皆さんもご存知のように、日本とアメリカは多くの点で違います。日本では、車は道路の左側を走りますが、アメリカでは右側を走ります。日本ののこぎりは自分の方に引っ張るときに木を切りますが、アメリカののこぎりは押すときに切ります。ドアに鍵をかけるとき、鍵を回す方向さえも、アメリカとは反対です。文化や価値観や考え方などもだいぶ異なっています。しかし、多くの点で違いがありますが、日本とアメリカは人間、共通の特徴を共有することが分かっています。共通の特徴の一つは、基本的に、人々は本当の喜びと満足を与える何かを探しているということです。大部分の人々は、子供、財産、ビジネスでの成功など、多くの場所を通じてこれらを探します。これらの偶像(頭の中で崇拝している価値あるもの)、またもっと多くの偶像は人々の心を強く支配しています。もちろん、クリスチャン達も心の偶像を持っています。クリスチャンの歩みの中で最も難しいことの一つは、自分の心の偶像が何かを分かるようになることです。難しいのは私たちの心の偶像が何であるかを見分けるプロセスだけではなく、その偶像を理解するときです。これは、普通、自分や他の人を傷つけた後に理解するからです。私たちが神様以外のものや人々に私たちの真の幸せや満足を求めるとき、それは失望につながるでしょう。しかし、私たちが神様の恵みの中で悔い改めることができるように、また真の満足と喜びをもう一度神様だけに見つけるようになるために、神様は私たちにこれらの偶像を明らかにしてくださいます。詩編119篇のこの部分では、ダビデは本当の喜びがどこにあるのか、
「主は私の受ける分です」
という短い言葉だけで示してくれています。私は、最初に、主が私たちの受ける分であるという意味について話をしたいと思います。次に、主が私たちの受ける分であるという現実の中に生きるとは、どういうことなのかをお話したいと思います。
「主は私の受ける分です。」私たちはしばしば、クリスチャンとしての相続するものや報酬、または私たちの受ける分について考えて、神様を賛美します。神は、罪を犯さなかった方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためだと知り、神様を賛美します。私たちは、イエスの死と復活を通して、死の苦しみは無くなり、死は勝利に呑み込まれたので神様をほめたたえます。私たちは、神様が神を愛する人に命の冠を与えてくださったことを賛美します。私たちは、罪の赦し、死の敗北、命の冠が私たちの財産、私たちの部分であることで喜んでいます。しかし、ダビデが私たちに語るように、私たちの部分、私たちの相続するもの、または神様からの最大の贈り物は、罪の許しや死の敗北ではありません。命の冠でもありません。私たちの最大の贈り物、私たちの真の部分は、神様ご自身です。イエス・キリストの死と復活の最終の目標は、私たちの罪が許されることではなく、死に打ち勝つことでもなく、また命の冠を受けるようなものでもありません。最終の目標は私たちが神様と一緒になることです。そのために私たちの罪が赦され、死が打ち負かされ、また命の冠を受けました。これらの祝福は、わたしたちの天のお父様と完全で個人的な関係を喜ぶことができるようになるために与えられています。これは最初からの神様の約束です。神様は旧約聖書の中で何度もこの約束を繰り返しています。「私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となります。」神様は、新しい天と新しい地を創造するとき、黙示録の中でこの約束を成就します。
ヨハネの黙示録21章3-4節は「『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
と言っています。私たちの罪の赦しと死に対する勝利は確かに驚くべき賜物です。また、相続するものと受ける分は、本来の私たちに、はるかに値しないものです。しかし、その祝福は、そこに神様がいないと全く意味がありません。そういうわけで、私たちの真の受ける分と心の望みは神様だけです。それは、神様の恵みと愛の中でイエス・キリストを通して私たちに与えられたものです。
