2018年4月22日日曜日

ペテロの手紙第一2章1~3節「みことばに親しみ、みことばで養われ、成長する教会」


私たちの教会のビジョン、それは「神と人とを愛する教会」です。私たちがみな、何をするにおいても神と人を愛する思いをもって考え、行動する者でありたい。神と人を愛することを、生涯をかけて追い求めてゆく教会でありたい。そう願い、このビジョンを立てました。

しかし、私たちは、イエス・キリストを信じたから、自動的に神と人を愛する者となれるわけではありません。洗礼を受けたからと言って、すぐに愛の人になれるわけでもありませんし、聖書もその様には教えていません。

むしろ、神と人とを愛することにおいて成長するために、私たちには取り組むべきことがあります。その内のひとつが、みことばに親しみ、みことばで養われることと教えているのが今日の箇所なのです。

私は、多くの兄弟姉妹から、聖書を読むことの大切さはわかっているけれど、なかなか忙しくて、読めないという声を聞くことがあります。聖書を読み始めても、なかなか続かないとか、読む気になる時もあるが、全くなれない時もある。そんな声も聞きます。

忙しさ、目に入り耳に入ってくる情報の氾濫、根気のなさ、聖書に対する思いが不安定であること。私たちにがみことばに親しむことを妨げる原因は、内にも外にもあります。けれども、だからこそ、今朝使徒ペテロのことばに励まされ、みことばに親しみ、養われるものとして歩んでゆく、新たな思いを抱くことができればと思います。

さて、ペテロの手紙は紀元65年ごろ、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビテニヤに散って、寄留している」クリスチャンたちに宛てて書かれたものです。世界地図を見ると黒海の沿岸から西アジア辺り。あまり世界の脚光を浴びない地域です。何らかの事情があって、この地域にもユダヤ人クリスチャンたちが散在し、肩寄せあって生活していたらしいのです。

故郷を離れた寂しさ。親戚縁者等、頼る者なき社会で働き、生活する厳しさ。圧倒的な少数者であるクリスチャンたちに対する迫害。その様な境遇に置かれた兄弟姉妹が集う教会に、この手紙は持ち回りで運ばれ、礼拝の際に読まれました。その様な兄弟姉妹が、どんな思いでペテロの勧めを聞いたのか。私たちも想像しながら、読み進めたいと思います。

 

2:1「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

「ですから」とあります。前の内容を受けて、具体的な勧めのことばが語られてゆきます。123節で、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とペテロは語っています。「あなたがたは、朽ちない種、神のことばによって新しく生まれた者ですよ。ですから…」と言う勢いです。

そして、次の2節では「求めなさい」と勧めるペテロは、まずその前に「捨てなさい」と命じていました。まず捨てる。植物の種も蕾となれば、蕾を覆う外皮を脱ぎ捨てなければなりません。蝉も脱皮して成長します。神のことばによって新しく生まれた私たちも、捨てるべきものを捨てよと教えられます。

ここで捨てるべきものとして挙げられている五つのことは、どれも隣人との関係、隣人との交わりにかかわっています。「悪意」とは、隣人の成功や幸せをけなし、妨げようとする心。「ごまかし」は、偽りのことば。「偽善」とは、外側はきれいでも、内側はどん欲で、卑しいこと。「ねたみ」は、世間はこれで動いているとも言われる心の病気で、隣人の幸せや豊かさ、評判をねたむ心。そして「悪口」。妬みがたまると悪口になって噴出します。

これらすべてを捨てよ。根こそぎ放り出せと勧められているのです。悪意が、どんなに大切な人間関係を険悪なものとするか。ごまかしが、どれ程真実な関係を壊してしまうか。偽善が、どんなに交わりを腐らせるか。妬みが、どれ程人を醜くさせてしまうか。悪口が、どんなに人を高慢にすることか。せっかく、神のことばによって新しく生まれ変わったというのに、こうした黴菌が教会の交わりを、家族の交わりを、地域の隣人との交わりを汚してしまう。

私も胸に手を当てれば、思い当たること、多々あります。そもそも、こう勧めたペテロ自身が、ユダヤ人を恐れて本心を偽り、ごまかしの行動をとったことがありました。ヤコブ、ヨハネの兄弟が栄光の座を願うのを見てねたみ、腹を立てたこともありました。悪口と言って、主イエスのことを「そんな人など知るもんか」と呪い、誓ったさえありました。

ペテロも、イエス様と教会の兄弟姉妹に迷惑をかけてきた一人だったのです。だからこそでしょうか。神のことばによって新しく生まれた者として、恥ずべきことを捨てよ。神様との交わり、隣人との愛の交わりを妨げるものを捨て続けよと勧めたのでしょう。私たちも、このことばをもって自分の足元を戒めたいと思います。

続くは、「求めよ」です。捨てるべきものを捨てるだけでなく、求めるべきものを求めることが勧められます。

 

2:23「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」

 

旧約聖書の詩人は、みことばを、行くべき道を示す灯に例えました。主のことばは金銀にも勝ると言い、最高の宝物とほめたたえました。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出ることばによって生きる」と語り、みことばをパンにも勝るいのちの糧と表現しています。そして、ペテロはと言うと、みことばを乳に例えると、みな生まれたばかりの乳飲み子にならえ、と勧めたのです。

お腹をすかせたら、矢も楯もたまらず乳を欲しがる乳児。母親の乳房にしゃぶりついて、ひたすら乳を飲む乳飲み子。あなた方は、その赤ちゃんのようにみことばを慕い求めて、成長せよ。そう命じていました。

