2018年11月25日日曜日

Ⅰコリント(15)「結婚、その祝福と課題」Ⅰコリント7:12~16


結婚に関する古今東西の格言は多種多様です。中でも有名なことばの一つは、ギリシャの哲学者ソクラテスのことばかもしれません。ソクラテスは言いました。「人から結婚したほうが良いのでしょうか、それともしないほうが良いのでしょうかと問われるならば、「どちらにしても後悔するだろう」と私は答える。」

ソクラテスの妻は悪妻として有名でした。朝から晩まで亭主の稼ぎのなさを愚痴っている妻を見て、「よくまあ、あの小言に耐えられるね」と友人が言うと、ソクラテスは「水車の回る音も、聞きなれれば苦にならないものだよ。」と答えたとか。また、いくら文句を言っても自分を相手にしないソクラテスに癇癪を起した妻が、頭から桶一杯の水を浴びせると、ソクラテスは「雷の後に、雨はつきものだ。」と語ったとか。様々なエピソードが残っています。

しかし、ソクラテス自身はこの妻と別れることなく、生涯をともにしたようです。ある時、「そんなにひどい妻なら別れたらいいじゃないか」と忠告した友人に対し、「良い妻を持てば幸せになれたかもしれないが、悪い妻を持てば私のように哲学者になれる。」と答えたそうです。このことばを聞くと、思いの外、ソクラテスは口煩い妻との結婚関係を大切にしていたのではないかと思えてきます。

私が担当する通常の礼拝の際、説教で扱ってきたコリント人への手紙第一は、使徒パウロが書き送ったもの。宛先のコリント教会は、ソクラテスが生まれたギリシャの国コリントの町に、紀元1世紀、手紙の著者パウロ自身によって建てられました。しかし、労苦の末に建てた教会であるにも関わらず、コリント教会は信仰的に未熟な状態にあり、様々な問題を抱えていたのです。その一つが、性的賜物と結婚の問題についての混乱ぶりでした。

さて、先回説教でこの手紙を読み進めたのが、2か月前のことです。ですから今日は先ず、この問題を扱った71節から11節の内容を確認することから、始めたいと思います。

その頃、コリントはアジアとヨーロッパを結ぶ交通の要となる港町でした。その為に町は貿易で栄え、ギリシャ第一の商業都市と評判のコリントには、仕事を求めて各地から人々が集まってきます。旅人も立ち寄ります。彼らの欲望を満たすために、夜ともなると神殿に仕える巫女が山を下り、聖なる娼婦となったと言われます。物質的には豊かでも、道徳的には腐敗した町、それが当時のコリントでした。

その様な町の中にあって、本来なら神様から与えられた性的な賜物を正しく用い、結婚を尊んで、町の人々に良い影響を与えるべき教会が、逆に町を覆う悪しき風潮に影響されていたのです。

片や、遊女のもとに通う快楽主義者がいるかと思えば、他方、男女の性的交わりは、どんな場合でも汚らわしいことと考え、結婚をも否定する禁欲主義者もいました。結婚していない者は社会的に一人前ではないと考える風潮のもと、闇雲に結婚を願う独身者ややもめがいるかと思えば、神の前に誓いを立て夫婦として結ばれながら、身勝手な理由で離婚を求める男女もいると言う。何とも酷い有様だったのです。

こうして、混乱を極めたコリント教会ですが、さすがに心ある人は「このままで良い」とは思えなかったのでしょう。自分たちにとって信仰の父とも言えるパウロに質問状を送ったらしいのです。その質問状に対してパウロが答えたのがこの手紙でした。

自らが労苦して建てた教会の混乱ぶりに、使徒はどれ程心を痛めたことでしょう。しかし、そんな彼らをも、なお兄弟として愛し、仕えたのがパウロです。パウロは、この7章で、時に彼らの誤りを正し、時に彼らを励まし、時に彼らを戒め、時に彼らを慰めています。その様に心砕きながら、神様が定めた結婚の結婚の祝福とコリント人の課題を明らかにしてゆくのです。

先ずは、禁欲主義者からの質問に答えた部分から見てゆきます。

7:1~4「さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」


「淫らな行いを避けるため、男は自分の妻を持ち、女も自分の夫を持て。」とあるのは、情欲に引かれて罪を犯しやすい人間の弱さを直視せよと言う、禁欲主義者へのことばでしょう。しかし、続くことばは、男尊女卑の風潮が強い時代にあって、革命的とも言える男女同権、夫婦対等の結婚観でした。

パウロは、夫婦がお互いに、自分のからだを相手にささげる義務があると語っています。性的な交わりは汚れたものでも、恥ずべきものでもないこと、むしろ、尊重し、感謝すべき神の賜物であること。夫婦が人格的に一つとなるための大切な行いであることを教えているのです。

当時の結婚には、子を産んで家を守る。そういう社会的な意味が色濃くありました。ですから、子を産めない女性は役立たずとして、辱められたのです。その様な女性を妻にした男性は他に妻を娶ること、側女を持つことが半ば公然と認められていたことも、女性を苦しめたことでしょう。

しかし、このみことばは、夫婦の性的な交わりが決して子をもうけるためだけのものではないこと、夫婦の愛情を確認すると言う大切な意義があることを示していました。パウロは、男尊女卑の時代、妻を自分の所有物のように考えていた夫の高慢を打ち砕いたのです。自分を夫の所有物のように感じていた妻の心に、対等な人生のパートナーとしての誇りをもたらしたのです。

さて、この様にして、結婚の尊さを説いたパウロですが、独身と比べて結婚を上としたわけではありません。その頃の社会にあった風潮とは異なり、結婚が人間として成熟する条件と考えていた訳でもありません。むしろ、その様な社会にあって、肩身の狭い思いをしていたであろう独身者ややもめたちを、励ましていました。


