2018年11月11日日曜日

成長感謝礼拝(第一礼拝)「永遠のいのち~獲得するものか、受け取るものか~」ルカ18:18~27


 今日は成長感謝礼拝、いのちについて考える礼拝です。いのちについて考える時、私たちが参考にしたいことばが、聖書の中にあります。


 Ⅱコリント 4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」


 ここにある「外なる人」とは、私たちの肉体のいのちを、「内なる人」は、霊のいのち、永遠のいのちを指しています。肉体のいのちは日々衰えてゆくけれど、永遠のいのちは、日々新たにされる。だから肉体のいのちが衰えても、落胆するな。むしろ、内に宿る永遠のいのちを日々新たにすることに心を向けよ。聖書はそう私たちを励ましています。

 今日は、イエス・キリストを信じる者の心に宿る永遠のいのちについて、ルカの福音書からともに考えてみたいと思います。今日のお話の主人公は、一人のエリートです。

 

  18:18「また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」


  「指導者」。これはユダヤの最高議会の議員を意味することばです。これまでの新改訳聖書では「役人」と訳されてきました。マタイの福音書は、この指導者が「青年」であったと言い、マルコの福音書では、この人が「走り寄ってみ前にひざまづいた」と、その行動が描写されています。

青年でありながら最高議会の議員。エリートであるにもかかわらず、この人は謙遜な人柄で、行儀正しくイエス様の元に自ら走り寄り、跪きました。そして「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねています。

永遠のいのちを求めるとは、見上げた志です。普通、議員役人といえば、いつも上の椅子を狙い、権力の階段を昇ることを考えるものです。しかも、この人は青年でした。若者だったら、青春を謳歌して、様々な楽しみにふけると言うのが普通でしょう。しかも、エリートであれば、今の生活に満足し、エリートコースを平穏無事に歩み続けたいと考えるのが普通でしょう。

 ところが、です。この青年は、「今」ではなく「永遠」を思っていました。今日、明日の生活にしばられず「永遠のいのち」を求めていたのです。議員仲間は出世のことばかり、同世代の友は、今日や明日の楽しみを思い、毎日を過ごしていたのに、この人は周りに流されなかった。ただ一人、神と共に過ごす永遠のいのちのことを思い、求めていたと言うのです。

 それも、永遠のいのちについて知りたいとか、論じたいというのではありませんでした。永遠のいのちを「受け継ぎたい、得たい。」という。永遠のいのちそのものを自分のものにしたいと言うのですから、尊敬すべき人物です。まさに百点満点、欠点など一つも見当たらない、見上げた人物と見えます。

 しかし、です。主イエス・キリストの前に出ると言うことは恐ろしいことでした。何故なら、主イエスはこの青年の発した一言によって、彼の欠点を見抜かれたのです。実は、この人の綻びは、その立派な質問自体に現れていました。

 主イエスは、先ずこの役人が気軽に「良い先生」と呼びかけたことを取り上げています。

18:19「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」


  聖書では「良い」お方と言ったら「神」のみ。それを気軽に「良い先生」と口走る。私たちも、聖書の神を知るまでは、気易く「良い人」とか「良い先生」等と、言っていました。しかし、神の聖さ、神の真実を知るにつれて、「良い」と言うことばを、気軽には使えなくなりました。 

この青年はまだ、主イエスが真に人となって来た神であることを知っていたとは思えません。この世の知者、宗教の先生くらいと思っていたのであって、その程度で「良い先生」と、呼んだのでした。この人は、気軽に「良い先生」と呼びかけた、その一言で真の神を知らなかったことを露わにしてしまったのです。

 さらに、この人の欠点は、露わにされて行きます。主イエスは、「何をしたらよいでしょうか。」という役人の質問にこたえて、聖書の十戒を挙げました。


 18:2021「 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」


  思わず、眼を疑ってしまいます。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」とは、主イエスを前にして、何と大胆なことばでしょうか。姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。

なぜ、イエス様は、十戒をあげられたのか。それは、この人が「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねたからです。「どんなことをしたら、永遠の生命を獲得できますか。」と問うたからです。世間的に良いこと、人の目に良いことならともかく、聖なる神の前に心の動機から結果にいたるまで、永遠のいのちに価するようなことは、何一つなしえないことを私たちは思い知りました。それを、この人は自信満々、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」と答えたのです。

 おそらく彼としては、「姦淫するな」といって、「自分は一度も不貞を行ったことはない。」くらいに考えていたのでしょう。「殺してはならない」にしても、自分は刃物をふるって殺人罪を犯したことはない程度に思っていたのでしょう。「盗んではならない」にしても、自分は盗みなどしたことがない。警察の厄介になったことはない、その程度に考えていたのでしょう。

 しかし、イエス様は、山上の説教で教えていました。神の前には、情欲をもって異性を見る者は、その心と眼で姦淫を犯していると。「殺してはならない」にしても、刃物をもって血を流すことはなかったかも知れないけれど、心の中で人を憎み、人を見下す者は、神の前では殺人者であると。

