2018年7月29日日曜日

ウェルカム礼拝「信じることについて」Ⅰコリント13:13


逆転劇、どんでん返しと聞いて、皆さまは何を思い出すでしょうか。小説でしょうか。映画でしょうか。スポーツでしょうか。こうなるだろうと予想、推測していたことが覆されていく場面を見聞きするのは楽しいもの。小説にしろ、映画にしろ、スポーツ観戦にしろ、逆転劇、どんでん返しは醍醐味の一つです。

 約一か月前、サッカーワールドカップ、「日本 対 ベルギー戦」は見事な逆転劇の試合。弱小と思われた日本チームが、強豪ベルギーと見事に戦った試合。前半は0対0、手に汗握る状況。後半に入り、日本が先制。立て続けに二点目も奪取。残り時間も多くはない。観戦していた多くの人が、日本が勝つと思った場面。しかし、ここから一挙にベルギーに三点奪取され、ベルギーの勝利となりました。日本チームを応援する者としては、これほど残念なことはないですが、サッカーの試合として、非常に面白い試合。見事な逆転劇。残念でありながら、良い試合を観れた満足もある。負けた試合にも関わらず、日本代表史上、ベストゲームと評する解説者もいました。


 一般的に逆転劇、どんでん返しは見聞きする分には楽しいもの。小説、映画、スポーツ観戦、でも、どんでん返しは痛快、爽快です。

しかし、実際に自分が体験するとなると話しは変わります。特に今日の礼拝のテーマ、「生きるために必要なもの」。生きていくのに何が必要なのか。人間らしく、私らしく、あるいは喜んで生きるために必要なものは何なのか。このようなテーマで、自分の人生に逆転やどんでん返しが起こると大変。これがあれば生きていける。これがあるから私は安泰。そう思っていたものが、間違いであったと思うようになる。このような変化は痛快とか爽快と言っている場合ではない。大変なことです。


 「生きるために必要なもの」とは一体何でしょうか。生きていくのに、本当に必要なものは何でしょうか。

お金でしょうか。安定した仕事でしょうか。他の人にはない能力を身につけることでしょうか。人から賞賛されるような地位、経歴でしょうか。有力な人と良い関係を持つことでしょうか。健康でしょうか。配偶者や子ども、家族でしょうか。これらのものは、生きて行く上で大切なものですし、実際に、このようなものが「生きるちから」であると考えて生きてきた人が多くいます。経済が安定し、健康で、自分のやりたいことが出来ているうちは、それで良かった。ところが、経済不況、事故や病気、家庭内不和、人間関係のこじれ。巨大な災害によって、私たちが積み上げてきたものが瞬時に失われることもあります。

 果たして「生きるために必要なもの」とは、何なのか。どのような状態になっても喜んで生きていくためには、何が必要でしょうか。


 ところで、先に言いましたように、逆転劇、どんでん返しが自分自身の価値観で起こるのは大変なことだと思います。しかし、キリスト教「信仰」を持つと、逆転が起こります。一般的に大切な事柄が、聖書の世界では無用のものとなることがあります。逆に、一般的に不幸なこと、避けるべきことが、キリスト教の世界では良いこととなる場合があります。世界の造り主を信じる。罪からの救い主を信じると、私たちは大きな変化を味わうことになるのです。


 ある病院の壁に記されていた祈りの言葉として、以下のようなものがあります。

「大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと神に求めたのに
 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
 よりよきことができるようにと病を与えられた
 幸せになろうとして富みを求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった
 世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
 高慢にならないようにと失敗を授かった
 人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにといのちを授かった
 求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた
 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず心の中で言い表せないものはすべて叶えられた
 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ


 力を願いながら弱くなった。健康を願いながら病となったとしたら、喜べるはずもないところ。しかしここに、私以上に私を良い状態にしようと考えている神様の存在を見出した途端、どんでん返しが起こる。これがキリスト教の世界でした。この世界を造った神様を信じて「生きるために必要なもの」を考えるのか。それとも、神無しとして「生きるために必要なもの」を考えるのか。それにより、答えが変わるのです。


 聖書の中にパウロという人が出てきます。一世紀の人物。その学歴は凄まじく、ユダヤの社会で大きな影響力を持っていた人。エリート中のエリート。当時の社会で、誰もが羨むような力、地位を手にしていた人が、次のように言います。

 ピリピ3章5節~8節

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。


 キリストを信じることによって、それまで大事と思っていたものが、そうではなくなった。大事ではなくなったどころか、「ちりあくた」とまで言います。ここにも「信仰」による逆転を見ることが出来ます。キリストに対する信仰を持った上で、「生きるために必要なものを考えるのか。」信仰抜きに「生きるために必要なもの」を考えるのか。それにより、答えが変わるのです。そのため聖書は、世界の造り主である神を信じること、キリストを信じることを、極めて重要なことだと教えていました。

Ⅰコリント13章13節

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。


 「生きるために必要なもの」という表現ではないですが、聖書は人間にとって最も重要なものとして、「信仰」「希望」「愛」の三つを挙げます。(今年度のウェルカム礼拝は三回を予定していますが、「信仰」「希望」「愛」をテーマに一回ずつ行う予定です。)今日は、「信仰」に焦点を当てます。

 生きるために「信仰」は大事。なぜなら、信仰があるかないかで、「生きるために必要なもの」の答えが変わるから。しかし、それだけでなく、神様を信じること自体が、あるいはキリストを信じること自体が、人間にとって重要であると教えています。


