2018年7月22日日曜日

Ⅰコリント(10)「一致を生み出す生き方とは?」Ⅰコリント1:22~25


マザーテレサのことばには、よく知られたものが多くあります。今朝皆様に紹介したいのは、マザーテレサの祈りですが、これは最も知られていることばの一つではないかと思います。


主よ、あなたの平和を人々にもたらす道具として私をお使いください。

憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。

分裂のあるところには一致を。疑惑のあるところには信仰を。

疑っているところには真理を。絶望のあるところには希望を。暗闇には光を。

悲しみのあるところには喜びをもっていくことができますように。

慰められることを求めるよりは慰めることを。

理解されるよりは理解することを。

愛されることよりは愛することを求める心をお与えください。」


カトリックとプロテスタント。立場こそ違いますが、この祈りには、神様が教会、私たちクリスチャンに与えた使命が述べられています。

私たちはイエス・キリストを信じて救われました。救われた者は罪赦され、天国に行くことができます。けれども、私たちが受けた救いはそれにとどまりません。キリストの平和をもたらす道具として生きること、この社会の憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。分裂のあるところには一致を。絶望のあるところには希望を。悲しみのあるところには喜びをもっていく。その様な働きをするための新しい命を与えられたことも、私たちの受けた救いの大切な側面です。

しかし、これまで礼拝説教で学んできたように、紀元1世紀、ギリシャの国コリントの町にあった教会では、仲間割れが起こっていました。自分たちが好む教師、優秀だと思う教師を担ぎ上げ、グループに分かれて争い、分裂していたのです。

本来なら、分裂のある所に一致をもたらすべき教会の内に、仲間割れがあり、争いがあった。コリント教会は、果たすべき使命を果たしていない状態にあったのです。それにもかかわらず、自分たちのことを誇る者がいたと言うのですから、手に負えません。

この手紙の著者パウロは、彼らを「キリストにある幼子、肉の人」と呼びました。


3:1、3「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。…あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」


あなた方は、イエス・キリストを信じていても、生き方においては未熟な幼子。いや、キリストを信じた人らしくない肉の人、ただの人のようではありませんか。そうパウロは叱っているのです。

コリント教会は、仲間割れの他にも多くの問題を抱えていました。ペテロやパウロと言った力ある使徒たちが活動していた初代教会に、こんな教会があったのかと思われる様な世俗的な教会でした。しかし、パウロは、この様な教会をも神の教会と認め、兄弟と呼びかけ、問題の一つ一つに適切な処方箋を出してゆきます。

最初に取り上げた仲間割れの問題には、第1章から第4章が費やされました。私たちは、先回4章の終わりまで読み進めたのですが、今朝は「一致を生み出す生き方」と言うテーマに絞り、改めてこの4章全体から、神様のメッセージを確認することができればと願っています。

まず整理しておきたいのは、知恵の問題です。パウロは、人間の知恵は良いものであり、神様から与えられた賜物であると考えていました。コリントの人々がことばや知恵を、豊かに与えられている様子を、神様に感謝していたほどです。


1:4、5「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」


歴史始まって以来、人間は知恵を用いて文化、文明を築いてきました。自然を観察して農業を営み、作物を生み出してきました。それを様々なところに運ぶ交通手段も発明してきました。知恵を用いて医学を発達させ、様々な病いを克服してきました。文学や芸術、各国の芸能など、人間の知恵が生み出したものによって、どれ程私たちの人生は豊かにされたことでしょうか。

この様に、知恵が良いものであるならば、コリント教会の問題はどこにあったのでしょうか。

第一の問題は、彼らが、自分を知恵の所有者と考えていたことです。パウロは知恵を「神の恵み」と言いました。「あなたがたは、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされた」と、注意深く書いています。つまり、人間の知恵の源は神様、人間の知恵は神様からの賜物だと言うのです。

この「神様からの賜物」という信仰を欠いたコリントの人々は、知恵をもって自らを誇りました。しかし、それは思い違いも甚だしいことと、パウロは皮肉っています。


4:7、8a「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。…」


ここに「人からもらわなかったものがあるのですか」とあります。但し、「人から」と言うことばは、元の文章にはありません。以前の新改訳聖書では、「あなたには、何かもらったものでないものがあるのですか」となっていて、人からもらったのか、神様からもらったのか、どちらとも考えられるところです。神からもらったものか、人からもらったものか。いずれにしても、人間の生活全般に関する知恵も、聖書を理解する知恵も、神様が直接にか、様々な人を通してか、私たちに与えてくださる賜物という考え方においては、変わりがありません。

第二の問題は、彼らが、ことばの巧みさや知恵、つまり能力によって、人間の優劣を判断し、決めていたことです。その頃ギリシャでは、土を耕したり、物を運んだりする肉体労働に従事する人は卑しめられていました。他方、政治家、哲学者、教師、芸術家など頭脳労働に従事する人は尊ばれていました。知恵ある人々は、政治、哲学、芸術など高尚な仕事に専念するため、単純な肉体労働から解放される権利があるという考え方が、一般的だったのです。

勿論、これは、聖書の教えるところではありません。この物質世界を創造したと言う意味では、神様ご自身が肉体労働者です。イエス様も、生涯の大部分を大工として働きましたし、パウロもテントづくりの職人として働きながら、伝道を行っていたのです。

聖書には、所謂頭脳労働が上で、肉体労働が下と言う考えはありません。ティンダルと言う人が「教会の講壇から説教することも、家で家族のために皿を洗うことも、神に仕える思いをもって行うなら、どちらも等しく神の目に尊い奉仕なのである」と言っています。職業に貴賎なし。仕事に上下なし。仕事の種類によって、人間の価値が決まるのではない。どのような仕事であれ、自分に与えられた賜物を精一杯使い、神に仕え、人を愛する者を、神様は喜ぶ。そう聖書は教えているのです。

コリントの人々が、自分はパウロ派、自分はアポロ派、自分はペテロ派などと言って、争っていた時、彼らは、教師たちを頭脳労働者と考えていたのでしょう。教師たちの知識、ことばの巧みさや雄弁さを比べては、その上下、優劣を論じ、判断していたと考えられます。

