2018年8月19日日曜日

「平和を作る」マタイ5:9


八月の中旬になりました。八月十五日は、一般的に終戦記念日と言われる日。また堀越暢治先生は、この日を「いのちありがとうの日」にしたいと活動されていました。私たちは、いつでも「平和」について、「いのちの大切さ」について考えるべきですが、この時期、特に取り組みたいと思い、「平和を作る」ことをテーマに説教を行います。

 二千年前、主イエスが語られた山上の説教。その冒頭は八福と呼ばれる、祝福の言葉が述べられます。「〇〇な者は幸いです、〇〇だからです」と八つ続く。この「幸いな者」とは、キリストを信じる者の姿であり、キリストを信じるとはどういうことなのか教えてくれるものでした。

 キリストを信じる者がこの言葉を聞く時、自分がどのような存在なのか確認することになります。キリストを信じていない方がこの言葉を聞く時、キリストを信じる者に与えられる恵みがどのようなものか、知ることになります。八つ並ぶ「幸いな者」。その七番目が、「平和をつくる者」の姿でした。


 マタイ5章9節

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。


 「平和」はいつの時代、どこででも、皆から期待され望まれるもの。平和であるとは、人が生きていく上で極めて重要なこと。

どの時代、どこででも願われる平和。しかし、人類の歴史を見る時、また今の世界を見る時に、平和とかけ離れた状態にあります。人類史上、戦争がない時代は、ごく僅かと言われます。世界の中で見れば、日本は比較的平和な国と言えるでしょうが、それでも毎日のように殺人、強盗のニュースを耳にします。皆が平和を望みながら、平和の実現がなされない。この世界は、どうもおかしいと感じます。

 なぜ、この世界は平和とは程遠い状態にあるのか。聖書は、この世界がつくられた当初は、平和であったこと。非常に良い状態であったことを記していました。

 創世記1章31節

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。


世界が造られたその最初の時。造り主に「非常に良かった」と言われたこの世界が、最初の人、アダムとエバが罪を犯してから一変しました。アダムとエバの子、カインとアベルの時に殺人が起こる、兄弟殺しです。アダムから七代目、レメクという人は、人を殺したこと、殺す力を持っていることを自慢します。ノアの時代には、人の悪があまりにひどい状態になり、大洪水の裁きが下されました。

人類の歴史は、暴力と殺人の歴史。拳がうなり、拳は刀となり、刀は銃となり、銃は大砲、爆弾となる。今では、暴行、詐欺、収賄、強盗、殺人ははびこり、戦争はまるで日常のこととなっています。

非常に良かった世界、平和に満ちていた世界が、平和からかけ離れた状態にあるのは何故なのか。聖書の答えは、人が神様から離れたから。平和が壊れる根本的な理由は、罪でした。人が神から離れた、神に従うことをやめたこと。それにより、この世界はひどい状態になっているということです。そのため、平和を得るためには、罪の問題を解決することが必要です。


 ところで、平和と聞いて、皆さまはどのような状態を考えるでしょうか。一般的に、日本語で平和と言いますと、戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険がない状態。命の危険がない状態。

 しかし、聖書が言う平和は、それよりももう少し大きな概念です。聖書の言う「平和」とは、完全な状態を意味する言葉。つまり、平和とは、人と人との完全な状態、人と人との理想的な関係を意味します。

 戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険がない状態。命の危険がない状態だけでなく、人と人との間に、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、などが無い状態。むしろ、愛があり、喜びがあり、平安、寛容、親切、善意、誠実がある。悪がない状態というだけではなく、善がある状態。それが平和であるということです。


このように聖書が教える意味での「平和」を考えると、平和であるということが実に難しいと思います。私たちの毎日が、平和から程遠いと、ますます感じます。一般に平和であるという状態。戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険が身近にはないという状態だとしても、私たちの毎日の歩みの中に、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみが、入り込んでくる。一般的には、今の日本は平和な国と言えると思いますが、聖書の言う平和で考えるとどうなるのか。むしろ、日本は、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみが溢れかえっていると言えるかもしれません。

私たちの日々の生活では、平和をつくるどころか、平和を乱さない。平和を壊さない。それだけでも、なかなか出来ないものです。憤らない。ねたまない。人の陰口を言わない。仲違いや争いに加担しない。そのような一日が、私たちの一週間でどれだけあるでしょうか。

 しかも、キリストが言うのは、「平和を乱さない者は幸いです」ではありませんでした。「平和をつくる者が幸い」なのでした。

陰口をしている会話に加わらないというだけでなく、その陰口が愛のある話に変わるように努めること。争いは好まないと傍観しているのではなく、争っている人がいるならば、身を乗り出して、割り込んで、争いを治める者となる。それが、平和をつくる者の姿と言えます。私たちの家族の間に、教会員の間に、私たちの学校、職場に、私たちの友人・知人の間に、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実があるようにする。そのような関係をつくる者。それが、平和をつくる者でした。


そして、誰がそのような平和をつくる者となるのかと言えば、イエス・キリストを信じる者が、平和をつくる者となるのでした。平和からかけ離れたと思えるこの世界に住む私たちに、キリストは言うのです。「いいですか。平和をつくるものが、幸いなのですよ。」「キリストを信じるあなたこそ、平和をつくる者なのですよ。」と。


 世界を平和にするために、多くの人が色々な方法で労しています。政治、経済、教育、医療。様々な分野で、この世界を良いものとするために、多くの人が力を使っています。そして、そのような働きは、非常に貴いもの。私たちは、世界をより良いものにしよと労している方々の働きによって、守られ、助けられています。

 しかし、真の意味で平和をつくるのに、政治、経済、教育、医療をより良いものにすれば良いのかと言えば、それだけではない。真の意味で平和をつくることが出来るのは、キリストを信じる者。キリストを信じる私たちが、その働きを担うのだと教えられる。世界の平和のカギは、キリストを信じる私たちなのだと言われる。

