八月の中旬になりました。八月十五日は、一般的に終戦記念日と言われる日。また堀越暢治先生は、この日を「いのちありがとうの日」にしたいと活動されていました。私たちは、いつでも「平和」について、「いのちの大切さ」について考えるべきですが、この時期、特に取り組みたいと思い、「平和を作る」ことをテーマに説教を行います。
二千年前、主イエスが語られた山上の説教。その冒頭は八福と呼ばれる、祝福の言葉が述べられます。「〇〇な者は幸いです、〇〇だからです」と八つ続く。この「幸いな者」とは、キリストを信じる者の姿であり、キリストを信じるとはどういうことなのか教えてくれるものでした。
キリストを信じる者がこの言葉を聞く時、自分がどのような存在なのか確認することになります。キリストを信じていない方がこの言葉を聞く時、キリストを信じる者に与えられる恵みがどのようなものか、知ることになります。八つ並ぶ「幸いな者」。その七番目が、「平和をつくる者」の姿でした。
マタイ5章9節
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
「平和」はいつの時代、どこででも、皆から期待され望まれるもの。平和であるとは、人が生きていく上で極めて重要なこと。
どの時代、どこででも願われる平和。しかし、人類の歴史を見る時、また今の世界を見る時に、平和とかけ離れた状態にあります。人類史上、戦争がない時代は、ごく僅かと言われます。世界の中で見れば、日本は比較的平和な国と言えるでしょうが、それでも毎日のように殺人、強盗のニュースを耳にします。皆が平和を望みながら、平和の実現がなされない。この世界は、どうもおかしいと感じます。
なぜ、この世界は平和とは程遠い状態にあるのか。聖書は、この世界がつくられた当初は、平和であったこと。非常に良い状態であったことを記していました。
創世記1章31節
「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」
世界が造られたその最初の時。造り主に「非常に良かった」と言われたこの世界が、最初の人、アダムとエバが罪を犯してから一変しました。アダムとエバの子、カインとアベルの時に殺人が起こる、兄弟殺しです。アダムから七代目、レメクという人は、人を殺したこと、殺す力を持っていることを自慢します。ノアの時代には、人の悪があまりにひどい状態になり、大洪水の裁きが下されました。
人類の歴史は、暴力と殺人の歴史。拳がうなり、拳は刀となり、刀は銃となり、銃は大砲、爆弾となる。今では、暴行、詐欺、収賄、強盗、殺人ははびこり、戦争はまるで日常のこととなっています。
非常に良かった世界、平和に満ちていた世界が、平和からかけ離れた状態にあるのは何故なのか。聖書の答えは、人が神様から離れたから。平和が壊れる根本的な理由は、罪でした。人が神から離れた、神に従うことをやめたこと。それにより、この世界はひどい状態になっているということです。そのため、平和を得るためには、罪の問題を解決することが必要です。
ところで、平和と聞いて、皆さまはどのような状態を考えるでしょうか。一般的に、日本語で平和と言いますと、戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険がない状態。命の危険がない状態。
しかし、聖書が言う平和は、それよりももう少し大きな概念です。聖書の言う「平和」とは、完全な状態を意味する言葉。つまり、平和とは、人と人との完全な状態、人と人との理想的な関係を意味します。
戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険がない状態。命の危険がない状態だけでなく、人と人との間に、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、などが無い状態。むしろ、愛があり、喜びがあり、平安、寛容、親切、善意、誠実がある。悪がない状態というだけではなく、善がある状態。それが平和であるということです。
このように聖書が教える意味での「平和」を考えると、平和であるということが実に難しいと思います。私たちの毎日が、平和から程遠いと、ますます感じます。一般に平和であるという状態。戦争、紛争、テロ、凶悪犯罪という危険が身近にはないという状態だとしても、私たちの毎日の歩みの中に、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみが、入り込んでくる。一般的には、今の日本は平和な国と言えると思いますが、聖書の言う平和で考えるとどうなるのか。むしろ、日本は、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみが溢れかえっていると言えるかもしれません。