人の能力は能力として、正しく評価される必要があるでしょう。しかし、能力によって、人間の存在価値を決めてしまうことは、知恵の間違った使い方であり、高慢の罪でした。

パウロを批判する人々は、パウロの説教が単純であること、パウロが他の使徒と違い、生活のために肉体労働をしていたことを批判しました。彼らの価値観からすれば、パウロは、教師として下の下と思われていたのでしょう。しかし、パウロは彼らの批判を一蹴しています。


4:1~3a「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。」


パウロは、自分を神の奥義の管理者と考えています。管理者とは、神様から仕事と賜物を与えられた者と言うことです。そして、管理者として自分が何よりも気にかけるべきは、仕事と賜物を与えてくれた神様に忠実なこと、神様のみこころを知り、それに従って生きることと弁えていたのです。

事実6年前、パウロは与えられた賜物を用いて、全力でコリントの人々に仕え、教会を建て上げました。まだ小さな群れであった、コリント教会の人々に経済的な負担をかけまいと、教会から報酬を得ると言う権利を捨て、自ら額に汗して働き生活の糧を得ていたのです。

ですから、神に忠実と言う点において、私は精一杯力を尽くしているので、やましいことはない。神様の評価こそ第一のことなので、あなたがたの批判は、私にとっては小さなこと。そうパウロは言うのです。

それなのに、あなた方ときたら、神様から豊かな賜物をもらっていながら、間違って用いていませんか。ことばの賜物を、争いに勝って、人の上に立つために使っていませんか。知恵の賜物を、自分の正しさを示すため、人を攻撃し、人を倒すために使っていませんか。自分の立場や権利が、そんなに大事ですか。どうか、あなたがたに賜物を与えてくださった神様のみこころを踏みにじらないでください。そう訴えるパウロは、4章の最後でこう勧めていました。


4:16「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。」

それでは、パウロに倣うとはどういうことでしょうか。パウロの生き方に倣うことです。そして、パウロの生き方は、このことばに集約されていました。


1:22~25「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」


イエス・キリストは、人々に嘲られ、罵られ、十字架に死にました。その姿は、ユダヤ人にとって余りにも弱弱しく、神とは思えませんでした。ギリシャ人は、そんなひどい死に方をした男を神とするキリスト教信仰を、愚かなものと考えました。

しかし、パウロはキリストの十字架に、神様が罪人を救うために全力で仕える愛を見ていたのです。キリストの十字架に現れた神様の愛が、自分を生かす力と感じていたのです。また、パウロは、キリストの十字架に、人に仕えるため与えられた賜物を使い尽くすという、あるべき人間としての生き方を見ていたのです。キリストの十字架こそ、パウロが倣うべき神の知恵でした。

キリストの十字架を見つめ、神様の愛を味わい、感謝する。キリストの生き方に倣い、イエス様だったらこの場合、どう相手に仕えたかを考える。これが、仲間割れをやめ、一致を生み出す生き方として、パウロが勧めたことではなかったかと思います。

NHKでは、大河ドラマ「西郷どん」が放送されていて、ご覧になっている方もおられるでしょう。西郷隆盛は明治維新の英雄。この時代活躍した人々の中でも、一際人気があります。しかし、この西郷隆盛に勝るとも劣らない人気を誇るのが、坂本龍馬です。

若くして暗殺された龍馬には子どもがいませんでしたが、姉の子どもを養子として迎え、可愛がっていたそうです。その養子が坂本直寛。直寛は熱心なクリスチャンで、高知教会の会員でした。その直寛が龍馬の法要を行った際、今井信雄と言う元武士を招きました。

今井信雄は、龍馬を暗殺した見回り組の一員。尋問された際、唯一人「私が殺しました」と罪を認めた人物で、その潔さを知った西郷隆盛が特別に恩赦を願い、釈放されたと言われます。その後、横浜の教会でキリスト教の福音を聞き、心打たれ、改心。静岡県の小さな村で村長となり人々によく仕えていた彼は、法要の席に出席することにします。

坂本直寛の友人は、「父にあたる龍馬を殺した男を法要に招くなんて、そんな馬鹿なことがあるか」と止めようとしました。今井信雄の友人は、「そんな所にのこのこ出かけて行ったら、お前殺されるぞ」と忠告しました。しかし、法要の席で、命を奪った龍馬の子どもに今井信雄が謝罪。父の仇の謝罪を子どもは受け入れ、二人は和解。過去のことは忘れて、これからキリスト教をもって、どう日本を良くしてゆくかを語り合ったと言うエピソードが残っています。

父親の仇を責める権利を捨て、心を開いた坂元直。恩赦で与えられた折角の命を、自ら捨てる覚悟で、和解を求めた今井信雄。二人の間には、十字架のイエス・キリストを力とし、知恵とする者同士の一致が生まれたのです。

私たちも家庭で、教会で、職場で、社会で、対立や仲間割れではなく、一致を生み出す生き方、実践してゆきたいと思うのです。

2018年7月15日日曜日

一書説教(46)「第一コリント書~この福音によって~」


 私たちは日々、様々な影響を受けながら生きています。周りにいる人の考え方、生活スタイル。見聞きする情報。怪我や病気などを通して、自分の考え方、大切にしていること、生活スタイルが変わることがあります。現代は情報が溢れかえる社会。意図していなくても、良い影響も悪い影響も受けながら、私たちは生きています。

この一週間の自分の生活を振り返る時、最も影響を受けたのは何によるでしょうか。これまでの人生を振り返った時、自分の考え方や生活スタイルが大きく変わったのは、何によるでしょうか。