7:7~9「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。」


「一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」とは、何と柔軟な考え方でしょう。 「私のように、大切な働きを神様から与えられていて、その働きを結婚よりも優先できる賜物があるのなら、独身でいるのが良いと思います。しかし、もしあなたに結婚を願う思いがあり、ふさわしい相手が与えられているのなら、結婚する方が良いでしょう。」そう使徒は語っています。

ひとりひとり与えられた賜物と状況を考え、自分にふさわしい生き方を選べばよい。このことばが、どれ程コリント教会の独身者たちから肩の力を抜き、心励ましたことかと思わされるのです。

そして、最後に見たいのは、神に誓約をささげ、結婚した者たちへの命令でした。


7:10,11「すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。」


離婚は原則禁止。人は神が結び合わせたものを引き離すことはできない。この命令は、世界の始めに神様が結婚を定めた時に示され、イエス様も弟子たちに語られたものです。パウロはそれを再確認していました。「相手が姦淫を犯した場合は、離婚も許可される」と言う例外規定が省かれているのは、コリント教会の人々も、それは既に承知していたからでしょう。

禁欲主義者の誤りを正し、結婚本来の意義を示したこと。独身者ややもめたちを励まし、彼らの生き方を良しとしたこと。身勝手な理由による離婚の禁止。以上、7章の1節から11節まで、先回の内容を確認してきました。

今日の箇所は、先回からの続きで、クリスチャンと未信者の夫婦の場合を扱っています。前のクリスチャン同士の夫婦の場合は、イエス様の教えを再確認すればよかったパウロも、クリスチャンと未信者の夫婦の場合については、イエス様の教えが残っていませんから、「これを言うのは主イエスではなく、私です。」と断っていました。


7:12~14「そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。」


「その他の人々」とは、クリスチャンと未信者の夫婦のことです。どうも、このことばから察するに、コリント教会には潔癖な信者がいて、未信者の夫あるいは妻の宗教や行動を批判し、自ら離婚することによって、キリスト教信仰を守ろうとする動きがあったようです。

しかし、「その様な行動は良くない。例え、相手の宗教、言動がどうであれ、自分の方から離婚を求めることは、あなた方を通して未信者の家族に与えられる神様の祝福を失うことになる。」と使徒は教えています。その祝福とは、「信者でない夫が妻によって聖なる者とされたこと、信者でない妻も、夫によって聖なる者とされたこと。夫婦の子どもが聖なる者であること」でした。これは、どういうことなのでしょうか。この祝福について参考になることばが、ペテロの手紙の中にあります。


3:1、2「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。」


「たとえ、あなたの夫がみことばに従わない夫であっても、あなたの神を恐れる生き方を目にすると言う祝福に預かっている、あなたのふるまいによって、神様に心を向けるような良い影響を受けると言う祝福の中にある。」パウロはそう断言しています。また、「あなた方の子どもは、聖なる者」とは、その子どもが例え片親であっても、クリスチャンを親として生まれたことは偶然ではなく、神の民の一人として生を受けたことを意味する、と考えられてきました。

パウロは、未信者の家族の中にクリスチャンがいることには、大切な意味があると説いて、離婚を急ぐコリントの人々の心を静めています。「あなたこそ、家族に神の祝福をもたらす基」と語り、未信者の家族によるキリスト教反対に悩み、心無い言動に苦しむ兄弟姉妹を慰め、励ましているのです。このパウロの一言は、未信者の家族の中で、神様の祝福の基として生きる、私たち日本のクリスチャンの心をも奮い立たせる力を持っていました。

 とは言え、です。地上の現実は厳しく、いかに懸命に努めたとしても、ハッピーエンドには終わらない場合が起こります。その残念な現実を踏まえた、使徒のことばが続きます。


 7:15,16「しかし、(もし)信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」


 クリスチャンの夫あるいは妻が、いかに努力しても、未信者の側が離れていく場合が、当時もあったでしょうし、今もあるでしょう。クリスチャンの信仰をなじり、善き証しを踏みにじって、離れてゆくこともあるでしょう。

クリスチャンの側は離婚すべきではありません。けれども、未信者側が断固離婚を決意し、結婚生活を捨て去るのなら、その様な場合は、クリスチャンである夫あるいは妻は、縛られることはない、むしろ今まで未信者の相手に合わせてすることのできなかった、クリスチャン本来の生き方を進めば良い、とパウロは教えていました。これも、精一杯尽くしながら離婚され、失望、落胆の中にある兄弟姉妹を配慮することばと考えられます。

さらに、「神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」と言うことばは、離婚された兄弟姉妹の心を深く慰めたことでしょう。

クリスチャンとして、私たちが何より願うのは、愛する家族の救い、配偶者の救いのことです。しかし、なしうる限り力を尽くしても、なお相手が去っていった場合、その様な兄弟姉妹の心は残念な思いにふさがれてしまうでしょう。そんな兄弟姉妹のために、「変えることのできない現実を後にして、前に向かって歩めばよい。」パウロはそう励ましているのです。

最後に、今日の箇所を通して教えられたことを二つ、覚えておきたいと思います。一つは、私たちの結婚生活の課題です。男尊女卑とまでは言えないかもしれませんが、現代の社会にもなお男性優位の風潮は残り、私たちの生き方にも影響を与えているように思います。特に私も含めて男性は、妻を対等な人生のパートナーと思い、生涯を通して仕えるべき相手として、折に触れて意識し、行動してゆく必要があるのではないかと思います。

