2018年5月6日日曜日

コリント人への手紙第一2章10節~16節「私たちはキリストの心を」


日本の民話に知恵比べのお話しがあります。昔々、タヌキとサルが知恵比べをすることになりました。「サル君は頭がいいからな。余ほど上手くやらないと、負けてしまう。」そう考えたタヌキは、きれいな娘に化けてサルがやって来るのを待つ事にします。

ところが、サルは一目でタヌキが娘に化けているのに気がつきました。「だめ、だめ。いくら上手く化けても、後ろからしっぽが出ていてはね。」本当は、しっぽなんか出ていないのですが、タヌキはビックリして、元の姿に戻ってしまうのです。「やっぱり、タヌキ君か。僕の嘘に、まんまとひっかかったな。」

「くそー!」タヌキは悔しくてたまりません。何とかしないと、ますますサルに馬鹿にされます。「でも、どうやってサル君に仕返しをしよう。」タヌキが考えていると、向こうから魚屋が車を引いてきます。それを見たタヌキは、一計を案じると、死んだふりをして、道端に倒れました「おや、こんなところにタヌキが死んでいるぞ。しめしめ、これで暖かい毛皮が作れる。」魚屋は喜んで、タヌキを車に乗せました。すると、車の上でそっと起き上がったタヌキは、魚を沢山抱えて飛び降りると、サルのところに向かいます。

それを見たサルは、吃驚仰天。「すごいじゃないか。そんなに沢山どこで取ったんだい。」するとタヌキは、何食わぬ顔で言いました。「池で取ったのさ。」「へえ?どうやって。」「ああ、簡単さ。池の上にある松の枝から尻尾を下げておくと、いくらでも魚が釣れるんだ。」

「へえ、それなら、僕もその池へ連れて行っておくれよ。」そこでタヌキは、松の木の生えている池にサルを連れてゆきます。サルは教えられた通り木に登ると、枝の先につかまって尻尾を池に下げました。でも、なかなか魚は釣れません。「あきらめちゃ、駄目だよ。僕だって、一晩中池に尻尾を下げていたんだもの。」それを聞いたサルは、夜になっても震える程寒いのを我慢しながら、池に尻尾を下げ続けました。さて、朝になってタヌキが様子を見に行ってみると、可哀そうなことに、サルはカチカチに凍りついて死んでいた、と言うお話です。「取らぬ狸の皮算用」と言う諺はこの昔話から、とも言われます。

この様な知恵比べの話は、古今東西の民話、神話に見られるもの。どうも、人間はせっかくの知恵を競って相手を倒す。知恵を誇って相手をやり込める。そんなことのために使うことが多かったようです。神様から与えられた知恵の悪用、乱用でした。

今、私たちが読み進めていますコリント人への手紙第一。手紙の宛先であるコリント教会も仲間割れで揺れていました。同じ教会に属しながら、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者はキリスト派を名乗って、相争う教会。その原因は、彼らが自分の知恵を、自分が支持する指導者の知恵やことばの雄弁さを互いに誇っていたから、と考えられます。

6年前はじめてヨーロッパの地に足を踏み入れ、自ら苦労して生み出した教会が、分裂寸前の状態にある。残念な知らせを受けたパウロは、まずこの手紙をしたため、問題の解決にあたることにします。

但し、この教会の問題は分派、対立だけではありませんでした。教会員同士の揉め事をこの世の裁判所に訴える者、性的不道徳に陥る者、聖餐式の後の食事の席で貧しい兄弟を辱める者など、これが本当にキリスト教会かと嘆きたくなる程、様々な問題が存在したのです。

パウロは愛する教会が、あるべき状態から落ちてしまったことに胸を痛めました。しかし、嘆いてばかりいても仕方がありません。コリントの教会をあるべき姿へと回復すべく、一つ一つ問題を取り上げては、処方箋を与えてゆくことになります。そして、まず取り上げるべきは仲間割れの問題と考えたのでしょう。

仲間割れせず、一致するように。1章から4章まで、この前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっていました。この点を心にとめて、今日のところ読み進めてゆきたいと思います。

 

2:10「それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」

 

「それを」と言われています。「それ」と言うのは、前の段落でパウロが神の知恵と言ったこと、十字架につけられたイエス・キリストのことです。

世界の創造の初めから、神様は人間を罪から救う方法として、キリストの十字架を定めておられました。人間と言う人間が、だれ一人目で見たことも、耳で聞いたことも、心に思い浮かべることもなかった知恵でした。それを、神様は愛する者,私たちクリスチャンに備えてくださった、と言うのです。

しかし、そうだとすると、その神の知恵を、果たして私たちは理解できるのだろうか。豚に真珠と言うことになってしまわないか。そんな心配をする人もいるのでは、と考えたのでしょう。事実、多くのユダヤ人が、キリストが神の子であること、神の子が十字架に死んだことを理解できず、躓きましたから、そんな心配も尤もでした。

たとえ、救い主がこの世界に来ても、事実十字架に死んだとしても、その意味が理解できなければ、イエス様を信じることも、イエス様によって救われることもできないのが人間なのです。けれども、神様は御霊、聖霊と言う賜物を与えてくださった。救い主のイエス様ばかりか、十字架の意味も理解できるようにと御霊をも与えてくださった。私たちは本当に神様に愛されている幸せ者。そうパウロは語るのです。

