2018年11月18日日曜日

一書説教(50)「ピリピ書~キリストの思い~」ピリピ2:1~5


次のような「なぞなぞ」を聞いたことはあるでしょうか。「A、Bと二種類の本があります。Bの本が高い評価を得ていますが、その評判を聞いた人は皆、Aの本を買います。なぜでしょうか。」答えは、「この二冊は上巻と下巻。下巻が高い評価でも、読者は上巻から読むから。」というもの。確かに、上下巻の本であれば、特別な理由がなければ、下巻から読むことはありません。

 聖書を読む時、どの書から読めば良いか。意識したことはあるでしょうか。やはり聖書の最初、旧約から順に読むのが良いか。イエス・キリストが登場する新約から読むのが良いか。あるいはジャンルごとに読むのが良いか。著者でまとめて読むのが良いか。テーマでくくるのはどうか。色々な案があり、それぞれ一長一短。この順番で読むのが一番良いという決定的なものはありません。しかし、一つの書に注目する時、その書をより深く味わうために、関連を意識したら良い書、同時に読むと良い書というのはあります。

断続的に行ってきました一書説教。通算、五十回目。新約篇の十一回目。ピリピ人への手紙となります。ローマで獄中生活をしているパウロが記した書。教会宛てとしては、最後に記された手紙の一つ。小さな書ですが、有名な言葉を多く含み、獄中で書かれたとは思えない多くの感謝と喜びが記された書。「喜びの書簡」との愛称で呼ばれ、多くの人に愛された書です。そして、このピリピ人への手紙は、関連性の深い使徒の働きと合わせて読むことが大事な書。(パウロ書簡はどの書も、使徒の働きとともに読むことが重要ですが、中でもピリピ書は特に大事と考えられます。)ピリピ書を読む際には、使徒の働きに記された、パウロとピリピ教会のことを意識したいと思います。

毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 ピリピ書の背景を教えてくれる使徒の働き。パウロがピリピの地で伝道をしたのは、第二次伝道旅行と言われる時のこと、使徒の働き十六章に出てきます。この第二次伝道旅行というのは、事件からスタートします。

 使徒15章36節~40節

それから数日後、パウロはバルナバに言った。『さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。』バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。


 パウロはもともと教会を迫害していた人。パウロが主イエスを信じた時も、多くのクリスチャンは受け入れることを躊躇しました。その状況でパウロを受け入れたのがバルナバです。バルナバは、パウロにとっての大恩人。しかし、パウロはその大恩人であるバルナバと、ここで割れてしまいます。

 この出来事だけを見ると、パウロとはとんでもない人だと思います。教会を迫害していた自分は、バルナバを通して教会に受け入れてもらった。そのバルナバが、伝道旅行を途中で放棄したマルコを許し、再度ともに働こうというのに、パウロはマルコを許せなかった。結果、パウロはシラスとともに伝道旅行に出る、第二次伝道旅行です。このようなパウロの姿を、皆さまはどのように思うでしょうか。


 波乱の幕開けとなった第二次伝道旅行。さらにパウロにとって困難は続きます。

 使徒16章6節~7節

それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。


 伝道旅行に出かけたのに、みことばを語ることを聖霊によって禁じられた。進みたいと思ったところには、イエス様の御霊が許さず行けなかった。他でもない、神様に伝道を止められる。この時、パウロはどのような心境だったのか。聞いてみたいところです。

この困難の最中、幻によって、マケドニアに行くことを導かれたパウロは、この後アジアからヨーロッパに渡り伝道します。ついにアジアを出て、ヨーロッパでの伝道を開始する。その最初の町がピリピとなります。

