2019年1月13日日曜日

信仰生活の基本(2)「伝道~伝える者として~」ルカ5:1~11


聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。「伝道」。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。キリストを信じる者は、自分が罪から救われて終わりではない。自分の受けた福音を、まだ知らない人に伝える働きに就く。主イエスを信じる者は、福音を伝える使命を得ることになる。この「伝道」に、私たちはどのような思いで取り組めば良いのか。イエス様がガリラヤ湖の漁師たちを弟子にした場面を中心に確認していきたいと思います。
 ルカ5章1節~3節
「さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。」

 イエス様の十二人の直弟子のうち、特に有名なのはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人ですが、この三人は皆がガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の漁師でした。この三人がイエス様の弟子となる有名な記事が今日の箇所ですが、ルカは主にシモン・ペテロに焦点を当てて記しています。(他の福音書によると、この時、ペテロの兄弟アンデレもイエス様の弟子になっていることが分かります。またペテロは、聖書の中で四つの名前で呼ばれています。シモン、シメオン、ペテロ、ケファ。今日の記事にも、シモン・ペテロという名前が出てきます。)
 罪人を救うために生まれたイエス・キリスト。しかし、ご自身が約束の救い主であることを公にするまで、イエス様は大工をしつつ家族に仕えていました。田舎町の大工。それが、およそ三十歳になり、救い主としての活動を開始されますが、これは活動を開始して間もない頃。それでも、群衆はこのイエスが語る言葉を聞こうと集まっていました。
 約束の救い主が神のことばを語る。これ程、厳かで重要な機会はないと思いますが、その場面は実に日常的でした。静まり返った会堂の中とか、装飾きらびやかな建物でしか話さないのではない。群衆が集まったら、そこで話をする。この時は湖畔で、群衆が押し迫ってきたので、生臭い小舟に乗り込んで話をされる。大工仕事で鍛え上げられた体、湖畔にあふれる群衆を前に声を響かせる姿。野性味あふれる、健康的なイエス様の姿です。
 ところで、この時イエス様はシモンの舟に乗り込んでいますが、イエス様とシモンは初対面ではありません。既に知り合いになっている。それもシモンからすれば、姑の病を癒してもらっていて(4章38節~39節)、イエスが特別な方であるという思いはあったはずです。イエス様がこの時、この湖畔にいたのも、シモンたちに会いに来たところに、群衆が押し迫ってきたため、神のことばを語ったという場面なのかもしれません。

 湖上の説教、舟の上からの伝道。果たしてこの時は、どのような話をされたのか。気になるところですが、ルカはイエス様が語られた内容は記さずに、イエス様とペテロのやり取りに焦点を当てます。
 ルカ5章4節
「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」

 話が終わると、イエス様はシモンに対して、深みに漕ぎだして網をおろせと命じます。これは不思議な勧め。何しろ、ガリラヤ湖での漁は夜中に行うもの。それも、浅瀬で行うことが一般的でした。何故なら、そこに魚がいるからです。昼間に、それも深みに漕ぎだして網をおろすようにとは、素人の言いそうなこと。
 この時、シモンは何をしていたのかと言えば、夜通し働いた後、網を洗っていました。仕事を終え、後始末をしていた時。これでまた、網を湖の中にいれたら、一切釣れなかったとしても、また網を洗わなければならない。更に言えば、この日は漁師としては最悪の日。夜通し働いて、何一つ魚が取れなかった日。雑魚一匹取れなかった。ガリラヤ湖出身の漁師シモンが一晩頑張って、一匹も釣れなかった。その後片付けをしている時に、大工であるイエスの勧めが、網を下すように、でした。自分がシモンの立場だとしたら、この言葉をどのように受けとめるのか。
 ルカ5章5節
「すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』」

 シモンは一応、現状を伝えました。夜通し働きましたが何一つ取れなかったこと。それでも、網をおろしてみましょうと言います。
姑を癒してもらった。多くの群衆が集まる大先生。自分自身も、この時語られていたイエス様の話を側で聞いていました。普通の人ではない。この方が言うのであれば、やってみても良いのではないかと思った。
 そして、実際にそれを実践してみると何が起こったのか。
 ルカ5章6節~7節
「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。」

