる記録。裁判でのパウロの弁明は、自己弁護の体をとったキリストの証。地方総督、王、多くの群衆を相手に、被告人、囚人として伝道活動を続ける姿が印象的です。裁判でなかなか決着がつかない状況で、パウロはローマ皇帝に上訴し、囚人としてローマに移送されます。ローマにて囚人として軟禁生活を送りながら、そこでもキリストを宣べ続けていたとして、使徒の働きは閉じられます。

 筆を折るルカの言葉が印象的です。

 使徒28章30節~31節

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。


 キリストを宣べ伝えたために囚人となっているパウロ。不自由な生活を強いられる状況。しかし、ルカの目には、「少しもはばかることなく、妨げられることもなく」キリストのことは宣べ伝えられていたと映っていた。この信仰の視点をもって、私たちも使徒の働きを読み、この信仰の視点をもって毎日を生きたいと思います。


 以上、使徒の働きでした。神様が、キリストを信じる者をキリストの証人とするとは、具体的にどのようなことなのか。キリストを宣べ伝えることがいかに貴い働きなのか。考え、確認しながら、読み進めたいと思います。

 最後に、二千年前のペンテコステの日。ペテロが語った説教の最後の言葉に注目して、今日の説教を閉じたいと思います。

 使徒2章38節~39節

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。


 聖霊が遣わされるという約束が実現した日。ペテロはその説教の最後の最後で、非常に重要な約束を語ります。聖霊が臨み、キリストの証人という使命とその力が与えられるのは一体誰なのか。二千年前、イエス様と直接会った弟子たちだけに対する約束なのか。いや、そうではないというのが、この時のペテロが宣言したことです。

 聖霊が臨むのはあの時の弟子たちだけではない。悔い改め、キリストを救い主と認め、洗礼を受ける者。神の民となる者には、同じように聖霊が与えられる。この約束は、その場にいてペテロの説教を聞いている人たちだけでなく、その説教を直接聞くことが出来ない人たちでも、遠くにいる人たちでも、ともかく神の民になる全ての者に対する約束なのだと宣言されるのです。

 使徒の働きに記された、キリストを信じる者に聖霊が臨み、キリストの証人として生きていく記録。これ以降、二千年に渡って、主イエスのことが世界中で語り継がれてきました。この全二十八章の先に、今の私たちがいるのです。あの時、人を作り変え、キリストの証人とし、世界中に福音を広げ、教会を建て上げた聖霊なる神様が、今も同様に働かれている。今の時代、この日本においても、私たちを作り変え、キリストの証人となし、福音を語り、教会を建て上げて下さっている。その確信を胸に、使徒の働きを読みたいと思います。この書が私にも関係があること。この書で教えられていることが、私に語られていることと受け止めることが出来ますように。私たち一同で、キリストの証人として、信仰生活を全うしたいと思います。

2018年5月13日日曜日

Ⅰコリント(6)「御霊に属する人、肉に属する人」Ⅰコリント3:1~9


皆様は、「酸っぱいぶどう」というイソップのお話をご存知でしょうか。一匹のキツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つけます。食べようとして何度も跳び上がるのですが、ぶどうは高い所にあり、手が届かない。どうやっても届かず、怒りと悔しさで一杯になったキツネは何と言ったのか。「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去っていきました、と言うお話です。

 英語で、酸っぱいぶどう、Sour Grapes と言えば「負け惜しみ」を意味するそうですが、その源はここにありました。有名なフロイトの心理学では、このお話を、相手を悪く言うことで自分を守る、プライドを守る。そんな妬みの心、嫉妬心の例と見ているそうです。

 西洋だけではありません。日本にも、「隣の芝生は青く見える」とか、「隣に蔵がたつと、こちらは腹が立つ」など、人の幸せを見るとイライラする。人が手にしている能力や称賛に腹が立つ。そんな妬みの心を表すことばは数多くあるでしょう。

昔も今も、妬みは癒しがたい人間の病。聖書は、神に背いた人間が、自分と人を比べて、妬んだり、争ったりする様を、くり返し描いていました。しかし、それが、イエス・キリストを信じる者の集まり、教会の中にも見られるとしたら、残念なことと言わねばなりません。