「父と母とを敬え」でも、イエス様は「あなたは、本当の親孝行をしているか。世間体とか、遺産相続のことを計算した上で、行動したことはなかったか。」そう青年に問いかけていたはずです。

 それなのに、この人ときたら「それらすべてを守ってきました。」と平然と言い放つ。世間では議員のエリート、若いのに良くできた青年という評判を受けていたこの人も、残念なことに、聖なる神の目で、自分の心を探り、行いを点検することがなかったようです。聖なる神ではなく、人間を相手に、自分は善人だと思っていたのです。

  イギリスの賛美歌作家ボナーと言う人は、ある日不思議な夢を見たと言われます。彼の心が天使によって体からはずされ、化学分析にまわされた夢でした。とりはずされた彼の心は分解されて、様々な思いが量られます。すると、何とその殆どが、評判を好む心、肉欲、名誉欲、単なる習慣か世間体ばかり。真の愛ときたら、ほんのわずかな量でしかなかったと言う夢でした。

 聖なる神を知る人と、聖なる神を知らない人。神の前に、永遠のいのちに価するようなことは何一つ出来ないと心底思う人と、自分には永遠のいのちに価することができるはずだと信じて疑わない人。同じ永遠のいのちを求めていても、前者と後者では全く違うのです。

そして、この青年に欠けていたものを見抜かれたイエス様は、彼自身が欠けに気がつくようにと、ずばり語りました。

 

18:22、23「イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」 

        

 「まだ一つ、欠けていることがあります。」そう言われて、「何が足りないのか」と、青年は不思議に思ったでしょう。自分が百点だと思っていたからです。しかし、イエス様は一呼吸置くと、この人の急所を突く一言を口にされました。「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。」

この人は非常に悲しんだとあります。何故でしょうか。イエス様の一言によって、本当の自分の姿に気がついたからでしょう。永遠のいのちを得るためなら、どんなことでもしますと意気込んで来たものの、財産の全部どころか、一部さえ惜しむ自分を見出したからです。隣人を愛することにかけては、模範的な人物との評判を得ていた自分が、実は貧しい人のために、持ち物を分け与えることさえ惜しむ、ケチな人間であることを知ったからです。

 自分は永遠のいのちに値する善行ができると信じていたのは、とんでもない思い上がり。本当は貧しい人のために財布を開くことさえできない、金銭欲、物欲に縛られた惨めな人間であることにようやく気がついたのです。

なお、ここで誤解なきよう、一言しておかなければならないことがあります。主イエスは、財産そのものを悪としているのではありません。この青年が多くの財産を持っていること自体を悪としているのでもありません。イエス様が「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。」と言われたのは、彼が自分の欠点に気がつき、自分の行いにより頼む生き方を改めるためであったと思われます。

 ですから、悲しみに沈む青年の姿を見たイエス様は、こう語られたのです。


18:24,25「イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

勿論貧しい者は貧しい者で苦労があり、金銭に心が縛られてしまう危険性はゼロではありません。しかし、お金にはそれを持てば持つほど、私たちの心を縛り付ける力があります。聖書も、富が人間の主人になりうること、富が人間の心を神から切り離す力を持つことを警告していました。

そういう意味で、イエス様は金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と語り、金持ちが神の国に入ること、永遠のいのちを受け取るのが非常に難しいことを、強調されたのです。ところが、これを聞いていた人々は驚きました。


 18:26 「それを聞いた人々は言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』」


 若くて、謙遜で、理想を掲げ、地位もあって、おまけに裕福で。あんな模範的な人物が駄目だとすれば、「それなら、誰が神の国へ入れるのだろう。私たちなどとてもとても…。」そう、噂しあったのです。すると、そこにイエス様による大宣言が響きました。

 

18:27「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」


   永遠の生命は人の決意や努力、金銭では獲得できない。人の行い、人の善き行い、自力では神の国に入ることはできない。しかし、神にはできる。神を信じ、頼ることによってのみできる。永遠のいのちは、私たちが主イエスの罪の贖いを信じるだけで、神から受け取ることができるもの。永遠のいのちは、それを受け取る価値のない私たちに対する、神からの贈り物、恵みであるということです。

 自分の行いに頼る人よりも、己がいたらなさに泣く人。世間の評判を気にする人よりも、聖なる神の目を気にする人。富も無く、地位がなくとも、神の前に罪を悔いる心を持つ人。その様な者を、そのまま受け入れ、永遠のいのちを与え、神の国へ入れてくださるのが神の力、神の恵みであることを、私たち教えられたいと思うのです。

 果たして、私たちは内に宿る永遠のいのちのことを、どれ程意識して生活しているでしょうか。肉体のいのちと同じほど、気を配っているでしょうか。イエス・キリストを信じた私たちは、永遠のいのちを与えられました。私たちのつとめはこのいのちに気を配り、このいのちを新たにしてゆくことです。

 永遠のいのちを喜ぶ歩み、罪を悔い改め、赦しの恵みを受け取る歩み、何事も、私たちの内に働いている神の力に信頼してみことばを実践してゆく歩み。それこそ、永遠のいのちを日々新たにするものであることを思い、私たちが進むべきいのちの道を確認したいのです。

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