 網を下したシモンの足腰に力が入る。重い、重すぎる。そもそも、シモンはどれ位の魚が獲れると考えていたのでしょうか。一晩中働いて、一匹も獲れなかった日。果たして何匹釣れるのか。シモンの予想がどのようなものだったのか分かりませんが、少なくとも想像以上だったことは分かります。自分の舟だけでは引き揚げることが出来ず、仲間を呼び、二艘の舟がいっぱいになる程の魚を獲ることになりました。暫し湖上での奮戦。網を引き揚げ、魚と格闘。この間、どのような会話がなされたのか。「網が破れる。」「舟が沈む。」「まさか。」「こんなことが。」「何故。」群衆たちのどよめきも聞こえる場面。

 このような場面。一般的な考え、あるいは自分の考えよりも、神様の言葉に従う時に大きな恵みを受けるというのは、聖書に繰り返し記録されるものの一つです。神様の言葉、イエス様の言葉に従った時、その本人が想像する以上の恵みを受ける。人間の常識、自分の思いよりも神様の言葉、イエス様の言葉、聖書の言葉を優先する時に、大きな恵みを受けると教えられる場面の一つです。
 自分の思いよりも、聖書に従うことを優先させる。そのように決めて、実行したことはあるでしょうか。その結果、恵みを頂いたという経験はあるでしょうか。この時、シモンはイエス様の言葉に従って、想像を越える大漁を経験します。しかし、イエス様の言葉に従ったら、大漁になる、仕事が上手くいくというのが恵みの本質かというとそうではありません。大漁であったというのも感謝なことですが、それ以上の恵みが与えられています。神のことばに従う時、どのような恵みを受けるのか。
 ルカ5章8節~10節
「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。」

 あまりの大漁に網が破れそうになり助けを呼び、二艘の舟が沈みそうになる。必死に魚と格闘して呆然とした後。ペテロは驚愕に襲われます。目の前にいるイエスが、誰なのか分かるという驚きです。
 ペテロは網をおろす前、イエス様に対して「先生」と呼びかけていました。姑の病を癒してくれた。多くの群集が話を聞きにくる人。自分も、その言葉を聞いて、確かに感銘を受けた。だから、「先生」と呼んだのです。しかし、実際にイエス様の言葉を実践してみて分かったのは、ここにいるのは、ただの「先生」ではない。先生どころのお方ではない。イエス様の言葉に従って、その結果を体験したペテロは、この方はこの世界を支配されている方。神である方だと直感し、「主よ」と呼びかけるのです。
 神様の言葉、イエス様の言葉、聖書の言葉に従う時に頂く恵みの本質はこれです。つまり、誰がこの世界を治めているのか。誰が真の神なのか気が付くということです。この時、イエス様の言葉に従ってペテロが頂いた恵みの最大のものは、この方が「主」だと分かったことでした。この時ペテロが味わった驚き、恵みを、私たちも信仰生活の中で繰り返し味わいたいものです。

 ところで、ここで興味深いのが、目の前にいる方が「主」である、神であると分かった時のペテロの姿です。魚で溢れかえった舟の上で、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言います。小舟に同船し、自分と同じく魚に埋もれている方が、世界を造り、この湖の一切を支配したもうお方、人となられた神であると知って、平伏する。主を知る、神を知る時に、人は己の卑しさ、己の罪深さを知ることになる。神様を知り、その結果、己の罪深さに目が開かれるというのも、この時ペテロに与えられた重要な恵みでした。

 神である方を知る時に、自分の罪深さを知る。このペテロの姿で、皆さまは思い出す場面があるでしょうか。先週の礼拝説教の箇所、預言者イザヤが経験したことがまさにそうでした。(ペテロやイザヤ以外でも、聖書の中から同様の経験をした人たちは何人もいます。)
 イザヤ6章1節~5節
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。』その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。私は言った。『ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。』」