私たちの日々の生活では、平和をつくるどころか、平和を乱さない。平和を壊さない。それだけでも、なかなか出来ないものです。憤らない。ねたまない。人の陰口を言わない。仲違いや争いに加担しない。そのような一日が、私たちの一週間でどれだけあるでしょうか。
しかも、キリストが言うのは、「平和を乱さない者は幸いです」ではありませんでした。「平和をつくる者が幸い」なのでした。
陰口をしている会話に加わらないというだけでなく、その陰口が愛のある話に変わるように努めること。争いは好まないと傍観しているのではなく、争っている人がいるならば、身を乗り出して、割り込んで、争いを治める者となる。それが、平和をつくる者の姿と言えます。私たちの家族の間に、教会員の間に、私たちの学校、職場に、私たちの友人・知人の間に、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実があるようにする。そのような関係をつくる者。それが、平和をつくる者でした。
そして、誰がそのような平和をつくる者となるのかと言えば、イエス・キリストを信じる者が、平和をつくる者となるのでした。平和からかけ離れたと思えるこの世界に住む私たちに、キリストは言うのです。「いいですか。平和をつくるものが、幸いなのですよ。」「キリストを信じるあなたこそ、平和をつくる者なのですよ。」と。
世界を平和にするために、多くの人が色々な方法で労しています。政治、経済、教育、医療。様々な分野で、この世界を良いものとするために、多くの人が力を使っています。そして、そのような働きは、非常に貴いもの。私たちは、世界をより良いものにしよと労している方々の働きによって、守られ、助けられています。
しかし、真の意味で平和をつくるのに、政治、経済、教育、医療をより良いものにすれば良いのかと言えば、それだけではない。真の意味で平和をつくることが出来るのは、キリストを信じる者。キリストを信じる私たちが、その働きを担うのだと教えられる。世界の平和のカギは、キリストを信じる私たちなのだと言われる。
神様の、私たちに対する期待は、なんと大きいのでしょうか。皆さまは、このような聖書の教えを、どのように思われるでしょうか。平和をつくるという、とてつもない大事業をなすのは、他でもない、キリストを信じたあなたなのだというメッセージを、どのように受け取るでしょうか。
さて、キリストを信じる者が平和をつくるのだとして、それでは具体的にはどのようにして平和をつくるのでしょうか。今日は二つの視点で考えたいと思います。
平和をつくる働き。その第一は、キリストのことを伝えること。まだ真の平和を知らない人に、神との平和を伝える働きです。
ローマ5章1節
「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
先に確認したように、平和を壊す根本的な原因は、罪です。ですので、平和をつくることは、この罪の問題を解決する必要がある。罪の問題を解決すること。これが、神との平和です。
敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ。このような思い、行動をどうにも制御出来ない。どうにも解決出来ない。その人にとって最も必要なことは、罪が赦され、罪から解放されること。そのような思い、行動から解放されることです。そして、それが出来るのはキリストのみであり、平和をつくる働きをする私たちは、このキリストを宣べ伝えるのです。
想像出来るでしょうか。世界中の人がキリストを知り、信じ、神との平和を味わったとしたら、今の世界と全く異なる世界となると思います。私たちは世界中の人が神との平和を持つことを目指します。そして、それぞれ遣わされたところで、キリストを伝える働きをするのです。
平和をつくる働き。考えたい第二のことは、私と隣人の間に平和をつくること。良い関係、愛し合う関係になるようつとめることです。
この世界に平和をつくる。そのために私たちが出来ることは、口先で世界平和を願うことではなく、与えられている関係の中で実際に平和をつくることです。遠くの人を愛することは容易く、近くの人を愛することは難しい。世界平和を夢見て終わるのではなく、目の前の人を愛していくこと。平和をつくると働きとは、毎日毎日の生活の中で、地に足をつけた働きと言えます。
皆さま、自分に与えられている人間関係を思いだして下さい。夫、妻、親、子。友人、知人。上司、部下、同僚。先輩、後輩。その中で、今よくない状態にある。平和な関係、愛し合う関係ではなく、憎しみ、妬み、無関心の状態になっていることはないでしょうか。平和をつくる働きをする私たちは、まず身近なところから平和な関係になるようつとめていくのです。
