2018年9月9日日曜日

一書説教(48)「ガラテヤ書~信じることによって~」ガラテヤ2:16


聖書は六十六の書が集まって一つの書となっています。様々な教えや出来事の記録が盛り込まれた分厚い書。聖書が教えていることを短くまとめるのは難しいものですが、中心的なメッセージを二つに絞るとすれば、一つは「世界を造られた神様を無視していることは罪であり、そのままでは悲惨である」こと。もう一つは、「神様を無視して悲惨な状態で生きている私たちに、救いの道が用意されている」こと。この二つです。

 このうち聖書が教える「罪からの救いの道」というのは、修行をすることではありません。善行に励むことでもありません。特別な技術を身に付けることでも、財産をささげることでもない。規則を守ることでもありません。救い主を信じること。自分で何かをするのではなく、ただ救い主を信じる。それ以上でも、それ以下でもなく、「救い主を信じる」ことだけが、「罪からの救いの道」として私たちに用意されたものです。

「罪からの救いに必要なのは救い主を信じることだけ」、これはキリスト教の根幹に関わる極めて重要な教え。キリスト教信仰を持つ現代の私たちからすれば、当然のことと思われる教え。しかし新約聖書が記された時代、この教えは本当にその通りなのか、議論の的となりました。当時、どのような状況だったのか、どのようにこのテーマが取り扱われたのか。歴史的記録として「使徒の働き」に記され、論述としては主に「ガラテヤ書」に記されています。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り九回目。ガラテヤ人への手紙となります。「罪からの救いに必要なのは何か」というテーマに、舌鋒鋭く切り込むパウロ。この点では一切譲らない、妥協無しという力強さ、勢いが感じられるパウロの思いが滲み出ている書。一つの特徴は、対比が多いこと。恵みと律法、信仰と行い、子どもであることと奴隷であること、御霊の行いと肉の行いなど、二つのものが並べられる場面が多くあります。

この書を通して、改めて私たちはどのような恵みを頂いているのか。そもそも、恵みとはどのようなものか。確認していきたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 一書説教ガラテヤ書ですが、ガラテヤ書を読む前に、「罪からの救いに必要なのは何か」。このテーマについて、当時どのような状況だったのか、確認したいと思います。

 神様は、罪の中で悲惨な生き方をする人間が増え広がる世界にあって、「神の民」に人間としての本来の生き方。神様を信じ、従う生き方を示す使命を与えました。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫、ユダヤ人です。

ユダヤ人は、人類の中にあって旧約聖書を受け継いできた者たち。世界を造られた神様を知り、信じる者たち。神様から、どのように生きるべきなのか教えられ、それを守ろうと取り組んできた者たち。「神の民」のしるしとして、「割礼」をする者たち。イエス・キリストは(肉において)ユダヤ人。十二弟子も全員ユダヤ人です。


 イエス様が十字架で死に復活された後。弟子たちに、「罪からの救いの知らせ」、福音と呼ばれるニュースを伝えるように命じます。誰に伝えるように言われていたか。

 マタイ28章19節~20節

「『ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』


 イエス様は福音をあらゆる国の人々に伝えるようにと言われています。しかし、弟子たちは、すぐにあらゆる人々に伝えようとは取り組みませんでした。ユダヤ人にキリストを伝えていくのです。

 何故、弟子たちは、ユダヤ人以外にはキリストを伝えようとしなかったのでしょうか。旧約聖書を知らない者たち。つまり、そもそも世界の造り主を知らない。神様が、人間にどのように生きるよう教えているかも知らない。罪の自覚もない。そのような異邦人にキリストを伝えることは困難だと思ったのか。そのような思いもあったかもしれませんが(使徒の働きに出てくる弟子たちの姿からすると)、そもそも、異邦人と接する機会を持とうと考えていませんでした。(使徒10章28節)

 

 弟子たち、教会は、福音を伝えるのはユダヤ人だけ。異邦人とは交わりも持たないと考えていた。この状況が大きく変わるきっかけとなった出来事が、使徒の十章に出てきます。ペテロが異邦人のコルネリウスから家に来て欲しいと招きを受けた場面。