 ルカ9章24節~25節

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。


 この言葉はイエス・キリストが語ったもの。実は、聖書に何度かに出てくる有名な言葉ですが、よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉と言えるでしょうか。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失う。」果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。

 ここで言われている「自分のいのちを救おうと思う者」とは、どのような人か。一つ言えるのは、自分のいのちは自分で救うことが出来る。自分で何とかすることが出来ると考えている人、いのちの所有権は自分にあると考えている人のことです。

お金があれば、仕事があれば、能力があれば、名誉や地位があれば、健康であれば、良い人間関係があれば、これで私のいのちは大丈夫と思う。それは結局のところ、自分のちからで自分のいのちを救うことが出来ると考えている。ここで言う「自分のいのちを救おうと思う者」のことです。そしてそのような生き方は、結局のところいのちを失う生き方なのだと言われます。何故なのか。

 いのちの所有者を無視しているからです。本当にいのちを大切にしたいのであれば、自分のいのちを所有している方に委ねるしかないのに、自分が所有しているかのように振る舞うこと。それがここで問題にされているのです。

 この自分のいのちを救おうと思う者が、それを失うということの具体例をイエス・キリストがたとえ話でしている箇所があります。


 ルカ12章16節~21節

それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」


 この箇所で言われる神の前に富まない者というのが、自分のためにいのちを救おうと思う者の姿です。

この話に示される、自分のいのちの所有権が自分にはないという聖書の考え方に、納得いくでしょうか。生まれてからこの方、自分の力で生き抜いてきたという方にとって、自分のいのちの所有権がないというのは納得しづらい話ではないかと思います。ところが、世界を造られた神を信じると、いのちの所有者が私ではないということが、非常にしっくりきます。世界の造り主を信じることで逆転が起こるのです。

いのちは、神様に与えられたものとして生きていく。その時に初めて味わう喜びや感動があります。本当にそのように思いながら生きることが出来るとしたら、どのような場面、状況になっても、生きることへの感動、喜び、使命感、生きるちからを失うことはなくなります。そのためでしょう、聖書は私たちにとって「信仰」が重要と教えるのです。


 世界の造り主である神様がおられ、その方に生かされていると信じる。その信仰が大事であると聖書は教えていますが、それだけでなく、その世界の造り主である神様から送られた救い主、イエス・キリストを信じる信仰も大事であると言います。何故、イエス・キリストを信じることが、私たちにとって重要なのか。

 ヨハネ3章16節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


 聖書によれば、私たちがすでに手にしている命、この地上での命の他にもう一つ命がある。「永遠のいのち」と呼ばれ、それはキリストを信じることで頂くもの。この地上の命は、神様が下さったものとして生きることが大事。しかし、それだけで終わらないように。この地上での生涯の後に、もう一つの世界があること。天国と呼ばれる世界で復活するためには、「永遠のいのち」が必要で、それはイエス・キリストを信じることで与えられる。

 自分の人生を、この地上での生涯だけのものとして生きるのか。もう一つの命、もう一つの生涯(それも永遠に続く)があるとして生きるのか。全く異なる生き方になります。また、この地上での命も、永遠のいのちも、どちらも大事ですが、敢えてどちらが大事かと問われれば、どうなのか。


 イエス・キリストの言葉で次のような言葉があります。

 ルカ12章4節~5節

わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。


 この地上の生涯が大事でないということではありません。この地上の生涯も大事。しかし、そこに集中して終わらないように。もう一つの命、永遠の生涯を見据えて、生きるようにとの勧めです。

有名な方なのでご存知の方も多いと思いますが、星野富弘さんという方がいます。体育教師をしている時に、模範演技で事故に会い、首から下が動かなくなった。その後、キリスト教信仰を持ち、口で絵と詩を書き、多くの人に影響を与えている人です。その方が作った詩の中に、このようなものがあります。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。

 いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

 この詩に出てくる「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。」という言葉が、「自分のいのちを救おう思う者は、それを失う」という言葉と重なります。あるいは、「この地上でのいのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。この地上でのいのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」と受け取ることも出来ます。このような聖書の考え方、キリスト教の考え方を、皆さまはどのように受け取るでしょうか。


 最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは普段教会に来ていない方へのお勧めです。聖書が教える「生きるために必要なもの」の一つは、いのちは神様から頂いたものであると信じることにあると申し上げましたが、これはそのように信じたら人生が楽になりますとか、そのように思い込んだら幸せになりますと言いたいのではありません。そうではなくて、本当に神が世界を造り、私たちのいのちを治めている。そのような神様がいて、そのような神様の前で私たちは生きているのです、とお伝えしたいのです。少なくとも私は本心からそのように信じ、このことをどうしても伝えなければならないと思って今日を迎えました。どうぞ、この聖書の神様を知って下さい。信じて下さい。

 自分で自分のいのちを支えないといけないと思っていた時は、生きることが大変だった。聖書の神を知ってから。生きることが喜びとなり、楽しみとなった。そのようなどんでん返しを経験されることを、心からお勧めいたします。


もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方。クリスチャンの方へのお勧めです。私たちは、なぜ存在しているのか。何のために生きているのか。既に答えを持っているものです。実にこれは凄いこと。この答えが分からず、何も考えないで人生を生きるのか、苦しみながら人生を生きる人が多い中、私たちはこの答えを持っている。これがどれ程の恵みか実感があるでしょうか。時に、自分の思い通りにいかなく、悲しみや苦しみに沈む私たちですが、今一度、本当の意味で生きるちからを既に得ていること。その恵みに与っていることを確認して、与えられた人生を喜びと期待を持っていきていくことをお勧めいたします。

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