神様の、私たちに対する期待は、なんと大きいのでしょうか。皆さまは、このような聖書の教えを、どのように思われるでしょうか。平和をつくるという、とてつもない大事業をなすのは、他でもない、キリストを信じたあなたなのだというメッセージを、どのように受け取るでしょうか。


 さて、キリストを信じる者が平和をつくるのだとして、それでは具体的にはどのようにして平和をつくるのでしょうか。今日は二つの視点で考えたいと思います。

 平和をつくる働き。その第一は、キリストのことを伝えること。まだ真の平和を知らない人に、神との平和を伝える働きです。


 ローマ5章1節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。


 先に確認したように、平和を壊す根本的な原因は、罪です。ですので、平和をつくることは、この罪の問題を解決する必要がある。罪の問題を解決すること。これが、神との平和です。

 敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ。このような思い、行動をどうにも制御出来ない。どうにも解決出来ない。その人にとって最も必要なことは、罪が赦され、罪から解放されること。そのような思い、行動から解放されることです。そして、それが出来るのはキリストのみであり、平和をつくる働きをする私たちは、このキリストを宣べ伝えるのです。

 想像出来るでしょうか。世界中の人がキリストを知り、信じ、神との平和を味わったとしたら、今の世界と全く異なる世界となると思います。私たちは世界中の人が神との平和を持つことを目指します。そして、それぞれ遣わされたところで、キリストを伝える働きをするのです。


 平和をつくる働き。考えたい第二のことは、私と隣人の間に平和をつくること。良い関係、愛し合う関係になるようつとめることです。

 この世界に平和をつくる。そのために私たちが出来ることは、口先で世界平和を願うことではなく、与えられている関係の中で実際に平和をつくることです。遠くの人を愛することは容易く、近くの人を愛することは難しい。世界平和を夢見て終わるのではなく、目の前の人を愛していくこと。平和をつくると働きとは、毎日毎日の生活の中で、地に足をつけた働きと言えます。

 皆さま、自分に与えられている人間関係を思いだして下さい。夫、妻、親、子。友人、知人。上司、部下、同僚。先輩、後輩。その中で、今よくない状態にある。平和な関係、愛し合う関係ではなく、憎しみ、妬み、無関心の状態になっていることはないでしょうか。平和をつくる働きをする私たちは、まず身近なところから平和な関係になるようつとめていくのです。

 キリストは、私たちが平和な関係をもつことを非常に大切なこととして教えていました。


 マタイ5章23節~24節

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。


 祭壇の上に供え物をささげるとは礼拝のことです。ここで言われている兄弟とは、血縁の兄弟だけでなく自分と関係のある人のことです。

 キリストを信じる者にとって、礼拝は非常に大切。しかし、キリストは礼拝の途中であっても、関係が壊れていることを思いだしたら、平和をつくりにいくよう教えています。それほど互いに愛し合う関係、平和であることは大切だと教えられます。

 時に自分としては、なんとか平和な関係を持ちたいと思い、関係修復にあたったとしても、受け入れてもらえないことがあります。それでも、私たちは平和をつくる働きを続けて行く。大変な働きが託されているわけです。

 もう一度お聞きします。自分に与えられている人間関係の中で、このテーマで取り組まないといけない人はいないでしょうか。キリストの言葉に応じて、私たち一同で「私と隣人の間で平和をつくること」に取り組んでいきたいと思います。


 さて、このような平和をつくる者に対する祝福はどのようなものだったでしょうか。

 マタイ5章9節

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。


 平和をつくる者に対する祝福は、「神の子と呼ばれる」というもの。「神の子と呼ばれる。」誰に呼ばれるのか。

神に呼ばれるととるならば、これ以上の祝福はないことのように思います。ひと際輝く祝福。最高最大の祝福。全地の造り主、我らの神に、あなたは神の子だと呼ばれる。わたしの子だと。

キリストを信じる者は、それだけで神の子となる。神の子とされるのでした。しかし、ここで言われているのは、神の子となるだけでなく、神の子と呼ばれるというのです。キリストを信じ、神の子となった者が、その特徴である平和をつくる働きをする時に、たしかにあなたはわたしの子だと呼ばれる。私たち人間にとって、これ以上の祝福はないと思える祝福。それが、平和をつくる者に与えられる祝福でした。


また、これを隣人に呼ばれるととるならば、私たちの姿を通して、神の素晴らしさを表わすことを意味します。あなたのような生き方は見たことがない。「あなたは神の子ですね」と言われる。これまた大きな祝福です。

この神の子という言い方は、ユダヤ人独特の表現方法とも考えられます。ユダヤ人は何々のような人と言う場合、〇〇の子と表現しました。慰めに満ちた人は、慰めの子と呼ばれましたし、気性のあらい人は、雷のような人ではなく、雷の子と呼ばれました。

ですので、神の子というのは、神のような人、あるいは、「神のような働きをする人」という意味です。私たちが平和をつくる時、私たちは人間には出来ないことをしている。神の働きに参与していることになる。それも、呼ばれると言われていますので、私たちの周りにいる人が、あの人は神のような働きをする人だと認めることになる、ということです。

 神の子と呼ばれるという祝福。神から呼ばれるのか。隣人から呼ばれるのか。どちらかだけというのではなく、神様からも、隣人からも「神の子」と呼ばれる祝福として、覚えたいと思います。


 以上、今日は「平和を作る」ことについて、八福の言葉を中心に確認しました。これがキリストを信じた者に与えられる恵み。キリストを信じた者の姿です。

 最後に一つだけ確認して終わりたいと思います。キリストを信じた者は、確かに平和をつくる者となります。キリストを伝えること。愛の関係を築き上げること。そのような働きが託されます。

 しかし、これらの働きは、私たちが自分の力で達成するものとして託されたわけではありません。真の意味で平和をつくる。これはとてつもない働きであり、とても人間の力で出来るものではない。まさに神業です。キリストを信じたあなたには、平和をつくる働きが託されています。それだけ言われますと、尻込みします。いや無理です。この働きは、平和の神とともに行う。神様を信頼しての働きなのだと覚えたいと思います。

