2018年4月15日日曜日

ヨハネの福音書1章1節~18節「一書説教 ヨハネの福音書~神である方~」


「四日市キリスト教会はどのような教会ですか?」と聞かれたら、皆様はどのように答えるでしょうか。「教会」と言っても様子は様々。それぞれの教会に強い点や課題、特徴があります。教会に対する印象、思いは人によって様々。「どのような教会ですか?」との質問に対する答えは、十人十色となるのではないかと思います。

 しかし、客観的なこととして、自分たちとしてはこのような教会でありたいと宣言していることを、特徴と見ることも出来ます。日本長老教会が掲げている三原則があることをご存知でしょか。「改革主義信仰」「独立自治」「長老政治」の三つです。四日市キリスト教会の特徴は、色々と挙げることが出来ると思いますが、少なくとも「改革主義信仰」「独立自治」「長老政治」を大事にしていることは、公に宣言していることです。

 この三原則のうち、「改革主義信仰」とは何でしょうか。非常に大きなテーマで、説教で詳しく扱うとしたら、何十回に渡る説教を行うことになると思うのですが、極々簡単に説明するならば、自分自身、自分の生活を、「聖書によって絶えず改革され続けること」に取り組むということです。「聖書によって変えられ続ける」ことを大事にする。いかがでしょうか。普段の信仰生活の中で、「聖書によって絶えず改革され続けること」を、どれだけ意識しているでしょうか。

 「聖書によって絶えず改革され続ける」と言う場合の「聖書」とは、聖書の一部分のことではありません。私の気に入っている聖書箇所によって改革されることを目指すとか、私が納得した聖書箇所によって改革されることを目指すというのではありません。ここで言う「聖書」とは聖書全体のこと。聖書全体を通して、日々、自分自身が変えられることを目指す、という意味です。このように考えますと、改革主義信仰に立つというのは、信仰生活の中で、とても聖書を大事にするということ。聖書全体を意識して、繰り返し聖書を読む歩みと言えます。

 

 私たち一同で、繰り返し聖書全体を読む歩みを目指し、そのための助けとなるように取り組んできました一書説教の旅。断続的に取り組んできましたが、今日で四十三回目。新約聖書の四冊目、大きな山、ヨハネの福音書を登ることになります。多くの人に愛され、有名な言葉が多く収録された福音書。単語や文法としては比較的簡単な言葉で記されているものの、その意味するところは深遠。

著者のヨハネと言えば、ガリラヤ湖の漁師。特別な教育を受けたわけではない。無学な普通の人(使徒4章13節)です。気性荒く、イエス様より雷の子とあだ名をつけられたような人。しかしキリストの弟子となり、信仰生活を続けるうちに、その品性と知性は練りに練られ、この福音書を記すほどとなった人。(ヨハネは、この福音書の他、ヨハネの手紙三つ、ヨハネの黙示録を記しています。)

ある先輩牧師に、「ヨハネの福音書から説教するのは、牧師として年数を重ねてから取り組んだ方が良い。難しいから。」と言われたことがあります。別な先輩牧師からは「ヨハネの福音書は、若いうちから取り組んだ方が良い。一生涯かけても、探りきることは出来ないから。」とも言われました。年を重ねてから、若いうちからと、正反対の勧めですが、理由は同じ。ヨハネの福音書は深遠にして難解なところがある。心して読みたいところ。一書説教の際は、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 新約聖書の冒頭、四つの書は、イエス・キリストの生涯と活動に焦点を当てた書。その名も「良き知らせの書」、「福音書」ですが、最初の三つと、ヨハネの福音書は大きくことなります。最初の三つは、「共観」福音書と呼ばれ、同じ出来事、同じ言葉が、重なって記録されています。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書を読み進めた人が、何度も同じ話が出てくると思ったら、それで間違いがない、その通りです。ヨハネの福音書に入ると、それまで三つの福音書と重なる内容はごく僅か。共観福音書に記されていない記事が、多く出てきます。何故なのか。

 一般的に、ヨハネがこの福音書を記したのは、他の福音書が記された後のこと。歳を重ねた老ヨハネが、他の福音書を知っている状態で記した書。意図的に、内容が重ならないように記されたものと考えられています。最後に書かれた福音書。

 さて、それではヨハネは、どのような思いでこの福音書を記したのでしょうか。この福音書を書いた目的について、明確に記された箇所があります。

 ヨハネ20章31節

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

「イエスとは何者なのか。」「私はイエスを何者とするのか。」これが、この福音書の中心テーマです。ヨハネの願いは、この福音書を読む者が、イエスを「神の子キリスト」と信じることで、永遠のいのちを得ること。そのために、イエス様が「神の子キリスト」であるとは、どのようなことなのか。「永遠のいのち」とはどのようなものなのか。この福音書全体を通して、記していると言えます。