今、私たちが読み進めているコリント人への手紙第一は、紀元50年頃、使徒パウロによって書かれたものと言われます。その頃、手紙の宛先であるコリント教会は仲間割れで揺れていました。同じ教会に属しながら、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者はキリスト派を名乗っては分かれ、争っていたと言うのです。

そもそも、コリント教会は、遡ること6年前。始めてヨーロッパの地に足を踏み入れたパウロが、苦労して生み出した教会、我が子のように大切な教会でした。それが、分裂寸前の状態にある。そんな知らせに胸を痛めたパウロは、早速この手紙をしたため、問題の解決にあたることにします。

パウロの耳には、他にも悲しむべき様々な知らせ、問題が届いていましたが、まずは要となる仲間割れの問題から、と考えたのでしょう。1章から4章まで、この手紙の前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっています。

仲間割れ、対立の原因は何か。どうすれば、私たちは一致できるのか。この点を心にとめながら、今日のところ読み進めてゆきたいと思います。


3:1「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」


「兄弟たち。」そうパウロは呼びかけています。仲間割れをしていたにもかかわらず、パウロは、イエス・キリストを信じる者同士、同じ兄弟として、コリント教会の人々に接していました。

しかし、兄弟愛を示す一方、厳しい言葉も向けています。あなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人のようにしか話せなかった、という言葉は、互いに自分を誇り、争うコリントの人々に、どれ程衝撃を与えたことでしょうか。

「御霊に属する人」とは、イエス・キリストを信じた者、クリスチャンのことです。他方、「肉に属する人」と言うのは、「キリストにある幼子」と言い換えられている様に、キリストを信じてはいても、まだ幼子の状態にある人、成人として十分成長していないクリスチャンのことです。

イエス・キリストを信じた時、私たちは新しく神の子として生まれました。新生です。しかし、新生した私たちは、一挙に完成するわけではありません。新生は、成長の始まりであり、スタート。知識、霊性、道徳の点において、私たちは幼子がそうであるように、時間をかけ徐々に成長してゆくのです。

ところが、コリントの人々は、体は成長しても、その霊的成長は止まったままだ、と指摘されました。パウロは、幼子であることと大人であることについて、次に様に教えています。


14:20「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」


幼子のように純真で、初々しい心をもつこと、同時に、判断力、考え方においては、大人になること。それが、私たちに求められていることです。それなのに、どうも、コリントの人々は、信仰の年数を重ねても、考え方において幼子のように自己中心で、成熟が見られなかったようです。

そんなあなた方には、今でも堅い食物、大人の食物は無理ではないでしょうか。そう諭すパウロでした。


3:2「私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」


人間の知恵や雄弁を重んじるコリントの人々の中には、「パウロの教えは、大したものではない。底が浅い、単純で、初歩的なことばかりだった」と批判する者がいたのでしょう。

知恵を誇る彼らは、人間の知恵では神のことは理解できないという、知恵の限界を弁えることがなかったようです。雄弁を重んじる彼らは、黙々と十字架に上り、苦しみに耐え、人類の罪の贖いとなられた、イエス・キリストの行動の意味を理解することができなかったのです。

ですから、パウロは、「あなたがたが幼子のように未熟であったから、私はあえて単純な福音、キリストの十字架の事実を説いたのですよ。」と答えています。

パウロは、相手に応じて福音の説き方、教え方を工夫する伝道者でした。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のごとく。相手の信仰、能力に応じて、みことばを語りました。「人々の聞く能力に応じて、みことばを話された」イエス様のことを、模範としていたのでしょう。

ともかく、パウロが前に訪問した時には、未だ堅い食物はコリントの人々には無理だったし、聞くところによれば、年数を経た今でもまだ無理ではないかと、指摘したのです。


3:3、4「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。」


コリントの人々が霊的に未熟であることの証拠として、もう一度、仲間割れの実態が引き出されました。ここで、パウロ派とアポロ派だけがあげられ、ペテロ派が除かれたのは、パウロとアポロのふたりが、より深くコリント教会に関わり、奉仕してきたからでしょう。

