2018年9月23日日曜日

Ⅰコリント(14)「結婚の恵みと問題」Ⅰコリント7:1~11


昔から、恋愛、友情、仕事、老いなど、人生の様々な分野で格言、名言が語られ、残されてきました。中でも、結婚に関する格言、名言が最も多いと言われます。しかし、他の分野には各々の素晴らしさを語る格言、名言もあれば、それとは反対の否定的な格言、戒めの名言もあるのに対し、結婚に関しては、否定的な格言、戒めの名言が圧倒的に多いのです。昔から、人は結婚で悩んできたと言うことかもしれません。

例えば、「結婚は、鳥かごのようなものだ。外にいる鳥たちはいたずらに中に入ろうとし、中の鳥たちはいたずらに外へ出ようともがく。」フランスの哲学者モンテーニュのことばです。また、ギリシャの哲学者ソクラテスの、「人から結婚したほうが良いのでしょうか、それともしないほうが良いのでしょうかと問われるならば、「どちらにしても後悔するだろう」と私は答える。」と言うことばも有名でした。

ところで、皆様にとって結婚はどのようなものでしょうか。苦労はあるけれど良いもの、幸いなものでしょうか。悩みばかり多くて大変なものでしょうか。独身の方にとってはどうでしょうか。結婚はしたいものでしょうか。それとも余り積極的になれないものでしょうか。

神様の教えに基づいて結婚について考え、取り組む場合と、神様の教えは無視して、結婚について考え、取り組む場合では、大きく違ってくる気がします。

私たち日本長老教会の式文には、結婚についてこの様に教えられていました。少し私なりに変えた文章ですが、読んでみます。「結婚は神が人類の幸福のために、世の初めから定めた制度で、キリストと教会との交わり、一致を示す、大切な意味を持っています。それゆえ、道にかなわないで結婚してはなりません。結婚は、神を敬いつつなすべきです。」

しかし、折角神様が私たちの幸福のために定めた結婚という制度を、人間は悪用、乱用してきました。その結果、近親相姦、一夫多妻、不倫、離婚、男尊女卑、家庭内暴力など様々な問題が生まれてきたのです。神のこと等無視して結婚生活を送る人間たちが、結婚と言う良き制度を歪めて来たと言えるでしょう。今日では、結婚無用論、否定論を唱え、実践する人さえいる程です。

今読んで頂いたコリント人への手紙第一第7章で、著者パウロは、結婚の問題で揺れるコリント教会の人々に語りかけています。これまも触れてきましたが、ギリシャのコリントは港町。ヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要にあたるこの町は、当時経済的繁栄を謳歌していましたが、性的不品行においても広く知られていました。「あの人はコリント人の様」と言われることは、非常に恥ずかしいことであったのです。

そして、その様な町に建てられたコリント教会は、高慢で、贅沢で、争い好きで、不道徳な町の雰囲気に流され、悪習に染まっていました。結婚とは本来何であるかを示し、良い影響を与えるべき教会が、逆に悪しき影響を受けてしまっていたのです。それでは、彼らの問題とは何だったのでしょうか。


7:1、2「 さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。」


これまでは、自らが信頼する人のことばをもとに、パウロはコリント教会の問題を扱ってきました。仲間割れ、性的不道徳の問題について勧め、命じてきたのです。しかし、この第7章からは、コリント教会から送られてきた手紙に記された彼らの意見、質問について扱っています。「『男が女に触れないのは良いことだ』と、あなたがたが書いてきたことについて」、とある通りです。

それにしても、「男が女に触れないのは良いことだ」とはどういう意味でしょうか。これは、どう見ても、禁欲主義者の考え方です。実は、当時コリント教会には、父の妻を妻とする者を戒めようとしない兄弟や、町の遊女の元に通い詰めていた兄弟など、快楽主義者が存在していました。しかし、それとは逆に、男女の性的な交わりの一切を汚れと考え、どのような場合もこれを禁じ、独身こそ信仰的な生き方と考える禁欲主義者も、また存在していたらしいのです。

「男が女に触れないのは良い」と言うのは、この禁欲主義者の主張でした。それに対して使徒は、淫らな行いを避けるため、結婚せよと命じました。結婚の勧めとしては、消極的な気がします。しかし、パウロは性的な情熱と肉体を合わせ持つ、人間の現実をよく見ていたと言えます。快楽主義に反対する余り、あらゆる男女の性的な触れ合いを禁じると言う極端な理想を説く人々には、現実の世界に蠢く性的な誘惑がいかに強力で、危険なものであるか。見えていなかったのでしょう。それらの誘惑を前にして、いかに自分が弱い者であるか。分かっていなかったと思われます。