さらに、コリント教会の人々が、人間の知恵で信じ、救われたと思わぬように、信仰も救いも神の恵みによることを説くために、一つの例を挙げています。

 

2:11~13「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。」

 

確かに、私たちの本当のことは、私たち自身の心が知るところです。周りの人が知れる私たちは、私たちの一部でしょう。人のことは、外に現れた言葉やしぐさ、表情によって相当なところまで、推し量ることができます。けれど、本心を洗いざらいまで理解することはできません。複雑な人の心となると、外に現れたことと本心とは、まるっきり正反対なることもあります。まさに、人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているのか。いや、その人以外誰も知らない、と言うことになります。

何の為に行動したのかと言う動機。何をしたいと考えているのかと言う意向、何を感じているのかと言う感情。それらは奥深くにあればあるほど、その人の心にしか知られなくなるものでしょう。

同じように、神様のことも、神様のほかには誰も知らないはずです。しかし、私たちは幸いにも神の霊、御霊を受けたので、恵みとして与えられたもの、すなわち、イエス様の十字架とその意味について理解することができるし、人に伝えることもできるのではないですか。そう使徒は力説しています。

私たちが、最も大切な思いを知ってほしい、伝えたいと願うのは、どんな人でしょう。親と子、夫と妻、友と友。自分にとってかけがえのない人、愛する人でしょう。神様にとって、私たちは子であり、妻であり、友。私たちが愛する存在であるからこそ、御子イエス様の十字架に込めた大切な思いを理解し、受けとめることのできる御霊を、神様は与えてくださったのです。

神様を知る、神様の知恵、神様の働きや力を知ると言う、特別な恵みを与えられた私たちは、さらにこう祈るべし。パウロは、こんな祈りを勧めていました。

 

エペソ1:1719「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

 

「もっと私に、神様を知るための御霊を与えてください。私の心の目が見えるようになって、私の希望、私が受け継ぐ祝福、私のうちに働く神様の力について、知ることができますように。」私たちも神様を知るための祈り、ささげ続ける者でありたいと思います。

罪人の私たちが、神の知恵である、イエス様の十字架の意味を理解できること、人に説明し、伝えられることが、いかに恵みであるか。それは、生まれながらの人間が、これを理解できず、拒むことからも分かる。信仰も救いも、あくまでも神様の恵みであることを説いてやまないパウロです。

 

2:14,15「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。」

 

この世界には、学者、賢者、哲学者と呼ばれる人がいます。古今東西あらゆる学問に通じている博識の人もいます。尊敬すべき人々です。しかし、そうであったとしても、この世の知恵、人間の知恵をもってして、神の知恵、イエス様の十字架のことは理解できないと言うのです。それは、御霊を受けた者が初めて理解し、信じることができると言うのです。

この世界を創造した神がいると聞くと、「世界は進化してきたと言うのが常識だ、それなのに、そんな非科学的なことを」と反論する学者。神が人となり、十字架で血を流し苦しまれたと聞くと、「そんな残酷なことを」と眉を顰める宗教家。イエス・キリストを信じることで救われると聞くと、「それじゃあ、人間の知恵や努力はどうなるのか」と不思議がる賢者たち。

しかし、「かっては私もそうした人々の仲間でした。あなたがたも同じではなかったですか。そんな私たちが、今はイエス・キリストを信じている。そればかりか、私たちにはキリストの心がある。」そう語るパウロは、自分の心に御霊の神がおられることを、確信していたように思えます。

 

2:16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。」

 

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」と言うことばは、旧約聖書イザヤ書からの引用でした。誰が主の心を知り、主に助言できるのか。いや、だれ一人主の心を知ることも、助言することもできない。人間は罪によって、神様の心、思いを知る能力を全く失ったことを教えています。

私たちもみな、同じ状態にあったのに、神様の一方的な恵みよって罪から救われ、今はキリストの心をさえ知っている。この驚くべき恵み、この信じられないような幸いを、あなたたちは分かっていますか。コリントの兄弟たちよ。もし、本当にこの恵みが分かっているのなら、なぜ仲間割れなどしているのですか。ここには、そんなパウロの叫び、訴えが聞こえてくるようです。

最後に、今日の箇所で確認したいのは、人間の知恵と神の知恵の違いです。昔話のサルとタヌキのように、また、コリント教会のように、人間は知恵を誇り、上に立とうとします。人に勝ち、人を責めるためにせっかくの知恵を用いるのです。これが仲間割れ、対立、争いの原因でした。

しかし、神の知恵は違います。神の知恵は、イエス・キリストの十字架に見られるように、自らを誇りません。むしろ、人の下に立ち、徹底的に人に仕えようとします。人を責め、倒すためではなく、人を助け、人を建て上げるために働くのです。

パウロは、私たちにはキリストの心があると言いました。そのキリストの心を表すことばを今日の聖句として、ともに読みたいと思います。

 

マルコ1045「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 

「仕えられるためではなく、仕えるために」このキリストの心を見失う時、私たちは自分の知恵を誇り、相争うようになるのではないでしょうか。しかし、このキリストの心を回復する時、私たちは生活の場である、家庭、教会、職場、地域に、平和と一致の関係を築いてゆくことができるのです。

イエス様なら、今この時、この場所で、どう語り、どう行動されるのか。キリストの心を知る者として、私たちは日々の歩みを進めてゆきたく思います。

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