 二千年年前。パウロの祈り。この祈りを互いに祈り、励まし合いながら、平和をつくる働きをしていきたいと思います。


 第二テサロニケ3章16節

どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。

2018年8月12日日曜日

一書説教(47)「第二コリント書~宝を土の器に~」


 私たちは人と会話する時、初めて会う人、関係が深くない人とは丁寧にします。相手の言いたいことは何か。自分の言いたいことは伝わっているか。確認しながら話を進めます。よく知っている人、関係が深い人とは、言葉が簡単になります。丁寧に話さなくても、それまでの関係から何を言いたいのか、お互いに分かるようになる。家族、夫婦の間であれば、「そこの、あれを取って」という言葉でも、何を取って欲しいのか通じる場合があります。そのため、関係の深い人たちの会話を、第三者の立場で聞くと、理解するのは難しいものです。それまでの関係に基づいて話されているので、背景を知らない人がその会話を理解しようとすると、多くの推測をすることになります。

 手紙でも同様です。まだ会ったことのない人、関係が深くない人に宛てて書かれた手紙の場合。第三者でも、その内容は理解しやすいもの。しかし深い関係がある中で記された手紙。また何往復もしている手紙を途中から読み、その中身を理解するのは難しいものです。

 新約聖書には多くの手紙が含まれています。二十七の書のうち、何と二十一が手紙。個人に宛てた手紙もあれば、教会宛ての手紙もあります。教会宛ての手紙の中には、一つの教会に宛てた手紙もあれば、複数の教会、つまり多くの人に読んでもらうことを前提にして書かれた手紙もあります。

一つの教会に宛てた手紙にも、色々とあります。「ローマ人への手紙」は、著者パウロがまだ行ったことのない教会に宛てた手紙。著者が送り先の教会と関係が深くない中で書かれた。そのため、自分のこと、自分の信じていること、自分の伝えたいことが丁寧に記された書で、このような意味で、ローマ人の手紙は比較的読みやすいものです。「コリント人への手紙」は、著者パウロと、コリント教会は関係が深く、実際の行き来も、手紙のやりとりも何度もされている。そのため、背景を知らずに読むと、理解しづらい、読みにくいと感じられる書となっています。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り八回目。コリント人への手紙第二となります。大牧師、大宣教師、大神学者であったパウロによる手紙。お伝えしましたように、背景を知らないと理解することが難しい書。しかし、背景を知って読むと実に面白い書。パウロとコリントの教会がどのような関係だったのか。パウロとは、どのような人なのか。このような手紙を通して、神様は私たちに何を教えようとされているのか。考えながら読み進めたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 背景を知らないと読みづらい書。そこで、コリントの教会とパウロの関係を、少し丁寧に確認したいと思います。使徒の働きでは、パウロが最初にコリントを訪れた時の記録が十八章に出てきます。第二次伝道旅行と言われる度の後半です。通常、パウロは新しい町に行くと、まずはその町にいるユダヤ人にキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人が、キリストを受け入れないと、異邦人に専念する。コリントでも同様で、まずは主にユダヤ人たちに語り、拒絶が大きくなると、異邦人への宣教に専念するようになります。このコリントでの伝道の際、神様がパウロを励ました有名な言葉が記録されています。

 使徒18章10節~11節

「『わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。


 神様の言葉に励まされて、パウロは一年半もの期間、教会開拓に取り組み、その結果建て上げられたのがコリントの教会でした。コリントでの一年半の伝道、教会形成を終えたパウロは、エペソ、エルサレムを経由し、派遣元のアンティオキア教会へ戻り、第二次伝道旅行が終わりとなります。

 その後、第三次伝道旅行に取り組むことにしたパウロは、まずエペソに行きます。このエペソでの伝道、教会形成は足掛け三年にも渡る期間。パウロにしては、実に長い間、エペソに滞在します。そして、このエペソにいる時に、パウロとコリントの教会で、様々なやりとりがなされていました。

 まず、手紙のやりとりがあったことが分かります。コリントの教会からパウロに対しての手紙(Ⅰコリント7章1節など)もあれば、パウロからコリントの教会への手紙もありました。「パウロからコリント教会への手紙」。私たちは聖書の中に、第一、第二と二つの手紙を読むことが出来ますが、実際にパウロが書いたのはもっと多かったことが分かっています。

 Ⅰコリント5章9節

私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。


 ここに記された「前の手紙」は、失われたもの。つまりパウロが教会へ宛てて書いたものが、全て聖書として残っているわけではないのです。(パウロがコリント教会へ宛てて書いた手紙がどれ位あったのか正確には分かりませんが、多くの人が四つ以上と考えています。)


手紙だけでなく人の交流もあり、コリントの教会からパウロのもとへ訪問客も来ていました。(Ⅰコリント16章17節、Ⅰコリント1章11節)パウロが、コリントの教会へテモテを送ること(Ⅰコリント4章17節)、テトスやその他の人たちを送ることもありました。(Ⅱコリント8章18節)。使徒の働きからは、パウロは計二回、コリントの教会へ行っていますが、手紙によるとパウロは三回コリント教会に行っていることが分かります。

 Ⅱコリント13章1節

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。


 テモテやテトスを送っただけでなく、(使徒の働きには記されていない)パウロ自身によるコリント教会の訪問もあった。他の教会と比べて、パウロとコリントの教会はよく交流していたことが分かります。

 なぜ、パウロはコリント教会と頻繁に関わりを持つことになったのか。一つの理由は、コリントの教会に多くの問題があり、その問題を解決するためです。もう一つの理由は、パウロとコリントの教会の一部の人たちと関係が良くなかった。緊張関係があり、それを何とかしたいと考えたからです。いくつか確認すると、