また、ここに勧められた結婚は、男も夫も、女も妻も単数でした。つまり、一人の男が一人の妻を、一人の女が一人の夫と結婚する。神様の定めた結婚は一夫一婦制であり、生涯を共にすることを誓約した夫婦において、性的な交わりは許されていることが確認できます。

さらに、パウロは、夫婦がお互いに、自分のからだを相手にささげる義務と、相手にそれを求める権利があると語っています。性的な交わりは汚れたものでも、恥ずべきものでもないこと、むしろ、尊重し、感謝すべき神の賜物であること。夫婦が人格的に一つとなるための大切な行いであることを説いてゆくのです。


7:3~5「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。」


当時は男尊女卑の時代でした。妻が夫の合法的な所有物であると考えられていた時代です。その様な時代にあって、「妻のからだは夫のもの」と言う主張には、多くの人が頷いたことでしょう。しかし、「夫も自分のからだについて権利を持っておらず、それは妻のもの」と言うことばは、人々を驚かせたに違いありません。

日本でも、「英雄色を好む」とか、「男の浮気は甲斐性」と言うことばがまかり通っていた時代がありました。同じように、当時ギリシャ・ローマの世界でも、夫には複数の女性と性的関係を持つことが許容されました。特に妻が子を産めない場合は側女を持つことは必要と考えられましたし、人々も寛容でした。しかし、妻が同じことをしたら人々から軽蔑され、家から追い出されたのです。その様な中、妻と同様、夫にも自分の妻以外とは、性的な交わりを持たない義務があること。妻に自分をささげて、喜びを与える義務があること。夫婦対等、男女同権を教えるこのことばは革命的でした。

他方夫婦には、ひとりの時間も大切です。特に一対一で神と交わる、聖書を読むなどの時間を持つことの自由や権利は尊重されなければなりません。しかし、その場合も、お互いに合意の上、しばらくの間、再び一緒になる、この三つの条件を守る様、パウロは注意しています。夫婦関係においては夫の横暴も、妻の我儘も許されない。二人で協力して、性的誘惑から自分たちを守り、結婚関係をきよく保ってゆく。聖書の教えは現実をよく踏まえ、冷静沈着。どこまでも夫婦対等でした。

黒田官兵衛、洗礼名はシメオン。日本一の軍師と言われた、戦国時代の武将です。ご存知の通り、数年前NHKの大河ドラマで取り上げられて、有名になりました。官兵衛に関しては、最初熱心なクリスチャンだったけれど、秀吉のキリシタン迫害の際転んでしまったと言う説と、いやそれは見せかけで、死に際にはキリスト教葬儀を願い、実現させたところからして、最後までキリスト教信仰を貫いたと言う、二つの説があります。

しかし、官兵衛がキリスト教信仰の影響を受けていたと思われる,幾つかの行動が記録に残っています。中でも、何よりも跡取りが大切な時代、子のない武将なら側室を迎えるのが常識であった戦国時代。子宝に恵まれなかった官兵衛が、最後まで側室を迎えず、一夫一婦を貫いたと言うエピソードは印象的です。人々が「子を得るために側室を迎えよ」と勧める中、ひとりの妻を愛し続け、仲睦まじい夫婦として慕われ、親しまれた官兵衛の歩み。個人的には、キリスト教信仰の証しと思えて仕方がありません。

さて、次は「独身もまた良し」「私のようにしていられるなら、それが良い」として、何が何でも結婚しなければと焦る独身の人々、特にやもめたちのために語るパウロのことばです。


7:6~9「以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。 しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。」


「以上」と言うのは、これまで述べてきたことの中心点、即ち「不品行を避けるために結婚せよ」と言う勧めを指しています。それを受けて、これまで述べてきた結婚の勧めは譲歩であって(新改訳第三版では容認)、命令ではないと言い、今度は独身の勧めとなります。これまで結婚を勧めてきたパウロが、どうして独身を勧めるのでしょうか。

注意したいのは、パウロが語りかける相手が変わったことです。使徒が結婚を勧めたのは禁欲主義者でした。それに対して、独身を勧めているのは、未婚の人と結婚したけれども今はやもめの女性たちです。

当時は、結婚していない人間は一人前とは認められないと言う考え方が、一般的でした。未婚の人は社会的に弱い立場にありました。特に社会から軽んじられ、経済的にも貧しかったのが、夫を失った女性あるいは離縁された女性、やもめたちだったのです。