先ほど言ったように、私たちの心はいつも神以外のものを追いかける傾向があるので、これを頭に入れておくことが重要です。私たちはしばしば間違ったことに集中しています。それが私たちの家でのおやつの時間や夕食の時間であるとき、私の子供はたいていただ一つのことにしか関心がありません。彼らが空腹でも、皆が同じ量を割り当てられているかどうかを確認することが、ただ一つの重要なことです。これはもちろん、兄弟が十分にもらえるかどうか、他の人を思いやってのものではありません。他の兄弟たちが自分より多いんじゃないかという自分勝手な心配から来るわけです。彼らはしばしば、食べ物をもらっていることに感謝しなければならないことを思い出しますが、子供達は自分の部分、つまりどれくらいもらえたのかを心配しています。私の子供のように、私たちの心はしばしば間違ったことに集中しています。それは通常、私たちが他人に比べてどれくらい与えられているのかということです。私たちの分け前が私たちにふさわしくないと感じると、不満になるのは簡単です。また、それにふさわしくない他の人がはるかに多くて良い部分を受け取ったときは、怒りが爆発するかもしれません。ダビデはこの詩篇73篇でこの闘いについて語っています。
ダビデは「それは、私が誇り高ぶる者を妬み、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、他の人のようには打たれない。」
と言っています。私たちは、私たちよりも成功している人、私たちよりも出来のいい子供を持っている人、私たちよりも健康な人、また私たちよりも幸せそうな人を見るとき、私たちの受ける分、つまり私たちが与えられた分では不満を感じるようになります。クリスチャンとして、他の人と同じくらいではなくても、自分に与えられた大きさにかかわらず満足すべきだと考えるかもしれません。しかし、問題は私たちが与えられたものに満足していないということではありません。問題は、私たちがそもそも満足するためにこれらのことに頼っていることです。私たちは、神が与える祝福と私たちの部分を混同します。私たちの真の受ける分は神様ご自身です。私たちが相続するもの、または神様からの贈り物を世俗的な祝福と混同すると、私たちの幸せは、変化する周りの状況によって簡単に絶望に変わることがあります。
神様自身が私たちの受ける分であることを理解するとき、私たちはどんな状況にも満足できます。これは、私たちが真の部分と心の真の望みである神様に焦点を当てるとき、私たちの状況の難しさは、たとえどんなものであっても、神様の約束の現実と比較して薄くなるからです。神様が私たちの神であり、私たちは神様の民であるという約束です。神様が私たちの父であり、私たちは神様の息子や娘であるという約束です。神様はあなたの人生のすべてのことを支配しており、神様を愛する人々、すなわち、神様のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるという約束です。神の手の中にあなたがいて、何もあなたを神様から奪うことができないという約束です。あなたがイエス・キリストを愛して従うなら、これらの、そして他の多くの祝福はあなたのものです。いかなる試練や苦難も、これらの約束とそこから来る慰めを取り去ることはできません。先ほど言ったように、私たちの心は常に他の方法で喜びと満足を追い求めるので、私たちの受ける分は神様ご自身という事実に生きることは非常に困難です。では、神様のみが私の受ける分という事実によって生きるとはどういうことなのでしょうか? 神様のみで本当の喜びと満足を見いだす人の印は何でしょうか? 次の節で、ダビデは、神様のみが私の受ける分という事実によって生きるとはどういうことかを説明しています。そこには、喜びと満足感が神様のみにある人が神様の律法を愛し、神様の律法を守り、そして神様の律法を知っている姿があります。
この詩篇の最も重要なテーマである、「主は私の受ける分」と捉えて生きることを表す最初の印は、神様の律法を愛することです。詩編119篇には176の節があります。その中で、特に神様の律法を扱っていないのは2,3節だけです。明らかに、ダビデは神様の律法を愛しました。特に62節でこれを見ることができます。それは
「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します」
と言っています。ダビデがベッドに横たわって、眠ろうとしているとき、神様の律法を考えていたかもしれません。その時、彼が真夜中にベッドから起き上がって賛美し始めたほど、神様の律法はダビデにとって、喜びが湧き出るものでした。なぜ神様の律法はそんなに特別なものだったのでしょうか? そのような喜びを引き起こすのは何だったのでしょうか? 普通、私たちが神様の言葉に励ましや喜びを探すとき、私たちは神様の律法ではなく、神様の約束を見ます。人生が難しくて理にかなっていないときは、
