2018年9月16日日曜日

敬老感謝礼拝「教会~老人が救われる場所~」レビ19:32,Ⅰテモテ5:1~2


70歳以上の高齢者の皆様、ご長寿おめでとうございます。今日は敬老感謝礼拝。聖書から、高齢者はどう生きるのが良いのか、私たちは高齢者にどう接すべきなのか。このことを皆で学び、考えるひと時を持ちたいと思っています

日本では、満60歳の還暦に始まり、120歳の大還暦まで、古希、米寿、白寿など、長寿を祝う年齢と呼名が12個もあります。すべてのお祝いを経験する人は稀としても、高齢者を敬うという価値観が、現代の社会でも、失われていないことを感じます。

聖書も、今から三千年以上前に書かれたレビ記と言う書物の中で、敬老の精神を教えていました。


レビ記19:32「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」


当時、一般的に年長者は家族に敬われ、村や町では大切な役職に就き、社会において一目置かれていました。しかし、その様な時代であっても、「神を畏れる者は老人を敬え」と言う命令があること自体、既に高齢者が軽んじられていたことを示しているとも言われます。

事実、聖書の中には、年老いた父を嘲り、母を蔑ろにする子どもへの戒めがあります。老人に対して尊大にふるまう若者を正すことばもあります。養うべき両親の財産を許可なく使っても、泥棒にはならないと考える者がいたことを伺わせることばも登場してきます。こうして見ると、昔からどこの国でも、社会は若者中心。老人たちは寂しさや、辛さを感じながら生きてきたのではないかと思われます。

それでは、現代の日本はどうなのか。5年ほど前の事です。NHKが「他人事ではない老後の現実、老人漂流社会」という番組を放映していました。その中で、一つのことばがとても気になりました。セルフ・ネグレクトと言うことばです。

ネグレクトと言うのは、親が子どもに対してなすべき最低限の世話をしない、怠る。そう言う子供虐待の問題について使われます。それに対して、セルフ・ネグレクトと言うのは、部屋の片づけをしない、風呂に入らない、お金や通帳の管理をしない、病気になっても病院にかからない、必要な福祉的なサービスを断るなど、老人が自分の世話をしなくなること、怠ること。自己放棄とか消極的自殺とも言われます。

家族や隣近所からの孤立、家族や親族、友人の死や自分自身の病気など困難な出来事、認知症や精神疾患、家族を介護した後の喪失感や経済的困窮などにより、気力、体力ともに低下することが、その原因とされています。高齢者にとって、益々厳しい社会になってきたのかもしれません。

しかし、聖書には、厳しい現実の中、充実した老年期を送った人が登場してきます。また、良い老年期を送るための知恵も記されていました。今日は、その中から二つのことをお話ししたいと思います。

一つ目は、「何をしてもらうか」ではなく、「何ができるか、何をすべきか」を考えることです。ここで紹介したいのは、カレブと言う老人。このことばを語った時、カレブは実に85歳でした。


ヨシュア記141013a「『ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。』ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福した。」


カレブは、イスラエルの民にあって信仰の人でした。時を遡ること45年前つまり40歳の時、12人の仲間とともに、神様の約束の地を偵察すると言う任務を果たして、民の所に帰りました。しかし、約束の地に住む強敵を恐れた10人の仲間は、撤退を主張。それに対して、「神とともに約束の地に進むべし」と提案し、民を鼓舞したのがこのカレブとヨシュアの二人だったのです.

それ以来、同胞とともに旅を共にし、困難を共にしたカレブ。約束の地に入ってからも、先陣を切って戦い続けたカレブも、既に85歳。「カレブさん。あなたはもう十分私たちのために働いてくれましたから、ゆっくり休んでください」と声をかける人もいたことでしょう。実際に、カレブには、引退して休む権利も、栄誉を受ける権利もあったはずです。

「今も私は壮健です」と語ってはいますが、老カレブは様々な体の衰え、弱さ感じていたこことでしょう。来るべき死のことも考えていたに違いありません。しかし、そうであるとしても、老いた自分に何ができるか。同胞のため何をすべきかを考えたカレブは、城壁のある大きな町の攻略という一事に、残りの生涯の目標を定めたのです。