そして、コリントの人々に対する言葉は、厳しさを増しています。前の1節で「肉に属する人」と言われた彼らが、ここでは「肉の人」「ただの人のよう」と言われています。「肉の人」は「肉に属する人」よりも未熟で、より一層自己中心の思い、欲望に支配されている者を意味してます。また、「ただの人」とは、まったく神を畏れることのない人を指していました。

せっかく、イエス・キリストを信じ、救われたと言うのに、あなたがたは肉の人、ただの人のようですね。体は大きくなっても、我を張って兄弟げんかを繰り返す。そんな情けない子どもたちを叱らねばならない親の悲しみが、聞こえてくるようです。

ところで、その頃ギリシャの世界でよく行われていたのが、特別な知恵や力を持つ人を神のように崇めること、人間崇拝でした。コリント教会にも、その気配、影響を感じたのでしょう。パウロは、自分もアポロも崇められるべき神ではない。あなた方が信仰に入るため、神が用いたしもべに過ぎないと語ります。


3:5、6「アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」


私たちが説いた教えも、私たちが発揮した力も、私たちが収めた成功も、そのすべては、私たちのものではなく、神から与えられたものに他ならない、と言う勢いです。尤も、だからと言って、パウロが自分たちの働きを過小評価していたわけではありませんでした。パウロは使徒、アポロは伝道者として、神に立てられた者であることを認めていたのです。

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」と、自分たちの役割をわきまえながらも、「成長させたのは神です。」と、唯一の神をあがめる。パウロは、自分たちの奉仕を、過大評価も過小評価もしてはいなかったのです。

パウロは誰よりも早くコリントの町を訪れて、コリント教会の建設にあたりました。その後コリントに来て、兄弟姉妹を大いに助けたのがアポロ。農夫に例えれば、パウロが植えて、アポロが水を注いだのです。しかし、それは各々与えられたことをしただけで、成長させたのは神だ、と言うのです。神が主人で、自分たちはしもべ。しもべを主人のように過大評価をしてもいけないし、神のしもべとして働く者を過小評価すべきでもない。このバランスの取れた考え方が、次の節にも続き、結論となっています。


3:7~9「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」


パウロが農夫のことを例としているのは、主人である神と、働き手である人間の関係を、コリントの人々に良く分かって貰いたかったからでしょう。農夫は土壌を作ることはできません。また、日光も空気も作ることはできません。農夫は、ただ神の作った種を、神の作った土に植え、神の作った水をこれに注いで、あとは収穫を待つのみです。

伝道も同じでした。私たちは福音の種を蒔き、水を注ぐだけ。そのほか全てのことは神様がしてくださるからです。パウロとアポロとは、まるで一人の農夫のように、働いてきました。パウロが種を植え、アポロが水を注ぐ。同じ使命、同じ心をもって奉仕したのであって、二人の間には、コリント教会の人々が勝手に騒ぎ立てているような対立は、全くなかったのです。

私たちは、同じ神のために働く同労者。各々が神の教会に仕えられたことを喜び、感謝する仲間同士。それなのに、どうして、あなたたちは私たちの名前を使って、仲間割れしているのですか。パウロとアポロ、どちらが上で、どちらが下などと、言い争うのですか。あなたがたも、私とアポロのように、一致してください。そう勧める、パウロの声が聞こえてくるところです。

こうして、今日の箇所を読み終えて、最後に確認したいのは、肉に属する人とはなにか。御霊に属する人とは何かと言うことです。コリント教会の人々が、自分たちのことをどう思っていたのか。この手紙の中のいくつかのことばから、伺うことができます。


  81「私たちはみな知識を持っている。」 

10:12「(信仰に堅く)立っている。」

14:37「自分を預言者、御霊の人と思っている。」


 しかし、その実態はどうだったのでしょうか。私たちはみな知識を持っていると言いながら、その知識で一人の人をあがめ、他の人やグループ批判し、争っていました。信仰に堅く立っていると確信していましたが、酷い不品行を許しています。自分を預言者、御霊の人と思っていましたが、何のことはない。教会内のトラブルを解決できず、この世の法廷に訴える始末だったのです。

