結婚に関する格言で、有名なものの一つに、ソクラテスのことばがあります。ある時、一人の若者が結婚するのが良いか、しないのが良いかを尋ねたところ、ソクラテスが「結婚するにせよ、しないにせよ、いずれにしても君は後悔するだろう。」と答えたと言うのです。結婚には結婚の苦労があり、独身には独身の苦労がある。いずれが良いとも簡単には言えない。いかにも哲学者らしい答えと感じます。
今、私たちが読み進めているコリント人への手紙は、紀元1世紀半ば、使徒パウロがギリシャの国、コリントの町にある教会に宛てた手紙ですが、当時、コリント教会では結婚を良しとする者が多数派で、そのために独身の兄弟姉妹は肩身の狭い思いをしていたらしいのです。
当時は、ギリシャを始め殆どの文化において、成人が結婚し、家族と子孫を残すことが最高に価値あることと考えられていました。聖書にも、子を産めない女性たちがいかに恥ずかしく、苦しい思いを抱いていたか、その姿が描かれています。
古代においては、結婚して子孫を生むことは名誉であり、それができないことは社会的な恥とされたのです。未婚、離婚、配偶者との死別、いかなる理由があるにせよ、長く独身でいる者は、半人前と見なされ、周囲から結婚への圧力を感じながら、生きなければなりませんでした。
そんな社会の価値観が、そのまま教会の中にも持ち込まれていたのでしょう。仲間割れの問題にも見られるように、何事にも優劣をつけ、人の上に立とうとする気風のコリント教会では、結婚した者が上、独身者は下と、独身の兄弟姉妹たちは教会に来ても差別され、とても安心できない状態にあったようです。
先回は、ギリシャ人クリスチャンが、割礼を受けたユダヤ人を見下し、ユダヤ人クリスチャンが自らを恥じる。自由人である者が、奴隷の身分にある者を軽視する。宗教上の慣習、社会的な身分によって、教会内にも差別が存在したことを見てきました。そして、今日の箇所は、結婚した者と独身者の間にも、溝があったことを思わせます。
ところで、今日の箇所を読み進める前に、現在教会の礼拝で使用している新改訳2017の聖書と、以前使用していた新改訳聖書第三版との間にある翻訳の違い、特に7章25節から38節の段落に見られる違いについて、触れておく必要があるかと思います。
新改訳2017では、7章25節が「未婚の人たちについて」と言うことばで始まるのに対し、以前の新改訳聖書第三版では、同じ25節が「処女のことについて」ということばで始まっています。
この違いからも分かるように、新改訳2017は、パウロが未婚の男女、主に男子に対し助言していると言う考えに立って、翻訳されています。それに対して、新改訳第三版は、パウロが未婚の娘を持つ父親のために助言をしていると言う考えに立って、翻訳されていました。
当時は、子どもの結婚、特に娘の結婚に関しては、父親が取り仕切ると言うのが一般的でしたから、以前の新改訳第三版の様な翻訳も、十分な可能性があるでしょう。しかし、それを踏まえた上で、よりふさわしいと判断された新改訳2017の翻訳に従って、私たちは読み進めることにします。どちらの翻訳を選んでも、パウロが伝えたいメッセージは変わらないと考えられます。
7:25~29「未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。
しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。」
パウロは、これから語ることが主の命令ではなく、あくまでも私の意見、助言であることを伝えています。主が直接教えている事柄ではないので、慎み深いのです。ですから、「私の助言に従うかどうか、最終的には各人が決めればよい」と、この後繰り返し念を押していました。
そして、パウロの意見は、既婚の男子は結婚生活を継続すること、未婚の男子は結婚しない方が良いと言うものです。その理由は、「危機が差し迫っているから」でした。
この危機とは何を指しているでしょうか。その頃ローマ帝国全体に広まっていた飢饉、あるいは、教会に迫っていた大きな迫害があったのではないかと言う説があります。その場合、29節の「時は短くなっています」と言うことばは、飢饉か迫害により死の時が近づいている。そんな身に危険を感じるような緊急事態を指すと言うのです。
他方、この「時は短くなって」の「時」を主イエスの再臨とし、「差し迫る危機」のことをキリストの再臨に伴う様々な危機的な出来事、教会が忍耐すべき苦難と考える人々もいます。この考えもなる程と思われます。
教会に迫る迫害か、主イエスの再臨が近いのか。個人的には、主イエスの再臨と考える方が良いと思いますが、いずれにしても、この世の価値観そのままに、男女の関係に心奪われ、結婚の問題に我を失っていた人々は、「今がどのような時なのかを考えよ」と言う使徒のことばによって、困難な現実に目を向け、改めて結婚か、独身かを検討することになったのです。
結婚が人生における重大事であることは、言うまでもありません。パウロも、そのことを認めています。しかし、果たしてこの世の人々のように、結婚を人生において最も重要なこととしてよいものか。結婚することが、主イエスを信じる者にとって、人生最大の目的でよいのか。
「兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。」このことばからは、そんな使徒の声も聞こえてきます。
「妻のある者は妻のない者のようにしていなさい」とは言っても、妻と離婚せよと言うのでもなければ、妻を愛するなと言うのでもありません。より高いものに目を注いで仕えよと言う、パウロ渾身のメッセージだったのです。同じメッセージは続くことばにも響いていました。
7:30,31「泣いている人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように、買う人は所有していないかのようにしていなさい。世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」