 キリストを信じる者は、日々、新しく作り変えられると約束されています。キリストに似る者へ、神の民として喜んで生きることが出来るように、聖化の恵みが注がれています。それでは、キリストを信じることによる変化と、他のものから受ける影響による変化と、どちらが自分を変えているでしょうか。あるいは、神の子らしく生きたい、神の子らしく作り変えられたいという思いが私たちの中にどれだけあるでしょうか。自分は何から最も影響を受けているのか。どのように変わっているのか。この礼拝の中で、皆で考えていきたいと思います。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り七回目。コリント人への手紙第一を読みます。パウロによる手紙。前回読みましたローマ人への手紙と、同時期に書かれた書で、ところどころ、同じフレーズ、似た表現が出てきますが、全体としては大分異なる印象の手紙。ローマの手紙が普遍的、一般的な教えが多く記されていたのに対して、コリント人への手紙は、問題だらけの教会を、何とか建て直したいと苦心して記されたものです。コリントの教会にどのような問題があり、それに対して、牧師、宣教師、神学者であったパウロが、どのような解決を提案したのか。注意深く読みたいところ。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 そもそも教会は問題を抱えるものです。教会とは、赦された「罪人」の集まり。完全無欠な教会はなく、どの教会も欠けがあり傷があります。とはいえ、それにしても、コリントの教会は問題が山積みでした。不品行の問題などでは、目を覆いたくなる程で「異邦人の中にもないほどの淫らな行いで、父の妻(実母ではない)を妻にしている者がいる。」という状況。先輩カルヴァンは「神よりも、むしろ悪魔が支配しているとでも思われるほど、悪徳の充満していた人間の集団」とまで言っています。


コリントの教会は何故、問題山積みの状態にあったのか。一つの理由は、コリントの町の環境にあると考えられます。

現在の地図を見てみても、コリントが栄えやすい土地であることが分かります。ギリシアの南北結ぶ土地。ギリシアの主要都市、アテネやスパルタの行き来には、コリントを通る必要があります。東西で言えば、ローマからコリントまでのアドリア海と、コリントからアジア方面へのエーゲ海に挟まれているところ。東西南北の交通は、コリントを中継地点としたわけです。交通、貿易の要所。

 交通、貿易の要所ということは、人々が入り乱れる場所。手紙が書かれた当時、港町にはつきものの売春宿が流行り、千を超える神殿娼婦がいたと言われ、「コリント人のように生きる」とは、不道徳、不品行な生き方の代名詞とされました。商人たちのそろばん、旅人の乱交、売春巫女の色気が充満した、欲望が煮えたぎる都市。

 この町に建てられたのがコリントの教会。人間は良くも悪くも環境に左右される。良い環境にあれば良くなり、悪い環境にあれば悪に染まるということが確かにあります。コリントの教会は、その地の風習、文化の影響を直に受けるわけで、教会で問題が起こることは十分分かるのです。


 もう一つ、コリント教会が問題山積みとなった原因として、コリントの教会が、「教会とは何か」ということを理解していなかったことを挙げることが出来ます。

この手紙の中で、パウロは具体的な問題の解決とともに、教会とは何か、教会とはどのようなものなのか、繰り返し説明しています。パウロは、コリント教会の問題の本質に、教会についての理解不足があると考えていたようです。

 そのように考えますと、この手紙を読む私たちは、教会とは何か、教会とはどのようなものなのかを考えつつ、読み進めるのが良いと言えます。


 この手紙は、基本的に問題を挙げて、それに対する解決を示すことを繰り返すことでまとめられた書ですが、具体的にどのような問題があったのでしょうか。手紙からは、大きく見て十個の問題を確認できます。(問題を十個並べることで、この手紙の概観ともなります。)


 二つ目が、不品行の問題のうち、父の妻を妻とするような人を放置していること。(5章)

 三つ目が、教会員同士の問題を、教会の外で訴訟問題とすること。(6章)

 四つ目が、不品行の問題のうち、買春をすることを問題と思っていないこと。(6章)

 五つ目が、結婚についての混乱。(7章)

 六つ目が、異教の習慣についての理解や対応の不一致。(8~10章)

 七つ目が、礼拝での節度ある態度について。(11章)

 八つ目が、キリスト者の交わりとなっていない食事会について。(11章)

 九つ目が、自分の正しさを主張することによる集会の混乱(14章)

 十個目が、死者の復活を否定する考え方。(15章)


 十個の問題に対して、パウロはどのように答えるのか。強い言葉で非難、叱咤激励の時もあれば、寛容に、配慮を示す対応をするところもあれば、このようなことまで言うのかと驚くところもあれば、常識に訴えかけるところもあります。

 強い言葉、非難の色が濃いところをいくつか取り上げると、仲間割れの問題に対して、「あなたがたは、ただの人、肉の人」(Ⅰコリント3章3節、4節)と責め、訴訟の問題に対しては「私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。」(Ⅰコリント6章5節)と非難し、不品行の問題では、そんなことはあってはらないと断言します。

 Ⅰコリント6章15節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。


 寛容さや配慮を示す色が濃いところとしては、偶像にささげられた肉の問題があります。偶像にささげられた肉を食べることは、偶像崇拝に加担することになり、罪であると考える人たちがいる。その人たちに対して、実際には、偶像の神は存在しなく、全てのものは主のものであるため、偶像にささげられた肉を食べることは問題ではない。と伝えつつも、それでも(この手紙を読まなく、また偶像にささげられた肉を食べることは問題だと考える人がいる限りは)パウロ自身は偶像にささげられた肉は食べないと言います。

 Ⅰコリント8章13節

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。


 このようなことまで言うのかと思う言葉としては、結婚についてのことが挙げられます。不品行の問題、買春の問題を挙げ、それはあってはならないことと断罪した後で、淫らな行いを避けるために、結婚するようにと言います。

 Ⅰコリント7章2節~5節

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。


 夫が性的関係を求める場合、妻は断らないように。妻が性的関係を求める場合、夫は断らないように。お互いに、自分のからだは相手のものという原則を示します。このようなことまで言うのかという驚きと同時に、これを、独身のパウロが言っているということに、驚くのです。(七章で、パウロは独身の利点も十分に挙げています。)


 常識に訴えかける場面としては、礼拝での節度ある態度について。祈る時、男性は被り物をしないように。女性は被り物をするようにと勧める中で、常識で考えるように、自分たちの文化ではこうなのだと言います。

 Ⅰコリント11章13節~16節

あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。


 時に激しく、時に優しく。時に明確に指針を示し、時に自分で考えるように訴えかける。時に大きな視点から、時に微に入り細を穿つようなことまで。牧会者パウロの心が示されます。是非ともこの手紙を読むことを通して、何としてでも教会が教会らしくあるようにと願うパウロの情熱を味わいたいと思います。