この福音書を読む者、私たちは「イエスとは何者なのか。」「私はイエスを何者とするのか。」を考えながら読むのが良いでしょう。

 その書き出しは有名な言葉で始まります。

 ヨハネ1章1節~5節

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 単語や文法は簡単、意味は深遠と言われるヨハネの福音書の特徴が早速、如実に出ています。イエスを「神の子キリスト」と紹介する福音書。その書き出しにおいて、イエス様を「ことば」と紹介し、ひかり、いのちというモチーフも添えられています。

 イエスは「ことば」であり、「ことば」は神であり、「ことば」によって世界は作られた。この書き始め。多くの神学者が、ヨハネが意識している旧約聖書の箇所があると言いますが、皆様はどこだと思うでしょうか。この冒頭の言葉で、連想する旧約聖書の箇所があるでしょうか。

ヨハネが意識していた箇所。それは聖書の冒頭、創世記の最初、天地創造の箇所です。

「初めに」と書き始める。「ことば」による天地創造。いのちや光も、天地創造を連想させるものです。

イエスを「神の子キリスト」と紹介する福音書。ヨハネが選んだ最初の一手は、イエスこそ世界の造り主であり、神であるという主張でした。

そして、造り主であり、神である方が、人となられたと続きます。

 ヨハネ1章14節~18節

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 冒頭、創世記が意識されていたのに対して、ここは出エジプト記が意識されていると言われます。シナイ山にて、モーセが神様と出会う時。神様はご自身のことを、「恵みとまことに富む」ものとして語られましたが(出エジプト記34章7節)、ヨハネは主イエスが「恵みとまことに満ちておられた」と言います。モーセは、神様の御姿を完全に見ることは許されなかった(出エジプト記33章23節)のに対して、主イエスは父なる神のもとから来て、父なる神を解き明かすと言われます。幕屋が完成した時、人々は幕屋を通して神の栄光を目撃しましたが(出エジプト記40章34節、35節)、ここでは、人々の間に住まわれたイエス様を通して御子の栄光を見ると言われます。

 世界の造り主であり、神である方が人となられた。それは旧約時代、様々なものを通して示されていた父なる神様のことを、より鮮明に、より正確に示すため。これから記す「イエス」を通して、父なる神のことを知ることが出来るという主張です。

 ヨハネは、イエス様のことを「神の子キリスト」であると伝えたく福音書を記しました。福音書の冒頭、イエスは「ことば」であり、「ことば」は神であり、「ことば」によって世界は作られたとして、イエス様が「神の子」であることは十分に示されています。

 では、イエス様が「キリスト」であることは、どのように示されているでしょうか。私たちは、「キリスト」とは「私たちを罪から救うために十字架にかかり死に、復活された方」と考えます。死と復活が、キリストの最たるしるしと考えます。その考えは間違いではなく、ヨハネの福音書でも、主イエスの死と復活が極めて重要な出来事として記されています。しかし、ヨハネの考えるキリストの重要な働きはもう一つあります。キリストとは、「父なる神がどのようなお方か示す者」という理解です。

 つまり、「イエス」を通して、父なる神のことを知ることが出来るということは、まさに「イエス」こそ、キリストであるという主張となっているのです。

 イエス様を通して、父なる神様のことを知ることが出来るというテーマは、ヨハネの福音書で繰り返し扱われるテーマです。様々な表現が用いられますが、イエス様ご自身が繰り返し、自分を通して父なる神様が示されると言われたことを、ヨハネは記録しています。

父と一つであると言われる時もあれば(17章22節など)、いつも共におられると言われる時もあります(8章29節、14章20節など)。ご自身の言葉が、父なる神の言葉であると言われる時もあれば(12章49節、14章24節など)、ご自身の行われることは、父なる神の御業であると言われることもあります(10章32節、14章10節)。ご自身の使命は、父なる神の栄光を現すことと言われることもあれば(11章4節、13章31節など)、「わたしを見た人は、父を見た。」(14章9節)と言われることもあります。

 表現は様々ですが、イエス様を通して、父なる神様を知ることが出来ることが、ヨハネの福音書では繰り返し主張される。イエスとは、「父なる神がどのようなお方か示す者」であるということが、ヨハネの福音書の重要なテーマなのです。

 それでは何故、キリストとは「父なる神がどのようなお方か示す者」という理解を、ヨハネは持ったのでしょうか。何故、キリストの重要な働きが、「父なる神がどのようなお方か示す」働きなのか。おそらく、イエス様が祈られた次の言葉を、ヨハネ自身が聞いたからではないかと思います。

