2018年7月15日日曜日

一書説教(46)「第一コリント書~この福音によって~」


 私たちは日々、様々な影響を受けながら生きています。周りにいる人の考え方、生活スタイル。見聞きする情報。怪我や病気などを通して、自分の考え方、大切にしていること、生活スタイルが変わることがあります。現代は情報が溢れかえる社会。意図していなくても、良い影響も悪い影響も受けながら、私たちは生きています。

この一週間の自分の生活を振り返る時、最も影響を受けたのは何によるでしょうか。これまでの人生を振り返った時、自分の考え方や生活スタイルが大きく変わったのは、何によるでしょうか。

 キリストを信じる者は、日々、新しく作り変えられると約束されています。キリストに似る者へ、神の民として喜んで生きることが出来るように、聖化の恵みが注がれています。それでは、キリストを信じることによる変化と、他のものから受ける影響による変化と、どちらが自分を変えているでしょうか。あるいは、神の子らしく生きたい、神の子らしく作り変えられたいという思いが私たちの中にどれだけあるでしょうか。自分は何から最も影響を受けているのか。どのように変わっているのか。この礼拝の中で、皆で考えていきたいと思います。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り七回目。コリント人への手紙第一を読みます。パウロによる手紙。前回読みましたローマ人への手紙と、同時期に書かれた書で、ところどころ、同じフレーズ、似た表現が出てきますが、全体としては大分異なる印象の手紙。ローマの手紙が普遍的、一般的な教えが多く記されていたのに対して、コリント人への手紙は、問題だらけの教会を、何とか建て直したいと苦心して記されたものです。コリントの教会にどのような問題があり、それに対して、牧師、宣教師、神学者であったパウロが、どのような解決を提案したのか。注意深く読みたいところ。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 そもそも教会は問題を抱えるものです。教会とは、赦された「罪人」の集まり。完全無欠な教会はなく、どの教会も欠けがあり傷があります。とはいえ、それにしても、コリントの教会は問題が山積みでした。不品行の問題などでは、目を覆いたくなる程で「異邦人の中にもないほどの淫らな行いで、父の妻(実母ではない)を妻にしている者がいる。」という状況。先輩カルヴァンは「神よりも、むしろ悪魔が支配しているとでも思われるほど、悪徳の充満していた人間の集団」とまで言っています。


コリントの教会は何故、問題山積みの状態にあったのか。一つの理由は、コリントの町の環境にあると考えられます。

現在の地図を見てみても、コリントが栄えやすい土地であることが分かります。ギリシアの南北結ぶ土地。ギリシアの主要都市、アテネやスパルタの行き来には、コリントを通る必要があります。東西で言えば、ローマからコリントまでのアドリア海と、コリントからアジア方面へのエーゲ海に挟まれているところ。東西南北の交通は、コリントを中継地点としたわけです。交通、貿易の要所。

 交通、貿易の要所ということは、人々が入り乱れる場所。手紙が書かれた当時、港町にはつきものの売春宿が流行り、千を超える神殿娼婦がいたと言われ、「コリント人のように生きる」とは、不道徳、不品行な生き方の代名詞とされました。商人たちのそろばん、旅人の乱交、売春巫女の色気が充満した、欲望が煮えたぎる都市。

 この町に建てられたのがコリントの教会。人間は良くも悪くも環境に左右される。良い環境にあれば良くなり、悪い環境にあれば悪に染まるということが確かにあります。コリントの教会は、その地の風習、文化の影響を直に受けるわけで、教会で問題が起こることは十分分かるのです。


 もう一つ、コリント教会が問題山積みとなった原因として、コリントの教会が、「教会とは何か」ということを理解していなかったことを挙げることが出来ます。

この手紙の中で、パウロは具体的な問題の解決とともに、教会とは何か、教会とはどのようなものなのか、繰り返し説明しています。パウロは、コリント教会の問題の本質に、教会についての理解不足があると考えていたようです。

 そのように考えますと、この手紙を読む私たちは、教会とは何か、教会とはどのようなものなのかを考えつつ、読み進めるのが良いと言えます。


 この手紙は、基本的に問題を挙げて、それに対する解決を示すことを繰り返すことでまとめられた書ですが、具体的にどのような問題があったのでしょうか。手紙からは、大きく見て十個の問題を確認できます。(問題を十個並べることで、この手紙の概観ともなります。)


 二つ目が、不品行の問題のうち、父の妻を妻とするような人を放置していること。(5章)

 三つ目が、教会員同士の問題を、教会の外で訴訟問題とすること。(6章)

 四つ目が、不品行の問題のうち、買春をすることを問題と思っていないこと。(6章)

 五つ目が、結婚についての混乱。(7章)

 六つ目が、異教の習慣についての理解や対応の不一致。(8~10章)

 七つ目が、礼拝での節度ある態度について。(11章)

 八つ目が、キリスト者の交わりとなっていない食事会について。(11章)

 九つ目が、自分の正しさを主張することによる集会の混乱(14章)

 十個目が、死者の復活を否定する考え方。(15章)


 十個の問題に対して、パウロはどのように答えるのか。強い言葉で非難、叱咤激励の時もあれば、寛容に、配慮を示す対応をするところもあれば、このようなことまで言うのかと驚くところもあれば、常識に訴えかけるところもあります。

 強い言葉、非難の色が濃いところをいくつか取り上げると、仲間割れの問題に対して、「あなたがたは、ただの人、肉の人」(Ⅰコリント3章3節、4節)と責め、訴訟の問題に対しては「私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。」(Ⅰコリント6章5節)と非難し、不品行の問題では、そんなことはあってはらないと断言します。

