2019年1月27日日曜日

信仰生活の基本(4)「賜物の管理・時間」マルコ1:35~39,ヨハネ13:1


今日の説教は、信仰生活の基本シリーズの四回目。これまで、礼拝、伝道、交わりと三つのテーマを扱ってきましたが、今朝のテーマは賜物の管理です。特に取り上げたいのは、神様が私たちに与えてくださった能力、財産、健康など、様々な賜物の中から、時間と言う賜物についてです。

時間の大切さについては、古今東西様々な格言があります。「時間とは、我々が最も欲しがるものだが、最も下手で、無駄な使い方をするものである。」(ウィリアム・ペン)。「失った富は努力によって、失った知識は勉学によって、失った健康は節制することや医療によって取り戻せるが、失った時間は永久に失われたままだ。」(ロバート・アレン)。「人生とは、今日一日の時間の使い方のことである。」(カーネギー)。いずれも尤もなことばですが、現実はなかなか理想通りにはいかないと感じるのは、私だけでしょうか。しかし、聖書にも、時間の管理について、こう教えられています。


箴言6:611「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。怠け者よ、いつまで寝ているのか。いつ目を覚まして起き上がるのか。少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで、横になる。

すると、付きまとう者のように貧しさが、武装した者のように乏しさがやって来る。」


 ちっぽけな蟻が夏の季節を意識して働いている。その姿を見よ。その姿に学べと、著者は勧めています。ちょっと耳に痛い、イソップ物語風の格言ですが、神様が時間と言う賜物を意識し、日々すべきことを考えて生きるよう、私たちに望んでいることが分かります。

神様はこの世界を創造した際、時間も創造しました。この世界にあるすべてのものは、時間とともに変化してゆきます。私たち人間や様々な生命は、時間とともに成長、成熟してゆくものとして造られたこと、聖書は教えているのです。特に、私たちは年齢とともに成長を感じたることもあれば、老いを覚えることもあります。時間に追われて大変な一日だったと思うこともあれば、充実した一日だったと感じるたりします。無駄な時間を過ごしてしまったと後悔する時もあれば、なすべきことを果たし終えた喜びを覚える時もあるでしょう。こうして、常に時間のもとで、時間を意識して生きているのが人間。ちょっと難しいことばになりますが、ある哲学者は、人間を「時間的存在」と定義したほどです。

それでは、私たちは時間と言う賜物をどう使うことが良いのか。聖書は、時間の管理について何と教えているのか。今日は、イエス様の生き方、行動から考えてみたいと思います。

さて、最初に読みましたマルコの福音書が描いているのは、イエス様が非常に忙しい一日を過ごした翌日の光景です。


1:35「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」


前日は安息日でした。それは、イエス様にとって多忙を極める日であったと思われます。先ず会堂に行き、礼拝に参加した際、悪霊に苦しむ男から悪霊を追い出し、解放しました。会堂を出て弟子のシモン・ペテロの家に行くと、熱病を患う姑を癒すことになります。夕方となり、評判を聞いた人々が家にやって来ると、イエス様は様々な病人や悪霊につかれた人に仕え、癒しのわざを行いました。聖書には「町中の人が戸口に集まってきた」とありますから、癒しの働きが夜遅くまで続けられたことでしょう。

その様な一日が終わった翌朝、イエス様は何をなさっていたのでしょうか。「祈っておられた」とあります。イエス様は天の父なる神と一対一、親しく交わることに朝の時間を使っていたのです。恐らく、これはこの日に限ってのことではなかったでしょう。

聖書には、十二弟子を選ぶ際、イエス様が夜を徹して祈る姿が記されています。イエス様の祈る姿を見て、イエス様のような祈りを求める気持ちが起こされたのか、弟子たちが「私たちにも祈りを教えてください」と願ったこともありました。都エルサレムに登った時は、ゲッセマネの園で、弟子たちと定期的に祈祷会を持たれたことも、知られています。

しかし、例え多忙な日を過ごしたとしてもーイエス様が救い主として活動された時期、多忙でなかった日はなかったように思えますがー一日の活動が始まる前に祈りの時間をとること、父なる神と交わることを、イエス様は大切にしていた、習慣としていたことがここから伺えます。けれども、そんな思いを知ってか知らずか、弟子たちは、場所を移動しようとするイエス様の後を追いかけました。


