2019年3月17日日曜日

一書説教(51)「コロサイ書~愛されている者として~」コロサイ3:12~17


「キリスト者の成熟」とか「神の子としての成長」と聞いて、皆様はそれがどのようなものだと思うでしょうか。自分自身がキリストを信じる者として成熟していくこと、神の民として成長していくことに興味があるでしょうか。信仰の仲間の成熟や成長に、心を向けることはあるでしょうか。聖書を開きますと、キリストを信じる者は、信仰者としての成熟、成長に心を配るように。仲間同士で互いに祈り合い、励まし合うように、繰り返し教えられていることに気が付きます。

一般的に、何を願うか、何を求めるかに、その人の本性が現れると言われますが、それでは過ぎし一週間、私たちは何を願い、何を求めて生きてきたでしょうか。自分の祈りは、何が中心でしょうか。その願いの中に、キリスト者としての成熟、神の子としての成長はあるでしょうか。


 聖書六十六巻のうち、一つの書に向き合う一書説教。待降節、年末年始を経て、四か月ぶりとなりました。通算、五十一回目。新約篇の十二回目。今日はコロサイ人への手紙に注目していきます。

パウロの晩年、ローマで獄中生活をしている時に記されたもの。教会宛ての手紙としては、最後に記された三つの書のうちの一つ。神学者、宣教師、牧会者であるパウロが、歳を重ね、経験や知識が蓄えられ、思想が深まり記したもの。言葉は、準備をすればする程、短くなる。練られたものは鋭く短くなりますが、パウロの思いが圧縮されて濃厚な香りを放つ書となっています。

果たして、自分にその奥行きを味わうことが出来るのかと気後れする思いもありますが、祈りつつ聖書を読み進める歩みを全うしていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 パウロは聖書に収録されているだけでも多くの手紙を記していますが、そのうち、手紙を書く段階で直接的に関わりのない人たちに宛てて書かれたのは僅か二つ。一つがローマ人への手紙。これからローマに行くことを想定して、自分自身のこと、自分の信じていることを知ってもらうために記されたもの。もう一つが、コロサイ人への手紙です。それでは、なぜコロサイの教会にパウロは手紙を記したのでしょうか。

 コロサイというのは、アジアにある都市。パウロがアジア圏で伝道した様は、使徒の働きに出て来ますが、コロサイで伝道したとは記録されていません。しかし、エペソで伝道していた際、次のように記録されています。


 使徒19章8節~10節「パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた。これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。


 ラジオもテレビもインターネットもない時代。パウロの伝道方法は、自分自身はその地方の主要都市にて教会を建て上げ、そこに集まった人々が近隣へ伝えていくというものでした。(聖書には、そのようにパウロが考えていたと記されていませんが、実際にパウロが行った町々を見るとそのような意図があったと考えられます。)エペソで足掛け三年の伝道、教会形成。その結果、アジア圏で多くの人が神の言葉を聞くことになったというのです。コロサイは、エペソから約160キロ離れた場所。パウロが行っていないとしたら、実際には誰が行ったのか。この手紙の中に次のような言葉があります。


 コロサイ1章7節~8節「そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。


 エパフラス。詳しい情報は分かりませんが、パウロが愛し、同労者と考えている人物。このエパフラスが、中心となってコロサイでの伝道、教会形成がなされたようです。また、「あなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた」とありますので、コロサイ教会の様子を、ローマで獄中生活をしているパウロのもとに知らせたのも、エパフラスということが分かります。パウロからすれば、コロサイの教会は、伝道者の仲間が建て上げた教会。

 さらに、次のようにも記されています。


 コロサイ4章13節、16節「私はエパフラスのために証言します。彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスにいる人々のため、たいへん苦労しています。この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。


 ラオディキアとヒエラポリスは、コロサイ近隣にある都市で、そこにも教会があり、エパフラスはその近隣の教会のためにも労していた人。この手紙はコロサイの教会宛てですが、近隣の教会で回覧するように言われています。

 想像出来ますでしょうか。ローマで獄中生活をしているパウロのところに、福音を宣べ伝え、教会を建て上げる情熱を持った同労者であるエパフラスが来ます。コロサイの教会の様子、ラオディキアやヒエラポリスの様子を聞き、パウロは大いに励まされます。(コロサイ1章3節~4節)そこで、自分としても何とか、コロサイの教会や近隣の教会を励ましたい。応援したい。支えたいと思い、記したのがこの手紙。自分が直接的に関わりのない人たちに対しても、その信仰生活を何とか励ましたいと思って書かれた書。この情熱について、パウロ自身が次のように記しています。


 コロサイ1章28節~2章1節「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。


 全ての人がキリストにあって成熟した者となって欲しい。そのために必死に労している。直接顔を会わせたことがない人のためにもそうであると記す。晩年のパウロが、どこに力を注いでいたのか分かる、注目すべき言葉です。

 このようなパウロの情熱を前にしますと、果たして自分はどれだけ真剣に、「キリスト者の成熟」とか「神の子としての成長」に取り組んできたか。四日市キリスト教会の信仰の仲間の成熟、成長のために、どれだけ心を配ってきたか。いや、パウロは直接顔を合わせたことがない人にまで思いを馳せています。日本長老教会の、まだ会ったことのない人の成熟、成長のために。世界の広がる神の民の成熟、成長を、どれだけ願ってきたのか。考えさせられます。キリスト教信仰というのは、キリストを救い主と信じて終わりではない。信じた者は皆で励まし合い、祈り合いながら、成熟、成長を目指すのだと教えられるのです。


 コロサイ書は信仰者の成熟、成長に力点が置かれた書だとして、それでは具体的には何が記されているのでしょうか。書き始めの挨拶と祈りが終わり、真っ先に記されたのは、御子について。イエスキリストがどのようなお方か記されます。


