2019年2月17日日曜日

「信仰者の勇気(6)~罪を告白する勇気~」Ⅰヨハネ1:9~10


 一般的に自分を変えたい、変わりたいと思う人は多くいると言われます。外見か、内面か。社会的な立場や人間関係。取り組みようのないことですが、鳥になりたい、魚になりたいとか、過去を変えたいというのもあるでしょうか。充実した状況にある人も、ある部分は変えたいと思う。辛いことが重なると、全てを投げ出して別人としてやりなおしたいと考えることもあります。

変身が題材となる話は、世界中、どの時代、どの文化にもあると言われます。大人向けのものから、子ども向けのものまで。日本の中だけみても、古事記や日本書紀にも変身譚が含まれ、鶴の恩返しや浦島太郎も変身が重要な題材。中島敦の山月記は、多くの教科書に載っているため有名と言われますが、詩人を目指すもそれが叶わず虎になった男の話。仮面ライダーやウルトラマンのヒーロー特撮物、プリキュアなどのアニメも、変身が大事な要素です。あちらこちらにある変身話。これもまた、自分を変えたい、変わりたいと思う人が多いということでしょう。

ある意味で「変わりたい」と思うことは不幸なことです。今の自分に満足することが出来ない。与えられている良いものに目を留めない。欲望にまかせて、手にいれたいものを追いかけ、変わりたいと言い続けるのは苦しいこと。変えようのないものなのに、変えたいと願い続けるのは大変なことです。しかしある意味で「変わりたい」と願うのは、正しいことでもあります。堕落した世界に生きる私たち。罪ある者として生まれた私たち。神様が意図した本来の私ではない状態。その苦しみを理解し、変わりたいと願うのは正しいこと、聖書的と言えます。

皆さまは、自分を変えられるとしたら、何を変えたいと思うでしょうか。どのように変えたいと思うでしょうか。その「変わりたい」という願いは、不幸な願いでしょうか。正しい願いでしょうか。


 聖書もある意味で「変身」が重要なテーマの書物と言えます。それも、読者である私たちが変わることが出来ると伝える書。私たちは、自分が変わることを願いますが、私たちの神様も私たちが変わることを願っておられます。問題なのは、私が変わりたいと思う姿と、神様が私たちに変わるように教えている姿が同じかどうか。それが同じであれば幸いですが、違う場合は大変と言えるでしょう。

それでは、聖書は私たちにどのように変わるよう教えているでしょうか。実に色々な表現があります。死の中から命の中へ。闇の中から光の中へ。罪の奴隷から義の奴隷へ。汚れた者から聖なる者へ。神を無視する者から神を愛する者へ。失われた者が神様のもとに帰る。裁かれるべき者が神の子となる。あるいは、キリストの証人とか、キリストの香りとか、キリストの使節となるように。さらには、キリストの体、聖霊の宮、神の畑、神の家族として生きるようにとも言われます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。」というような、具体的な教えは多数。例を挙げたらきりがない程ですが、それら具体的な教えに取り組んでいない人が取り組むようになるというのも、大きな変化と言えます。

 聖書は様々な表現で私たちに変わるように教えていますが、短くまとめるとどのように表現出来るのか。私は次の言葉が良いのではないかと思っています。

 ガラテヤ4章19節

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。


 ここに「キリストが形造られる」と出てきます。神様は私たちにどのように変わることを願っておられるのかと言えば、私たちのうちにキリストが形造られるように。つまり、私たちがキリストに似る者となるように。キリストが形造られる、キリストに似る者となる。これが、私たちの目指す変化と言われるのです。

 キリストを信じる者は変わります。どのように変わるのか。先に見ましたように、聖書には様々な表現が出てきます。命の中、光の中で生きる者。義なる者、聖なる者となる。神を愛する者、神の子となる。あるいはキリストの証人、キリストの使節として、福音を伝える者となる。キリストの体、神の家族として、教会を建て上げる者となる。喜び、祈り、感謝する者となる。その他、様々な表現で聖書はキリストを信じる者は変わると言いますが、それはつまり「私のうちにキリストが形造られる」こと。私たちがキリストに似る者となるということです。