 Ⅰコリント6章15節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。


 寛容さや配慮を示す色が濃いところとしては、偶像にささげられた肉の問題があります。偶像にささげられた肉を食べることは、偶像崇拝に加担することになり、罪であると考える人たちがいる。その人たちに対して、実際には、偶像の神は存在しなく、全てのものは主のものであるため、偶像にささげられた肉を食べることは問題ではない。と伝えつつも、それでも(この手紙を読まなく、また偶像にささげられた肉を食べることは問題だと考える人がいる限りは)パウロ自身は偶像にささげられた肉は食べないと言います。

 Ⅰコリント8章13節

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。


 このようなことまで言うのかと思う言葉としては、結婚についてのことが挙げられます。不品行の問題、買春の問題を挙げ、それはあってはならないことと断罪した後で、淫らな行いを避けるために、結婚するようにと言います。

 Ⅰコリント7章2節~5節

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。


 夫が性的関係を求める場合、妻は断らないように。妻が性的関係を求める場合、夫は断らないように。お互いに、自分のからだは相手のものという原則を示します。このようなことまで言うのかという驚きと同時に、これを、独身のパウロが言っているということに、驚くのです。(七章で、パウロは独身の利点も十分に挙げています。)


 常識に訴えかける場面としては、礼拝での節度ある態度について。祈る時、男性は被り物をしないように。女性は被り物をするようにと勧める中で、常識で考えるように、自分たちの文化ではこうなのだと言います。

 Ⅰコリント11章13節~16節

あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。


 時に激しく、時に優しく。時に明確に指針を示し、時に自分で考えるように訴えかける。時に大きな視点から、時に微に入り細を穿つようなことまで。牧会者パウロの心が示されます。是非ともこの手紙を読むことを通して、何としてでも教会が教会らしくあるようにと願うパウロの情熱を味わいたいと思います。


 ところで、十の問題に解決を示す際、具体的な解決策とともに、繰り返し、神様がどのようなお方なのか、キリストが何をして下さったのか、教会とはどのようなものなのか、語られています。

 教会とは何かということだけでも、いくつかの表現が出てきます。「神の畑」「神の建物」「神の宮」「聖霊の宮」。当時の手紙は、口述筆記で記されたものが多く、この手紙も口述筆記によるものです。推敲に推敲を重ねた論文というより、心に湧き出てきたことをまとめられた書と言って良いでしょうか。この書で繰り返し、教会とは何かを語ったパウロが、後半で、「これぞ」という表現に行き当たります。

 Ⅰコリント12章19節~22節、26節~27節

もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。


 教会は「キリストのからだ」。パウロが書いた手紙を見渡すと、何度も出てくる表現ですが、最初に出てくるのは、この箇所です。「教会とは何か」、理解されていないことにより、様々な問題を抱えるコリント教会に、「教会とは何か」、どのように伝えたら良いか、苦心して生み出された「キリストのからだ」という言葉。

 「それぞれ違いがあることが大事であると同時に一体である。」「自分のために存在しているのではなく、それぞれからだ全体のために存在している。」「頭の願う通りに動くのがからだだとすれば、キリストのからだとは、キリストの願う通りに生きる者たちである。」キリストのからだという言葉の中に、パウロの言いたかったことが多く含まれる。含蓄に富む言葉です。

 コリントの教会の人たちが、自分たちは「キリストのからだ」であることを理解し、それぞれがからだの部分として生きることが出来たら、教会内に起こっている問題の殆どは解決となるでしょう。


 教会は「キリストのからだ」とまとめたパウロ。しかし問題なのは、自分たちが「キリストのからだ」であると理解したとしても、その通りに生きることが出来るのか、ということです。違いを尊重し、同時に一体である。違いを認めながら、分裂することなく、配慮し合い、苦しむ者がいればともに苦しみ、尊ばれる者がいればともに喜ぶ。そのような教会となるのに、何が必要でしょうか。パウロは、それには「愛」が必要であるとして、「愛の章」として有名な、十三章を記します。

 一部抜粋しますが、Ⅰコリント13章4節~7節

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。


 教会が「キリストのからだ」であるためには、教会が「愛」に生きる必要がある。それでは、教会が「愛」に生きるためには、どうしたら良いのか。自分を打ちたたいて、愛するように頑張るのではない。主イエスがして下さったこと。愛することが出来ない、自分勝手に生きることしか出来ない。罪に死んだ私たちのために、イエス様が死に、復活されたことに注目するように。その「福音」に立つようにとまとめられていきます。

 Ⅰコリント15章1節~6節

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。


 様々な問題を抱えたコリント教会に対して、何とか教会らしくなるように、あれやこれやと手を打ってきたパウロ。その最後の最後で、キリストの十字架と復活を指し示されます。「福音」に立つように。私たちが教会として正しく歩むために、何に焦点を当てるべきなのか、よく教えられるところです。


 以上、コリント人への手紙第一でした。

 大都市コリントの影響を受け、大変な状況にあったコリント教会に、必死に手紙を書いたパウロ。もしこの時代、パウロが生きていたとしたら。もし四日市キリスト教会の現状を知り、手紙を書くとしたら。どのようなことが記されるでしょうか。

クリスチャン人口の極端に少ない国。様々な宗教、文化のしがらみがある状況。同時に、世界中のありとあらゆる情報がなだれ込んでくる現代。その中で生きる私たち。教会は教会らしいのか。私の人生は、神の子らしいのか。この手紙を読みながら、自分自身のこと、教会のことを考えたいと思います。

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