「私の他に、ほかの神々があってはならない」というような言葉ではなく、「神様を愛する人々、すなわち、神様のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」
という節を読みます。ダビデにとって、または私たちにとって神様の律法はそんなに特別なものの一つの理由は、神様の律法が神様の約束と分かれているわけではないからです。神様の律法は神様の祝福と絡み合っているので、神様の律法を考えるときには、祝福と約束も同時に見るべきです。たとえば、神様は私たちに他の人を愛するように命じました。私たちは神様を愛し、私たちの隣人をあなた自身のように愛するべきです。しかし、神様が私たちに命令したからといって、他人を愛せるわけではありません。なぜ他の人を愛するのでしょうか? なぜなら、神様が最初に私たちを愛してくださった祝福があったからです。
第一ヨハネ4:19は「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」と言っています。マタイ18で、ペテロに教えているように、私たちは私たちの兄弟たちを、七度を七十倍するまで赦すべきです。もう一度、言いますが、他の人を赦すというこの命令は、神様の約束と分かれていません。エペソ人への手紙4:32は「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」と言っています。私たちは他人にあわれみを示すように命じられています。しかし、私たちがあわれみを示された祝福があったので、私たちはあわれみを示します。ルカの福音書6:36は「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」と言っています。神様の律法は私たちを神様の約束に導きます。それが、神の律法が私たちの心に賛美と感謝をもたらす理由です。神様の律法には常に約束と祝福が伴っています。
神様のみが私の受ける分と捉えて生きることの二番目の印は、神様の律法を守ることです。ダビデは57節で、「主は私の受ける分です」と言ったすぐあとに「私は、あなたのことばを守ると申しました」
と言っています。神が私たちの受ける分であり、私たちの心から願い求めるものであったら、神様の御言葉もそうです。神様の律法は、クリスチャンの義務となる規則だけではありません。神様があなたの心の中で重要だったら、あなたの人生においても、神様の律法は非常に重要なのです。もちろん、これは私たちが常に神様の律法に完全に従うことを意味するものではありませんが、私たちが罪を犯したとき、神様の御言葉を思い返して、私たちの心を矯正してくれます。
ダビデは59節で「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。」
と言っています。つまり、ダビデは神様の御言葉から迷い出ていることに気づいたとき、神様の律法に従うような人生を生きようと再び立ち返ります。これは、神からの懲罰や報復の恐怖から行うものではありません。それは神様と神様の御言葉に対する愛から行われています。もう一度言いますが、神様の御言葉を守りたいという願いがある限り、私たちの心がさまよって終わることはありません。また、神様の律法を守ろうとするなら、私たちの心の偶像が現れないのではなく、それらの偶像を追求しなくなることを意味します。それは、神様が私たちの受ける分であるという現実によって、常に自分の行動と考えを照らし合わせて、修正するということです。それは、私たちが人生のどこで神様の御言葉から迷っているのかを認識すると、急いで、ためわらずに、神様のおっしゃることを守ることを意味します。これらのことが、果たして私たちの生活の中で普通の習慣になっているかどうかを自分自身に問わなければなりません。あなたの道をしばしば顧みますか? あなたは、あなたが思うこと、あるいは行うことが神様の御言葉に沿ったものかどうかを毎日考えますか? 神様が私たちの受ける分である現実と祝福を心に映し出すと、それは私たちが神様以外のもので喜びと満足を見つけることができると感じるまやかしと戦うために役立ちます。日常的に、神様ご自身を私たちの受ける分として与えてくださったという事実を心に映し出すと、それは私たちの歩みを導き、神様を私たちの心の真の望みにするでしょう。