 ところで、十の問題に解決を示す際、具体的な解決策とともに、繰り返し、神様がどのようなお方なのか、キリストが何をして下さったのか、教会とはどのようなものなのか、語られています。

 教会とは何かということだけでも、いくつかの表現が出てきます。「神の畑」「神の建物」「神の宮」「聖霊の宮」。当時の手紙は、口述筆記で記されたものが多く、この手紙も口述筆記によるものです。推敲に推敲を重ねた論文というより、心に湧き出てきたことをまとめられた書と言って良いでしょうか。この書で繰り返し、教会とは何かを語ったパウロが、後半で、「これぞ」という表現に行き当たります。

 Ⅰコリント12章19節~22節、26節~27節

もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。


 教会は「キリストのからだ」。パウロが書いた手紙を見渡すと、何度も出てくる表現ですが、最初に出てくるのは、この箇所です。「教会とは何か」、理解されていないことにより、様々な問題を抱えるコリント教会に、「教会とは何か」、どのように伝えたら良いか、苦心して生み出された「キリストのからだ」という言葉。

 「それぞれ違いがあることが大事であると同時に一体である。」「自分のために存在しているのではなく、それぞれからだ全体のために存在している。」「頭の願う通りに動くのがからだだとすれば、キリストのからだとは、キリストの願う通りに生きる者たちである。」キリストのからだという言葉の中に、パウロの言いたかったことが多く含まれる。含蓄に富む言葉です。

 コリントの教会の人たちが、自分たちは「キリストのからだ」であることを理解し、それぞれがからだの部分として生きることが出来たら、教会内に起こっている問題の殆どは解決となるでしょう。


 教会は「キリストのからだ」とまとめたパウロ。しかし問題なのは、自分たちが「キリストのからだ」であると理解したとしても、その通りに生きることが出来るのか、ということです。違いを尊重し、同時に一体である。違いを認めながら、分裂することなく、配慮し合い、苦しむ者がいればともに苦しみ、尊ばれる者がいればともに喜ぶ。そのような教会となるのに、何が必要でしょうか。パウロは、それには「愛」が必要であるとして、「愛の章」として有名な、十三章を記します。

 一部抜粋しますが、Ⅰコリント13章4節~7節

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。


 教会が「キリストのからだ」であるためには、教会が「愛」に生きる必要がある。それでは、教会が「愛」に生きるためには、どうしたら良いのか。自分を打ちたたいて、愛するように頑張るのではない。主イエスがして下さったこと。愛することが出来ない、自分勝手に生きることしか出来ない。罪に死んだ私たちのために、イエス様が死に、復活されたことに注目するように。その「福音」に立つようにとまとめられていきます。

 Ⅰコリント15章1節~6節

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。


 様々な問題を抱えたコリント教会に対して、何とか教会らしくなるように、あれやこれやと手を打ってきたパウロ。その最後の最後で、キリストの十字架と復活を指し示されます。「福音」に立つように。私たちが教会として正しく歩むために、何に焦点を当てるべきなのか、よく教えられるところです。


 以上、コリント人への手紙第一でした。

 大都市コリントの影響を受け、大変な状況にあったコリント教会に、必死に手紙を書いたパウロ。もしこの時代、パウロが生きていたとしたら。もし四日市キリスト教会の現状を知り、手紙を書くとしたら。どのようなことが記されるでしょうか。

クリスチャン人口の極端に少ない国。様々な宗教、文化のしがらみがある状況。同時に、世界中のありとあらゆる情報がなだれ込んでくる現代。その中で生きる私たち。教会は教会らしいのか。私の人生は、神の子らしいのか。この手紙を読みながら、自分自身のこと、教会のことを考えたいと思います。

2018年7月8日日曜日

「主は私の受ける分」詩篇119:57~64




皆さんもご存知のように、日本とアメリカは多くの点で違います。日本では、車は道路の左側を走りますが、アメリカでは右側を走ります。日本ののこぎりは自分の方に引っ張るときに木を切りますが、アメリカののこぎりは押すときに切ります。ドアに鍵をかけるとき、鍵を回す方向さえも、アメリカとは反対です。文化や価値観や考え方などもだいぶ異なっています。しかし、多くの点で違いがありますが、日本とアメリカは人間、共通の特徴を共有することが分かっています。共通の特徴の一つは、基本的に、人々は本当の喜びと満足を与える何かを探しているということです。大部分の人々は、子供、財産、ビジネスでの成功など、多くの場所を通じてこれらを探します。これらの偶像(頭の中で崇拝している価値あるもの)、またもっと多くの偶像は人々の心を強く支配しています。もちろん、クリスチャン達も心の偶像を持っています。クリスチャンの歩みの中で最も難しいことの一つは、自分の心の偶像が何かを分かるようになることです。難しいのは私たちの心の偶像が何であるかを見分けるプロセスだけではなく、その偶像を理解するときです。これは、普通、自分や他の人を傷つけた後に理解するからです。私たちが神様以外のものや人々に私たちの真の幸せや満足を求めるとき、それは失望につながるでしょう。しかし、私たちが神様の恵みの中で悔い改めることができるように、また真の満足と喜びをもう一度神様だけに見つけるようになるために、神様は私たちにこれらの偶像を明らかにしてくださいます。詩編119篇のこの部分では、ダビデは本当の喜びがどこにあるのか、
「主は私の受ける分です」
という短い言葉だけで示してくれています。私は、最初に、主が私たちの受ける分であるという意味について話をしたいと思います。次に、主が私たちの受ける分であるという現実の中に生きるとは、どういうことなのかを話したいと思います。