ふたつ目は、私たちの罪にもかかわらず、なおも神様が結婚を通して与えてくださる祝福に目を向けることです。ともに神様のために生き、ともに労苦を分かち合うことのできる、人生のパートナーを与えれたと言う祝福。親密な交わりを楽しむと言う祝福。未信者の家族に対する祝福の基として生きると言う祝福。神様が定めた結婚の祝福を味わう者でありたいと思います。

2018年11月18日日曜日

一書説教(50)「ピリピ書~キリストの思い~」ピリピ2:1~5


次のような「なぞなぞ」を聞いたことはあるでしょうか。「A、Bと二種類の本があります。Bの本が高い評価を得ていますが、その評判を聞いた人は皆、Aの本を買います。なぜでしょうか。」答えは、「この二冊は上巻と下巻。下巻が高い評価でも、読者は上巻から読むから。」というもの。確かに、上下巻の本であれば、特別な理由がなければ、下巻から読むことはありません。

 聖書を読む時、どの書から読めば良いか。意識したことはあるでしょうか。やはり聖書の最初、旧約から順に読むのが良いか。イエス・キリストが登場する新約から読むのが良いか。あるいはジャンルごとに読むのが良いか。著者でまとめて読むのが良いか。テーマでくくるのはどうか。色々な案があり、それぞれ一長一短。この順番で読むのが一番良いという決定的なものはありません。しかし、一つの書に注目する時、その書をより深く味わうために、関連を意識したら良い書、同時に読むと良い書というのはあります。

断続的に行ってきました一書説教。通算、五十回目。新約篇の十一回目。ピリピ人への手紙となります。ローマで獄中生活をしているパウロが記した書。教会宛てとしては、最後に記された手紙の一つ。小さな書ですが、有名な言葉を多く含み、獄中で書かれたとは思えない多くの感謝と喜びが記された書。「喜びの書簡」との愛称で呼ばれ、多くの人に愛された書です。そして、このピリピ人への手紙は、関連性の深い使徒の働きと合わせて読むことが大事な書。(パウロ書簡はどの書も、使徒の働きとともに読むことが重要ですが、中でもピリピ書は特に大事と考えられます。)ピリピ書を読む際には、使徒の働きに記された、パウロとピリピ教会のことを意識したいと思います。

毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 ピリピ書の背景を教えてくれる使徒の働き。パウロがピリピの地で伝道をしたのは、第二次伝道旅行と言われる時のこと、使徒の働き十六章に出てきます。この第二次伝道旅行というのは、事件からスタートします。

 使徒15章36節~40節

それから数日後、パウロはバルナバに言った。『さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。』バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。


 パウロはもともと教会を迫害していた人。パウロが主イエスを信じた時も、多くのクリスチャンは受け入れることを躊躇しました。その状況でパウロを受け入れたのがバルナバです。バルナバは、パウロにとっての大恩人。しかし、パウロはその大恩人であるバルナバと、ここで割れてしまいます。

 この出来事だけを見ると、パウロとはとんでもない人だと思います。教会を迫害していた自分は、バルナバを通して教会に受け入れてもらった。そのバルナバが、伝道旅行を途中で放棄したマルコを許し、再度ともに働こうというのに、パウロはマルコを許せなかった。結果、パウロはシラスとともに伝道旅行に出る、第二次伝道旅行です。このようなパウロの姿を、皆さまはどのように思うでしょうか。


 波乱の幕開けとなった第二次伝道旅行。さらにパウロにとって困難は続きます。

 使徒16章6節~7節

それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。


 伝道旅行に出かけたのに、みことばを語ることを聖霊によって禁じられた。進みたいと思ったところには、イエス様の御霊が許さず行けなかった。他でもない、神様に伝道を止められる。この時、パウロはどのような心境だったのか。聞いてみたいところです。

この困難の最中、幻によって、マケドニアに行くことを導かれたパウロは、この後アジアからヨーロッパに渡り伝道します。ついにアジアを出て、ヨーロッパでの伝道を開始する。その最初の町がピリピとなります。

 ピリピでの伝道でも、波乱尽くし。悪意による訴え、不正な裁判により、パウロとシラスは鞭で打たれ、牢に入れられることになります。逆境に次ぐ逆境と感じられる状況。それでも、ここでキリストを信じる者たちがおこされます。紫布の商人であるリディア。占いの霊に憑かれた若い女奴隷。牢屋の看守と家族。(他にもいたかもしれませんが、使徒の働きに記されたのはこれらの人々です。)パウロやシラスの熱意、その背後にある神様の熱意。様々な人間模様と不思議な導き。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」との有名な言葉。ピリピでの伝道と言えば、手に汗握る必見の箇所です。集められたのは、高級品を扱う商人、奴隷、ローマの役人。出身地、年齢、性別、社会的立場が異なる人たちが、集められた。このピリピ教会は、パウロにとって重要な教会となります。

何故重要な教会となったのか。このピリピ教会はパウロを支える教会となるからです。ピリピを離れたパウロは、続けてテサロニケに行きます。約150キロ離れた場所。このテサロニケでの伝道は実に短い期間。(使徒17章2節には、三回の安息日に渡って、聖書に基づいて論じ合ったと記されています。三回の安息日と言えば、最短で十五日。最長で二十七日。この期間だけ滞在したのか。議論したのが三回ということなのか。定かではありませんが、どちらにしろ、テサロニケでの伝道は短い間になされたものでした。)この時、パウロのもとに、ピリピ教会から支援が届けられたのです。ピリピ教会がパウロを支援した。このことは、使徒の働きには記されていなく、ピリピ書を読むことで初めて分かることです。


 ピリピ4章15節~16節

ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。


 当時の交通手段で、片道150キロの道のりを通って、パウロに物資を送ったピリピ教会。それも、短い期間に二度も届けた。ピリピ教会のある人物が、往復したのか。それとも、第一陣が出発して、帰ってくる前に、第二陣を出発させたのか。どちらにしても凄い情熱。そのようなことをした教会は一つもない中で、建てられたばかりのピリピ教会がやってのけた。