ところで、使徒パウロ程、結婚の祝福、恵みを高く評価した人はいないと言われます。特に、エペソ書の5章は、聖書中最上の結婚観と言われています。その一部を読んでみます。


エペソ524,25「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」


夫と妻の関係を、キリストと教会の関係に重ね合わせた結婚観。神様が定めた結婚の意味はこのことばに集約されていました。ですから、「私の願うところは、すべての人が私のように独身であることです。」と言ったからと言って、パウロが結婚を貶めているとは思えません。禁欲主義者のように自分が独身であることを誇っているとも考えられません。実際、パウロは結婚しており、妻と死別したか、あるいは、妻が病弱のためか。何らかの事情のため、一人で生活していたと考えられます。

ですから、パウロがしているのは、当時の社会で肩身の狭い思いを抱いて生活していた未婚の人々、特にやもめたちが、パウロのように独身の賜物を生かして、神と人とに仕えるよう励ますことではなかったかと思います。事実、初代教会はやもめたちを経済的に支え、神と人に仕えるやもめたちを尊んでいたことを、聖書は示しています。勿論、独身の兄弟姉妹が、自制するのが難しいと感じたり、強い情熱を感じる異性が与えられたら、結婚を考えるべきとも勧めていました。

聖書は、結婚と独身を比べて、どちらが上でどちらが下と言った価値観を教えていません。多くの人が結婚しますが、結婚した人の方が独身の人よりも優れている、社会的に一人前と言った考えもないと思います。大切なのは、各々が賜物を生かして、神と人に仕えること。それを目指して生きるなら、結婚もよし、独身もよしでした。

こうして、未婚の者、結婚していても夫婦生活の中にない者たちを励ましてきた使徒は、現在夫婦生活の中にある者たちに話題を転じています。まず取り上げるのは、夫婦とも信者の場合でした。


7:10,11「すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。」


昔から、身勝手な理由で離婚する夫婦は後を絶たなかったようです。福音書には、イエス様から「不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。」と教えられた弟子たちが、「そんなに不自由なことなら、結婚なんかしない方がましです」と抗議する場面が登場します。何度も言いますが、当時は男尊女卑の時代。夫は些細な理由で妻を離縁し、それが当然の権利と考えられていました。イエス様の弟子でさえ、その風潮に影響されていたのです。

しかし、ギリシャ・ローマの社会では、少し事情が異なっていたようです。勿論、男尊女卑の風潮は根強かったわけですが、その反動からでしょうか。コリントでは一種の女性解放運動が起こっていました。夫の不品行に対する罰として、あるいは信仰の自由を盾にして、愛想をつかした夫と離別する妻が出てきて、他の女性たちにも影響を与えていたらしいのです。

「夫に離婚の権利があるのなら、妻にも同じ権利があるはず。夫に一人の妻に縛られない自由があるのなら、妻にも同じ自由があるはず。男女同権なのだから。」夫も身勝手なら妻も身勝手でした。聖書が教える夫婦対等を理解しない男性、男女同権をはき違えた女性が、コリントの教会には存在したということでしょう。

しかし、パウロはあくまでも原則離婚禁止、嫌いになったら離婚して、好きになったら再婚する自由も認めてはいません。付け加えるなら、私たち長老教会は、相手の不貞、また、絶えざる暴力など結婚生活を故意に遺棄している場合を例外として、離婚を認めないことが聖書の教え、神様のみ心と言う立場をとっています。

以上、男尊女卑、快楽主義と禁欲主義。未婚の人ややもめ達が置かれていた社会の厳しい状況。自己中心的で身勝手な理由による離婚の増加など、結婚にまつわる当時の社会の風潮、人々の考え方を見てきました。皆様はどう思われたでしょうか。これらの風潮、考え方は、今も形を変えて、私たちの社会にも存在するのではないかと思います。

また、夫婦対等、男女同権。結婚生活において、自分を相手にささげ、仕える、性的な交わりの大切さ。神と人に仕えることを中心とするなら、結婚もよし、独身もまた良しとする価値観。自己中心的な動機から行う離婚についての厳格な戒めなど、今日の箇所を通して、聖書の示す結婚観の一端を、私たち確認することができたかと思います。

最後に皆様にお勧めしたいのは、自分自身の結婚観を点検することです。自分の考え方や行動の中に、この世の風潮や価値観の影響を受けている部分がないか。あるとすれば、どの点なのか。それを聖書的な考え方に修正し、実践してゆくために、どうすれば良いのか。結婚している方、未婚の方、結婚したけれど今は独身と言う方。それぞれの立場で、神様が与えてくださった祝福を味わい、神様に与えられた課題に取り組んでゆきたいと思うのです。

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