キリストは、私たちが平和な関係をもつことを非常に大切なこととして教えていました。
マタイ5章23節~24節
「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」
祭壇の上に供え物をささげるとは礼拝のことです。ここで言われている兄弟とは、血縁の兄弟だけでなく自分と関係のある人のことです。
キリストを信じる者にとって、礼拝は非常に大切。しかし、キリストは礼拝の途中であっても、関係が壊れていることを思いだしたら、平和をつくりにいくよう教えています。それほど互いに愛し合う関係、平和であることは大切だと教えられます。
時に自分としては、なんとか平和な関係を持ちたいと思い、関係修復にあたったとしても、受け入れてもらえないことがあります。それでも、私たちは平和をつくる働きを続けて行く。大変な働きが託されているわけです。
もう一度お聞きします。自分に与えられている人間関係の中で、このテーマで取り組まないといけない人はいないでしょうか。キリストの言葉に応じて、私たち一同で「私と隣人の間で平和をつくること」に取り組んでいきたいと思います。
さて、このような平和をつくる者に対する祝福はどのようなものだったでしょうか。
マタイ5章9節
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
平和をつくる者に対する祝福は、「神の子と呼ばれる」というもの。「神の子と呼ばれる。」誰に呼ばれるのか。
神に呼ばれるととるならば、これ以上の祝福はないことのように思います。ひと際輝く祝福。最高最大の祝福。全地の造り主、我らの神に、あなたは神の子だと呼ばれる。わたしの子だと。
キリストを信じる者は、それだけで神の子となる。神の子とされるのでした。しかし、ここで言われているのは、神の子となるだけでなく、神の子と呼ばれるというのです。キリストを信じ、神の子となった者が、その特徴である平和をつくる働きをする時に、たしかにあなたはわたしの子だと呼ばれる。私たち人間にとって、これ以上の祝福はないと思える祝福。それが、平和をつくる者に与えられる祝福でした。
また、これを隣人に呼ばれるととるならば、私たちの姿を通して、神の素晴らしさを表わすことを意味します。あなたのような生き方は見たことがない。「あなたは神の子ですね」と言われる。これまた大きな祝福です。
この神の子という言い方は、ユダヤ人独特の表現方法とも考えられます。ユダヤ人は何々のような人と言う場合、〇〇の子と表現しました。慰めに満ちた人は、慰めの子と呼ばれましたし、気性のあらい人は、雷のような人ではなく、雷の子と呼ばれました。
ですので、神の子というのは、神のような人、あるいは、「神のような働きをする人」という意味です。私たちが平和をつくる時、私たちは人間には出来ないことをしている。神の働きに参与していることになる。それも、呼ばれると言われていますので、私たちの周りにいる人が、あの人は神のような働きをする人だと認めることになる、ということです。
神の子と呼ばれるという祝福。神から呼ばれるのか。隣人から呼ばれるのか。どちらかだけというのではなく、神様からも、隣人からも「神の子」と呼ばれる祝福として、覚えたいと思います。
以上、今日は「平和を作る」ことについて、八福の言葉を中心に確認しました。これがキリストを信じた者に与えられる恵み。キリストを信じた者の姿です。
最後に一つだけ確認して終わりたいと思います。キリストを信じた者は、確かに平和をつくる者となります。キリストを伝えること。愛の関係を築き上げること。そのような働きが託されます。
しかし、これらの働きは、私たちが自分の力で達成するものとして託されたわけではありません。真の意味で平和をつくる。これはとてつもない働きであり、とても人間の力で出来るものではない。まさに神業です。キリストを信じたあなたには、平和をつくる働きが託されています。それだけ言われますと、尻込みします。いや無理です。この働きは、平和の神とともに行う。神様を信頼しての働きなのだと覚えたいと思います。
二千年年前。パウロの祈り。この祈りを互いに祈り、励まし合いながら、平和をつくる働きをしていきたいと思います。
第二テサロニケ3章16節
「どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。」
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