 Ⅰコリント4章18節~19節

あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。

 Ⅰコリント9章3節~4節

私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。


 「思いあがっている人たち」とか「私をさばく人たち」と、強い表現が使われています。第一コリントの手紙を書く段階で、それなりに緊張関係があったことが分かります。

 パウロ自身による伝道、教会形成によって建てられたコリント教会。様々な問題を抱え、緊張関係にある人もいる。人を送り、手紙を送り、自分自身も行き、何とかコリント教会を良い状態にしようと取り組んできたパウロ。そのパウロが三度目の訪問(第三次伝道旅行の終盤、使徒の働き20章3節)を前に記したのが、このコリント人への手紙第二という書です。


 さて、それではこの手紙を書く段階で、コリントの教会はどのような問題を抱えていたのでしょうか。パウロとコリント教会の関係はどのようなものだったでしょうか。手紙から分かるのは、コリント教会に新たに起こった問題は、「偽使徒」に関する問題。そして、パウロとコリント教会の関係は、より深刻になっている印象です。

 Ⅱコリント11章4節、13節

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。


 もともと、コリント教会の一部の人たちとパウロは緊張関係にありました。そこに、大使徒を自称し(Ⅱコリント11章5節)、話し方は雄弁(Ⅱコリント11章6節)、その振る舞いによって自分自身を偉大な者と思わせることが出来る(Ⅱコリント11章20節)者が現れます。結果、パウロは「顔を合わせている時はおとなしいのに、離れていると強気になる人」(Ⅱコリント10章1節)、「手紙は重みがあるが、会うと弱々しく、話は大したことない。」(Ⅱコリント10章10節)と攻撃されたようです。

 様々な問題を抱えていたコリント教会。パウロからすれば、緊張関係があり、さらに偽使徒が現れ、自分と教会を引き離そうとしている。この状況で、手紙によって、自分の伝えた福音に引き戻す必要がある。非常に難しい状況だと思います。果たして何を、どのように書いたら良いのか。


 この問題にパウロはどのように解決を与えようとしたのか。偽使徒たちが語ったとされる「別のイエス」や「異なった福音」について、それがいかに間違った教えであるか。手紙の中で、具体的にその間違いは指摘されていません。それよりも、話し方が雄弁であるとか、偉大な者であるかのように振る舞うことが出来る。語られている内容でははく、語り方に魅かれたコリント教会の姿勢を正そうとします。教会が、伝えるべき福音よりも、いかに伝えるかに集中する時。キリストよりも、伝える人自身に注目する時。それ自体が、教会の問題となる。「異なった福音」に陥る危険があると言う指摘。


 伝えるべき福音よりも、いかに伝えるかに集中している。キリストよりも、伝える人自身に注目している。その問題を抱えたコリント教会に、福音を伝えるとはどのようなことか。福音に仕えるとはどういうことか。伝える者も、伝えられる者も、キリストに注目するとはどのようなことなのか。これがこの手紙のテーマです。

 パウロはこのテーマについて、様々な視点、様々な表現で語りますが、特に大事にしているのは、「弱さを誇る」という視点です。

 手紙の後半に、パウロが自分のことを誇るという有名な箇所があります。ここは非常に面白いところで、パウロが、自分で誇ると言い出しながら、誇ることを嫌がるのです。まるで、誰かに自慢話をするよう強制されているかのように、本当は嫌なことだけど、しょうがなくするという雰囲気。繰り返し言い訳めいたものを言いながら、話し始める。面白いところなので、少し確認しますと、

 Ⅱコリント11章1節

私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。

 Ⅱコリント11章17節~18節

これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。

 Ⅱコリント11章21節b

何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私はおろかになって言いますが、私もあえて誇りましょう。


 こうして、やっと話し始めた自慢話ですが、すぐに数々の悲劇を数え挙げる、奇妙な自慢話になります。(Ⅱコリント11章22節~30節)雄弁さを誇った偽使徒に対して、苦しみの数々を通して労してきたことを誇ったと言えるでしょうか。様々な労苦を語った後で、一度、次のようにまとめます。

 Ⅱコリント11章30節

もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。


 しかし、続いてもう一度、自分を誇ると言い出し、今度は本当に誇りと思うことを話すのです。このあたりが、この手紙の分かりづらいところであり、面白いところ。パウロの気持ちが二転三転しているように読めるのです。それでは何を誇ったのかと言えば、パウロが経験した神秘的な体験。天に引き上げられ、天の声を聴いたというのです。たしかにこれは、自慢話になりうる。このような体験を誇ることで、自分は特別な者、偉大な者と思わせることが出来る。ところが、パウロはこの話をした途端に、また弱さを誇ると言い始めるのです。

 Ⅱコリント12章7節~10節

その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」


 結局、弱さを誇る。この信仰の姿勢を保ち続けるパウロの姿が印象的です。福音を伝えるとはどのようなことか。福音に仕えるとはどういうことか。伝える者も、伝えられる者も、キリストに注目するとはどのようなことなのか。様々な答え方をすることが出来ますが、この書におけるパウロの思いをまとめると、「弱さを誇る」ことに集約されているように読めるのです。

 なぜ「弱さを誇る」ことが福音を伝える上で重要なのか。なぜ「弱さを誇る」ことが、キリストに注目することにつながるのか。次の言葉によくまとめられていると思います。

 Ⅱコリント4章6節~7節

『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。


 福音という宝は、土の器の中に入れられた。ここで言う、土の器とは、弱さの象徴です。なぜ、弱さの中に福音という宝は入れられたのか。それは、そもそもキリストを信じることの入り口が、自分の弱さを認めることにあるから。私は弱く、自分で自分を救うことが出来ない。自分で自分を変えることも出来ない。そのように弱さを認めた者が、福音という宝を手にすることが出来るのです。

また、弱いからこそ、その力が神のものであることが明らかになるという意味もあります。人の弱さが、神様の力を示す重要な舞台となる。キリストの力が大いに示されるために、自分の弱さを誇る。