 幻を通して、異邦人の招きでも応じるように導かれたペテロは、コルネリウスの話を聞き、異邦人にも福音を伝えるべきと確信。ペテロの説教を通して、コルネリウスと、その友人たちがキリストを信じます。そのため、ペテロが異邦人に洗礼をさずけることになる。ペテロにとって、重要な経験となります。

しかし、この出来事はエルサレムの教会で問題となり、ペテロがエルサレムに行った時、詰問されたと言います。この時の非難の言葉が印象的なので確認しておきますと、

 使徒11章2節~3節

そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした』と言った。


 そもそも、異邦人と交わることが良くないと考えている状況で、ペテロは交わりを持ち、さらに洗礼までさずけた。これはどういうことかと非難する者たち。その非難の言葉は、「割礼を受けていない者たちとの交わり」でした。当時の弟子たち、教会にとって、「割礼の有無」が重要であったことが分かります。この非難に対して、ペテロは事の次第を伝えます。その説明を受けた教会の者たちは、次のように応じました。

 使徒11章18節

人々はこれを聞いて沈黙した。そして『それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。


 固執するのではなく、ペテロの話を聞いて自分たちの考え方を変えることが出来た。教会の麗しい姿です。このように、ペテロ含め当時の教会は、少しずつ理解を深めていく歩みとなるのです。キリストを信じると救われるのは誰なのか。ユダヤ人だけではない、全ての人に救いは広がっているという理解が広まるのです。

 全ての人に福音を伝えて良い、全ての人に救いは与えられる。とはいえ、異邦人はただキリストを信じるだけで救われるのか。異邦人も、旧約聖書をよく理解し、旧約聖書の教えに従い、「神の民」のしるしである割礼を受けた上で、キリストを信じる時に救われるのか。キリストを信じるだけで罪赦されるのか。割礼(それに代表されるユダヤ人のような生き方)と、キリストを信じること、この両方で罪から救われるのか。果たしてどちらなのか、という議論が巻き起こります。

 使徒15章1節~2節

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに『モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。


 片一方に、旧約聖書の教えを守り、割礼を受けた上で、キリストを信じなければ救われないと考える人たち。特に、もともと熱心に旧約聖書の教えを守ろうと生きてきた人たちがそのように考えていたようです。(使徒15章5節)もう片方に、救いに必要なのは、キリストを信じることだけ。それ以外は一切不要と主張する者たちもあり、激しい対立と論争が起こります。果たして、神様はどのように教えているのか。どのように確認したのかと言えば、主だった人たちが集まり会議の開催となる。エルサレム会議という場面です。この会議で重要な意見を述べたのはペテロで、コルネリウスのことが語られます。最終的に、救いに必要なのは、キリストを信じることだけ。それ以外は不要と結論付けられました。このように、弟子たち、教会は、混乱の中から少しずつ、救いに必要なのはキリストを信じることだけと確認する歩みを送るのです。


 救いに必要なものはキリストを信じることだけなのか。割礼も必要なのか。その混乱の影響は、ガラテヤの諸教会にも及んでいました。

パウロによって立てられたガラテヤの諸教会。「救いに必要なのは、キリストを信じることのみ」との福音を信じた者たち。そのガラテヤの教会の人々が、「救いに必要なのは、キリストを信じることだけではないらしい」と考えるようになった。このようなことが背景にあり記されたのが、ガラテヤ人への手紙です。


全六章のガラテヤ書。大きく、前半、中盤、後半と三つに分けることが出来ます。

 前半(一章~二章前半)は、パウロが自分自身の正当性を弁明する言葉が多く出てきます。当時、キリストを信じる者たちの間でも混乱していた状況。旧約聖書に馴染みの薄いガラテヤの人たちからすると、異なる二つの主張がある場合、どちらが聖書の教えに沿っているか判断することは難しい。そのため、主張自体を判断するよりも、誰の主張なのかによって判断する傾向があったのでしょう。

 パウロと異なる主張をする者たちは、どうやらパウロ自身を攻撃していたのです。使徒と呼ばれるのは、イエス様とともに生活し、その死と復活の証人であることが条件。(使徒1層21節~22節)しかし、パウロはこの条件を満たしていないのに、使徒を名乗っている。そもそも、少し前まで激しく教会を迫害していた人物。パウロは、聖書の教えを簡単なものにして、人々を喜ばせようとしている者。このような者の主張は正しくないと非難していたようです。