「主は私の受ける分です。」私たちはしばしば、クリスチャンとしての相続するものや報酬、または私たちの受ける分について考えて、神様を賛美します。神は、罪を犯さなかった方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためだと知り、神様を賛美します。私たちは、イエスの死と復活を通して、死の苦しみは無くなり、死は勝利に呑み込まれたので神様をほめたたえます。私たちは、神様が神を愛する人に命の冠を与えてくださったことを賛美します。私たちは、罪の赦し、死の敗北、命の冠が私たちの財産、私たちの部分であることで喜んでいます。しかし、ダビデが私たちに語るように、私たちの部分、私たちの相続するもの、または神様からの最大の贈り物は、罪の許しや死の敗北ではありません。命の冠でもありません。私たちの最大の贈り物、私たちの真の部分は、神様ご自身です。イエスキリストの死と復活の最終の目標は、私たちの罪が許されることではなく、死に打ち勝つことでもなく、また命の冠を受けるようなものでもありません。最終の目標は私たちが神様と一緒になることです。そのために私たちの罪が赦され、死が打ち負かされ、また命の冠を受けました。これらの祝福は、わたしたちの天のお父様と完全で個人的な関係を喜ぶことができるようになるために与えられています。これは最初からの神様の約束です。神様は旧約聖書の中で何度もこの約束を繰り返しています。「私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となります。」神様は、新しい天と新しい地を創造するとき、黙示録の中でこの約束を成就します。
ヨハネの黙示録213-4節は「『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
と言っています。私たちの罪の赦しと死に対する勝利は確かに驚くべき賜物です。また、相続するものと受ける分は、本来の私たちに、はるかに値しないものです。しかし、その祝福は、そこに神様がいないと全く意味がありません。そういうわけで、私たちの真の受ける分と心の望みは神様だけです。それは、神様の恵みと愛の中でイエスキリストを通して私たちに与えられたものです。

先ほど言ったように、私たちの心はいつも神以外のものを追いかける傾向があるので、これを頭に入れておくことが重要です。私たちはしばしば間違ったことに集中しています。それが私たちの家でのおやつの時間や夕食の時間であるとき、私の子供はたいていただ一つのことにしか関心がありません。彼らが空腹でも、皆が同じ量を割り当てられているかどうかを確認することが、ただ一つの重要なことです。これはもちろん、兄弟が十分にもらえるかどうか、他の人を思いやってのものではありません。他の兄弟たちが自分より多いんじゃないかという自分勝手な心配から来るわけです。彼らはしばしば、食べ物をもらっていることに感謝しなければならないことを思い出しますが、子供達は自分の部分、つまりどれくらいもらえたのかを心配しています。私の子供のように、私たちの心はしばしば間違ったことに集中しています。それは通常、私たちが他人に比べてどれくらい与えられているのかということです。私たちの分け前が私たちにふさわしくないと感じると、不満になるのは簡単です。また、それにふさわしくない他の人がはるかに多くて良い部分を受け取ったときは、怒りが爆発するかもしれません。ダビデはこの詩篇73篇でこの闘いについて語っています。
ダビデは「それは、私が誇り高ぶる者を妬み、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、他の人のようには打たれない。」
と言っています。私たちは、私たちよりも成功している人、私たちよりも出来のいい子供を持っている人、私たちよりも健康な人、また私たちよりも幸せそうな人を見るとき、私たちの受ける分、つまり私たちが与えられた分では不満を感じるようになります。クリスチャンとして、他の人と同じくらいではなくても、自分に与えられた大きさにかかわらず満足すべきだと考えるかもしれません。しかし、問題は私たちが与えられたものに満足していないということではありません。問題は、私たちがそもそも満足するためにこれらのことに頼っていることです。私たちは、神が与える祝福と私たちの部分を混同します。私たちの真の受ける分は神様ご自身です。私たちが相続するもの、または神様からの贈り物を世俗的な祝福と混同すると、私たちの幸せは、変化する周りの状況によって簡単に絶望に変わることがあります。

神様自身が私たちの受ける分であることを理解するとき、私たちはどんな状況にも満足できます。これは、私たちが真の部分と心の真の望みである神様に焦点を当てるとき、私たちの状況の難しさは、たとえどんなものであっても、神様の約束の現実と比較して薄くなるからです。神様が私たちの神であり、私たちは神様の民であるという約束です。神様が私たちの父であり、私たちは神様の息子や娘であるという約束です。神様はあなたの人生のすべてのことを支配しており、神様を愛する人々、すなわち、神様のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるという約束です。神の手の中にあなたがいて、何もあなたを神様から奪うことができないという約束です。あなたがイエスキリストを愛して従うなら、これらの、そして他の多くの祝福はあなたのものです。いかなる試練や苦難も、これらの約束とそこから来る慰めを取り去ることはできません。先ほど言ったように、私たちの心は常に他の方法で喜びと満足を追い求めるので、私たちの受ける分は神様ご自身という事実に生きることは非常に困難です。では、神様のみが私の受ける分という事実によって生きるとはどういうことなのでしょうか? 神様のみで本当の喜びと満足を見いだす人の印は何でしょうか? 次の節で、ダビデは、神様のみが私の受ける分という事実によって生きるとはどういうことかを説明しています。そこには、喜びと満足感が神様のみにある人が神様の律法を愛し、神様の律法を守り、そして神様の律法を知っている姿があります。

この詩篇の最も重要なテーマである、「主は私の受ける分」と捉えて生きることを表す最初の印は、神様の律法を愛することです。詩編119には176の節があります。その中で、特に神様の律法を扱っていないのは2,3節だけです。明らかに、ダビデは神様の律法を愛しました。特に62節でこれを見ることができます。それは
「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します」
と言っています。ダビデがベッドに横たわって、眠ろうとしているとき、神様の律法を考えていたかもしれません。その時、彼が真夜中にベッドから起き上がって賛美し始めたほど、神様の律法はダビデにとって、喜びが湧き出るものでした。なぜ神様の律法はそんなに特別なものだったのでしょうか? そのような喜びを引き起こすのは何だったのでしょうか? 普通、私たちが神様の言葉に励ましや喜びを探すとき、私たちは神様の律法ではなく、神様の約束を見ます。人生が難しくて理にかなっていないときは、
「私の他に、ほかの神々があってはならない」というような言葉ではなく、「神様を愛する人々、すなわち、神様のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」
という節を読みます。ダビデにとって、または私たちにとって神様の律法はそんなに特別なものの一つの理由は、神様の律法が神様の約束と分かれているわけではないからです。神様の律法は神様の祝福と絡み合っているので、神様の律法を考えるときには、祝福と約束も同時に見るべきです。たとえば、神様は私たちに他の人を愛するように命じました。私たちは神様を愛し、私たちの隣人をあなた自身のように愛するべきです。しかし、神様が私たちに命令したからといって、他人を愛せるわけではありません。なぜ他の人を愛するのでしょうか? なぜなら、神様が最初に私たちを愛してくださった祝福があったからです。
第一ヨハネ4:19「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」と言っています。マタイ18で、ペテロに教えているように、私たちは私たちの兄弟たちを、七度を七十倍するまで赦すべきです。もう一度、言いますが、他の人を赦すというこの命令は、神様の約束と分かれていません。エペソ人への手紙4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」と言っています。私たちは他人にあわれみを示すように命じられています。しかし、私たちがあわれみを示された祝福があったので、私たちはあわれみを示します。ルカの福音書6:36「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」と言っています。神様の律法は私たちを神様の約束に導きます。それが、神の律法が私たちの心に賛美と感謝をもたらす理由です。神様の律法には常に約束と祝福が伴っています。