 真に神様を意識する時、人は何よりも己の卑しさを知ることになる。神様がともにおられることを覚える時に、自分の罪深さを意識することになる。喜びと平安のうちに、神様を覚えることがあるでしょう。感動、感謝とともに、神様の前で首を垂れることもあるでしょう。しかし、それだけだとしたら、本当に神を知る者と言えるのか問われるところ。
 イザヤにしても、ペテロにしても、神である方を前に自分の罪深さを知るという経験は貴いもの。神を知り、己を知る。己を知り、ますます神を知る。この恵みも、私たち皆で頂きたいものです。

 さて、自分の罪深さを自覚し、私から離れて下さいと申し出たペテロに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。
 ルカ5章10節~11節
「シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。』彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」

 人間を捕るようになる。これは当然、イエス様の言われた通りにした時に、多くの魚が獲れたこの場面を下敷きとして、言われた言葉。魚を獲る漁師であった者たちが、人間を捕る者となる。
 この人間を捕るという言葉は、面白い言葉が使われていまして、「捕って生かす」という意味の言葉です。漁師が魚を獲るのは、売るため、食べるため。強いて言えば、殺すために獲る。しかし、ここでイエス様が言われているのは、「人間を捕えて生かす者」となる、という言葉。
 罪に囚われ死んでいる者たちを、捕って生かす者となる。福音を宣べ伝える者、伝道する者となるということ。このイエス様の言葉に、ペテロたちは従ったとして、この段落は閉じられます。

 この時までに、ペテロはイエスと関係がありました。自宅にも招き、イエス様が伝道する際舟を貸し、非常識と思える言葉にも従いました。しかし、ここにいたって、本格的にイエス様の弟子になったと言えるでしょう。この時から、人間を捕る者、伝道する者とされていくのです。
 何故、この時だったのか。イエス様は、ペテロに対して、「人間を捕る者となる」と言う機会は色々とありました。ペテロの家に行った時。ペテロの姑を癒した時。この日、群衆が集まる前に、「人間を捕る者となる」と呼びかけることも出来ました。しかしペテロが、イエスが誰で、そのイエスの前で自分がどのような者か、分かるまで待っておられたのです。
 何しろ、人間を捕るということ、福音を伝えるとは、まさに主イエスが誰で、神の前でその人が罪人であることを伝えること。主イエスが誰で、自分が罪人であるということが分からないまま、伝道する者とはなれないのです。

 神様を知り、自分の罪深さを知った者が、神のことばを伝える者となる。これもまた、イザヤにそのまま当てはまることでした。神を知り、自分の罪深さを知ったイザヤと、神様とのやりとりが次のように記録されていました。
イザヤ6章8節
「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」

ペテロやイザヤの姿に、伝道する上で最も重要なこと、福音を伝える上で最も重要なことの一つを覚えます。
私たちが「伝道」について考える時。多くの場合、神様のこと、イエス・キリストのこと、教会のことを、どのように伝えるか考えます。どのようにしたら、教会に来てもらえるか。人が多く集まる企画、案内とはどのようなものか。何をすることがより効果的なのか。あの人を誘うために、どのように声かけをしたら良いか。
これらのことを考えることは大事なこと。重要なこと。これからも、私たちの出来ることは何か考え、精いっぱい知恵を絞って、伝道活動をすることに取り組みたいと思います。しかし、いかに伝えるかだけしか考えていないとしたら、恐ろしいことでした。
何しろ、私たちが伝えたいのは、「神様であり、イエス・キリストご自身。そして、その方の前で、罪人である。」ということ。この福音を伝えようとしている私たち自身が、神様を知ろうとしない、主イエスを知ろうとしない、自分の罪深さを自覚しようとしないとしたら、一体何をしたいのかと問われることになります。
伝道する上で最も重要なことは、私たち自身が、絶えず、神を知り、己を知ろうとすること。いかに伝えるのかだけを考えることのないようにと確認します。

 一年の始め。キリストを信じる者として、与えられた重要な使命の一つ。伝道をどのように果たすか、よく考えたいと思います。私たちの周りにいる、まだキリストを知らない方にキリストを伝える。福音を伝える。教会に誘い、伝道活動を行う。そのために、知恵を絞り、機会を伺い、よく祈りたいと思います。しかし、最も大事にすべきことは、自分自身が、神様を知り、己を知る者となること。己を知り、ますます主イエスが必要であると覚えることでした。

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