 限りある知識で我を押し通し、相手を批判、攻撃する。善悪の判断力が乏しい。問題を解決する実際的な知恵や忍耐力を欠いている。肉に属する人とは、自分の中にある未熟さに気がつかない人、自分の未熟さを認めて、それに向き合うよりは、人を責めたり、周りに責任を押し付けることで、自分を守ろうとする人。それなのに、自分に問題はないと考えているのが肉に属する人なのです。

 それに対して、御霊に属する人は、神の前で、自分にどれ程未熟な点があるのか、認めている人、それを修正しようと努める人です。相手を批判することよりも、相手を理解し、建て上げるために知恵を尽くす人。神の目で、事の善悪を判断する人。争うことよりも、和解することを求め、努力する人。神の無限の愛に信頼して、罪の悔い改めの歩みを続ける人です。

 私たちが肉に属する人、キリストにある幼子から、御霊に属する人へと成長することを目指す時、私たちの家庭、教会、職場、地域、世界、そこに一致と平和をもたらすことができる。その為に、私たちは神様に生かされていることを、心に刻みたいと思います。今日の聖句です。


 ローマ12:16,17「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」

2018年5月6日日曜日

コリント人への手紙第一2章10節~16節「私たちはキリストの心を」


日本の民話に知恵比べのお話しがあります。昔々、タヌキとサルが知恵比べをすることになりました。「サル君は頭がいいからな。余ほど上手くやらないと、負けてしまう。」そう考えたタヌキは、きれいな娘に化けてサルがやって来るのを待つ事にします。

ところが、サルは一目でタヌキが娘に化けているのに気がつきました。「だめ、だめ。いくら上手く化けても、後ろからしっぽが出ていてはね。」本当は、しっぽなんか出ていないのですが、タヌキはビックリして、元の姿に戻ってしまうのです。「やっぱり、タヌキ君か。僕の嘘に、まんまとひっかかったな。」

「くそー!」タヌキは悔しくてたまりません。何とかしないと、ますますサルに馬鹿にされます。「でも、どうやってサル君に仕返しをしよう。」タヌキが考えていると、向こうから魚屋が車を引いてきます。それを見たタヌキは、一計を案じると、死んだふりをして、道端に倒れました「おや、こんなところにタヌキが死んでいるぞ。しめしめ、これで暖かい毛皮が作れる。」魚屋は喜んで、タヌキを車に乗せました。すると、車の上でそっと起き上がったタヌキは、魚を沢山抱えて飛び降りると、サルのところに向かいます。

それを見たサルは、吃驚仰天。「すごいじゃないか。そんなに沢山どこで取ったんだい。」するとタヌキは、何食わぬ顔で言いました。「池で取ったのさ。」「へえ?どうやって。」「ああ、簡単さ。池の上にある松の枝から尻尾を下げておくと、いくらでも魚が釣れるんだ。」

「へえ、それなら、僕もその池へ連れて行っておくれよ。」そこでタヌキは、松の木の生えている池にサルを連れてゆきます。サルは教えられた通り木に登ると、枝の先につかまって尻尾を池に下げました。でも、なかなか魚は釣れません。「あきらめちゃ、駄目だよ。僕だって、一晩中池に尻尾を下げていたんだもの。」それを聞いたサルは、夜になっても震える程寒いのを我慢しながら、池に尻尾を下げ続けました。さて、朝になってタヌキが様子を見に行ってみると、可哀そうなことに、サルはカチカチに凍りついて死んでいた、と言うお話です。「取らぬ狸の皮算用」と言う諺はこの昔話から、とも言われます。

この様な知恵比べの話は、古今東西の民話、神話に見られるもの。どうも、人間はせっかくの知恵を競って相手を倒す。知恵を誇って相手をやり込める。そんなことのために使うことが多かったようです。神様から与えられた知恵の悪用、乱用でした。

