2018年5月20日日曜日

一書説教(44)「使徒の働き~聖霊が臨む~」使徒1:3~11


私たち皆で聖書を読み通すことに取り組みたいと願い、行ってきました一書説教。今日は四十四回目とります。聖書は六十六巻ですので、これで三分の二が終わることになる。ここまで六年の歩みでした。これまでと同じ速さで取り組むと、あと三年で聖書全体が終わるということになります。ここまで皆さまとともに取り組めたことを感謝しつつ、思いを新たに残り三分の一を駆け上がりたいと思います。

 聖書を読む姿勢として大事なことの一つは、「自分に語られている言葉として受け止めること」です。ただ字面を追って読み終わることのないように。聖書に記されていることが、私にも関係があること。聖書で教えられていることが、神様が私に語られていることと受け止めることが出来るように。聖書を読み進めると同時に、優れた聖書の読み手となれるように、皆で励まし合い、祈り合いたいと思います。


 四十四回目の一書説教は、新約聖書第五の巻き、使徒の働きとなります。四つの福音書の後、天才ルカが記した福音書の続編、新約聖書唯一の歴史書です。復活後のイエス様が天に昇られた後、弟子たちを通して福音が広がる様が記されます。

使徒の働きと言えば、全六十六巻の中でも特に話しの筋道が明確で面白い書。苦難の中で素晴らしい信仰を見せる弟子たちの姿もあれば、目を覆いたくなるような失敗、珍事件、怪事件もある。手に汗握る伝道旅行の記録もあれば、仲間割れの記録もある。この書を通して、神様は私に何を語ろうとされているのかという姿勢を持ちつつ、同時に使徒の働きを読むこと自体も楽しみたいと思います。

毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、どうぞ扱われた書を読んで来て下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。


 ルカの福音書の続編にあたる使徒の働き。前編の最後、ルカの福音書の最後は次のようなものです。

 ルカ24章45節~53節

それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。


 復活後のイエス様が、これから起こることを確認し、約束を語られる場面。弟子たちに、キリストの証人となる使命を与え、力を得るまではエルサレムに留まるように指示を出します。ルカの福音書における大宣教命令の記録、極めて有名、重要な箇所です。その後、イエス様は天に昇り、弟子たちは指示されたとおりにエルサレムにいたところでルカの福音書は閉じられます。

 それでは、この後どうなったのか。実に気になるところですが、それを記したのが使徒の働きです。福音書は四つ。ところがその後の弟子たちの様子を記したのは使徒の働き一つ。よくぞ記してくれたとルカに感謝するところ。

 それでは、使徒の働きの冒頭はどのようなものでしょうか。著者ルカは、天に昇られる直前のイエス様と弟子たちの姿を、今一度記録します。つまり福音書の終わりと、使徒の働きの始まりを、重ねるのです。使徒の働きは大宣教命令から始まる書。

 使徒1章8節~9節

「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。


 先に言いましたように、使徒の働きは筋道が明確な書です。その筋道がどのようなものかと言えば、イエス様がここで語られた約束が筋道となります。つまり、弟子たちに「聖霊が臨む記録」、「エルサレムでの出来事」、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」、「地の果てへ向けての出来事」、という順番でルカは記していくのです。1章8節は、テーマを示すと同時に、目次としての意味合いもある、使徒の働きの鍵となる聖句です。使徒の働きを読む私たちは、この筋道を意識しつつ読みたいところ。


 弟子たちに約束と使命を与えたイエス様が天に昇られた後、聖霊が臨むという約束が実現した記録は2章に記されます。五旬節、ペンテコステと呼ばれる祭りの日に起こった出来事です。

 ところで、聖霊が臨み、力を得るとはどのようなことなのか、誰も分からないこの時。この最初の時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。そのためでしょう。本人も、周りにいる人も、確かに聖霊が臨んだと分かる出来事が起こりました。

 使徒2章1節~4節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。


風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば「言葉」ですが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。(神様は必要に応じて奇跡を行われますが、この場面は最初の時で、弟子たちにはこのような奇跡が必要だったと考えられます。聖霊が臨み力を得るとは、必ずしも他国の言葉を話せるようになることではなく、キリストの証人として生きていく力を得ることだと考えられます。)