 ヨハネ17章3節

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 永遠のいのちと、父なる神を知ることが関連付けられています。永遠のいのちとは、父なる神を知ること。だからこそ、キリストとは「父なる神がどのようなお方か示す者」と理解し、イエス様を「父なる神を示す者」として記録したヨハネ。

このように見ていきますと、ヨハネの福音書を読む私たちは、「私はイエスを何者とするのか。」を考えながら読むだけでなく、「イエス様を通して示された父なる神様はどのようなお方なのか」を考えながら読むのが良いと言えます。

 

 ヨハネの福音書の概観ですが、前半(12章まで)と後半(13章から)に分けられます。後半は十字架にかかる直前の記録。キリストの生涯が記されていると言っても、時間配分としてはだいぶ極端です。

 前半は、イエス様の奇跡や、特定の人とのやりとりが多く記されます。その殆どが、ヨハネの福音書にだけ記された記録です。主なものを大雑把に確認していきますと、

二章にカナの婚礼、水をぶどう酒に変える奇跡。

三章で、ニコデモとの会話。おそらく聖書中、最も有名だと思われるヨハネ3章16節はニコデモとの会話の延長に出てきます。

四章でサマリヤの女とのやりとり。女性に水を求めたイエス様が、いつの間にか、永遠のいのちにいたる水をあげようと言われる麗しい会話の記録。

五章が、ベテスダの池の男の癒し。三十八年間、病気の中にいた男を癒し、しかし安息日論争が起こる場面。

六章で五千人の給食の奇跡。この奇跡とそれに続く出来事が、イエス様のなされた奇跡で唯一、全ての福音書に出てくるものです。五千人の給食の奇跡は、余程弟子たちに印象深かったのだと思います(キリストの復活は全ての福音書に出てきますが)。

七章が仮庵の祭りでの出来事。

八章がパリサイ人との論争。この段階で、イエス様を石打にしようとする者たちが出てきます。

九章が盲目の男性を癒す奇跡と、それをきっかけに起こる論争。

十章が宮きよめの祭りでの出来事。敵対する者たちは、イエス様を捕らえようとします。

十一章がラザロを生き返らせる奇跡。この奇跡をきっかけに、敵対する者たちは、イエス様を明確に殺そうと考えます(11章53節)。

十二章で過越の祭りの直前、エルサレムへ入場されるイエス様。

 他の福音書と比べて、一つ一つの出来事が詳細に記されているため、登場する人たちの気持ちが分かりやすい。有名な箇所、多くの人に愛された場面が多くあります。

 十三章は、キリストが十字架にかかる前日の場面。イエス様が弟子たちの足を洗い、最後の晩餐となります。ここから、十字架の死まで。他の福音書と比べて、圧倒的な分量で、キリストの語られた言葉を記していきます。

 この夜に語られた言葉で有名なものはいくつもあります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14章6節)とか、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(15章5節)とか、「大祭司の祈り」として知られるイエス様のとりなしの祈り(17章)とか。

 十字架の死の場面も、他の福音書に記されていないことが出てきます。ヨハネが強く意識しているのは、イエス様の死が、過越の小羊と同様の意味があるということ。この思想はヨハネに強くあり、ヨハネの黙示録にも関連が見られます(ヨハネの黙示録5章6節)。

 復活後のイエス様の姿も、ヨハネ独自の記録が収録されています。マリアとイエス様とのやりとり。トマスとイエス様のやりとり。ペテロとイエス様のやりとり。どれも必見の箇所となります。特に、ヨハネの福音書のテーマの一つが、「イエスとは何者なのか。」と見れば、この福音書の終幕にトマスが復活のイエス様に出会った時の告白。「私の主、私の神よ。」(20章28節)は、クライマックスの場面と言えます。

 

 以上、ヨハネの福音書についていくつか確認しました。他の三つの福音書と、内容が重ならないように意図されて記されたヨハネの福音書。この福音書のおかげで、私たちはイエス様について、新たに多くのことを知ることが出来ます。

「イエスとは何者なのか。」をテーマに掲げたヨハネ。その結論は「神の子キリスト」でした。イエスが、神の子キリストであると信じるように。またヨハネの考える「キリスト」の重要な働きは、「父なる神様がどのようなお方か示すこと」でした。神ご自身であり、父なる神がどのようなお方なのか示す方として、イエスの姿を見るようにとの勧めです。

 是非とも、このヨハネの勧めに従って、この福音書を読みたいと思います。読み終わる時には、「私の主、私の神よ。」との告白を、自分自身の告白としたいと思います。

 イエス・キリストを知ること。イエス様を通して示される父なる神様を知ることを通して、私自身が変えられる。改革され続ける恵みを皆で味わいたいと思います。

三十四回目となる一書説教。ヨハネの福音書に取り組みます。一書説教の時は、扱われた書をご自身で読むことをお勧めいたします。

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