 ピリピでの伝道でも、波乱尽くし。悪意による訴え、不正な裁判により、パウロとシラスは鞭で打たれ、牢に入れられることになります。逆境に次ぐ逆境と感じられる状況。それでも、ここでキリストを信じる者たちがおこされます。紫布の商人であるリディア。占いの霊に憑かれた若い女奴隷。牢屋の看守と家族。(他にもいたかもしれませんが、使徒の働きに記されたのはこれらの人々です。)パウロやシラスの熱意、その背後にある神様の熱意。様々な人間模様と不思議な導き。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」との有名な言葉。ピリピでの伝道と言えば、手に汗握る必見の箇所です。集められたのは、高級品を扱う商人、奴隷、ローマの役人。出身地、年齢、性別、社会的立場が異なる人たちが、集められた。このピリピ教会は、パウロにとって重要な教会となります。

何故重要な教会となったのか。このピリピ教会はパウロを支える教会となるからです。ピリピを離れたパウロは、続けてテサロニケに行きます。約150キロ離れた場所。このテサロニケでの伝道は実に短い期間。(使徒17章2節には、三回の安息日に渡って、聖書に基づいて論じ合ったと記されています。三回の安息日と言えば、最短で十五日。最長で二十七日。この期間だけ滞在したのか。議論したのが三回ということなのか。定かではありませんが、どちらにしろ、テサロニケでの伝道は短い間になされたものでした。)この時、パウロのもとに、ピリピ教会から支援が届けられたのです。ピリピ教会がパウロを支援した。このことは、使徒の働きには記されていなく、ピリピ書を読むことで初めて分かることです。


 ピリピ4章15節~16節

ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。


 当時の交通手段で、片道150キロの道のりを通って、パウロに物資を送ったピリピ教会。それも、短い期間に二度も届けた。ピリピ教会のある人物が、往復したのか。それとも、第一陣が出発して、帰ってくる前に、第二陣を出発させたのか。どちらにしても凄い情熱。そのようなことをした教会は一つもない中で、建てられたばかりのピリピ教会がやってのけた。

この救援物資は、パウロにとって大変な励ましでした。当初、御言葉を語ることが禁じられ、計画が留められた伝道旅行。それが、自分の働きを支えようとする教会が与えられた。このピリピ教会の支援は、パウロを励まし、勇気付け、さらにはこの伝道を続けていいという確信を与えるものとなります。

 またピリピ教会がパウロを支援したのは、この最初の時だけではありません。ローマで獄中生活を送っているパウロを支えるため、贈り物とともに、エパフロディトという人を派遣しました。(これも、使徒の働きには記されていなく、ピリピ書を読み分かることです。)教会に問題があり、パウロが人を遣わすことは多くありますが、パウロを支えるために教会から人が遣わされているというのは珍しく、ピリピ教会らしいエピソードと言えます。

 パウロにとって、苦難の中で生み出されたヨーロッパ初の教会。思い出深い、記念となる教会。設立間もない時から、自分を支えてくれた教会。このピリピ教会に宛てて記されたのが、ピリピ人への手紙です。一体何が記されるのか、実に興味がそそられる書。是非とも、パウロとピリピ教会の関係を覚えて読みたいと思います。


 全四章のピリピ書。パウロよりピリピ教会への感謝、愛が記されるところから始まります。

 ピリピ1章3節~8節

私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。


 その人のことを思うだけで神様に感謝する。その人のために祈る度に喜びがある。どれ程慕っているか、神様が証して下さるとしか言いようがない。ピリピ教会の人たちに対する熱烈な愛の言葉が綴られます。

 自分の信仰生活の中で、その人のことを思うだけで神様に感謝する人、その人のために祈る度に喜びがある人はいるでしょうか。あるいは自分のことをそのように思い、愛している人はいるでしょうか。この麗しい関係、パウロとピリピ教会のような関係を、私たちの間で築き上げたいところです。


 さて手紙の本論ですが、いくつかの大事な事柄が扱われていますが、この説教では主に二つのことに注目します。一つは「喜ぶ」こと。もう一つは「一致する」こと。まずは「喜び」から確認します。

 ピリピ4章4節

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


 この手紙を書いた時、パウロはローマで獄中生活、皇帝の前での裁判を待つ状況。カエサルの前に立つということまでは、神様から示されていましたが、その結果、どうなるか分からない。キリストを宣べ伝えた結果、獄中生活となり、命を落とすことになるかもしれない。そのパウロが「喜ぶ」ことを勧めます。短い手紙の中に「喜び」という言葉が十六回も出てくる。歳を重ねたパウロは、愛する教会に「喜ぶ」ことを勧めたというのは印象的です。