 以上、コリント人への手紙第二でした。是非とも、福音を伝えるとはどのようなことなのか。キリストに注目するとはどのようなことなのか。いかに伝えるべきか考えるとしたら、何を意識したら良いのか。考えながら、この手紙を読み通して頂きたいと思います。

 そして、自分自身の信仰の姿勢はどのようなものか、顧みたいと思います。「キリストが私のために何をされたのか」よりも、「私が何をしたいか」に焦点が向いていないか。神様は、私を弱さの中から救って下さったことは分かっている。しかし、弱さの中で、豊かに生かして下さっていることを無視していないか。「弱さを誇る」という信仰生活。より私たちが使う言葉で言えば、「弱さを認める」「弱さを受け入れる」「弱さを許す」信仰生活と言えば良いでしょうか。神様の前で弱くなり、人の前でも自分の弱さを示すことが出来る。それこそ、神の民にふさわしい。私たちにふさわしい歩みであることを覚え、「弱さを誇る」歩みを送りたいと思います。

2018年8月5日日曜日

Ⅰコリント(11)「教会~罪の問題に取り組む共同体~」Ⅰコリント5:1~13


イエス・キリストを信じる者の集まり、教会はしばしば「罪赦された罪人の集まり」と言われます。イエス・キリストを信じた者は、罪赦され神の子と呼ばれる恵みを受ける。しかし、罪赦されされたからと言って、私たちが罪を犯さなくなるわけではありません。私たちはしばしば、いや日々心の思いにおいて、ことばにおいて、行動において罪を犯す者です。

キリストを信じても罪を犯す。キリストを信じていなくても罪を犯す。そうだとすれば、キリストを信じる者と信じない者、教会とこの世の人とは、どこが異なるのでしょうか。

様々なことが言えると思いますが、今日お話ししたいのは、罪に対する考え方、取り組み方の違いです。聖書の神を知る人は、自分が罪人であることを認めます。たまたま罪を犯すのではなく、自分の中に罪の性質があることを認めているのです。それに対して、聖書の神を知らない人は、悪い思いを抱くことや悪い行いを認めても、罪の性質があることまで認めようとはしません。罪の源に、聖なる神様の存在を認めようとしない、信仰の問題があることを認めようとはしないのです。

私たちが持つ罪の問題に対して、どう対応することが正しいのか。教会は罪の問題に対して助けになるのか。その様なことを念頭に置いて、今日の箇所を読んでゆきたいと思います。

礼拝において読み進めているコリント人への手紙第一も、今日は第5章に入ります。紀元1世紀半ば。この手紙の著者パウロが建てたコリント教会は、様々な問題を抱えていました。仲間割れ、性的不道徳、偶像への供え物、富める者の高慢、礼拝の乱れなど。これが本当にキリスト教会と言えるのかと思われる程の有様、混乱ぶりだったのです。しかし、この様な教会をも神の教会と認めるパウロは、忍耐と知恵を尽くして、一つ一つの問題を取り上げ、適切な助言、勧め、命令を出してゆくのです。

 先ず、パウロは、第1章から第4章まで仲間割れの問題を取りあげ、教会の一致を説きました。今日の第5章では性的不道徳と、その罪に対し間違った対応をしていたコリント教会の問題を扱っています。


 5:1、2「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。」


 父の妻を妻にしている者がいる。余りのことに耳を疑がってしまいます。父の妻、つまり当人にとって母と言うことは、生みの母の場合もあるでしょう。父の後妻、継母の場合もあるでしょう。父の側女と言う可能性もあります。しかし、いずれの場合であっても、その様な女性を妻とすることは、忌み嫌うべき行い。聖書は勿論、当時のギリシャローマの法律でも禁じられていました。

 それを、キリスト教会のメンバーが犯したと言うのですから、驚いてしまいます。そして、この出来事は、性的不道徳で名高いコリントの町でもスキャンダル、噂になっていたらしいのです。そんな噂を耳にしなければならなかったパウロの心は、どれ程痛んだことでしょう。

 しかし、使徒が失望したのは、この不道徳な兄弟に対する教会の対応でした。彼らはこの兄弟のことを悲しむことがなかったばかりか、誇り高ぶっていたと言うのです。パウロ、アポロ、ペテロと言った有名な使徒、教師に指導された教会だからと誇っていたのか。イエス・キリストを信じて救われた者は、何をしても自由、何をしても神に赦されると考え、キリスト者の自由をはき違え、高ぶっていたのか。

 いずれにしても、自ら悔い改めることができなくなる程、罪に捕らわれ、縛られてしまった兄弟の存在を、心から悲しめないコリントの人々、神様の教えを軽んじ、罪に対する正しい対応を怠ったばかりか、それに気がついてさえいないコリントの人々の姿に、パウロは失望落胆したのです。

 けれども、こんな教会であっても捨てておけないのが、親心というもの。続くことばは、コリント教会の生みの親であるパウロにしか語ることのできないものと思えます


 5:3~5「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」


 この時パウロは、コリント対岸の町エペソにいました。しかし、「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました」と言うのです。しかも、あなたがたと私とが主イエスのもとに集まって決めました、とこのさばき、戒規の執行が、パウロの独断ではなく、教会のメンバーが共に祈り、ともに神様のみこころを求めて行ったことであると強調しています。

例え場所は離れていても、親の心は心配する子どもの所に向かう。子どもとともに、子どものために何が最善かを考える。親ならば、誰でも経験することではないではないかと思いますが、この様な非常に厳しい叱責のことばを通して、私たちはコリント教会のことを、パウロがいかに心配していたか、愛していたかを知ることができると思います。

また、「そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです」とあるパウロのことば。これは、教会はキリストの支配するところ、教会の外であるこの世は、サタンの支配するところとする、聖書の世界観に基づいています。勿論、だからと言って、キリストとサタンが対等の存在であるわけではありません。サタンがこの世の支配者と呼ばれているのは、神様がキリストの再臨の時まで、一時的にサタンがこの世を支配することを許可しているからでした。

