2018年11月4日日曜日

「キリストの招き」マタイ26:26~30


キリスト教の根本的で中心的な教えに「神様が世界を創り、今も支配しておられる」というものがあります。私たちの神様は、創造主にして支配者である方。そのため、キリスト教は歴史的宗教と言われます。歴史上の出来事は偶然に起こるのではなく、神様との関わりでそれぞれ意義がある。私という存在は、偶然に生まれたものではなく、目的や意味があるものとして造られた。私の人生に起こることは、偶然起こるのではなく、神様の支配の中で良しとされたことが起こる。今日一日、私が生きるというのは、神様の許しがあってのこと。

 「神様が世界を創り、今も支配しておられる」。この教えに立って生きる時、私たちは神様から多くの恵みを頂いていることに気が付きます。命があること。命を支えるものがあること。人との出会い。起こりくる様々な出来事。これら全て恵みです。私たちが意識しても、していなくても。私たちが願う前から。神様は多くの恵みを下さっています。「この一週間、どのような恵みが与えられましたか。」と問われたら、皆さまはどのように答えるでしょうか。

 神様の下さる恵みは実に多く、多様。神などいないとして生きている人でも、多くの恵みを受けて生きています。しかし、キリストを信じる者は、特に意識して受けるべき恵みがあります。「聖餐」です。十字架直前、主イエスが定められた礼典。見える御言葉と呼ばれる恵みを受け取る機会。教会は、キリストの再臨まで「聖餐」を行い続けるように命じられました。

聖書を読みますと、イエス様がこの「聖餐」を並々ならぬ思いで定められたこと。この礼典に重要な意味があること。キリストを信じる者は、これ以上ないほど真剣に聖餐式に臨むように勧められていることが分かります。それでは、私たちはどれだけ真剣に聖餐式に臨んできたでしょうか。この礼典を通して、どれ程大きな恵みを受けているのか、味わってきたでしょうか。信仰生活が長くなるにつれ、聖餐の意味、その重さを忘れ、恵みに鈍感になりやすいもの。いかがでしょうか。重大なものとして、聖餐式を意識してきたでしょうか。

 今一度、その意義を確かめたく、イエス様が定められた聖餐の場面を確認していきます。


 マタイ26章26節

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』


 これは今から約二千年前のこと。AD三十年、四月六日(木)の夕べのことと考えられています。都エルサレムの二階座敷で、食事をしている場面。ユダヤ人にとり最大の祭り、過越の祭りの時、この食事は過越の食事でした。


 過越の祭り、過越の食事。これは、この時より更に千年以上前の出来事に由来します。イスラエル民族が、エジプトで奴隷となり苦しんでいた時、指導者モーセによって、出エジプトを果たします。この時、十の災いがエジプトに下りますが、その十番目の災いは非常に厳しいもの。エジプトにいる初子が、全員死ぬというものでした。この時、この災いを避ける方法として、神様が約束したのは、子羊を殺し、その血を門柱と鴨居に塗った家は、この災いが過ぎ越していくというもの。神の約束を信じ、子羊を犠牲にした家は、死が過ぎ越して行った。これが過ぎ越しという出来事。旧約聖書、出エジプト記に詳しく記されています。

 この過越という出来事には、身代わりのいけにえによって救われるというメッセージが込められていました。この出来事を通して、奴隷から解放されたイスラエルの民は、これ以降、毎年過ぎ越しの祭りを行い、身代わりのいけにえによって救われるというメッセージを確認してきたのです。


 マタイの福音書に戻りますが、ここで「また、彼らが食事をしているとき」とあるのは、過越の食事をしている時のことです。過越の食事には作法があり、食事が進む間に、出エジプトの出来事を振り返り、その意義が説明されること。また詩篇が歌われるということがあります。

弟子たちは、過越の食事の作法として語られる、かつての出来事をキリストから聞いたはずです。千年以上前の先祖の話。その夜、神の約束を信じて子羊をほふり、血を門柱と鴨居に塗った家は死が過ぎ越したが、信じないで血を塗らなかった家は、死が訪れた。この話がなされた後で、史上初の聖餐式がもたれることになったのです。