この救援物資は、パウロにとって大変な励ましでした。当初、御言葉を語ることが禁じられ、計画が留められた伝道旅行。それが、自分の働きを支えようとする教会が与えられた。このピリピ教会の支援は、パウロを励まし、勇気付け、さらにはこの伝道を続けていいという確信を与えるものとなります。

 またピリピ教会がパウロを支援したのは、この最初の時だけではありません。ローマで獄中生活を送っているパウロを支えるため、贈り物とともに、エパフロディトという人を派遣しました。(これも、使徒の働きには記されていなく、ピリピ書を読み分かることです。)教会に問題があり、パウロが人を遣わすことは多くありますが、パウロを支えるために教会から人が遣わされているというのは珍しく、ピリピ教会らしいエピソードと言えます。

 パウロにとって、苦難の中で生み出されたヨーロッパ初の教会。思い出深い、記念となる教会。設立間もない時から、自分を支えてくれた教会。このピリピ教会に宛てて記されたのが、ピリピ人への手紙です。一体何が記されるのか、実に興味がそそられる書。是非とも、パウロとピリピ教会の関係を覚えて読みたいと思います。


 全四章のピリピ書。パウロよりピリピ教会への感謝、愛が記されるところから始まります。

 ピリピ1章3節~8節

私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。


 その人のことを思うだけで神様に感謝する。その人のために祈る度に喜びがある。どれ程慕っているか、神様が証して下さるとしか言いようがない。ピリピ教会の人たちに対する熱烈な愛の言葉が綴られます。

 自分の信仰生活の中で、その人のことを思うだけで神様に感謝する人、その人のために祈る度に喜びがある人はいるでしょうか。あるいは自分のことをそのように思い、愛している人はいるでしょうか。この麗しい関係、パウロとピリピ教会のような関係を、私たちの間で築き上げたいところです。


 さて手紙の本論ですが、いくつかの大事な事柄が扱われていますが、この説教では主に二つのことに注目します。一つは「喜ぶ」こと。もう一つは「一致する」こと。まずは「喜び」から確認します。

 ピリピ4章4節

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


 この手紙を書いた時、パウロはローマで獄中生活、皇帝の前での裁判を待つ状況。カエサルの前に立つということまでは、神様から示されていましたが、その結果、どうなるか分からない。キリストを宣べ伝えた結果、獄中生活となり、命を落とすことになるかもしれない。そのパウロが「喜ぶ」ことを勧めます。短い手紙の中に「喜び」という言葉が十六回も出てくる。歳を重ねたパウロは、愛する教会に「喜ぶ」ことを勧めたというのは印象的です。

不自由なく、自分のやりたいことをやっている。財産や名声を手にし、人から羨ましがられる状況にいる。そのような人から「喜ぶ」ことを勧められても、心動かされることはないでしょう。しかし過酷な状況の中で、自分を愛している人からの勧めとなれば、重みが違います。しかも、パウロはピリピ教会が苦難の中にあることを知っていると言います。


 ピリピ1章29節~30節

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。


 キリストを通して受ける恵みは、私たちにとって嬉しいものだけでなく、苦しみもある。パウロが経験してきた苦闘を教会も経験している。その上で「喜ぶ」ように勧められるのです。

 つまりパウロが勧める「喜び」は、苦しみが無くなることではないのです。自分の思い通りになるように願うことでもないのです。嬉しいという感情を抱くようにという勧めでもないのです。自分にとって苦しいこと、悲しいことの最中にあっても、「喜ぶ」ことを勧めている。大変な勧めです。

 私たちの人生には様々な苦難があります。病気、挫折、失敗、死、不仲、裏切り。ありとあらゆるところに苦難があります。自分の罪のために、自分自身も周りの人もひどく傷つけ、自分で自分を赦せない時もあります。キリストを信じる信仰を持ったが故の苦しみもあります。希望を失い、生きる気力を失い、信仰が消えかけるような時。パウロの「喜びなさい」との勧めをどのように聞いたら良いのか。この勧めにどのように従ったら良いのか。

 一つ分かるのは、どのような状況にあっても、「喜ぶ」道はあるということ。パウロが「いつも喜びなさい」と勧めているということは、どれ程の苦難の中にあっても、キリストを信じる者は「喜ぶ」ことが出来るということ。一体、パウロ自身はどのように喜んでいるのか。「主にあって喜ぶ」とは、どのようなことなのか。是非ともピリピ書を読み答えを得て、主にあって喜ぶ歩みを送りたいと思います。


 確認したいもう一つのテーマ「一致」について。この手紙が書かれた時、ピリピ教会には教会内の争いがあったようです。名前だけで、それがどのような人なのか分からないのですし、どのような争いがあったのか分かりませんが、次のような勧めの言葉が記されています。

 ピリピ4章2節

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。


 かつて、バルナバと割れたパウロが、ここで一致を勧めているのも印象的です。ところで教会の中で一致するとはどのようなことでしょうか。全てのことにおいて、同じ意見になるということなのか。集う全ての人が、似た者となるということなのか。そうではないでしょう。違いを持つ人が集まること、多様性は教会の豊かさ、力です。パウロは、教会はキリストのからだと言いましたが、目のような人だけ集まるとか、足のような人だけ集まるというのは、むしろ教会らしくないのです。それでは、教会における一致とは何か。次の言葉が如実に表現していると思います。


 ピリピ2章1節~5節

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。


 教会はどの点で一致すれば良いのか。へりくだって、互いに人を自分よりも優れていると思うこと。自分のことだけでなく、他の人のことを顧みること。このようなキリストの思いを互いに持つこと。この点で、一致するようにと言われるのです。パウロにとって思いのある教会へ勧めた、主にあって喜ぶこと、主にあって一致すること。この勧めを、私たちも真正面から受け取りたいと思います。