 現代の日本では、自分らしいというのは、自分で決めることだと考えられています。私らしいといのは、他でもない私が決めること。私の幸せは私が決める。私が変わりたいと思い、私が目指す姿は私が決める。創造主を信じない、自分を造られた神を認めなければ、そうなります。しかし聖書は、神様が私たちそれぞれを造られたこと。それぞれの人生に神様の目的があり、私らしいというのは神様が定めていると教えています。そして、神様が意図された私らしく生きるということが、私のうちにキリストが形造られること、私たちがキリストに似ることでした。

いかがでしょうか。皆さまは、自分のうちに「キリストが形造られる」ことに興味があるでしょうか。キリストに似る者となりたいと願っているでしょうか。神様が意図された私らしく生きたいと願うでしょうか。


 ところで、私がキリストに似る者となる、本来の私らしい生き方となるというのは、どうしたら良いのでしょうか。キリストを信じたら、後は神様が全てして下さるのか。それとも、私たちが何かすべきことがあるのでしょうか。

 第一には、神様がして下さることだと教えられています。

 Ⅱコリント3章17節~18節

主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


 ここに明確に、私たちが主と同じかたちに姿を変えられていくのは、「御霊なる主の働きによる」と言われています。自分の力で、キリストに似る者となるのではない。自分を打ち叩いて、何とかするのでもない。神様がして下さる。それでは、どのように神様がして下さるのかと言えば、聖書には驚くべき言葉があります。

 ローマ8章28節~29節

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。


 聖書中、極めて有名な聖句の一つ。「神を愛する人、神のご計画にしたがって召された人」というのは、イエス・キリストを救い主と信じる者のことです。この世界で起こりくる全てのことが、キリストを信じる者にとっては益となると言われています。

益というのは、その人にとって嬉しいという意味ではありません。目的に沿っていること。それでは、その目的とは何かと言えば、キリストを信じる者が、御子のかたちと同じ姿になること。キリストを信じる者が、キリストに似る者となることです。つまり、キリストを信じる者にとって、その生涯に起こることは、その者がイエス様に似るという目的には沿ったもので、有効に働く。仮に本人にとって、嫌なこと、苦しく辛いことでも、キリストに似るという目的には沿った恵みであるというのです。神様が、あらゆることを通して、私たちをキリストに似る者へと変えて下さるという聖書が教える重要な福音です。

 この聖句が真実ならば(私は真実だと信じていますが)、私たち主イエスを信じる者は、キリストに似る者となることに、神様が並々ならぬ思いを持たれていることになります。約二千年前、イエス・キリストが十字架で死なれたのも、私たちがキリストに似るためのこと。神様の世界を支配される力、全知全能の力は、キリストを信じる者が、キリストに似る者となるように用いられている。人間的な表現が許されれば、神様は何としても、私たちをキリストに似る者としようとされているのです。

 このような神様の思いを、私たちはどれだけ真剣に受け止めてきたでしょうか。過ぎし一週間、嬉しいことも、悲しいことも、私がキリストに似る者となるように与えられた恵みと受け止めてきたか。自分を変えたいと思う時、自分の願うように変わることばかりで、キリストに似る者となることをどれだけ真剣に考えてきたのか、心探られます。


 このように、私たちがキリストに似る者となるというのは、神様がして下さることです。それでは、キリストに似るというのは、私の知らないところで、神様が自動的にして下さること、神様がして下さるのだから、私は私の好きなように生きれば良いのかと言えば、そうではありません。

 私たちがキリストに似る者と変えられるのは、第一に神様がして下さること。しかし私たちも取り組むべきことがあると教えられています。

 ローマ12章 2節

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


 神様が私たちを変えて下さる。しかし、そのために私たちがすべきこともある。この箇所では「この世と調子を合わせることなく、心を新たにする」ことが教えられています。

(余談ですが、この箇所は新改訳2017にて改訂された箇所の中で、有名なものの一つです。新改訳第三版では「心の一新によって自分を変えなさい。」と訳されていましたが、これは自分の力で変わることが出来ると誤解を与えかねない訳だったとして、原語に忠実に自分を変えて頂くと訳されました。)

 それでは、「この世と調子を合わせることなく、心を新たにする」とは、具体的に何をすることでしょうか。自分の取り組むべきこととして、私たちは何に取り組んだら良いのでしょうか。キリストに似る者となるため、私たちが取り組むよう教えられていること。「心を新たにする」具体的な取り組みについて、聖書は色々なことを教えていますが、今日はその中の一つのこと。罪を告白することに注目します。