1:36、37「すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。」


「皆があなたを捜しています」ということばには、弟子たちのある思いが込められていたと考えられます。ひとつは、「主よ、多くの人が癒しを求めて、あなたを探してここに来ようとしていますのに、未だ祈り等行うつもりですか。」そんな軽い非難の響きが伺えます。「忙しい一日が始まると言うのに、あなたは何をしているのですか。祈るより働けではないんですか。」少し責めている気がします。弟子たちの心にあるのは、祈ることより働くことの方が大切であり、常識と言う価値観でした。

二つ目は、彼らが、前日に続き押し寄せてくる群衆を見て、これはイエス様の名が、ひいては自分たちの評判が世間に広まるチャンスと考えたのでしょう。「こんなチャンスを逃す手はあるもんですか。イエス様。彼らを悉く癒して、あなたとあなたに従う私たちの名が挙がるよう、頑張りましょう。」そう、イエス様をせっつき、動かそうとした様に見えます。この時、弟子たちを動かしていたのは、祈るより働くことが重要だと言う価値観と、名誉欲と思われるところです。

しかし、それに対するイエス様の応答は、恐らく、弟子たちの期待に反するものでした。


1:38,39「イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。」


既に、朝の祈りの中で、今日優先すべきことが何であるかを、イエス様は決めておられたのでしょう。「近くにある別の町や村へ行き、そこでも福音を伝える。そのために、わたしは出て来たのだから。」もちろん、イエス様は、病に苦しむ者たちを癒す働きを軽視していたわけではありません。苦しむ人を癒すと言うあわれみの働きと、福音を伝える働き。ふたつの働きを通して神の国の到来を示すこと。これが、イエス様の人生にとって最も大切なこと、使命だったのです。その様な思いの中で、この日は福音を伝える働きを別の町で行うことを優先する。これがイエス様の計画でした。

イエス様とて、昨日に続いて今日も同じ町で癒しのわざを行えば、名声を得ることができることなど分かっておられたでしょう。しかし、それをイエス様は選ばれなかったのです。忙しさに流されぬよう、祈りの時間を習慣とする。名誉欲に動かされたり、人々の声に左右されることがないよう、天の父が自分をこの世に遣わされた目的、みこころに従うことを第一とする。これが、イエス様の日々の行動の土台にあったことを確認したいと思うのです。

神様と交わり、聖書を読み、祈る中で、神様が自分に託された働きを自覚する。神様と隣人を愛するために、限られた時間の中で、自分には何ができるか、何をすべきかを思う。そして、今日一日を何を優先すべきかを考え、計画を立てる。イエス様と同じく、私たちにも神様から託された働きがあります。父や母としての働き。夫や妻としての働き。職場での働き。教会員としての働き。広く社会や世界の一員としての働き。例え、働きは違っても、イエス様と同じように考え、時間を使い、計画を立てる。イエス様が示された、この様な時間管理を、私たちも目指したいと思うのです。

次に注目したいのは、一日や一週間よりももっと長い時間、人生全体と言う視点で、ご自分の働きについて考え、計画的に行動しおられたイエス様の姿です。


ヨハネ13:1「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」


ここには、この時が過ぎ越しの祭りの前の日で、「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。」とあります。イエス様は死の時を思い、この世を去って天の父のもとに行くことを意識しておられました。その上で、弟子たちの足を洗って、仕える僕としての生き方を示し、過ぎ越しの食事を祝い、遺言ともいうべき教えを語り、彼らのために祈りをささげたのです。そして、なすべきことをなした後、最後にして最大の働き、十字架の死に臨むことになります。

イエス様の十字架までの歩みは、大きく三つに分けられます。前半は、先にマルコの福音書で見たように、故郷ガリラヤの町を巡り、広く福音を伝え、癒しの働きを行った時期。中盤は、主に都エルサレムで、宗教家と論じ、神様の恵みと真理を説き明かすとともに、弟子たちを訓練された時期。終盤は、弟子たちに仕えること、教えることに全力を傾けた時期です。この箇所に描かれているのは、終盤も終盤、人生の最終盤を迎えたイエス様の姿です。

私たちの人生にも時期があります。よく言われるのは、人生の四季と言うとらえ方です。

誕生から20歳までの春、これは夏の活動期への準備の時期で、知的にも体力的にも精神的にも大人として成長してゆく時期です。夏は20歳から40歳。何でもできる時期。試行錯誤の時期で、様々なことに挑戦して失敗したり、挫折したり、悩んだり喜んだり。最も活動が盛んな時期とされます。