神様のみが私の受ける分と捉えて生きることの二番目の印は、神様の律法を守ることです。ダビデは57節で、「主は私の受ける分です」と言ったすぐあとに「私は、あなたのことばを守ると申しました」
と言っています。神が私たちの受ける分であり、私たちの心から願い求めるものであったら、神様の御言葉もそうです。神様の律法は、クリスチャンの義務となる規則だけではありません。神様があなたの心の中で重要だったら、あなたの人生においても、神様の律法は非常に重要なのです。もちろん、これは私たちが常に神様の律法に完全に従うことを意味するものではありませんが、私たちが罪を犯したとき、神様の御言葉を思い返して、私たちの心を矯正してくれます。
ダビデは59節で「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。」
と言っています。つまり、ダビデは神様の御言葉から迷い出ていることに気づいたとき、神様の律法に従うような人生を生きようと再び立ち返ります。これは、神からの懲罰や報復の恐怖から行うものではありません。それは神様と神様の御言葉に対する愛から行われています。もう一度言いますが、神様の御言葉を守りたいという願いがある限り、私たちの心がさまよって終わることはありません。また、神様の律法を守ろうとするなら、私たちの心の偶像が現れないのではなく、それらの偶像を追求しなくなることを意味します。それは、神様が私たちの受ける分であるという現実によって、常に自分の行動と考えを照らし合わせて、修正するということです。それは、私たちが人生のどこで神様の御言葉から迷っているのかを認識すると、急いで、ためわらずに、神様のおっしゃることを守ることを意味します。これらのことが、果たして私たちの生活の中で普通の習慣になっているかどうかを自分自身に問わなければなりません。あなたの道をしばしば顧みますか? あなたは、あなたが思うこと、あるいは行うことが神様の御言葉に沿ったものかどうかを毎日考えますか? 神様が私たちの受ける分である現実と祝福を心に映し出すと、それは私たちが神様以外のもので喜びと満足を見つけることができると感じるまやかしと戦うために役立ちます。日常的に、神様ご自身を私たちの受ける分として与えてくださったという事実を心に映し出すと、それは私たちの歩みを導き、神様を私たちの心の真の望みにするでしょう。

神様は私の受ける分と捉えて生きることの三番目の印は、神様の律法を知ることです。これらの節では、ダビデは神様の律法を守るだけでなく、神様の律法を知ることも大切なこととして教えています。神様の御言葉を宝にすることは、それに従うだけでなく、いつもそれを心に反映させて、それについて学ぶことです。これが重要な理由の一つは、私たちが神様の律法を忘れがちであるということです。もう一度61節を見てください。
「悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。」
試練や迫害が来ると、ダビデはどこで慰めや喜びを見つけるのでしょうか? ダビデは神様の律法の中に慰めと喜びを見つけました。私が先に話したように、神様の祝福と約束は、神様の律法から切り離されていません。神の愛も神様の律法から切り離されていません。神様が私たちの律法を与えてくださったという事実は、私たちに対して神様の愛を示しています。また、今の時代、私たちは神の律法に慰めを見出すためにさらに多くの理由を持っています。というのは、私たちの救いは律法に従うことによってではなく、信仰によってのみ救われるためにキリストが来られて律法を成就したからです。あなたに神様の約束、祝福、または愛を示さない律法はありません。人生が難しくて理にかなっていない場合、これはしばしば最初に忘れることです。私たちの困難と状況は、神の言葉と約束の現実を曇らせます。私たちが不公平な部分を与えられたと感じているためなのか、それとも、私たちの受ける分の一部が取り去られたと感じているためなのか、私たちは悲しんでいますが、それは、私たちの受ける分は私たちを見捨てることを決してしない神様自身であることを忘れてしまったからなのです。私たちは、究極の贈り物と心の究極の願望が常にそこにあることを忘れてしまいました。これは、私たちが苦痛の中で神に嘆いたり、叫ぶことをしてはいけないということではありません。大切なのは、思う存分、嘆いた後に、神様の御言葉と約束に戻り、それらを思い起こさなければならないということです。ダビデはこれを他の多くの詩篇の中で行いますが、私の好きな例は詩篇13篇です。最初の4つの節でダビデは神様に
「あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」「いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。」
など、心のうちの言葉を隠すことなく神様に訴えています。ダビデは悲しみと苦痛の中で神様に叫んだあと、詩編がどのように終わるのかを聞いてください。
「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」
私たちが神様に「あなたはどこでしょうか。なぜこれを起こさせたのですか。」と叫ぶとき、神様の約束を心に覚えておく必要があります。神は私たちの父であり、私たちが必要としていることを知っており、私たちの世話を約束していることを心に刻まなければなりません。悲しみの中で叫んでも、最後に「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしわれたゆえ」と、あなたは言うことができるでしょうか