 このような非難に対してパウロは懸命に応えます。何故自分が使徒を名乗っているのか。自分の主張は、誰かの受け売りではなく、イエス・キリストから託されたものであること。またその主張は、教会の主だった人たちにも承諾を得られていること。これが前半の主な内容です。


 中盤(二章後半~四章)は、救いに必要なのは主イエスを信じることのみ、という主張が繰り返されます。手紙の本論となる部分。核となる一つの言葉が次のものだと思います。

 ガラテヤ2章16節

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。


 律法を行うことでは、誰も義と認められない。何かをすることで、罪赦される者など一人もいない。義と認められる、罪赦された者となるために用意された道は、キリストを信じること。信じることによってのみ、救われるという主張です。

 そして、もしこの主張が間違いであるとしたら。もし、私たちが何かをすることで救われる道があるのだとしたら、主イエスが私たちのために死なれたのは無意味なことになる。何かをすることで罪が赦される道があると言うのは、キリストの死を無駄死にと言うようなものだと言います。

 ガラテヤ2章21節

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。


 このようにパウロは、救いに必要なのは信仰であると確認します。しかし、問題となるのは、信仰だけで良いのか、という点です。救いには信仰が必要としても、それ以外にも必要なものがあるのではないか。割礼を受けること、律法を守ることは必要なのではないか。もし救いのために、割礼も律法を守ることも不要と言うならば、神の民とされたユダヤ人の歩みは何だったのか。与えられていた律法は、どのような意味があるのか、という疑問が出てきます。

 そこでパウロは、神の民とされたユダヤ人の祖、アブラハムは何によって義とされたのか。アブラハムに対する約束はどのようなものか。律法は、それを守れば義とされるために与えられたのではなく、その一つの意味はキリストを信じるように導かれるものとして与えられたこと。キリストを信じることと、律法を守ることは並列に並べられるものではなく、子どもと奴隷の違いのようだと記していきます。


 後半(五章~六章)は、それでも、救いには割礼を受ける必要があると言うのであれば、それは何を意味しているのか語られます。

 ガラテヤ5章3節~4節

割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。


 救いにはキリストを信じることとともに割礼が必要という考え方は、そもそも、キリストを信じることになっていない。キリストを信じるとは、信仰以外に何もなくても救われると信じること。それこそが恵みなのだと言うのです。

 さらに、ここからキリストを信じる者の生き方に触れていきます。キリストを信じる者は、罪から自由にされた者。そのため、どうせ罪は赦されるのだから好きなように生きるというのではなく、愛を持って互いに仕え合うように。キリストを信じる者は、罪が赦されるだけでなく、御霊を頂く者で、御霊を頂く者とは、律法に従う生き方が出来る者。律法は、それを守れば義とされるために与えられたのではなく、その一つの意味は御霊を頂いた者の生き方を教えることにあるとまとめられます。


 以上、簡単にですがガラテヤ書のまとめでした。あとは是非とも、ご自身で読んで頂きたいと思います。ところで、ガラテヤ書が繰り返し述べる、救いに必要なのは信仰のみ。私たちが何かするということは一切ないというこのメッセージを、皆さなは喜んで受け入れているでしょうか。聖書の中心的な教えが、このようなもので良かったと思っているでしょうか。

 私たちは、心のどこかに、信仰の世界でも人から賞賛されたい。人から認められたい。私はこれだけのことをしたと自分の歩みに満足したい。という思いを抱くことがあります。「恵み」というのは、神様が素晴らしいのであって、私は何も素晴らしくない。それが嫌だという思いになること。そこまで露骨に意識しなくても、教会の中でも成功体験を求める傾向はないでしょうか。

 救いに必要なのは信仰のみ。これを本気で信じる、この教えに本気で立つというのは、私がどうしたい、こうしたいではない。自分の生涯を通して、ひたすらにキリストの素晴らしさ、恵み深さを表す生き方をすることにつながる。パウロの、告白が思い出されるのです。

 ガラテヤ人への手紙2章20節

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

この書を読むことで、改めて、キリストを信じるとはどのようなことか。私たちはどのような恵みを頂いているのか。そもそも、恵みとはどのようなものか。私たちはどのように生きるのか。考えつつ、皆でパウロの告白に心を合わせたいと思います。

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