 コロサイ1章15節~20節「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。


 パウロによるキリスト論として有名な箇所。パウロが記した手紙の中でも、特に優れたキリストについての論述と言われます。練りに練られ、圧縮され、簡潔にまとめられたキリスト論。

 キリストは神のかたちであり、全てのものより先に存在している。全てのものは主イエスによって造られ、主イエスのために造られ、主イエスによって成り立っている。つまり、イエスキリストが神であり創造主であり支配者であるということ。このイエスが、教会のかしらであり、死に打ち勝った方であり、この方によって罪の赦しがある。


 ところで、信仰者の成熟、成長を願うパウロが、何故、私たちのすべきことではなく、キリストのことから書き始めたのでしょうか。それは、キリストを信じる者の成熟、成長は、第一にはキリストがして下さることと確認するためです。


 コロサイ1章13節「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。


 人がキリストを信じる時、何が起こるのかと言えば、キリストの支配に入るということでした。世界を治め、教会のかしらであり、死に勝利し、赦しをもたらす方の支配に自分自身を委ねる者となった。この点が、信仰者の成熟、成長を考える上で、極めて重要なところです。

 自分の人生は自分の力で何とかなると思って生きてきた私たち。歳を重ねるにつれ、子どものような我儘は減り、社会的に、一般道徳的には成熟した者となれるかもしれません。表面的には取り繕うことが出来るようになるかもしれません。努力すれば、道徳的に、社会的に、成熟する者になれるかもしれません。(自分自身の姿を見ると、それすら出来ないことも、多々あるように思いますが。)

しかし、本質的な問題。聖書の教える罪の問題に対して、私たちは無力です。キリストに似る者となるとか、神の子として成長するということは、私たちが努力すれば果たせるものではない。死に打ち勝たれた方の命がなければ、罪の問題は解決しない。世界を造り、支配し、成り立たせている方の力がなければ、私たちが変わることは出来ないのです。


コロサイ書の冒頭において、パウロがこれだけ力を入れてキリストについて記したということは、信仰者の成熟を願う者にとって、自分がキリストの支配にいることを絶えず覚えていることが重要であることを意味します。

 キリストを信じる者として生きているのに、繰り返し罪を犯してしまう。愛すべき人を愛せない。怒りや憎しみを手放せない。成熟どころか衰退の一途をたどっているように感じられる。(パウロは最晩年になり自分を罪人の頭と呼びました。信仰者の成熟の一つの姿には、自分の罪深さがより分かるというものもあります。)いかがでしょうか。皆さまは、自分自身の未熟さに、ほとほと嫌気がさした。生きる気力が削がれたということはあるでしょうか。そうだとしても、希望を失うことはないというのが、このパウロの筆です。この世界を成り立たせている力、死に勝る力、全ての罪を赦す力で、イエス様は私を変えて下さる。私を成熟へと導いて下さる。そのように信じるように。その希望を持つようにと教えられます。この確信に立てる人は、本当に幸いだろうと思います。


 信仰者の成熟、成長を目指す上で、イエス様が私を変えて下さることを信じることが大事。その希望を持って生きることが大事。それは分かりました。そうだとして、後は何もしなくて良いのか。イエス様がされるので、私は何も知りませんというので良いのか。いや、イエス様が私を変えて下さると信じる上で、私たちも取り組むべきことがあるとパウロは筆を進めます。

 方向性は大きく二つ。罪、悪から離れること、善、良いことに取り組むことでした。


コロサイ3章5節~8節「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。


 キリストを信じる者、キリストの支配にある者が成熟を目指す際に取り組むべきこと。一つは罪、悪から離れることでした。それも、「殺してしまいなさい」と非常に強い言葉。罪、悪に対して、徹底的な姿勢で臨むように勧められます。

イエス様が私を変えて下さると希望を持つ者。そこに信頼を置く者は、だから自分は何もしないというのではない。むしろ、徹底的に戦うようにと言われます。果たして、私たちはどれだけ真剣に、欲を殺し、怒りや悪意を捨てることを、取り組んでいるでしょうか。

 もう一つ、取り組むように勧められているのは、善に取り組むことでした。


コロサイ3章12節~17節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。


キリストの支配に入った者は、表面的に変わること、道徳的人間になることを目指すのではなく、神の子として相応しい姿、キリストに似る者となることを徹底的に追及することが出来る。自分を変えることが出来ないところから、イエス様が変えて下さるから私も自分を変えることに取り組むことが出来る。

 その確信に立って、この言葉を読むと、希望が湧いてきます。神様に愛された者として、隣人を愛する。練りに練られた言葉としてまとめられていますが、これが夢物語ではなく、将来の私の姿であり、教会の姿となる。それを願って良い、目指して良い。本当にここに示された姿を目指すとなると、私たちの歩みはどうなるでしょうか。具体的に、何に取り組むのか、皆で考えたいと思います。


 以上、「キリスト者の成熟」とか「神の子としての成長」という視点でコロサイ書を見てきました。全四章の小さな書。是非とも、実際に手にとって、濃厚に圧縮されたパウロの熱意を味わって頂きたいと思います。

 キリストを信じた私たちは、信じて終わりなのではない。自分自身も、そしてお互いの成熟、成長を目指す者であるということ。キリストを信じた私たちは、キリストの支配に入れられたこと。つまり、成熟や成長ということは、イエス様が中心となってして下さること。そのイエス様を信頼する者として、私たちも自分の出来る精いっぱいの取り組み、悪や罪から離れ、聖さを全うすることに取り組むこと。この福音を覚えて、一週間の歩みに乗り出したいと思います。


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