今、私たちが読み進めていますコリント人への手紙第一。手紙の宛先であるコリント教会も仲間割れで揺れていました。同じ教会に属しながら、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者はキリスト派を名乗って、相争う教会。その原因は、彼らが自分の知恵を、自分が支持する指導者の知恵やことばの雄弁さを互いに誇っていたから、と考えられます。

6年前はじめてヨーロッパの地に足を踏み入れ、自ら苦労して生み出した教会が、分裂寸前の状態にある。残念な知らせを受けたパウロは、まずこの手紙をしたため、問題の解決にあたることにします。

但し、この教会の問題は分派、対立だけではありませんでした。教会員同士の揉め事をこの世の裁判所に訴える者、性的不道徳に陥る者、聖餐式の後の食事の席で貧しい兄弟を辱める者など、これが本当にキリスト教会かと嘆きたくなる程、様々な問題が存在したのです。

パウロは愛する教会が、あるべき状態から落ちてしまったことに胸を痛めました。しかし、嘆いてばかりいても仕方がありません。コリントの教会をあるべき姿へと回復すべく、一つ一つ問題を取り上げては、処方箋を与えてゆくことになります。そして、まず取り上げるべきは仲間割れの問題と考えたのでしょう。

仲間割れせず、一致するように。1章から4章まで、この前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっていました。この点を心にとめて、今日のところ読み進めてゆきたいと思います。

 

2:10「それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」

 

「それを」と言われています。「それ」と言うのは、前の段落でパウロが神の知恵と言ったこと、十字架につけられたイエス・キリストのことです。

世界の創造の初めから、神様は人間を罪から救う方法として、キリストの十字架を定めておられました。人間と言う人間が、だれ一人目で見たことも、耳で聞いたことも、心に思い浮かべることもなかった知恵でした。それを、神様は愛する者,私たちクリスチャンに備えてくださった、と言うのです。

しかし、そうだとすると、その神の知恵を、果たして私たちは理解できるのだろうか。豚に真珠と言うことになってしまわないか。そんな心配をする人もいるのでは、と考えたのでしょう。事実、多くのユダヤ人が、キリストが神の子であること、神の子が十字架に死んだことを理解できず、躓きましたから、そんな心配も尤もでした。

たとえ、救い主がこの世界に来ても、事実十字架に死んだとしても、その意味が理解できなければ、イエス様を信じることも、イエス様によって救われることもできないのが人間なのです。けれども、神様は御霊、聖霊と言う賜物を与えてくださった。救い主のイエス様ばかりか、十字架の意味も理解できるようにと御霊をも与えてくださった。私たちは本当に神様に愛されている幸せ者。そうパウロは語るのです。

さらに、コリント教会の人々が、人間の知恵で信じ、救われたと思わぬように、信仰も救いも神の恵みによることを説くために、一つの例を挙げています。

 

2:11~13「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。」

 

確かに、私たちの本当のことは、私たち自身の心が知るところです。周りの人が知れる私たちは、私たちの一部でしょう。人のことは、外に現れた言葉やしぐさ、表情によって相当なところまで、推し量ることができます。けれど、本心を洗いざらいまで理解することはできません。複雑な人の心となると、外に現れたことと本心とは、まるっきり正反対なることもあります。まさに、人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているのか。いや、その人以外誰も知らない、と言うことになります。

何の為に行動したのかと言う動機。何をしたいと考えているのかと言う意向、何を感じているのかと言う感情。それらは奥深くにあればあるほど、その人の心にしか知られなくなるものでしょう。

同じように、神様のことも、神様のほかには誰も知らないはずです。しかし、私たちは幸いにも神の霊、御霊を受けたので、恵みとして与えられたもの、すなわち、イエス様の十字架とその意味について理解することができるし、人に伝えることもできるのではないですか。そう使徒は力説しています。