なお、罪を犯した者がどんな場合でも、教会から除名され、この世の者として扱われることになるのかと言うと、そうではありません。この戒規は、あくまでも兄弟姉妹の助言や祈り、小会の勧めにも関わらず、頑なに罪を悔い改めることをしない者に対する対応でした。イエス様は、「天の父は、どんな小さな者も滅びることを望まない」と語られた後、罪を犯した兄弟にどう対応するべきかについて、こう教えています。


マタイ18:1517「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」


第一段階、二人だけの所で兄弟の罪を指摘する。その結果兄弟が悔い改めたら、それで良し。第二段階、もし悔い改めなければ、今度は二人、三人で集まり、助言する。その結果兄弟が悔い改めれば、それで良し。第三段階。もし悔い改めなければ、教会つまり小会会議がこの兄弟に助言し、その結果兄弟が悔い改めたら、それで良し。第四段階。それでも一定の期間を待って、悔い改めることがなければ、その時初めて小会はその兄弟を異邦人か収税人のように扱うこと、パウロの表現によれば、サタンに引き渡すことが許されると言うのです。イエス様は、私たち教会が、罪を犯した兄弟に愛と忍耐をもって仕えること、悔い改めた兄弟は受け入れることを求めておられるのです。

そして、除名と言う厳しい戒規も、その目的はあくまでも、その人の霊が主の日に救われるためとあることに注意したいと思うのです。処罰のための処罰ではない。悔い改めのため、回復のための対応、訓練であることを忘れてはならないと思うのです。

こうして、戒規を下すことは、罪を犯した兄弟のためであるのですが、同時に教会のためでもあります。人に助言し、人を戒めることは、私たち自身の信仰を引き締めるのです。


5:6~8「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」


ここで、パウロはコリントの人々の中に残っている罪の性質について、よくよく注意するよう勧めています。背景にあるのは、旧約聖書の時代、神の民イスラエルが経験した出エジプトと、それを記念して毎年行うよう定められた過ぎ越しの祭りでした。

神様の導きによって、イスラエルの民がエジプトから救出された際、夜のうちに大急ぎで旅立つ必要がありました。その為、普段ならパン種を入れ、膨らませたパンを食べることができるのですが、この時は種を入れない、平べったいパンを作ることしかできませんでした。これを記念して、過ぎ越しの祭りの食事では、種を入れないパンを食べることが習わしとなったのです。

また、出エジプトの際、「門や鴨居に、屠られた子羊の血を塗った家に、私のさばきはくだることなく、過ぎ去る」と、神様は約束しました。それを信じて実行したイスラエルの民は、エジプトに下された神のさばきを免れ、救われたのです。この出来事には、屠られた子羊が、イスラエルの民の代わりに、彼らの罪を負い、神のさばきを受けたと言う意味がありました。これを記念し、過ぎ越しの祭りの食事で、イスラエルの民は子羊を食べるようになったのです。

「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」と語った時、使徒の心にあったのは、まぎれもなく、十字架の上で私たちの罪のため、私たちに代わって罪の罰を受けてくださったイエス・キリストの姿でした。私たちの罪を赦すため、死に至るまで忠実に、全身全霊、仕えてくださったイエス・キリストへの感謝こそ、私たちを神の子として正しく生きることへと導く力なのです。イエス・キリストの十字架の死に現わされた神様の愛を喜び、よく味わう時、私たちは罪を悔い改め、神様の喜ばれる生き方を選ぶ力を受け取ることができる。それが、パウロの勧めでした。

私たちも、兄弟姉妹に対する悪意や意地悪な言動を悔い改め、自分を戒めたいと思います。誠実な心と真実な言動で兄弟姉妹に接してゆきたいと思うのです。

最後は、パウロの勧めを誤解、曲解した人々からの批判に応じる使徒のことばです。


5:9~13「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」


 「私は前の手紙で~」とありますから、コリント人への手紙第一の前に、パウロはコリント教会へ手紙を書き送っていたと考えられます。それを読んだパウロを良く思わない人々は、使徒の勧めをねじ曲げて取り、批判を展開したようです。

 彼らは、第一に、パウロはこの世の性的不道徳者、悪人、偶像礼拝者との付き合いを一切禁じていると受け取りました。「しかし、そんなことをしたら、私たちはこの世で生活できず、この世から出ていかねばならないでしょう。私の勧めはそうではなく、除名を受けた兄弟たちで、今もそうした罪の中にありながら、一向に悔い改めようとしない心かたくなな人々と、親しく交際しないようにと言うことです」。そうパウロは応じたのです。罪の中にある人が、そのままの状態で良いと感じるような交際をすることは慎むように、と言うのが勧めの趣旨でした。逆に言えば、罪を悔い改めようとしている兄弟であるなら、積極的に交わり、神様に立ち返るよう勧めたことでしょう。

 第二に、彼らは、パウロは父の妻を妻とした男性のことばかり問題にして、相手の女性のことは放っておくつもりかと批判していたようです。それに対しては、教会の外の人たちをさばくことは神様の仕事。私たちの使命は兄弟姉妹の罪を示し、悔い改めを勧めること。そう応じたパウロです。

 私たち教会が慎むべきことと励むべきこと。私たちが責任をもって行うべきことと、神様にゆだねるべきこと。パウロによる、みごとな交通整理でした。

 以上、今日の箇所を読み終えて、皆様は何を思われたでしょうか。私には改めて教えられたことがあります。それは、教会生活とは、私たちが罪の問題に取り組み続けるため、神様が与えてくれた交わりではないかと言うことです。私たちは、生まれつき自分に甘いと言う弱さを抱えています。それは、自分の力で自分の罪を認めること、罪を悔い改めることが非常に難しいと言う課題につながっています。