秋は40歳から60歳。収穫の秋で、様々なことを成し遂げてゆく、人生の使命を果たす充実期とも言われます。最後の冬は、60歳以降死に至るまで。成熟の時、人生の総括の時です。それまでの人生を総括して、知識、経験、能力、金銭など、自分が与えられたものを他の人に分かち合う時期とされます。

 これは、一般的な考え方であり、全ての人に当てはまるものではないかもしれません。しかし、私たちに対する神様のみこころは生涯変わらないとしても、健康、社会的立場や責任、時間の余裕、能力など、各々の時期で変わるものがあります。ですから、自分が今人生のどの様な時期にいるのかを踏まえて、時間の使い方を考える。人生のこの時期、クリスチャンとして何に価値を置くのかを考え、計画を立て生活する、時間を管理することは、どの時期であっても大切なことではないでしょうか。

もうずいぶん前のことになりますが、「七つの習慣」と言う本が評判になりました。この中に参考になる時間管理の考え方がありますが、その一つは、人生には四つの時間の領域があると言うものです。

第一の領域は、緊急つまりすぐに対応する必要があり、重要な領域です。締め切りのある仕事、職場や隣人との人間関係の差し迫った問題、自分や家族の病気や、災害などに対応する時間です。第二の領域は、緊急ではあるけれども、それほど重要ではない領域です。買い物など日常生活の雑事、重要ではない電話や表面的、儀礼的な接待などへの対応が、ここに含まれます。

第三の領域は、緊急でもなければ、重要でもない領域です。暇つぶし、だらだら電話、関心のないテレビやインターネットに使っている時間などが含まれます。最後に、第四の領域、これが大切なのですが、緊急ではない、つまりすぐにしなくても生活には何の影響もないように見えることで、しかし人生全体を考えると、非常に重要な領域があると言うのです。そこには、人間関係作り、健康維持、人生の先を考えて計画を考えること、心から楽しめ、リラックスできる遊び、親として職業人として能力を向上するために学ぶことなどが入るとされています。クリスチャンであれば、ここに聖書を読むこと、祈り、神様との交わりなどが入るかと思います。

そして、著者は多くの人は、第一の、緊急で重要な領域と第二の、緊急だけれどそれ程重要ではない領域、それに第三の、緊急でもなければ重要でもない領域で時間を費やすことが多く、埋没していると言い、時間の過ごし方を振り返り、第二、第三の領域に費やしている時間を、第四の領域に持ってゆくことを勧めています。第四の時間の領域、緊急ではないけれど、人生全体と言う視点で見る時、非常に重要な事柄に時間を使うことが、人生の充実につながると勧めているのです。

皆様はどうでしょうか。生活を振り返ってみて、どの領域に時間を使っていることが多いでしょうか。第四の領域に使っている時間はどれぐらいあるでしょうか。イエス様の様に、自分がこの地上に生かされている目的を考え、神様に託された働きについて思いを巡らし、最も大切なことに時間を使っているでしょうか。神様に与えられた時間を正しく管理できているでしょうか。

とは言っても、私たち人間が、イエス様の様に正しく時間を管理することは、本当の難しいと思います。私自身、いつのまにか緊急だけれどそれ程重要でないことや、緊急でも重要でもないことに時間を費やしてしまっていることに気がつきます。切羽詰まった締め切りや対応すべき問題に忙殺され、長い目で人生を考える時非常に重要なことに取り組む時間が取れないことが多くあります。しかし、そうだからと言って、計画を立てて時間管理をすることに、意味がないとは思いません。

最後に考えたいのは、正しく時間を管理することが中々できない私たちが、それを続ける意味です。第一に、私たちは計画を立てることによって、自分がクリスチャンとして何を大切にすべきかを確認することができます。また、計画が実行できたかどうか、評価することによって、思いや願いとは別に、実際に自分が何を大切にしているかに気がつき、修正してゆくことができます。こうしたことを繰り返すことで、私たちは神様のみこころに従って生きることを身に着けてゆけると思うのです。

 第二に、計画が思った通りに行かない時、私たちは神様に信頼することを学びます。皆様も経験されている通り、計画通りに行く一日、一週間など人生にはありません。体調を崩したり、思いもかけないトラブルが起こったり、人の訪問があったりして、計画がひとつもできなかったと言う日もあるはずです。しかし、そのことを通して、私たちは自分が建てた計画を完全に実現できるお方は神様だけ。私たちは人間と言う被造物に過ぎないと弁えることができるのです。信頼すべきは、自分でもなく、自分の建てた計画でもなく、神様であることを知るのです。


箴言3:56「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

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