聖霊が臨み、弟子たちはキリストの証人として力を得て、具体的に何をしたのか。キリストを宣べ伝えたのです。この日、ペテロは説教をし、その結果、三千人ものクリスチャンが生み出されることになります。大事件と言える場面。主イエスの約束が実現した日のペテロの説教。三千人ものクリスチャンが生み出された説教。その説教が聖書に収録されている。必見の箇所です。(今日は、2018年のペンテコステを祝う聖日。今日、使徒の働きを一気に読み通すことは出来ないとしても、二千年前のペンテコステのペテロの説教、2章までは読み通したいと思います。)この時のペテロの説教は、その終わりに非常に重要な約束の言葉が語られます。一書説教の最後に確認いたします。


続けて3章から7章までが「エルサレムでの出来事」となります。ペンテコステの日から数えれば50日前に、イエス様が磔にされたエルサレム。そこで弟子たちはイエスこそ約束の救い主であると繰り返し宣べ伝えます。その結果、多くのクリスチャンが生み出される一方で、イエスを十字架につけた者たちは困惑し、弟子たちを捕えて、イエスのことを宣べ伝えないようにと命じる。ところが弟子たちは、伝道活動を止めるどころか、迫害されたことを喜び、ますます勢いを増していく場面です。福音書に記された弟子たちの姿からすると大違い。キリストの死と復活を目撃し、聖霊の力を得るということが、これほどまでに人を作り変えると確認出来る記録となります。

 ペテロやヨハネの働きによって建て上げられていくエルサレムの教会。麗しの初代教会。良いことだらけかと思いきや、そうではなく、残念な出来事も記録されています。「アナニヤとサッピラ夫婦の事件」(5章)や「食事の問題」(6章)。完全な教会などないということも教えられます。

 「エルサレムでの出来事」の最後に記されるのは、ステパノの殉教の記録です。クリスチャンに対する迫害が強まる中、遂に執事ステパノが裁判にかけられ、石打ちで処刑される。この裁判でのステパノの説教、その死を前にみせる凄まじい信仰者の姿も印象的です。このステパノの裁判と死が契機となって、エルサレムでの迫害が強まり、クリスチャンはエルサレムから離れることになる。迫害によって、その場所にいられなくなり、新たな地で伝道が広がるということが、使徒の働きでは繰り返しみられますが、まさにここもそのような場面。その結果、ユダヤとサマリアの全土へと伝道活動が広がっていくことになります。

 使徒8章1節

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。


こうして、8章から12章までが、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」となります。この「ユダヤとサマリアの全土での出来事」で特に覚えておきたいことが二つあります。

一つは、パウロ(13章まではサウロと表記されます。当時、一人の人が、二つ以上の名前を持つことはよくあることでした。サウロはユダヤ名。パウロはローマ名です。)が、キリストを信じたこと。徹底的にクリスチャンを迫害した人が、キリストを宣べ伝える者に変えられたということ。

もう一つが、コルネリウスの事件です。この時まで、弟子たちがキリストのことを宣べ伝えていたのは、基本的にユダヤ人です。イエス様は大宣教命令において「あらゆる国の人々」「地の果てまで」と言われていましたが、弟子たちはまだ、異邦人に宣教することに取り組めていなかったのです。しかし、ペテロが異邦人のコルネリウスという人のもとに導かれ、その証を聞き、神様は異邦人にも救いをもたらしていると確信することになります。

使徒10章34節~36節

そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』


 ペテロが、コルネリウスの救いの場面を目撃したというのが大きなことでした。教会もペテロの報告を受けて、「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった。」と確認します。

このように8章から12章は、ただ「ユダヤとサマリア」での出来事が記されているだけではなく、異邦人伝道の急先鋒となるパウロがクリスチャンになり、またペテロを通して教会が異邦人の救いを確認していくなど、「地の果てまで」福音を宣べ伝えていく機運が高まっていく記録ともなっています。