赤ちゃんは乳飲み子と言われるように、乳を飲むのが仕事です。ひたすら成長するために、乳を飲み続けてやみません。どんなご馳走にも目を向けず、ひたすら乳を飲む。母乳を最高の食事として味わう。離乳までを6か月とすると、平均165リットルもの乳を赤ちゃんは飲むことになるそうです。

また、一口に母乳と言っても、その味は赤ちゃんの成長に合わせて、三段階に変化しているのだそうです。初乳、最初の乳はタンパク質と脂肪を多く含み、未だ飲む量の少ない新生児に適している乳。それが、移行乳、成乳となると、水分とともに糖分が多くなり、甘くて美味しい乳に変化する。赤ちゃんはこうした乳を飲み続けることで、お母さんの慈しみ、愛情を味わい、成長してゆくのです。

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」あなたがた大人も、主の慈しみを味わうことにおいては、乳飲み子であれ。生まれたばかりの赤子のように、みことばの乳を慕い求めて成長し、救いを得よ。救いの完成に向かって進め。

ペテロは、愛する兄弟姉妹が神様の慈しみを味わうことができるよう、みことばに親しみ、みことばで養われることを強く勧めています。故郷を遠く離れ寂しさを感じている人々。頼る者のいない外国の地で厳しい生活を送っていた人々。キリスト教信仰に対する批判や迫害に苦しむ人々。こうしたクリスチャンが、自らの経験を通して語る使徒のことばにどれ程励まされたことでしょうか。

私が神学生の時、奉仕していた教会に韓国出身の老婦人がいました。クリスマスの祝会でのことでした。ある者は賛美を、ある者は聖書朗読を、ある者は手品を、ある者は楽器演奏をと言う風に、各々得意とする賜物を披露する時間がありました。

その老婦人も順番が回ってくると、すくと立って、「山上の説教の朗読をします。」と言われました。私はてっきり山上の説教を読むのだろうと思っていたのですが、違っていました。何と彼女は聖書を開かずに、前を向いて山上の説教を朗読し始めたのです。女性らしい優しい声で、聞く者の心に響く,見事な朗読。まるでガリラヤの山で話しをするイエス様と、それを聞く弟子たちの姿が目の前に浮かんでくるようでした。

皆が感動して拍手を贈ったこと、今でもよく覚えています。その後、彼女が山上の説教を覚えた理由を話してくれました。戦争中、教会に迫害が迫り、聖書を奪われる危険を感じた時、彼女は教会の仲間と手分けして、新約聖書を覚えたのだそうです。彼女が担当したのは、マタイの福音書で、戦後もしばらくはマタイの福音書全体を諳んじて、朗読することができたそうです。

その後、生活の忙しさに追われ、年を重ねるにつれ、覚えた聖書の記憶も徐々に薄れてゆきましたが、山上の説教だけは忘れまじという思いで、繰り返し口ずさんできた。お陰で、80歳になっても、しっかり心に刻まれており、それを朗読できるというのが何よりの喜びです、と言われました。

特に、短気でかっかしやすい私にとって、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ544)と言うみことばは、いつも自分を戒めてくれました。そう証してくださったのです。

乳飲み子のように、みことばの乳を慕い求めて、成長する。まさに、ペテロの勧めを文字通り生きた信仰者の姿です。ちょっとばかり聖書を読んで、神学校で学んで、いい気になっていた私は鼻をへし折られました。クリスチャンになるなら、こういうクリスチャンになりたい。そう思わせてくれた今でも憧れのクリスチャンの一人です。

私たちも、みことばに親しみ、みことばに養われて、神様の慈しみを味わう。神様の慈しみを味わって、自分の中にある偽善、ごまかし、ねたみ、悪意と言った黴菌を捨ててゆく。そうした人生を目指したいと思うのです。

しかし、乳飲み子が乳を求めることは本能です。ですから、私たちが、みことばを乳のように求めるためには、みことばに親しむ方法、養われる習慣を身に着ける必要があるかと思います。旧約の時代の人々はどう取り組んでいたのか。ヒントになる言葉があります。

 

申命記649「聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。」

 

一つ目は、「聞け」とある様に、みことばを聞くことです。礼拝の聖書朗読や説教を聞く。録音された聖書朗読や説教を聞く。聞くことを通して、私たちはみことばに親しむことができます。二つ目は、みことばを心にとどめること。心にとどめるとは覚えること、思い巡らすことです。みことばの意味をよく考えて、生活に適用することです。

三つ目。ここでは親の立場から子供たちに教えることが勧められていますが、みことばから教えられたことを他の人と分かち合うことと考えることもできます。家族や兄弟姉妹と分かち合う時間を作るとよいと思います。

四つ目は、みことばを書き記すこと、書くことです。心に残ったみことばに線を引くだけでも良いですし、ノートにみことばと、教えられたことを書き記すのもよいと思います。手も口も、耳も目も、頭も心も使う。全身全霊でみことばの恵み、栄養分を吸収することです。

そして、これらを実際に行う時と場所を決めておくことが助けになります。みことばに親しむこと、神様と一対一で交わることに集中できる時間や場所を決めておくと、実行しやすいと思います。

最後に、みことばに親しみ、みことばで養われると、私たちはどのような点で成長することができるのでしょうか。神様を愛すること、人を愛することにおいてです。神様のみこころをわきまえ、神様に従うこと、人に仕えることにおいてです。ことばを代えれば、自分ひとりのための人生から、兄弟姉妹のための人生、家族や社会の隣人、広く世界の隣人のための人生への転換です。

みことばに親しみ、みことばで養われ、成長する教会。これを心にとめてこの一年の歩み進めてゆきたいと思います。今日の聖句、年度聖句です。

 

ペテロの手紙第一2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

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