ある保険会社が、老後の生きがいついてアンケートを取った所、旅行、グルメ、健康、子供や孫、読書、映画、スポーツが上位を占めました。良いことだと思います。しかし、実際の高齢者に聞いたところ、それだけでは虚しい。たとえ小さなことでも社会に貢献することができた時、人の役に立つことができたと思える時が幸せ、と答える人が、非常に多いことが分かりました。

私の故郷の村に、自分の家の前だけでなく、向こう三軒両隣まで掃除をする、老人がいました。特に冬、雪が降った朝など、雪かきをしてもらうと、高齢者が多い村ですから非常に助かるわけです。老人は10年前亡くなられたのですが、娘さんとお話をする機会がありました。

娘さんは言われました。「掃除、雪かきの仕事は、父の喜びでした。右隣の家にはまだ手のかかる幼い子供がいて、左の家のお祖母さんは腰が悪いと知っている。じゃあ、自分は時間と健康を与えていただいたのだから、両隣は掃除しておこう,雪もかいておこう。そう考えて行動していたのだと思います。」

その老人は、有名高校の校長を務めた人、俳人でもあり、画家でもある。村一番のエリートでした。でも、老いてからは、世の中の評判とか地位とか一切関係なく、ただ人間としてやるべきことをしておられたのです。高齢になっても、掃除なんかくだらないとか、雪かきなんかつまらない。そう言う思いは微塵もない。何をしてもらうかではなく、何ができるかを考えて、その仕事をただ遂行し、喜びとする。

人々から松井先生と慕われた老人は、晩年娘さんからキリスト教を教わり、洗礼を受けました。村の墓には、十字架とみことばが彫られた、村でただ一つのキリスト教の墓が今も残っています。

ただ受けているだけの人は、もっと多く、もっと良いものをもらいたいと際限がなくなります。配偶者が「あれをしてくれない」、嫁が「これをしてくれない」と不満が募ります。しかし、与える側に回れば、小さなことでも楽しく、喜んでくれる人がいれば、さらに心は満たされるのです。

青年期は自分のことで、手一杯で回りに目が行かない。壮年期は家族のことで精一杯で、地域の事、社会の事に目を向ける余裕がない。だとすれば、老年期こそ、自分ができることで、それまで中々できなかった社会の為、隣人の為の仕事に力を注ぐ。そんな生き方ができたらと思います。

ふたつ目は、喜びを見つけること、感謝すべきことを見つけることです。ある人が「病人と老人は似ているところがある。それは、労わってもらって当たり前、してもらって当たり前と言う心の状態になりやすいこと」と書いていました。

しかし、東日本大震災の際、被災地支援に行き、被災した方々の話をお聞きした時、私は自分の生活が、どれ程この「当たり前と感じる心」に支配されているかを、思い知らされました。

ある方は、毎日食パン、缶詰、食パン、缶詰の食事が続く中、二週間ぶり口にしたうどんの暖かさが忘れられないと言いました。あんまり暖かくて、あんまり美味しくて、おつゆを一滴も残さずに飲んでしまったそうです。ある方は、暖房のない、寒さが凍みる体育館の床に寝ていたのだけれど、久しぶりに家族三人、それも二枚の敷布団にちょっと窮屈だけれど、寝ることができた。布団で眠れるってこんなに気持ちいいことなんだと感じたそうです。また、ある方は、被災地を離れて親戚の家に行った時、放射能のことを気にせず、きれいな空気を思いっきり吸うことができた。空気を思いっきり吸えるって、幸せなことなんだなあと話してくれました。

今まで当たり前と思っていたことが、当たり前じゃない。きれいな空気を吸えるのも神様の恵み、一杯の暖かいうどんも、布団で眠れることも、人々を通して神様が与えてくれた恵みだと初めて分かって、あんなに心から喜び、感謝することができたことはない、と言っていました。被災したことが良いとは思えないし、苦しいことも多いけれど、こうならなければ一生分からなかったかもしれない、幸せを見つけることができた気がする。そう話してくれたのです。