 以上、ピリピ書の一書説教でした。是非とも、パウロとピリピ教会の関係を意識しつつ読んで頂ければと思います。ピリピ書を読むことを通して、キリストを信じる者に与えられる恵み、いつでも、どのような状況でも、喜ぶことが出来る。その恵みを神様が下さいますように。ピリピ書を読むことを通して、本当の意味でへりくだること、仲間を尊敬し、他の人を顧みること、そのようなキリストの思いを神様が下さいますように。

 パウロがピリピ教会に願ったことが、私たちの上にも実現しますように、皆で願いながら聖書を読む歩みを進めていきたいと思います。

2018年11月11日日曜日

成長感謝礼拝(第一礼拝)「永遠のいのち~獲得するものか、受け取るものか~」ルカ18:18~27


 今日は成長感謝礼拝、いのちについて考える礼拝です。いのちについて考える時、私たちが参考にしたいことばが、聖書の中にあります。


 Ⅱコリント 4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」


 ここにある「外なる人」とは、私たちの肉体のいのちを、「内なる人」は、霊のいのち、永遠のいのちを指しています。肉体のいのちは日々衰えてゆくけれど、永遠のいのちは、日々新たにされる。だから肉体のいのちが衰えても、落胆するな。むしろ、内に宿る永遠のいのちを日々新たにすることに心を向けよ。聖書はそう私たちを励ましています。

 今日は、イエス・キリストを信じる者の心に宿る永遠のいのちについて、ルカの福音書からともに考えてみたいと思います。今日のお話の主人公は、一人のエリートです。

 

  18:18「また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」


  「指導者」。これはユダヤの最高議会の議員を意味することばです。これまでの新改訳聖書では「役人」と訳されてきました。マタイの福音書は、この指導者が「青年」であったと言い、マルコの福音書では、この人が「走り寄ってみ前にひざまづいた」と、その行動が描写されています。

青年でありながら最高議会の議員。エリートであるにもかかわらず、この人は謙遜な人柄で、行儀正しくイエス様の元に自ら走り寄り、跪きました。そして「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねています。

永遠のいのちを求めるとは、見上げた志です。普通、議員役人といえば、いつも上の椅子を狙い、権力の階段を昇ることを考えるものです。しかも、この人は青年でした。若者だったら、青春を謳歌して、様々な楽しみにふけると言うのが普通でしょう。しかも、エリートであれば、今の生活に満足し、エリートコースを平穏無事に歩み続けたいと考えるのが普通でしょう。

 ところが、です。この青年は、「今」ではなく「永遠」を思っていました。今日、明日の生活にしばられず「永遠のいのち」を求めていたのです。議員仲間は出世のことばかり、同世代の友は、今日や明日の楽しみを思い、毎日を過ごしていたのに、この人は周りに流されなかった。ただ一人、神と共に過ごす永遠のいのちのことを思い、求めていたと言うのです。

 それも、永遠のいのちについて知りたいとか、論じたいというのではありませんでした。永遠のいのちを「受け継ぎたい、得たい。」という。永遠のいのちそのものを自分のものにしたいと言うのですから、尊敬すべき人物です。まさに百点満点、欠点など一つも見当たらない、見上げた人物と見えます。

 しかし、です。主イエス・キリストの前に出ると言うことは恐ろしいことでした。何故なら、主イエスはこの青年の発した一言によって、彼の欠点を見抜かれたのです。実は、この人の綻びは、その立派な質問自体に現れていました。

 主イエスは、先ずこの役人が気軽に「良い先生」と呼びかけたことを取り上げています。

18:19「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」


  聖書では「良い」お方と言ったら「神」のみ。それを気軽に「良い先生」と口走る。私たちも、聖書の神を知るまでは、気易く「良い人」とか「良い先生」等と、言っていました。しかし、神の聖さ、神の真実を知るにつれて、「良い」と言うことばを、気軽には使えなくなりました。 

この青年はまだ、主イエスが真に人となって来た神であることを知っていたとは思えません。この世の知者、宗教の先生くらいと思っていたのであって、その程度で「良い先生」と、呼んだのでした。この人は、気軽に「良い先生」と呼びかけた、その一言で真の神を知らなかったことを露わにしてしまったのです。

 さらに、この人の欠点は、露わにされて行きます。主イエスは、「何をしたらよいでしょうか。」という役人の質問にこたえて、聖書の十戒を挙げました。


 18:2021「 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」


  思わず、眼を疑ってしまいます。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」とは、主イエスを前にして、何と大胆なことばでしょうか。姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。

なぜ、イエス様は、十戒をあげられたのか。それは、この人が「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねたからです。「どんなことをしたら、永遠の生命を獲得できますか。」と問うたからです。世間的に良いこと、人の目に良いことならともかく、聖なる神の前に心の動機から結果にいたるまで、永遠のいのちに価するようなことは、何一つなしえないことを私たちは思い知りました。それを、この人は自信満々、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」と答えたのです。

 おそらく彼としては、「姦淫するな」といって、「自分は一度も不貞を行ったことはない。」くらいに考えていたのでしょう。「殺してはならない」にしても、自分は刃物をふるって殺人罪を犯したことはない程度に思っていたのでしょう。「盗んではならない」にしても、自分は盗みなどしたことがない。警察の厄介になったことはない、その程度に考えていたのでしょう。

 しかし、イエス様は、山上の説教で教えていました。神の前には、情欲をもって異性を見る者は、その心と眼で姦淫を犯していると。「殺してはならない」にしても、刃物をもって血を流すことはなかったかも知れないけれど、心の中で人を憎み、人を見下す者は、神の前では殺人者であると。