不自由なく、自分のやりたいことをやっている。財産や名声を手にし、人から羨ましがられる状況にいる。そのような人から「喜ぶ」ことを勧められても、心動かされることはないでしょう。しかし過酷な状況の中で、自分を愛している人からの勧めとなれば、重みが違います。しかも、パウロはピリピ教会が苦難の中にあることを知っていると言います。


 ピリピ1章29節~30節

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。


 キリストを通して受ける恵みは、私たちにとって嬉しいものだけでなく、苦しみもある。パウロが経験してきた苦闘を教会も経験している。その上で「喜ぶ」ように勧められるのです。

 つまりパウロが勧める「喜び」は、苦しみが無くなることではないのです。自分の思い通りになるように願うことでもないのです。嬉しいという感情を抱くようにという勧めでもないのです。自分にとって苦しいこと、悲しいことの最中にあっても、「喜ぶ」ことを勧めている。大変な勧めです。

 私たちの人生には様々な苦難があります。病気、挫折、失敗、死、不仲、裏切り。ありとあらゆるところに苦難があります。自分の罪のために、自分自身も周りの人もひどく傷つけ、自分で自分を赦せない時もあります。キリストを信じる信仰を持ったが故の苦しみもあります。希望を失い、生きる気力を失い、信仰が消えかけるような時。パウロの「喜びなさい」との勧めをどのように聞いたら良いのか。この勧めにどのように従ったら良いのか。

 一つ分かるのは、どのような状況にあっても、「喜ぶ」道はあるということ。パウロが「いつも喜びなさい」と勧めているということは、どれ程の苦難の中にあっても、キリストを信じる者は「喜ぶ」ことが出来るということ。一体、パウロ自身はどのように喜んでいるのか。「主にあって喜ぶ」とは、どのようなことなのか。是非ともピリピ書を読み答えを得て、主にあって喜ぶ歩みを送りたいと思います。


 確認したいもう一つのテーマ「一致」について。この手紙が書かれた時、ピリピ教会には教会内の争いがあったようです。名前だけで、それがどのような人なのか分からないのですし、どのような争いがあったのか分かりませんが、次のような勧めの言葉が記されています。

 ピリピ4章2節

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。


 かつて、バルナバと割れたパウロが、ここで一致を勧めているのも印象的です。ところで教会の中で一致するとはどのようなことでしょうか。全てのことにおいて、同じ意見になるということなのか。集う全ての人が、似た者となるということなのか。そうではないでしょう。違いを持つ人が集まること、多様性は教会の豊かさ、力です。パウロは、教会はキリストのからだと言いましたが、目のような人だけ集まるとか、足のような人だけ集まるというのは、むしろ教会らしくないのです。それでは、教会における一致とは何か。次の言葉が如実に表現していると思います。


 ピリピ2章1節~5節

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。


 教会はどの点で一致すれば良いのか。へりくだって、互いに人を自分よりも優れていると思うこと。自分のことだけでなく、他の人のことを顧みること。このようなキリストの思いを互いに持つこと。この点で、一致するようにと言われるのです。パウロにとって思いのある教会へ勧めた、主にあって喜ぶこと、主にあって一致すること。この勧めを、私たちも真正面から受け取りたいと思います。

 以上、ピリピ書の一書説教でした。是非とも、パウロとピリピ教会の関係を意識しつつ読んで頂ければと思います。ピリピ書を読むことを通して、キリストを信じる者に与えられる恵み、いつでも、どのような状況でも、喜ぶことが出来る。その恵みを神様が下さいますように。ピリピ書を読むことを通して、本当の意味でへりくだること、仲間を尊敬し、他の人を顧みること、そのようなキリストの思いを神様が下さいますように。

 パウロがピリピ教会に願ったことが、私たちの上にも実現しますように、皆で願いながら聖書を読む歩みを進めていきたいと思います。

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