私たちが、最も大切な思いを知ってほしい、伝えたいと願うのは、どんな人でしょう。親と子、夫と妻、友と友。自分にとってかけがえのない人、愛する人でしょう。神様にとって、私たちは子であり、妻であり、友。私たちが愛する存在であるからこそ、御子イエス様の十字架に込めた大切な思いを理解し、受けとめることのできる御霊を、神様は与えてくださったのです。

神様を知る、神様の知恵、神様の働きや力を知ると言う、特別な恵みを与えられた私たちは、さらにこう祈るべし。パウロは、こんな祈りを勧めていました。

 

エペソ1:1719「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

 

「もっと私に、神様を知るための御霊を与えてください。私の心の目が見えるようになって、私の希望、私が受け継ぐ祝福、私のうちに働く神様の力について、知ることができますように。」私たちも神様を知るための祈り、ささげ続ける者でありたいと思います。

罪人の私たちが、神の知恵である、イエス様の十字架の意味を理解できること、人に説明し、伝えられることが、いかに恵みであるか。それは、生まれながらの人間が、これを理解できず、拒むことからも分かる。信仰も救いも、あくまでも神様の恵みであることを説いてやまないパウロです。

 

2:14,15「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。」

 

この世界には、学者、賢者、哲学者と呼ばれる人がいます。古今東西あらゆる学問に通じている博識の人もいます。尊敬すべき人々です。しかし、そうであったとしても、この世の知恵、人間の知恵をもってして、神の知恵、イエス様の十字架のことは理解できないと言うのです。それは、御霊を受けた者が初めて理解し、信じることができると言うのです。

この世界を創造した神がいると聞くと、「世界は進化してきたと言うのが常識だ、それなのに、そんな非科学的なことを」と反論する学者。神が人となり、十字架で血を流し苦しまれたと聞くと、「そんな残酷なことを」と眉を顰める宗教家。イエス・キリストを信じることで救われると聞くと、「それじゃあ、人間の知恵や努力はどうなるのか」と不思議がる賢者たち。

しかし、「かっては私もそうした人々の仲間でした。あなたがたも同じではなかったですか。そんな私たちが、今はイエス・キリストを信じている。そればかりか、私たちにはキリストの心がある。」そう語るパウロは、自分の心に御霊の神がおられることを、確信していたように思えます。

 

2:16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。」

 

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」と言うことばは、旧約聖書イザヤ書からの引用でした。誰が主の心を知り、主に助言できるのか。いや、だれ一人主の心を知ることも、助言することもできない。人間は罪によって、神様の心、思いを知る能力を全く失ったことを教えています。

私たちもみな、同じ状態にあったのに、神様の一方的な恵みよって罪から救われ、今はキリストの心をさえ知っている。この驚くべき恵み、この信じられないような幸いを、あなたたちは分かっていますか。コリントの兄弟たちよ。もし、本当にこの恵みが分かっているのなら、なぜ仲間割れなどしているのですか。ここには、そんなパウロの叫び、訴えが聞こえてくるようです。

最後に、今日の箇所で確認したいのは、人間の知恵と神の知恵の違いです。昔話のサルとタヌキのように、また、コリント教会のように、人間は知恵を誇り、上に立とうとします。人に勝ち、人を責めるためにせっかくの知恵を用いるのです。これが仲間割れ、対立、争いの原因でした。

しかし、神の知恵は違います。神の知恵は、イエス・キリストの十字架に見られるように、自らを誇りません。むしろ、人の下に立ち、徹底的に人に仕えようとします。人を責め、倒すためではなく、人を助け、人を建て上げるために働くのです。

パウロは、私たちにはキリストの心があると言いました。そのキリストの心を表すことばを今日の聖句として、ともに読みたいと思います。

 

マルコ1045「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 

「仕えられるためではなく、仕えるために」このキリストの心を見失う時、私たちは自分の知恵を誇り、相争うようになるのではないでしょうか。しかし、このキリストの心を回復する時、私たちは生活の場である、家庭、教会、職場、地域に、平和と一致の関係を築いてゆくことができるのです。

イエス様なら、今この時、この場所で、どう語り、どう行動されるのか。キリストの心を知る者として、私たちは日々の歩みを進めてゆきたく思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...