「父と母とを敬え」でも、イエス様は「あなたは、本当の親孝行をしているか。世間体とか、遺産相続のことを計算した上で、行動したことはなかったか。」そう青年に問いかけていたはずです。

 それなのに、この人ときたら「それらすべてを守ってきました。」と平然と言い放つ。世間では議員のエリート、若いのに良くできた青年という評判を受けていたこの人も、残念なことに、聖なる神の目で、自分の心を探り、行いを点検することがなかったようです。聖なる神ではなく、人間を相手に、自分は善人だと思っていたのです。

  イギリスの賛美歌作家ボナーと言う人は、ある日不思議な夢を見たと言われます。彼の心が天使によって体からはずされ、化学分析にまわされた夢でした。とりはずされた彼の心は分解されて、様々な思いが量られます。すると、何とその殆どが、評判を好む心、肉欲、名誉欲、単なる習慣か世間体ばかり。真の愛ときたら、ほんのわずかな量でしかなかったと言う夢でした。

 聖なる神を知る人と、聖なる神を知らない人。神の前に、永遠のいのちに価するようなことは何一つ出来ないと心底思う人と、自分には永遠のいのちに価することができるはずだと信じて疑わない人。同じ永遠のいのちを求めていても、前者と後者では全く違うのです。

そして、この青年に欠けていたものを見抜かれたイエス様は、彼自身が欠けに気がつくようにと、ずばり語りました。

 

18:22、23「イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」 

        

 「まだ一つ、欠けていることがあります。」そう言われて、「何が足りないのか」と、青年は不思議に思ったでしょう。自分が百点だと思っていたからです。しかし、イエス様は一呼吸置くと、この人の急所を突く一言を口にされました。「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。」

この人は非常に悲しんだとあります。何故でしょうか。イエス様の一言によって、本当の自分の姿に気がついたからでしょう。永遠のいのちを得るためなら、どんなことでもしますと意気込んで来たものの、財産の全部どころか、一部さえ惜しむ自分を見出したからです。隣人を愛することにかけては、模範的な人物との評判を得ていた自分が、実は貧しい人のために、持ち物を分け与えることさえ惜しむ、ケチな人間であることを知ったからです。

 自分は永遠のいのちに値する善行ができると信じていたのは、とんでもない思い上がり。本当は貧しい人のために財布を開くことさえできない、金銭欲、物欲に縛られた惨めな人間であることにようやく気がついたのです。

なお、ここで誤解なきよう、一言しておかなければならないことがあります。主イエスは、財産そのものを悪としているのではありません。この青年が多くの財産を持っていること自体を悪としているのでもありません。イエス様が「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。」と言われたのは、彼が自分の欠点に気がつき、自分の行いにより頼む生き方を改めるためであったと思われます。

 ですから、悲しみに沈む青年の姿を見たイエス様は、こう語られたのです。


18:24,25「イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

勿論貧しい者は貧しい者で苦労があり、金銭に心が縛られてしまう危険性はゼロではありません。しかし、お金にはそれを持てば持つほど、私たちの心を縛り付ける力があります。聖書も、富が人間の主人になりうること、富が人間の心を神から切り離す力を持つことを警告していました。

そういう意味で、イエス様は金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と語り、金持ちが神の国に入ること、永遠のいのちを受け取るのが非常に難しいことを、強調されたのです。ところが、これを聞いていた人々は驚きました。


 18:26 「それを聞いた人々は言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』」


 若くて、謙遜で、理想を掲げ、地位もあって、おまけに裕福で。あんな模範的な人物が駄目だとすれば、「それなら、誰が神の国へ入れるのだろう。私たちなどとてもとても…。」そう、噂しあったのです。すると、そこにイエス様による大宣言が響きました。

 

18:27「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」


   永遠の生命は人の決意や努力、金銭では獲得できない。人の行い、人の善き行い、自力では神の国に入ることはできない。しかし、神にはできる。神を信じ、頼ることによってのみできる。永遠のいのちは、私たちが主イエスの罪の贖いを信じるだけで、神から受け取ることができるもの。永遠のいのちは、それを受け取る価値のない私たちに対する、神からの贈り物、恵みであるということです。

 自分の行いに頼る人よりも、己がいたらなさに泣く人。世間の評判を気にする人よりも、聖なる神の目を気にする人。富も無く、地位がなくとも、神の前に罪を悔いる心を持つ人。その様な者を、そのまま受け入れ、永遠のいのちを与え、神の国へ入れてくださるのが神の力、神の恵みであることを、私たち教えられたいと思うのです。

 果たして、私たちは内に宿る永遠のいのちのことを、どれ程意識して生活しているでしょうか。肉体のいのちと同じほど、気を配っているでしょうか。イエス・キリストを信じた私たちは、永遠のいのちを与えられました。私たちのつとめはこのいのちに気を配り、このいのちを新たにしてゆくことです。

 永遠のいのちを喜ぶ歩み、罪を悔い改め、赦しの恵みを受け取る歩み、何事も、私たちの内に働いている神の力に信頼してみことばを実践してゆく歩み。それこそ、永遠のいのちを日々新たにするものであることを思い、私たちが進むべきいのちの道を確認したいのです。

2018年11月4日日曜日

「キリストの招き」マタイ26:26~30


キリスト教の根本的で中心的な教えに「神様が世界を創り、今も支配しておられる」というものがあります。私たちの神様は、創造主にして支配者である方。そのため、キリスト教は歴史的宗教と言われます。歴史上の出来事は偶然に起こるのではなく、神様との関わりでそれぞれ意義がある。私という存在は、偶然に生まれたものではなく、目的や意味があるものとして造られた。私の人生に起こることは、偶然起こるのではなく、神様の支配の中で良しとされたことが起こる。今日一日、私が生きるというのは、神様の許しがあってのこと。