パウロは、主イエスの再臨によって完成する神の国、新天新地のことを念頭に置いて、語っているように思われます。私たちの本当の喜び、本当の満足は、やがて到来する神の国、新天新地において保証されています。それを本気で信じるなら、私たちはこの世での成功を喜びながらも、喜びすぎることはない。失敗を悲しみながらも、落胆しすぎることもない。お金を出して買った物を楽しみますが、お金や物に心が支配されぬよう、注意するようになるはずです。
そう考えると、私たちの結婚や家庭についての姿勢はどう変わるでしょうか。どう変わるべきでしょうか。パウロは、結婚、独身、どちらにも問題があるし、良い点もあることを知っています。主イエスを信じる者は、結婚を人生の最大事としてはいけないし、独身であることを悲しむ必要もない。結婚にせよ独身にせよ、第一に心を向けるべきは、ひたすら主に奉仕することではないかと語るのです。
7:32~35「あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。」
パウロは、敢えて独身の良い点、積極的な面に目を向けています。敢えて結婚生活の苦労、消極的な面にも目を向けています。これは、結婚を人生最大の目的とし、独身者を見下していたコリント人、結婚の問題に心奪われ、本来のクリスチャンとして生き方を見失っていたコリントの人々への戒めでした。
但し、使徒が勧めているのは、独身生活そのものと言うより、独身の状態で主に仕える生活を送ることです。カトリックの兄弟たちが主張するように、結婚よりも独身の方が尊い選択だからではありません。結婚もまた、結婚のための結婚ではなく、よりいっそう主に仕えるための結婚を願うべしと教えているのです。
主イエスも独身で神に仕えました。パウロも同じく独身で、専ら神に仕えた人です。しかし、同じ使徒でも、ペテロは夫婦で伝道旅行をしています。以前コリントでパウロが世話になった、アクラとプリスキラ夫婦も、力を合わせて主に仕えた夫婦です。神様の愛に満たされた者にとっては、独身、結婚、いずれの場合であっても目指すべきことはただひとつ、主に仕えることと教えられたいのです。
続くは、未婚ではあっても、既に婚約している兄弟に対するアドバイスでした。
7:36~38「ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。
しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。」
「もし、婚約者が結婚を望んでいるのに、あなたの側がそれに応じないとか、相手の女性が婚期を過ぎようとしているのに、結婚しないと言う様な不誠実な態度はやめて、結婚しなさい。逆に、婚約者が結婚を急ぐ風もなく、あなたが自分の思いを制することができるのなら、独身のままで主に仕えなさい。」そう勧めるパウロです。結論も、結婚も良し、独身はさらに良しで、同じでした。勿論、良いと言うのは結婚と独身の価値の上下ではなく、主に仕えやすい状況と言う視点からの良いであること、念を押しておきたいと思います。
最後に扱われるのは、当時社会的に弱い立場に置かれていたやもめたちのことです。
7:39,40「妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。」
これは、当時のやもめが置かれていた状況を考えると、革命的な勧めでした。何故なら、やもめたちは、世間から再婚への圧力を受け続けていたからです。皇帝アウグストは、二年以内に結婚できないやもめには罰金を科したと言われます。
それに対して、キリスト教会では、やもめは尊敬され、教会はやもめたちを支援する体制を整えていました。再婚の圧力があるどころか、再婚するかどうかは、やもめたちの自由に委ねられていたのです。そして、彼女たちが再婚する場合、「主にある結婚に限る」とあるのは、結婚しても、あなたが主に仕えられるような相手を選びなさいと言う、使徒の願いが込められていると見えます。
こうして、駆け足で読み終えた、パウロによる結婚論、独身論ですが、ふたつのことを確認しておきたいと思います。
一つ目は、コリントとは違う状況ではありますが、現代においても結婚が絶対化されてはいないかと言うことです。古代においては、結婚して子孫を生み、家族を絶やさず、繁栄させると言うのが、結婚の目的でした。結婚は家の存続のために、絶対に必要な手段であり、それに貢献できない独身者は半人前と見なされたのです。現代においては、人生最大の目的、少なくともその一つは恋愛結婚と言えるでしょう。恋愛結婚ができない者は、人生の敗者と見られかねない勢いです。
しかし、聖書は、結婚を人生の成功とは見てはいません。独身が不幸とも見ていません。結婚にも、独身にも苦労があるし、良い点もある。大切なのは、いずれにおいても、主に仕える生活を目指すことと教えているのです。主に仕えるための結婚、主に仕えるための独身。どちらの人生も等しく幸いであることを、確認したいのです。
二つ目は、主イエスの再臨によってもたらされる神の国、新天新地の存在を信じることで、私たちはこの世のものに支配されず、縛られず、生きることができるようになったと言うことです。仕事で成功したり、結婚できたことを喜びますが、それは一時的なものであることもわきまえています。仕事で失敗したり、家族の問題で悲しむこともありますが、「これで人生は終わりだ」などと悲しみに沈むことはありません。経済的祝福を楽しみますが、考えるべきは、それを用いていかに主に仕えるであることも忘れません。
勿論、いつもその様に考え、行動できるわけではありません。しかし、これが主イエスから恵まれた命であり、私たちが目指す人生であることを自覚したいのです。どんな時、どんな境遇に置かれても、今ここで、私は何をもって主に仕えるべきか、仕えることができるのかを考える者でありたいと思います。
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