私たちの中にある幸せのハードル、いつのまにか高くなってはいないでしょうか。あらゆることが当たり前になり、身近なところにあるはずの喜ぶべきことや感謝すべきことを、見つけられなくなってはいないかと思うのです。

だからこそでしょう。聖書は喜ぶこと、感謝することを、私たちに命じています。


テサロニケ第一の手紙5:16「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」


ある老婦人が相談に来ました。「先生、私の娘のことですが、ひどいと思いませんか。いくら忙しいからと言って、私のお昼は毎日お好み焼きなんですよ。それも、何にも入っていないただのお好み焼き。何枚食べてもいいわよと言われても、そんなもの犬だって食べないって言ってやりましたよ。先生、何とか娘に言ってくれませんか。」

「私が何か言うより、もしかすると、お母さんが娘さんに、いつも私のためにお好み焼きを焼いてくれてありがとうね。その一言でよいので、心から感謝の思いを表したら、ずっと効果があると思います。」私はそう答えました。二週間後、その老婦人が報告してくれたんです。「いつも、私のためにありがとう」と娘に言ったら、次の日のお好み焼きには、ちくわが入っていました。美味しかったので、「本当においしかった。ありがとう。そう言うと、次の日もやっぱりお好み焼きでしたが、今度は干しエビが入っていたんですよ。」とても嬉しそうでした。

親子であっても、夫婦であっても、施設の職員でも、相手のしてくれることを当たり前とは思わない。こんなこと位当たり前と感じている自分に、本当にそうかと問いかけてみる。そこに神様の恵み、人の好意を見つけて喜ぶ。感謝を示す。あなたがそうすることには、相手を変える力がありますよ。そんな神様のメッセージが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」と言うことばに、込められているのではないかと思います。

「引き算の不幸、足し算の幸福」ということばがあります。収入、仕事、社会的な地位、名声、健康、ある種の能力など、年を重ねるにつれ、私たちは様々なものを失ってゆきます。あって当たり前と思っていたものを失うのは辛いことですが、「あれもない、これも失った」と嘆き、数えていても、落ち込むばかり。これが引き算の不幸です。

けれど、老いてもなお、神様から与えられたものがあることを数えて、喜ぶ。人がしてくれたことを当たり前と思わずに、感謝を表す。気がつかないうちに高くなってゆく幸せのハードルをできる限り下げて、喜ぶべきこと、感謝すべきことを見つける生き方を、養い育てることができたらと思うのです。

最後に、高齢者の方にお勧めしたいのは、教会生活をすることです。今お話ししたような生き方を、ひとりで身に着け、実践することは容易なことではありません。老人には、すぐそばに老人を敬う人々の存在が必要ではないかと思います。また、よく言われることですが、異なる世代の人々との交わりも大切ではないでしょうか。


テモテの手紙第一51,2「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。」


今日本では、ひとり暮らしの老人が増えています。特に65歳以上の高齢者のひとり暮らしが著しいそうです。諸外国に比べて配偶者の死別後も、子供と同居しない人の割合が、日本は高いのです。子どもと一人暮らしの親が行き来する回数も、非常に少ないそうです。老人の孤独です。

先ほど話したセルフ・ネグレクトの問題も、孤独化と深い関係があると言われます。ひとり暮らしは、お金がないのも辛く、不安だと言う人も増えているようですが、孤独はお金があっても、解決しないような気がします。私たちはみな愛し合う交わりの中に身を置く必要があるのです。

聖書にある様に、私たちの教会はすべての老人を敬う教会でありたいと思います。何歳であっても、健康であっても、病であっても、何ができても、できなくても、すべての年配者を敬うことを大切にしたい。男性の年配者を、自分の父親に対するように敬い、女性の年配者に、自分の母親にする様に仕えたいと思うのです。

高齢者の方にもお願いします。私たちを自分の子どものように思い、尊い人生の経験を伝え、間違っていると思ったら叱ってください。

高齢者と若い世代、高齢者と子どもたちが、あるべき関係を築いてゆくこと。それが、この世界に教会が存在する目的の一つであることを、今朝皆で確認し、神様を賛美したいのです。

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