神様は私の受ける分と捉えて生きることの三番目の印は、神様の律法を知ることです。これらの節では、ダビデは神様の律法を守るだけでなく、神様の律法を知ることも大切なこととして教えています。神様の御言葉を宝にすることは、それに従うだけでなく、いつもそれを心に反映させて、それについて学ぶことです。これが重要な理由の一つは、私たちが神様の律法を忘れがちであるということです。もう一度61節を見てください。
「悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。」
試練や迫害が来ると、ダビデはどこで慰めや喜びを見つけるのでしょうか? ダビデは神様の律法の中に慰めと喜びを見つけました。私が先に話したように、神様の祝福と約束は、神様の律法から切り離されていません。神の愛も神様の律法から切り離されていません。神様が私たちの律法を与えてくださったという事実は、私たちに対して神様の愛を示しています。また、今の時代、私たちは神の律法に慰めを見出すためにさらに多くの理由を持っています。というのは、私たちの救いは律法に従うことによってではなく、信仰によってのみ救われるためにキリストが来られて律法を成就したからです。あなたに神様の約束、祝福、または愛を示さない律法はありません。人生が難しくて理にかなっていない場合、これはしばしば最初に忘れることです。私たちの困難と状況は、神の言葉と約束の現実を曇らせます。私たちが不公平な部分を与えられたと感じているためなのか、それとも、私たちの受ける分の一部が取り去られたと感じているためなのか、私たちは悲しんでいますが、それは、私たちの受ける分は私たちを見捨てることを決してしない神様ご自身であることを忘れてしまったからなのです。私たちは、究極の贈り物と心の究極の願望が常にそこにあることを忘れてしまいました。これは、私たちが苦痛の中で神に嘆いたり、叫ぶことをしてはいけないということではありません。大切なのは、思う存分、嘆いた後に、神様の御言葉と約束に戻り、それらを思い起こさなければならないということです。ダビデはこれを他の多くの詩篇の中で行いますが、私の好きな例は詩篇13篇です。最初の4つの節でダビデは神様に
「あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」「いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。」
など、心のうちの言葉を隠すことなく神様に訴えています。ダビデは悲しみと苦痛の中で神様に叫んだあと、詩編がどのように終わるのかを聞いてください。
「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」
私たちが神様に「あなたはどこでしょうか。なぜこれを起こさせたのですか。」と叫ぶとき、神様の約束を心に覚えておく必要があります。神は私たちの父であり、私たちが必要としていることを知っており、私たちの世話を約束していることを心に刻まなければなりません。悲しみの中で叫んでも、最後に「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしわれたゆえ」と、あなたは言うことができるでしょうか。
詩篇8篇では、ダビデが神様の栄光を考えているとき、こう言っています。
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」
ダビデはまさに正しいです。万物を造った天の神様が私たちを顧みることは驚くべきことです。しかし、神様は私たちを顧みるだけではなく、世話してくださるだけではなく、相続するもの、受ける分として神様ご自身をくださいました。神様は私たちに神様の約束と愛に包まれている律法を与えてくださいました。ここにいらっしゃる皆さんが神様の律法を考えるとき、神様の愛と祝福をそこに見ることができるように私は祈ります。あなたがたがそこで慰めと励ましを見ることができるように私は祈ります。あなたの受ける分として神様を知らない方がいらっしゃったら、または神様の律法を祝福としてではなく、呪いとしてみたら、私は、聖霊の力によってあなたがたがそこに救いを見ることができるように祈ります。最後にガラテヤ人への手紙4:4-7を読みたいと思います。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」
あなたは、神様の子であり、相続人なのですから、あなたの相続するものは最大の報酬、あなたの心の最大の望みである神様ご自身です。
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