詩篇8篇では、ダビデが神様の栄光を考えているとき、こう言っています。
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」
ダビデはまさに正しいです。万物を造った天の神様が私たちを顧みることは驚くべきことです。しかし、神様は私たちを顧みるだけではなく、世話してくださるだけではなく、相続するもの受ける分として神様ご自身をくださいました。神様は私たちに神様の約束と愛に包まれている律法を与えてくださいました。ここにいらっしゃる皆さんが神様の律法を考えるとき、神様の愛と祝福をそこに見ることができるように私は祈ります。あなたがたがそこで慰めと励ましを見ることができるように私は祈ります。あなたの受ける分として神様を知らない方がいらっしゃったら、または神様の律法を祝福としてではなく、呪いとしてみたら、私は、聖霊の力によってあなたがたがそこに救いを見ることができるように祈ります。最後にガラテヤ人への手紙4:4-7を読みたいと思います。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」
あなたは、神様の子であり、相続人なのですから、あなたの相続するものは最大の報酬、あなたの心の最大の望みである神様ご自身です。

2018年7月1日日曜日

Ⅰコリント(9)「キリストにある私の生き方」Ⅰコリント4:14~21




皆様は、裸の王様と言うアンデルセンの童話をご存知かと思います。ある王様の元に仕立屋が二人現れて、跪くと、「これは愚か者には見ることのできない布です」と王様に手を差し出します。王様は、布の見えない自分が愚か者だと思われたくないために、「おお、素晴らしい布だ!」と感想を述べました。周りの家来たち達も、布の見えないのは自分が愚か者だと思われたくないため、次々に称賛したのです。

やがて、仕立屋は機械を借り、服を仕立てるふりをして、「服が出来ました」と王様に見せる。家来たちが口々に「美しい服だ」と言うので王様も「やはり自分には見えないが、きっと美しい服なのだろう」と考え、大金で買い取ると、その服を着て町中を凱旋することに決めました。

『愚か者には見ることのできない服』の存在は、町の人々も聞いており、皆が愚か者と思われたくないがために、裸の王様を次々と賛美したのです。しかし、気を良くして歩いていた王様を見て、子どもたちが言い出しました。「王様が裸で歩いているぞ」「裸の王様だ!」それを聞いた町の人々も、徐々に王様が裸であると言い始めたため、王様は顔を赤くして、城に走って逃げ込んだ、と言うお話です。

このお話から様々な教訓を引き出すことができますが、その一つとして、プライドに捕らわれた人間は、自分の本当の姿に気がつきにくいこと。他の人から本当のことを指摘され、初めて高慢な自分に気がつくことができる程の、実は愚か者であること。その様な教訓を読み取ることができるかと思います。

今、私たちが礼拝で読み進めていますコリント人への第一の手紙。使徒パウロからギリシャの国、コリントの町の教会宛てに書かれた手紙にも、裸の王様が登場してきます。


4:8「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。」


パウロが、「あなたがは王様になっています、いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのに」と痛烈に皮肉ったのは、コリント教会で仲間割れし、互いの優劣を争う人々でした。彼らは、私たち抜きで、つまり6年前コリント教会を建てたパウロの教えを忘れ、教師の上下、優劣を決めることができると考える程、自らの知恵を誇り、グループに分かれ、対立していたのです。

同じ神を信じる者同士が仲間割れすると言う、教会としてあるべきところから落ちていたコリント教会。それにもかかわらず、彼らは自分たちは良い教会、何の問題もないと思い、満足していたらしいのです。それを知ったパウロは、「あなたがたは王様になっています。」と叱責しました。「あなた方の高慢が邪魔をして、あなた方は自分たちがどんなに酷い状態にあるのか、気がつかないでいる。あなた方は裸の王様ではないか。」という皮肉です。

しかし、48節から13節まで続く厳しいことばは、言うパウロも言われた側のコリントの人々にも、心痛いものだったでしょう。そこで、使徒は自分とコリント人との関係を父と子の関係になぞらえ、彼らを愛する子どもとして抱きしめようとします。


4:14、15「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」


今までのことは、あなた方を敵と思って言ったことではない。父親として子どもを愛し、期待するからこそ語ったことばであって、「あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、諭すため」そう言うのでした。敵とみなして責めたのではない。子どもが自分の本当の姿に気がつき、正しい道に戻ってほしいと願う親心から出たことば、と言うことでしょう。

さらに、コリント人への思いが溢れ出て、「たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」と、パウロは語りかけます。

養育係と言うのは、当時主人の子どもに仕える仕事をしていました。主人の子どもが学校に行く時は持ち物を持ったり、身の周りの世話をする。外出の際は同行して、子どもの安全を守る。時には勉強を教えることも仕事のうちでした。この様に、四六時中子どもと接触していましたから、養育係の中には父親よりも子どもと親しくなる者もいたようです。しかし、どれ程親身な養育係があろうとも、養育係は父親ではない。あなた方の父親は私ただ一人、そうパウロは訴えています。

勿論、パウロには、コリント教会で奉仕した何人もの養育係、つまり教師達をないがしろにする気持ちはなかったでしょう。むしろ、仮に養育係が一万人いてもと語ることで、コリント人への愛情を伝えたかったのだと思われます。さらに、自分たちの派閥に兄弟姉妹を誘いこみ、勢力拡大のために利用する。その様な者たちの動きを黙って見ているわけにはゆかない、と言う思いもあったのでしょう。

「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ。」親が子に仕えるのは、子どもの幸せのため。同じく、パウロがコリント人に仕えたのは、彼らの幸せのため、即ち彼らが福音に生きるように、キリストに従って歩むようになるためでした。しかし、派閥を作って争う者たちは、自分たちのために人を利用し、教会に混乱をもたらしながら、恥じることがなかったのです。

以上、愛とは人に恥ずかしい思いをさせることなく、人を諭すこと。自分のために人を利用することではなく、人の幸いのために人に仕えること。パウロからそう教えられます。

果たして、自分は人を諭す時、その人に恥ずかしい思いをさせぬよう注意してきたか。自分の奉仕は、その人自身の幸いのためであったのか。それとも、自分の思うように行動してもらうためのものであったのか。私たち一人一人、自らの愛について振り返るべきところではないかと思います。