 「神様が世界を創り、今も支配しておられる」。この教えに立って生きる時、私たちは神様から多くの恵みを頂いていることに気が付きます。命があること。命を支えるものがあること。人との出会い。起こりくる様々な出来事。これら全て恵みです。私たちが意識しても、していなくても。私たちが願う前から。神様は多くの恵みを下さっています。「この一週間、どのような恵みが与えられましたか。」と問われたら、皆さまはどのように答えるでしょうか。

 神様の下さる恵みは実に多く、多様。神などいないとして生きている人でも、多くの恵みを受けて生きています。しかし、キリストを信じる者は、特に意識して受けるべき恵みがあります。「聖餐」です。十字架直前、主イエスが定められた礼典。見える御言葉と呼ばれる恵みを受け取る機会。教会は、キリストの再臨まで「聖餐」を行い続けるように命じられました。

聖書を読みますと、イエス様がこの「聖餐」を並々ならぬ思いで定められたこと。この礼典に重要な意味があること。キリストを信じる者は、これ以上ないほど真剣に聖餐式に臨むように勧められていることが分かります。それでは、私たちはどれだけ真剣に聖餐式に臨んできたでしょうか。この礼典を通して、どれ程大きな恵みを受けているのか、味わってきたでしょうか。信仰生活が長くなるにつれ、聖餐の意味、その重さを忘れ、恵みに鈍感になりやすいもの。いかがでしょうか。重大なものとして、聖餐式を意識してきたでしょうか。

 今一度、その意義を確かめたく、イエス様が定められた聖餐の場面を確認していきます。


 マタイ26章26節

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』


 これは今から約二千年前のこと。AD三十年、四月六日(木)の夕べのことと考えられています。都エルサレムの二階座敷で、食事をしている場面。ユダヤ人にとり最大の祭り、過越の祭りの時、この食事は過越の食事でした。


 過越の祭り、過越の食事。これは、この時より更に千年以上前の出来事に由来します。イスラエル民族が、エジプトで奴隷となり苦しんでいた時、指導者モーセによって、出エジプトを果たします。この時、十の災いがエジプトに下りますが、その十番目の災いは非常に厳しいもの。エジプトにいる初子が、全員死ぬというものでした。この時、この災いを避ける方法として、神様が約束したのは、子羊を殺し、その血を門柱と鴨居に塗った家は、この災いが過ぎ越していくというもの。神の約束を信じ、子羊を犠牲にした家は、死が過ぎ越して行った。これが過ぎ越しという出来事。旧約聖書、出エジプト記に詳しく記されています。

 この過越という出来事には、身代わりのいけにえによって救われるというメッセージが込められていました。この出来事を通して、奴隷から解放されたイスラエルの民は、これ以降、毎年過ぎ越しの祭りを行い、身代わりのいけにえによって救われるというメッセージを確認してきたのです。


 マタイの福音書に戻りますが、ここで「また、彼らが食事をしているとき」とあるのは、過越の食事をしている時のことです。過越の食事には作法があり、食事が進む間に、出エジプトの出来事を振り返り、その意義が説明されること。また詩篇が歌われるということがあります。

弟子たちは、過越の食事の作法として語られる、かつての出来事をキリストから聞いたはずです。千年以上前の先祖の話。その夜、神の約束を信じて子羊をほふり、血を門柱と鴨居に塗った家は死が過ぎ越したが、信じないで血を塗らなかった家は、死が訪れた。この話がなされた後で、史上初の聖餐式がもたれることになったのです。


 マタイ26章26節~28節

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。』


 ここにパンと杯が出てきます。それぞれ、キリストの体、キリストの血と言われます。

パンのことから考えます。このパンは、どのような意味で、イエス様のからだなのでしょうか。これは過越の食事です。子羊の犠牲の結果、死が過ぎ越していく、その意味を確認している食事。その食事として出されたパンを、キリストは割いて、これは私の体だと言いました。過越の食事、パンは割かれ、これは私の体だと言われた。お分かりでしょう。これは、まもなく十字架上で犠牲となるご自身の体を表わすものです。

 キリストは、過越の食事であるパンを用いて、ご自身の十字架での死の意味を表わした。その意味は、いけにえとしての死、身代わりの犠牲としての死であるということ。


 キリストの死が身代わりの死を指し示すというのは、杯も同様です。杯ではより明確に、「罪の赦したのめに」とも言われます。過ぎ越しの食事で出されたパン、ぶどう酒を指して、これが私の体、これが私の血というのは、イエス・キリストの死が、いけにえとしての死、身代わりとしての死であるということです。


 また血については「契約の血」とも言われています。「契約の血」とは何でしょうか。イスラエル人の文化の中として(近隣他国にも同様の文化があったと考えられていますが)、重要な契約を結ぶ際に、「動物を二つに裂き、その間を両者が通る」ということをしました。契約を破る場合、この動物のように二つに裂かれても良いという意味と考えられます。

(日本でも血判状という、血を用いて、約束の誓いを立てるという文化がありました。)


 契約に関するこのような文化を背景に、神様が神の民を糾弾している言葉があります。

 エレミヤ34章18節~19節

また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする。ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と民衆すべてが、二つに分けた子牛の間を通った者たちである。


 ところで、出エジプトの出来事の際、神様はイスラエルの民と契約を結びます。奴隷であった者たちが救い出された。救われた者として、神の民として生きるという契約。その際、神様と全イスラエルの民が、裂かれた動物の間を通るということは現実的に出来ないので、別な方法で契約が結ばれたことが示されました。

 出エジプト記24章5節~8節

それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。『主の言われたことはすべて行います。聞き従います。』モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 『見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』