 マタイ26章26節~28節

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。』


 ここにパンと杯が出てきます。それぞれ、キリストの体、キリストの血と言われます。

パンのことから考えます。このパンは、どのような意味で、イエス様のからだなのでしょうか。これは過越の食事です。子羊の犠牲の結果、死が過ぎ越していく、その意味を確認している食事。その食事として出されたパンを、キリストは割いて、これは私の体だと言いました。過越の食事、パンは割かれ、これは私の体だと言われた。お分かりでしょう。これは、まもなく十字架上で犠牲となるご自身の体を表わすものです。

 キリストは、過越の食事であるパンを用いて、ご自身の十字架での死の意味を表わした。その意味は、いけにえとしての死、身代わりの犠牲としての死であるということ。


 キリストの死が身代わりの死を指し示すというのは、杯も同様です。杯ではより明確に、「罪の赦したのめに」とも言われます。過ぎ越しの食事で出されたパン、ぶどう酒を指して、これが私の体、これが私の血というのは、イエス・キリストの死が、いけにえとしての死、身代わりとしての死であるということです。


 また血については「契約の血」とも言われています。「契約の血」とは何でしょうか。イスラエル人の文化の中として(近隣他国にも同様の文化があったと考えられていますが)、重要な契約を結ぶ際に、「動物を二つに裂き、その間を両者が通る」ということをしました。契約を破る場合、この動物のように二つに裂かれても良いという意味と考えられます。

(日本でも血判状という、血を用いて、約束の誓いを立てるという文化がありました。)


 契約に関するこのような文化を背景に、神様が神の民を糾弾している言葉があります。

 エレミヤ34章18節~19節

また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする。ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と民衆すべてが、二つに分けた子牛の間を通った者たちである。


 ところで、出エジプトの出来事の際、神様はイスラエルの民と契約を結びます。奴隷であった者たちが救い出された。救われた者として、神の民として生きるという契約。その際、神様と全イスラエルの民が、裂かれた動物の間を通るということは現実的に出来ないので、別な方法で契約が結ばれたことが示されました。

 出エジプト記24章5節~8節

それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。『主の言われたことはすべて行います。聞き従います。』モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 『見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』


 いけにえの血を、祭壇という神様の側と、イスラエルの民に振りかけるという契約の結び方です。ここでモーセが言った「契約の血」という言葉を、イエス様は聖餐式を定める際に用いました。

 奴隷から救い出されたイスラエルの民は、神の民として生きるという契約を、いけにえの血が振りかけられることで確認した。キリストを信じる者たちはどうなるのか。罪の奴隷から救い出された者は、神の民として生きるという契約を、この聖餐式で確認するというのです。


 もう一つ、確認しておきたいことがあります。イエス様はここで、自分の血であると言われたこの杯を飲むようにと言われています。血を飲むように。この血を飲むということは、ユダヤ人にとって絶対にしてはいけないことでした。聖書で禁じられていたからです。

 レビ記17章14節

すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言ったのである。『あなたがたは、いかなる肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られる』と。


 血はいのちそのもの。弟子たちには、その血を食することはしてはならないと教えられてきたのです。しかしイエス様は、これは私の血であるから飲むようにと言われた。これは私のいのちであるから、その命を受け取るようにという意味です。つまり、ぶどう酒を指して、これが私の血であるというのは、イエス・キリストの死によって、私たちにキリストのいのちが注がれることを意味します。

イエス・キリストの死が、いけにえとしての死、身代わりとしての死であるということ。またイエス・キリストを信じる者は、新しい契約に入れられること。イエス・キリストの死によって、私たちにキリストのいのちが注がれるということ。これが、聖餐式に込められている根本的な教えです。