 さて、次に語られるのは、仲間割れの問題を扱ってきたこの手紙の第1章から4章までのまとめ、パウロが最も伝えたかったこと、勧めとなっています。


 4:16,17「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」


 パウロは「私に倣うものとなってください」と願います。「倣う」は、単に従う、学ぶと言う意味ではありません。親子の様に「生き写し・そっくりになる」と言うことです。勿論、これはパウロ派に加われと言う様な勧めではありません。むしろ、「私もアポロもペテロも、自分たち教師はみな等しくキリストのしもべ。協力してあなた方に仕える者、神の前に上下や優劣なしとし、差別を撤廃した私の心を心としてください。」と言う、使徒の切なる願いでした。

 「私に倣う者となってください」と言ったのは、パウロが主イエスに忠実であるその点を見習って欲しかったのでしょう。伝えたかったのは、「私がキリストを見習っている様に、あなたがたもキリストを見習う私を見習ってください」と言うことでした。ですから、「あなた方が忘れたこと、6年前コリントで身をもって示した、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなた方が思い起こすことができるように、テモテを送りました。」そう語るパウロです。

 テモテは、パウロにとってコリント人と同じく、愛する子どもでした。信仰に導いた順番からすればテモテが先ですから、テモテは兄、コリント人は弟と言うことになるでしょうか。しかし、自分の片腕とも頼むテモテを派遣することは、大きな犠牲を伴ったはずです。けれども、コリント人のためには、これが最善の方法と考えたのでしょう。「彼は、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれる人」。パウロはテモテに太鼓判を押しています。

 テモテと言う貴重な働き人を、自分のことを犠牲にしてでも派遣したパウロ。パウロが、どれ程コリントの人々が争い、対立をやめ、一致することを願っていたかが伝わってきます。それでは、自分たちがこれ程パウロに愛されていることを、コリントの人々はわかってくれたのでしょうか。パウロの思いは、彼らの心に届いたのでしょうか。

 この点において、心配な人々がいました。パウロのことを侮る人々の存在です。


 4:18~20「あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。神の国は、ことばではなく力にあるのです。」

 

 コリント教会の中には、パウロは使徒のくせに、自分たちを恐れている。自分自身で来る勇気がないものだから、身代わりにテモテを送ってきたに違いない。そう考える者がいたようです。

それを知ったパウロは、思い上がりも甚だしいとして、私は恐れているのでも、敬遠しているのでもない。もし、主が許して下されば、すぐにでもあなた方のところに行きたいと思っている。ただ今のところは、エペソの町での奉仕に専念することが、主のみこころと考えているので、信頼するテモテを派遣したのだと応じました。

 事実、コリント教会訪問の計画を、この時既にパウロは練っていました。具体的な時期についても考えていたのです。そんなことも知らずに、パウロの好意を無にするコリント人。パウロが払った犠牲のことは考えず、助けなど不必要と撥ねつけるコリント人。何と手のかかる子どもであることか。高ぶるコリント人のことを悲しみ、タメ息をつくパウロの姿が目に浮かぶようです。

 しかし、悲しんでいるばかりでは、父親はつとまりません。子どもたちの実際の生活ぶりを見て、毅然とした対応をとる必要もあるでしょう。「思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。神の国は、ことばではなく力にあるのです。」強いことばが、パウロの口から放たれました。

 神の国の王はイエス・キリスト。国民は、イエス・キリストに従う者。神の国の領土は、イエス・キリストに従う者の心ということになります。神の国はことばにはなくとは、パウロを侮る人々が議論好きで、おしゃべりであることへの皮肉かもしれません。神の国は力にあるとは、彼らが神の国の民としてふさわしい生活、生き方をしているかどうか、是非見てみたいものだと言う、挑戦的なことばです。そして、もう一言、使徒は念を押しています。


 4:21「あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。」


 いつまでも仲間割れを続ける、高慢で愚かな子どもには訓練のむちが、お互いに一致するため、パウロに倣う生き方に取り組む子どもには、愛と優しい心が与えられる。私がどちらをもって行くことを望むのか。それは、あなた方次第です。

これは、パウロからコリント教会へのことばですが、イエス様から私たちへのことばとも考えることができます。パウロがコリントの人々を愛し、その生き方をよく見ていたように、イエス様も私たちを愛し、私たちの生き方を見ておられるからです。

「あなたはわたしが与えた賜物をどう使っていますか。人の上に立つために、使っていますか。人を助け、人を生かすために使っていますか。教会、家庭、職場、社会において、あなたが大切にしていることは何ですか。自分の権利や立場を守ることですか。たとえ、それを犠牲にしても、一致と平和を求めることですか。今この時、この場所で、神の国の民としてどう行動すべきか。考えながら、生活していますか。わたしはあなたのことばではなく、生き方を見ています。」そんな、イエス様のみ声を、私たち聞き取り、「キリストにある私の生き方」について振り返りたいと思うのです。

最後にもう一つ、今日の箇所から確認したいことがあります。パウロが、「キリストにある私の生き方」を見習う様、コリント人に勧めたこと、私たちは見てきました。これは、教会の中で私たちがへりくだること、自分が見習うべき兄弟姉妹を見いだし、交わることにより、イエス様に似た者へとつくり変えられてゆくことを教えている言葉と考えられます。今日の聖句です。


ピリピ23「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」


私には四日市教会の中に、また長老教会の中に、尊敬し、見習いたいと思う方が沢山います。神様に対する幼子の様に素直な信仰を見て、励まされる方。聖書を子どもにもわかるよう、生き生きと教える点において、見習いたい方。寛容な心と態度を見習いたいと思う方。あわれみのわざに取り組む姿勢について、見習いたいと思う方。物事を計画し、実行してゆく能力に優れている点を、見習いたい方。あげてゆけばキリがありません。

本当に多くの、キリストにある忠実な生き方を示してくださる方々の存在に、私は励まされ、支えられ、慰められ、刺激を受けてきました。教会の交わりの恵みです。皆様はどうでしょうか。

私たちがへりくだるほどに、神様は兄弟姉妹の中に尊敬すべき点、見習いたい点があることを見せてくれるのだと思います。こうした恵みに、私たちの心の目が開かれるように。教会の交わりの中で、キリストにある私たちの生き方が整えられることを願い、教会生活を送ってゆきたく思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...