2018年12月2日日曜日

アドベント「闇の中を歩んでいた民は」イザヤ9:1~7


2018年も瞬く間に過ぎ去り、早くも12月。今日からは、主イエスのご降誕を思い、主イエスの再臨を待ち望むアドベント、待降節の礼拝となります。今年のキャンドルライトサービスのテーマは、「暗闇に光」です。待降節からクリスマスにかけて行われる主の日の礼拝でも、「暗闇に光」をテーマとして、聖書からメッセージを聞いてゆきたいと思っています。

今朝は、旧約聖書イザヤ書にある救い主についての預言から、「闇の中を歩んでいた民は」と題してお話をします。聖書において闇とか暗闇ということばは、多くの場合、人間が神に背いた結果、この世界にもたらされた様々な問題を意味しています。文字通りの闇と言うより、象徴的なことばで、死、様々な病、孤独、災害、荒れ果てた土地、飢饉、虐げられる人々、戦争、難民、憎しみや差別など、人間の罪が生み出した悲惨な状況を表していました。

それでは、今日の箇所にある「闇の中を歩んでいた民」とは誰のことか。彼らが閉じ込められていた闇とは何だったのか。神様が彼らのために与えた救い主についての預言には、どのような意味があったのか。先ず、これらのことを、皆様とともに見てゆきたいと思うのです。

イザヤは、紀元前8世紀、主イエスの誕生から遡ることおよそ800年前、南ユダの国で活躍した預言者です。この時代、南ユダは賢王ウジヤを失い、往時の繁栄は過去のもの。人々は目先の経済的利益を求め、貧富の差が拡大していました。ウジヤの孫にあたるアハズ王が即位すると、異教のバアル礼拝を推進したため、宗教的な混乱、道徳の腐敗が広がり、神を敬う人々は社会の片隅に追いやられていたのです。

この頃のユダの国のことを、神様はどう見ておられたのか。イザヤはどう感じていたのか。それを示すことばがこれです。


1:47,9「わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。

足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は火で焼かれている。土地は、あなたがたの前で他国人が食い荒らし、他国人に破壊されたように、荒れ果てている。…もしも、万軍の主が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じになっていたであろう。」


 神様は南ユダの人々のことを「罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った者たち」と見、嘆いていました。そして、イザヤは、国が荒れ果てたことを神のさばきと受けとめ、「もし神の恵みがなかったら、私たちも悪徳の町として滅ぼしつくされたソドム、ゴモラと同じ運命を辿っていたことだろう。」そう憂えていたのです。

 ところで、この時代、この地方で力を奮ったのがアッシリアです。アッシリヤは周辺諸国を次々に侵略し、大国となりました。南ユダも隣国の北イスラエルも、アラムも、常に侵略の脅威に曝される事態となったのです。この危機に際し、北イスラエルとアラムは手を組み、大国に対抗しようとしましたが、二国では心許なかったのでしょう。彼らは南ユダを仲間に引き入れ、二国同盟を三国同盟にして、アッシリアに対峙しようと企てたのです。

 国の中には「二国同盟に参加するべし」という意見もありましたが、アハズ王はこれを退けました。何故でしょうか。実はこの時、王は三国同盟に加わるより、アッシリヤと友好関係を保つことで、国を守ろうと密かに企てていたのです。それを察した北イスラエルとアラムは、ふたつの敵国に挟まれ、窮地に陥ることを恐れ、先手必勝とばかり、南ユダを攻略。自分達につく王を立てようと画策しました。南ユダの国が荒廃したのは、二つの国の攻撃によるものだったのです。

 それにしても、いくら誘いを断ったからと言っても、元々南ユダと北イスラエルは同じ国民同士、同胞でした。言わば兄弟とも言える北イスラエルに国を荒らされたことは、南ユダの人々にとって大きなショックであったことでしょう。

 この時、神に対する信頼を勧めるため、アハズ王のもとに遣わされたが、預言者イザヤです。イザヤは、神がともにいて神の民を守ることを約束したインマヌエル預言と、アハズ王が恐れていた二国の撤退を告げたのです。


 7:1316「イザヤは言った。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。この子は、悪を退けて善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、その子が悪を退けて善を選ぶことを知る前に、あなたが恐怖を抱いている二人の王の土地が見捨てられるからだ。」


 一人の処女から男の子が生まれ、その名はインマヌエル(神が私たちともにおられる)と呼ばれる。この不思議な預言は、時を経て800年の後、主イエス誕生によって実現します。しかし、南ユダの人々が恐れていたアラム、北イスラエル軍が撤退することは、この後すぐに実現しました。

けれども、密かにアッシリアと通じ、援軍を送ってもらう約束を交わしていたアハズ王は、これを聞いて、自分の計画が上手くゆくと考えたのでしょう。インマヌエル預言の方には、関心を示さなかったようです。

 こうして、またも神を信頼するより、アッシリヤの軍事力を信頼することを選んだアハブ王でしたが、大国に頼る道に傾いたのは、ひとりアハブ王だけではありませんでした。多くの民が神を捨て、大国の力により頼んだのです。もはや、南ユダは「神の民」ではなく、「アッシリヤの民」に成り下がったと言ってもよい状態でした。

ここに、警告が発せられます。神は、アッシリヤをその国を流れる大河ユーフラテスの水に、また巨大な鳥の翼に譬え、「お前たちが信頼しているアッシリヤが、今度は手のひらを反して、お前たちをを襲い、滅ぼすことになる。」と語ったのです。

 

 8:7、8「それゆえ、見よ。主は、強く水の豊かなあの大河の水、アッシリアの王とそのすべての栄光を彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって首にまで達する。その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす。」