 いけにえの血を、祭壇という神様の側と、イスラエルの民に振りかけるという契約の結び方です。ここでモーセが言った「契約の血」という言葉を、イエス様は聖餐式を定める際に用いました。

 奴隷から救い出されたイスラエルの民は、神の民として生きるという契約を、いけにえの血が振りかけられることで確認した。キリストを信じる者たちはどうなるのか。罪の奴隷から救い出された者は、神の民として生きるという契約を、この聖餐式で確認するというのです。


 もう一つ、確認しておきたいことがあります。イエス様はここで、自分の血であると言われたこの杯を飲むようにと言われています。血を飲むように。この血を飲むということは、ユダヤ人にとって絶対にしてはいけないことでした。聖書で禁じられていたからです。

 レビ記17章14節

すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言ったのである。『あなたがたは、いかなる肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られる』と。


 血はいのちそのもの。弟子たちには、その血を食することはしてはならないと教えられてきたのです。しかしイエス様は、これは私の血であるから飲むようにと言われた。これは私のいのちであるから、その命を受け取るようにという意味です。つまり、ぶどう酒を指して、これが私の血であるというのは、イエス・キリストの死によって、私たちにキリストのいのちが注がれることを意味します。

イエス・キリストの死が、いけにえとしての死、身代わりとしての死であるということ。またイエス・キリストを信じる者は、新しい契約に入れられること。イエス・キリストの死によって、私たちにキリストのいのちが注がれるということ。これが、聖餐式に込められている根本的な教えです。


 このパンを取って食べるように。この杯を飲むようにと招くキリスト。あなたの罪のために身代わりとなる私の体を食べるように、私の血を飲むように。これはつまり、その身代わりの死を自分のものとせよ。私のために、キリストが死なれたのだということを、受け入れるように。そしてキリストのいのち、永遠のいのちを得るようにとの招きです。これは私の体。これは私の血。これを取って、食べよ。これを飲め。と言われるキリストの思い。この必死な招きに、私たちは、どのように応じているでしょうか。


 さて、この最初の聖餐式は次のキリストの言葉をもって閉じられることになります。

 マタイ26章29節

わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。


 この言葉。不思議に思われる方、いらっしゃいますでしょうか。私は以前から、この言葉がひっかかっていました。ここでキリストは「天国に行くまで、ぶどうで出来たものは飲まない」と言っていると思います。

 しかし、キリストが十字架で死ぬまでに、ぶどうで出来たものを飲んでいることが聖書に記されているのです。


 ヨハネ19章28節~30節

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると、『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。


 最初の聖餐式の場面で、「もはやぶどうの実で造った物を飲むことはない。」と言われたキリストが、十字架上で「酸いぶどう酒を受けた」とある。これは一体何なのか、という疑問です。

 調べてみて分かりましたのは、このマタイの福音書の「ぶどうの実で造った物」という言葉が特殊な言葉だということです。日本語で「ぶどうの実で造った物」と聞きますと、ぶどうジュース、ぶどう酒、ぶどうを使ったお菓子、料理など、ともかく原材料にぶどうが入ったものというイメージです。しかし、過ぎ越しの食事で、「ぶどうの実で造った物」という言葉は、作法の中で使われる言葉で、これはつまり「過ぎ越しの食事」を意味しています。

 つまりここでキリストが言われたのは、十字架での死までにぶどう酒を飲まないと言ったのではなく、来年からは過ぎ越しの食事はしないと言われたのです。マタイ26章29節の言葉は、過ぎ越しの食事の終わりの宣言となっている。史上初の聖餐式は、史上最後の過ぎ越しの食事とされたのです。

 かつての過ぎ越しの出来事。子羊を身代わりとし、死が過ぎ越していったことを記念する過越の食事は、ここで廃止となりました。何故かと言えば、これより、キリストを身代わりとし、永遠の死が過ぎ越していったことを記念する、聖餐式が開始されたからです。そして、この聖餐式は、もう一度キリストが来られるまで、継続するよう教えられています。

 Ⅰコリント11章26節

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。


 キリストを信じる者たち。教会は、これより二千年間、聖餐式を非常に大切なものとして行ってきました。イエス・キリストの死が、いけにえとしての死、私の身代わりとしての死であるということを覚えること。罪の奴隷から救い出された者として、神の民とされた者であることを告白するために、繰り返し聖餐式を行ってきました。私たちはこの聖餐式に、どのような思いで臨んできたでしょうか。


 以上、今日はイエス様が定められた聖餐について確認してきました。イエス様が聖餐を定められた。そこに込められた厳かさ、重さを味わいたいと思います。

 聖餐は、キリストによる救いを味わうように、その恵みを受け取るようにと招く、イエス様からの招待状です。一般的に言って、招待されることは名誉なこと。感謝なこと。そうだとすれば、キリストからの招きというのは、どれほど名誉なことでしょうか。キリストからの招き、それも、私たちのために命をかけて招いている救い主の招きにどのように応じるのか。

キリストを信じている方に申し上げます。既に聖餐にあずかってきた私たち。キリストが私たちの身代わりとなられたこと。キリストのいのちが私たちに注がれていることがどれ程大きな恵みであるのか。聖餐を通して再度確認出来ますように。そして御言葉によって教えられている通り、聖餐式の度に、「主の死を告げ知らせる」働き。私たちの周りにいるまだ神様を知らない方へ、主の死の意味を告げ知らせる働きにつきたいと思います。

まだキリストを信じていない方に申し上げます。聖餐式は、イエス・キリストの死が、あなたの罪の身代わりであることを信じてもらいたいと願い、定められたものです。キリストからの招待を無視することなく、この招きに応じることをお勧めいたします。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...