 それをよくご存じの神様は、私たちの周りに兄弟姉妹を置いてくださいました。教会の交わりの中で、私たちは、愛を持って兄弟の罪を示し、悔い改めを勧める立場に立つことがあるかもしれません。逆に、兄弟から罪を示され、悔い改めに導かれることもあるでしょう。私たちは罪の悔い改めにむけて、人に仕え、人を励まし、人のために祈る使命があります。同時に、へりくだって、人のことばに耳を傾け、悔い改めの勧めを受け入れる者でもあるのです。

この様な意味で、私たちはお互いに助け合う関係にあること、お互いの存在を必要としていることを確認したいのです。自己中心で、高慢な者が、罪の問題に取り組み続けるために、神様が与えてくださった教会の交わりと言う恵み。この恵みを覚えて、教会生活を送る者でありたいと思います。

2018年7月29日日曜日

ウェルカム礼拝「信じることについて」Ⅰコリント13:13


逆転劇、どんでん返しと聞いて、皆さまは何を思い出すでしょうか。小説でしょうか。映画でしょうか。スポーツでしょうか。こうなるだろうと予想、推測していたことが覆されていく場面を見聞きするのは楽しいもの。小説にしろ、映画にしろ、スポーツ観戦にしろ、逆転劇、どんでん返しは醍醐味の一つです。

 約一か月前、サッカーワールドカップ、「日本 対 ベルギー戦」は見事な逆転劇の試合。弱小と思われた日本チームが、強豪ベルギーと見事に戦った試合。前半は0対0、手に汗握る状況。後半に入り、日本が先制。立て続けに二点目も奪取。残り時間も多くはない。観戦していた多くの人が、日本が勝つと思った場面。しかし、ここから一挙にベルギーに三点奪取され、ベルギーの勝利となりました。日本チームを応援する者としては、これほど残念なことはないですが、サッカーの試合として、非常に面白い試合。見事な逆転劇。残念でありながら、良い試合を観れた満足もある。負けた試合にも関わらず、日本代表史上、ベストゲームと評する解説者もいました。


 一般的に逆転劇、どんでん返しは見聞きする分には楽しいもの。小説、映画、スポーツ観戦、でも、どんでん返しは痛快、爽快です。

しかし、実際に自分が体験するとなると話しは変わります。特に今日の礼拝のテーマ、「生きるために必要なもの」。生きていくのに何が必要なのか。人間らしく、私らしく、あるいは喜んで生きるために必要なものは何なのか。このようなテーマで、自分の人生に逆転やどんでん返しが起こると大変。これがあれば生きていける。これがあるから私は安泰。そう思っていたものが、間違いであったと思うようになる。このような変化は痛快とか爽快と言っている場合ではない。大変なことです。


 「生きるために必要なもの」とは一体何でしょうか。生きていくのに、本当に必要なものは何でしょうか。

お金でしょうか。安定した仕事でしょうか。他の人にはない能力を身につけることでしょうか。人から賞賛されるような地位、経歴でしょうか。有力な人と良い関係を持つことでしょうか。健康でしょうか。配偶者や子ども、家族でしょうか。これらのものは、生きて行く上で大切なものですし、実際に、このようなものが「生きるちから」であると考えて生きてきた人が多くいます。経済が安定し、健康で、自分のやりたいことが出来ているうちは、それで良かった。ところが、経済不況、事故や病気、家庭内不和、人間関係のこじれ。巨大な災害によって、私たちが積み上げてきたものが瞬時に失われることもあります。

 果たして「生きるために必要なもの」とは、何なのか。どのような状態になっても喜んで生きていくためには、何が必要でしょうか。


 ところで、先に言いましたように、逆転劇、どんでん返しが自分自身の価値観で起こるのは大変なことだと思います。しかし、キリスト教「信仰」を持つと、逆転が起こります。一般的に大切な事柄が、聖書の世界では無用のものとなることがあります。逆に、一般的に不幸なこと、避けるべきことが、キリスト教の世界では良いこととなる場合があります。世界の造り主を信じる。罪からの救い主を信じると、私たちは大きな変化を味わうことになるのです。


 ある病院の壁に記されていた祈りの言葉として、以下のようなものがあります。

「大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと神に求めたのに
 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
 よりよきことができるようにと病を与えられた
 幸せになろうとして富みを求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった
 世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
 高慢にならないようにと失敗を授かった
 人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにといのちを授かった
 求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた
 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず心の中で言い表せないものはすべて叶えられた
 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ


 力を願いながら弱くなった。健康を願いながら病となったとしたら、喜べるはずもないところ。しかしここに、私以上に私を良い状態にしようと考えている神様の存在を見出した途端、どんでん返しが起こる。これがキリスト教の世界でした。この世界を造った神様を信じて「生きるために必要なもの」を考えるのか。それとも、神無しとして「生きるために必要なもの」を考えるのか。それにより、答えが変わるのです。


 聖書の中にパウロという人が出てきます。一世紀の人物。その学歴は凄まじく、ユダヤの社会で大きな影響力を持っていた人。エリート中のエリート。当時の社会で、誰もが羨むような力、地位を手にしていた人が、次のように言います。

 ピリピ3章5節~8節

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。


 キリストを信じることによって、それまで大事と思っていたものが、そうではなくなった。大事ではなくなったどころか、「ちりあくた」とまで言います。ここにも「信仰」による逆転を見ることが出来ます。キリストに対する信仰を持った上で、「生きるために必要なものを考えるのか。」信仰抜きに「生きるために必要なもの」を考えるのか。それにより、答えが変わるのです。そのため聖書は、世界の造り主である神を信じること、キリストを信じることを、極めて重要なことだと教えていました。

Ⅰコリント13章13節

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。


 「生きるために必要なもの」という表現ではないですが、聖書は人間にとって最も重要なものとして、「信仰」「希望」「愛」の三つを挙げます。(今年度のウェルカム礼拝は三回を予定していますが、「信仰」「希望」「愛」をテーマに一回ずつ行う予定です。)今日は、「信仰」に焦点を当てます。