 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。


ここに、私たちが罪を告白する時、神様が何をして下さるのか、明確に記されています。私たちが、罪を言い表すならば、罪は赦され、きよめられるという約束です。

 この言い表すという言葉は、基準に当てはまるかどうか判断するという意味があります。つまり、ここで言われている罪を言い表すとは、自分の感覚として、罪があるかないかを考えるのではない。聖書という基準に沿って、自分には罪があるかどうか考えるということです。


 ところで聖書は、キリストを信じることで罪を赦されると教えていました。どの罪が赦されるのでしょうか。全ての罪が赦されます。キリストを信じる前に犯した罪も、その時に犯している罪も、これから犯す罪も。過去も、現在も、未来も、キリストを信じることで全ての罪が赦されます。自分が把握している罪も、自分で知らずに犯した罪も、告白した罪も、告白出来なかった罪も、全ての罪が赦される。キリストを信じることで、あらゆる罪が赦されるというのが、私たちの信じている福音です。

 キリストを信じる者は、完全に罪赦された者。キリストを信じた者を、罪に定めることは誰にも出来ないのです。それでは何故、キリストを信じる者にも、罪を言い表すこと、罪を悔い改めることが勧められているのでしょうか。既に罪赦されているのに、何故、罪を告白する必要があるのでしょうか。

 もう一度、聖書の言葉を確認します。

 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。


聖書の基準に沿って、自分の罪を言い表す時に、どのような恵みが与えられるのか。「罪は赦され」、「悪からきよめられる」という恵みが与えられると言います。

既に完全に罪赦されている者に、罪が赦される恵みが与えられる。どういう意味でしょうか。これは、罪を告白することで、罪が赦されている恵みを再確認するということです。

キリストを信じる者。既に完全に罪赦された者が、どうせ罪赦されているのだからと、自分の罪に対して無感覚になるようにとは教えられていません。むしろ、罪赦されているけれども、罪を犯す度に言い表すことを通して、この罪も赦されていたと再確認すること。繰り返し、罪の赦しの恵みを味わうようにと教えられているのです。

 罪の赦しを味わい続けることは、キリストを信じる者にとって、極めて重要なこと。イエス様の次の言葉が思い出されます。

 ルカ7章47節

赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。


 キリストを信じる者は全ての罪が赦されている。しかし、罪を告白しない者は、赦されることの少ない者として生きることになってしまう。多くの罪が赦された者として、より多く神様の愛を味わい、自分も神様を愛する者となる。これが、私のうちにキリストが形造られる歩み、私がキリストに似る者となる歩みでした。


もう一つ。罪を言い表す時に、「不義からきよめられる」恵みも与えられると言います。罪赦された者として、二度と罪を犯したくないと思っても、それが出来ない私たち。その悪から抜け出すために、私たちが出来ることは、自分を打ち叩いて頑張るのではなく、罪を言い表すことでした。罪の赦しだけでなく、悪からきよめられるという点でも、神様の助けを願うということ。

ここで重要となるのは、自分は本当に悪からきよめられたいと思うのか、ということです。自分でも気が付きやすい表面的な悪は、きよめられたいと願いやすい。しかし、心の奥底にある罪、悪について、本当にきよめられたいと願っているのか。自分の欲望、怒りや憎しみ、罪だと分かっていても、手放せない行いや思い。そこからきよめられたいと、本気で願うのか。神様が悪からきよめると約束しているのに、それでも、罪を告白しないとしたら、罪を告白しないということ自体も大きな問題となります。どのような罪、悪でも、きよめられることを願いつつ、言い表すことが出来るようにと互いに祈り合いたいと思います。


 以上、キリストを信じる者が変わること。キリストに似る者となるために、私たちが取り組むべきこと。罪を告白することに焦点を当てて確認してきました。

 自分に罪があると認めることは大変なこと、勇気が必要なこと。しかし、キリストを信じる者にとって、罪を告白し続けることはとても大事な取り組みでした。あれやこれやに目を回して、自分の罪に目を向けないまま毎日を終えることのないように。私のうちにキリストが形造られる、私が主イエスに似る者となることを真剣に願いながら、信仰者の歩みを全うしていきたいと思います。

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