 こうして、13章から28章までが、「地の果てへ向けての出来事」となります。ここまで、主にペテロに焦点が当たっていたのに対して、ここからパウロに焦点があたります。

 13章から21章まで、パウロによる三つの伝道旅行の記録。(15章にエルサレム会議という重要な記事もあります。今回の一書説教では時間の都合で触れません。)驚くほど順調に伝道活動が進む順風満帆な時もあれば、命の危険がある場面、それどころか死んだと思われた場面の記録もあります。何故このような状態で、それでも伝道活動を続けられるのかと不思議に思うほど勇猛果敢な時もあれば、安全なはずなのに恐れと疲れに打ちひしがれる疲労困憊の記録もあります。

 興味深いのは、三回の伝道旅行のそれぞれに、パウロの説教が収録されていること。第一次伝道旅行では、ユダヤ人向けの説教(13章)。第二次伝道旅行では、異邦人向けの説教(17章)。第三次伝道旅行では、クリスチャン向けの説教(20章)。読み比べて頂ければ分かりますが、それぞれ全く異なる語り口調。相手に合わせて変幻自在に語るパウロの説教にも注目したいと思います。

 なお、私たちに馴染みの薄い地名や人名が多く出てきます。読み進める際には、その人がどのような人なのかメモを取ること。地図を確認することも有効な読み方となります。


 21章にて、パウロはユダヤ人に捕まります。イエスを救い主と認めない者たちからすれば、パウロは裏切り者。パウロを亡き者にしようと企て、繰り返し裁判が行われる記録。裁判でのパウロの弁明は、自己弁護の体をとったキリストの証。地方総督、王、多くの群衆を相手に、被告人、囚人として伝道活動を続ける姿が印象的です。裁判でなかなか決着がつかない状況で、パウロはローマ皇帝に上訴し、囚人としてローマに移送されます。ローマにて囚人として軟禁生活を送りながら、そこでもキリストを宣べ続けていたとして、使徒の働きは閉じられます。

 筆を折るルカの言葉が印象的です。

 使徒28章30節~31節

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。


 キリストを宣べ伝えたために囚人となっているパウロ。不自由な生活を強いられる状況。しかし、ルカの目には、「少しもはばかることなく、妨げられることもなく」キリストのことは宣べ伝えられていたと映っていた。この信仰の視点をもって、私たちも使徒の働きを読み、この信仰の視点をもって毎日を生きたいと思います。


 以上、使徒の働きでした。神様が、キリストを信じる者をキリストの証人とするとは、具体的にどのようなことなのか。キリストを宣べ伝えることがいかに貴い働きなのか。考え、確認しながら、読み進めたいと思います。

 最後に、二千年前のペンテコステの日。ペテロが語った説教の最後の言葉に注目して、今日の説教を閉じたいと思います。

 使徒2章38節~39節

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。


 聖霊が遣わされるという約束が実現した日。ペテロはその説教の最後の最後で、非常に重要な約束を語ります。聖霊が臨み、キリストの証人という使命とその力が与えられるのは一体誰なのか。二千年前、イエス様と直接会った弟子たちだけに対する約束なのか。いや、そうではないというのが、この時のペテロが宣言したことです。

 聖霊が臨むのはあの時の弟子たちだけではない。悔い改め、キリストを救い主と認め、洗礼を受ける者。神の民となる者には、同じように聖霊が与えられる。この約束は、その場にいてペテロの説教を聞いている人たちだけでなく、その説教を直接聞くことが出来ない人たちでも、遠くにいる人たちでも、ともかく神の民になる全ての者に対する約束なのだと宣言されるのです。

 使徒の働きに記された、キリストを信じる者に聖霊が臨み、キリストの証人として生きていく記録。これ以降、二千年に渡って、主イエスのことが世界中で語り継がれてきました。この全二十八章の先に、今の私たちがいるのです。あの時、人を作り変え、キリストの証人とし、世界中に福音を広げ、教会を建て上げた聖霊なる神様が、今も同様に働かれている。今の時代、この日本においても、私たちを作り変え、キリストの証人となし、福音を語り、教会を建て上げて下さっている。その確信を胸に、使徒の働きを読みたいと思います。この書が私にも関係があること。この書で教えられていることが、私に語られていることと受け止めることが出来ますように。私たち一同で、キリストの証人として、信仰生活を全うしたいと思います。

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