 生きるために「信仰」は大事。なぜなら、信仰があるかないかで、「生きるために必要なもの」の答えが変わるから。しかし、それだけでなく、神様を信じること自体が、あるいはキリストを信じること自体が、人間にとって重要であると教えています。


 ルカ9章24節~25節

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。


 この言葉はイエス・キリストが語ったもの。実は、聖書に何度かに出てくる有名な言葉ですが、よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉と言えるでしょうか。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失う。」果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。

 ここで言われている「自分のいのちを救おうと思う者」とは、どのような人か。一つ言えるのは、自分のいのちは自分で救うことが出来る。自分で何とかすることが出来ると考えている人、いのちの所有権は自分にあると考えている人のことです。

お金があれば、仕事があれば、能力があれば、名誉や地位があれば、健康であれば、良い人間関係があれば、これで私のいのちは大丈夫と思う。それは結局のところ、自分のちからで自分のいのちを救うことが出来ると考えている。ここで言う「自分のいのちを救おうと思う者」のことです。そしてそのような生き方は、結局のところいのちを失う生き方なのだと言われます。何故なのか。

 いのちの所有者を無視しているからです。本当にいのちを大切にしたいのであれば、自分のいのちを所有している方に委ねるしかないのに、自分が所有しているかのように振る舞うこと。それがここで問題にされているのです。

 この自分のいのちを救おうと思う者が、それを失うということの具体例をイエス・キリストがたとえ話でしている箇所があります。


 ルカ12章16節~21節

それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」


 この箇所で言われる神の前に富まない者というのが、自分のためにいのちを救おうと思う者の姿です。

この話に示される、自分のいのちの所有権が自分にはないという聖書の考え方に、納得いくでしょうか。生まれてからこの方、自分の力で生き抜いてきたという方にとって、自分のいのちの所有権がないというのは納得しづらい話ではないかと思います。ところが、世界を造られた神を信じると、いのちの所有者が私ではないということが、非常にしっくりきます。世界の造り主を信じることで逆転が起こるのです。

いのちは、神様に与えられたものとして生きていく。その時に初めて味わう喜びや感動があります。本当にそのように思いながら生きることが出来るとしたら、どのような場面、状況になっても、生きることへの感動、喜び、使命感、生きるちからを失うことはなくなります。そのためでしょう、聖書は私たちにとって「信仰」が重要と教えるのです。


 世界の造り主である神様がおられ、その方に生かされていると信じる。その信仰が大事であると聖書は教えていますが、それだけでなく、その世界の造り主である神様から送られた救い主、イエス・キリストを信じる信仰も大事であると言います。何故、イエス・キリストを信じることが、私たちにとって重要なのか。

 ヨハネ3章16節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


 聖書によれば、私たちがすでに手にしている命、この地上での命の他にもう一つ命がある。「永遠のいのち」と呼ばれ、それはキリストを信じることで頂くもの。この地上の命は、神様が下さったものとして生きることが大事。しかし、それだけで終わらないように。この地上での生涯の後に、もう一つの世界があること。天国と呼ばれる世界で復活するためには、「永遠のいのち」が必要で、それはイエス・キリストを信じることで与えられる。

 自分の人生を、この地上での生涯だけのものとして生きるのか。もう一つの命、もう一つの生涯(それも永遠に続く)があるとして生きるのか。全く異なる生き方になります。また、この地上での命も、永遠のいのちも、どちらも大事ですが、敢えてどちらが大事かと問われれば、どうなのか。


 イエス・キリストの言葉で次のような言葉があります。

 ルカ12章4節~5節

わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。


 この地上の生涯が大事でないということではありません。この地上の生涯も大事。しかし、そこに集中して終わらないように。もう一つの命、永遠の生涯を見据えて、生きるようにとの勧めです。

有名な方なのでご存知の方も多いと思いますが、星野富弘さんという方がいます。体育教師をしている時に、模範演技で事故に会い、首から下が動かなくなった。その後、キリスト教信仰を持ち、口で絵と詩を書き、多くの人に影響を与えている人です。その方が作った詩の中に、このようなものがあります。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。

 いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

 この詩に出てくる「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。」という言葉が、「自分のいのちを救おう思う者は、それを失う」という言葉と重なります。あるいは、「この地上でのいのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。この地上でのいのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」と受け取ることも出来ます。このような聖書の考え方、キリスト教の考え方を、皆さまはどのように受け取るでしょうか。


 最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは普段教会に来ていない方へのお勧めです。聖書が教える「生きるために必要なもの」の一つは、いのちは神様から頂いたものであると信じることにあると申し上げましたが、これはそのように信じたら人生が楽になりますとか、そのように思い込んだら幸せになりますと言いたいのではありません。そうではなくて、本当に神が世界を造り、私たちのいのちを治めている。そのような神様がいて、そのような神様の前で私たちは生きているのです、とお伝えしたいのです。少なくとも私は本心からそのように信じ、このことをどうしても伝えなければならないと思って今日を迎えました。どうぞ、この聖書の神様を知って下さい。信じて下さい。

 自分で自分のいのちを支えないといけないと思っていた時は、生きることが大変だった。聖書の神を知ってから。生きることが喜びとなり、楽しみとなった。そのようなどんでん返しを経験されることを、心からお勧めいたします。


もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方。クリスチャンの方へのお勧めです。私たちは、なぜ存在しているのか。何のために生きているのか。既に答えを持っているものです。実にこれは凄いこと。この答えが分からず、何も考えないで人生を生きるのか、苦しみながら人生を生きる人が多い中、私たちはこの答えを持っている。これがどれ程の恵みか実感があるでしょうか。時に、自分の思い通りにいかなく、悲しみや苦しみに沈む私たちですが、今一度、本当の意味で生きるちからを既に得ていること。その恵みに与っていることを確認して、与えられた人生を喜びと期待を持っていきていくことをお勧めいたします。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...