 このパンを取って食べるように。この杯を飲むようにと招くキリスト。あなたの罪のために身代わりとなる私の体を食べるように、私の血を飲むように。これはつまり、その身代わりの死を自分のものとせよ。私のために、キリストが死なれたのだということを、受け入れるように。そしてキリストのいのち、永遠のいのちを得るようにとの招きです。これは私の体。これは私の血。これを取って、食べよ。これを飲め。と言われるキリストの思い。この必死な招きに、私たちは、どのように応じているでしょうか。


 さて、この最初の聖餐式は次のキリストの言葉をもって閉じられることになります。

 マタイ26章29節

わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。


 この言葉。不思議に思われる方、いらっしゃいますでしょうか。私は以前から、この言葉がひっかかっていました。ここでキリストは「天国に行くまで、ぶどうで出来たものは飲まない」と言っていると思います。

 しかし、キリストが十字架で死ぬまでに、ぶどうで出来たものを飲んでいることが聖書に記されているのです。


 ヨハネ19章28節~30節

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると、『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。


 最初の聖餐式の場面で、「もはやぶどうの実で造った物を飲むことはない。」と言われたキリストが、十字架上で「酸いぶどう酒を受けた」とある。これは一体何なのか、という疑問です。

 調べてみて分かりましたのは、このマタイの福音書の「ぶどうの実で造った物」という言葉が特殊な言葉だということです。日本語で「ぶどうの実で造った物」と聞きますと、ぶどうジュース、ぶどう酒、ぶどうを使ったお菓子、料理など、ともかく原材料にぶどうが入ったものというイメージです。しかし、過ぎ越しの食事で、「ぶどうの実で造った物」という言葉は、作法の中で使われる言葉で、これはつまり「過ぎ越しの食事」を意味しています。

 つまりここでキリストが言われたのは、十字架での死までにぶどう酒を飲まないと言ったのではなく、来年からは過ぎ越しの食事はしないと言われたのです。マタイ26章29節の言葉は、過ぎ越しの食事の終わりの宣言となっている。史上初の聖餐式は、史上最後の過ぎ越しの食事とされたのです。

 かつての過ぎ越しの出来事。子羊を身代わりとし、死が過ぎ越していったことを記念する過越の食事は、ここで廃止となりました。何故かと言えば、これより、キリストを身代わりとし、永遠の死が過ぎ越していったことを記念する、聖餐式が開始されたからです。そして、この聖餐式は、もう一度キリストが来られるまで、継続するよう教えられています。

 Ⅰコリント11章26節

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。


 キリストを信じる者たち。教会は、これより二千年間、聖餐式を非常に大切なものとして行ってきました。イエス・キリストの死が、いけにえとしての死、私の身代わりとしての死であるということを覚えること。罪の奴隷から救い出された者として、神の民とされた者であることを告白するために、繰り返し聖餐式を行ってきました。私たちはこの聖餐式に、どのような思いで臨んできたでしょうか。


 以上、今日はイエス様が定められた聖餐について確認してきました。イエス様が聖餐を定められた。そこに込められた厳かさ、重さを味わいたいと思います。

 聖餐は、キリストによる救いを味わうように、その恵みを受け取るようにと招く、イエス様からの招待状です。一般的に言って、招待されることは名誉なこと。感謝なこと。そうだとすれば、キリストからの招きというのは、どれほど名誉なことでしょうか。キリストからの招き、それも、私たちのために命をかけて招いている救い主の招きにどのように応じるのか。

キリストを信じている方に申し上げます。既に聖餐にあずかってきた私たち。キリストが私たちの身代わりとなられたこと。キリストのいのちが私たちに注がれていることがどれ程大きな恵みであるのか。聖餐を通して再度確認出来ますように。そして御言葉によって教えられている通り、聖餐式の度に、「主の死を告げ知らせる」働き。私たちの周りにいるまだ神様を知らない方へ、主の死の意味を告げ知らせる働きにつきたいと思います。

まだキリストを信じていない方に申し上げます。聖餐式は、イエス・キリストの死が、あなたの罪の身代わりであることを信じてもらいたいと願い、定められたものです。キリストからの招待を無視することなく、この招きに応じることをお勧めいたします。

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