「異教の国に信頼することは、その力に縛られ、支配されることに通じる。神を捨て、異教の神々に心を移すことに通じる。その結果がいかに悲惨なものであるかを、見よ。」イザヤは、既に北イスラエルが直面している現実、やがて南ユダも直面することになる厳しい現実に目を向けるよう、ユダの人々を促しています。


8:19~22「人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。

ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。」

 

 自分の生き方について、神のことばに聞こうとせず、霊媒、口寄せ、死人に尋ねる人々。迫害や飢えに苦しむ者たち。圧政のもと、苦しみの余り、王と神を呪う人々。住み慣れた地から追放され、彷徨う難民たち。神に対する信頼を捨てる時、この世界をどのような闇が覆うのか。それを、このことばは示しています。

 そして当時、この様な闇に最も色濃く覆われていたのが、北イスラエルのゼブルンとナフタリの地、別名ガリラヤだったのでしょう。イザヤは、異邦人も混在するこのガリラヤ地方の人々が、光なる救い主を見る時が来ると預言しました。インマヌエル預言に続く救い主の預言、第二弾です。


 9:1~5「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。

闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。」


 新約聖書マタイの福音書は、主イエスが先ずガリラヤで活動を開始した際、このイザヤ書の預言を引用し、イエス様こそ闇の中を歩む人々に心を向け、恵みの光を届ける救い主であることを証しています。「この救いの光を仰ぎ見る者は、収穫の喜び、戦争に勝利した喜び、その様な喜びにも匹敵する程大きな喜びを味わうことになる。」この預言が実現することを信じる人々は、およそ800年後、ガリラヤの地に立つ救い主の登場を待ち望むことになるのです。

 そして、この様な喜びを民にもたらす救い主なら、さぞかし力ある王、最高の知恵者かと思いきや、これが意外にも「ひとりのみどり子、男の子」だと言うのですから、人々も驚いたことでしょう。クリスマスに良く読まれる、救い主の預言を確認します。


 9:6、7「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」


 人間の権力や軍事力ではなく、神様の正義が支配する国。戦いが止み、永遠の平和が確立した国。すべての人々が神様のみこころに従って生活する国。その様な国をもたらすため、ダビデの子孫としてお生まれになるひとりのみどり子。これこそ、闇の中を歩む人々の心を慰め、支え続けた預言であったと思われます。そして、主イエスが到来した今も、闇の中を歩む人々が望みを託すことのできる預言であり、完全に平和な世界を待ち望む人々を励ます預言なのです。

 特に励まされるのは、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」ということばです。人間の熱心はしばしば方向を間違えます。熱心の余り人を傷つけ、害することもあります。また、人間の心は熱くなるのも早ければ、冷めるのも早くあります。

 しかし、神の熱心は常に方向が正しく、常に熱くあり続けます。神の熱心は、悪を行う者には強くありますが、弱き者を傷つけたり、害したりすることはありません。常に優しく、柔和なのです。事実、背信の王アハズにインマヌエル預言を告げられたこと、不敬虔な民に光なる救い主到来の預言が語られたことは、ひとえに神様の熱心から出た恵みであることを、私たち確認できました。

 信頼すべきは人間の熱心ではなく、神の熱心。頼るべきは人間の持つ力ではなく、神の力。このことを、改めて心に刻みたいところです。

 最後に、今日の箇所から、救い主の光の中を歩む者の恵みと課題について、考えたいと思います。

 アハズ王は、イザヤを通して何度も神様のことばを聞きながら、自分の中にある闇、国の中に存在した闇に気がつかなかったようです。と言うより、目を背けていたと言う方が正しいかもしれません。アハズにとって、それは見たくないもの、目を背けたい現実だったのでしょう。

 しかし、光である主イエスは、私たちの中にある闇を照らします。人を尊ぶことより、人を見下し、差別することに傾く心。人に仕えることより、人を支配することを好む心。神以外のものを、まるで神の様に頼る心。物欲、名誉欲、権力欲など、様々な欲に捕らわれた言動。

アハズ王がそうであったように、私たちには、自分の中にある闇の部分から目を背けていたい、と言う思いがあります。事実、どれ程私たちは闇の部分から目を背け、まるでそんなものがないかのように生活していることでしょう。

これは、この世界に存在する闇、人間の罪が生み出した様々な問題についても言えることだと思われます。私たちが住むこの世界には、飢餓に苦しむ人がいます。飲み水がなく、病気になると分かっていても汚い水を飲むしかない人々がいます。

この間、ネパールのバディ族の少女たちのために奉仕している牧師が証しをしてくれました。貧困と悪しき制度に苦しむ、バディ族の少女たちの多くが、今も人身売買されています。その他にも、迫害から逃れ、彷徨う難民。圧政に虐げられる人々は、今も世界のいたるところに存在するのです。私たちには、同じ世界に生きながら、闇の中を歩むこの様な人々の現実を、遠ざけておきたいと言う誘惑があります。

しかし、主イエスの光は、闇を照らすばかりではありません。主イエスの光は、私たちの中にある闇を受けとめ、贖い、赦してくださる神の恵みです。主イエスの光は、私たちの中の闇、この世界にある闇に、私たちが心を向け、取り組んでゆくことを促す神の力なのです。

イエス・キリストを救い主として信じる私たちは、みな主イエスの光の中を歩む者です。そうであるなら、光の中を歩む者としての恵みと課題について、よく自覚したいのです。私たちの中にあるどんな罪をも受けとめ、赦し、癒してくださる恵みを心から喜び、感謝する者でありたいと思います。また、私たちの中になお残る罪を悔い改めること、同時に、この世界で苦しみ悩む人々に心を向け、与えられた賜物を用いて仕えることに取り組んでゆきたいと思うのです。

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