マザーテレサのことばには、よく知られたものが多くあります。今朝皆様に紹介したいのは、マザーテレサの祈りですが、これは最も知られていることばの一つではないかと思います。
主よ、あなたの平和を人々にもたらす道具として私をお使いください。
憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。
分裂のあるところには一致を。疑惑のあるところには信仰を。
疑っているところには真理を。絶望のあるところには希望を。暗闇には光を。
悲しみのあるところには喜びをもっていくことができますように。
慰められることを求めるよりは慰めることを。
理解されるよりは理解することを。
愛されることよりは愛することを求める心をお与えください。」
カトリックとプロテスタント。立場こそ違いますが、この祈りには、神様が教会、私たちクリスチャンに与えた使命が述べられています。
私たちはイエス・キリストを信じて救われました。救われた者は罪赦され、天国に行くことができます。けれども、私たちが受けた救いはそれにとどまりません。キリストの平和をもたらす道具として生きること、この社会の憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。分裂のあるところには一致を。絶望のあるところには希望を。悲しみのあるところには喜びをもっていく。その様な働きをするための新しい命を与えられたことも、私たちの受けた救いの大切な側面です。
しかし、これまで礼拝説教で学んできたように、紀元1世紀、ギリシャの国コリントの町にあった教会では、仲間割れが起こっていました。自分たちが好む教師、優秀だと思う教師を担ぎ上げ、グループに分かれて争い、分裂していたのです。
本来なら、分裂のある所に一致をもたらすべき教会の内に、仲間割れがあり、争いがあった。コリント教会は、果たすべき使命を果たしていない状態にあったのです。それにもかかわらず、自分たちのことを誇る者がいたと言うのですから、手に負えません。
この手紙の著者パウロは、彼らを「キリストにある幼子、肉の人」と呼びました。
3:1、3「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。…あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」
あなた方は、イエス・キリストを信じていても、生き方においては未熟な幼子。いや、キリストを信じた人らしくない肉の人、ただの人のようではありませんか。そうパウロは叱っているのです。
コリント教会は、仲間割れの他にも多くの問題を抱えていました。ペテロやパウロと言った力ある使徒たちが活動していた初代教会に、こんな教会があったのかと思われる様な世俗的な教会でした。しかし、パウロは、この様な教会をも神の教会と認め、兄弟と呼びかけ、問題の一つ一つに適切な処方箋を出してゆきます。
最初に取り上げた仲間割れの問題には、第1章から第4章が費やされました。私たちは、先回4章の終わりまで読み進めたのですが、今朝は「一致を生み出す生き方」と言うテーマに絞り、改めてこの4章全体から、神様のメッセージを確認することができればと願っています。
まず整理しておきたいのは、知恵の問題です。パウロは、人間の知恵は良いものであり、神様から与えられた賜物であると考えていました。コリントの人々がことばや知恵を、豊かに与えられている様子を、神様に感謝していたほどです。
1:4、5「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」
歴史始まって以来、人間は知恵を用いて文化、文明を築いてきました。自然を観察して農業を営み、作物を生み出してきました。それを様々なところに運ぶ交通手段も発明してきました。知恵を用いて医学を発達させ、様々な病いを克服してきました。文学や芸術、各国の芸能など、人間の知恵が生み出したものによって、どれ程私たちの人生は豊かにされたことでしょうか。
この様に、知恵が良いものであるならば、コリント教会の問題はどこにあったのでしょうか。
第一の問題は、彼らが、自分を知恵の所有者と考えていたことです。パウロは知恵を「神の恵み」と言いました。「あなたがたは、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされた」と、注意深く書いています。つまり、人間の知恵の源は神様、人間の知恵は神様からの賜物だと言うのです。
この「神様からの賜物」という信仰を欠いたコリントの人々は、知恵をもって自らを誇りました。しかし、それは思い違いも甚だしいことと、パウロは皮肉っています。
4:7、8a「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。…」
ここに「人からもらわなかったものがあるのですか」とあります。但し、「人から」と言うことばは、元の文章にはありません。以前の新改訳聖書では、「あなたには、何かもらったものでないものがあるのですか」となっていて、人からもらったのか、神様からもらったのか、どちらとも考えられるところです。神からもらったものか、人からもらったものか。いずれにしても、人間の生活全般に関する知恵も、聖書を理解する知恵も、神様が直接にか、様々な人を通してか、私たちに与えてくださる賜物という考え方においては、変わりがありません。
第二の問題は、彼らが、ことばの巧みさや知恵、つまり能力によって、人間の優劣を判断し、決めていたことです。その頃ギリシャでは、土を耕したり、物を運んだりする肉体労働に従事する人は卑しめられていました。他方、政治家、哲学者、教師、芸術家など頭脳労働に従事する人は尊ばれていました。知恵ある人々は、政治、哲学、芸術など高尚な仕事に専念するため、単純な肉体労働から解放される権利があるという考え方が、一般的だったのです。
勿論、これは、聖書の教えるところではありません。この物質世界を創造したと言う意味では、神様ご自身が肉体労働者です。イエス様も、生涯の大部分を大工として働きましたし、パウロもテントづくりの職人として働きながら、伝道を行っていたのです。
聖書には、所謂頭脳労働が上で、肉体労働が下と言う考えはありません。ティンダルと言う人が「教会の講壇から説教することも、家で家族のために皿を洗うことも、神に仕える思いをもって行うなら、どちらも等しく神の目に尊い奉仕なのである」と言っています。職業に貴賎なし。仕事に上下なし。仕事の種類によって、人間の価値が決まるのではない。どのような仕事であれ、自分に与えられた賜物を精一杯使い、神に仕え、人を愛する者を、神様は喜ぶ。そう聖書は教えているのです。
コリントの人々が、自分はパウロ派、自分はアポロ派、自分はペテロ派などと言って、争っていた時、彼らは、教師たちを頭脳労働者と考えていたのでしょう。教師たちの知識、ことばの巧みさや雄弁さを比べては、その上下、優劣を論じ、判断していたと考えられます。
人の能力は能力として、正しく評価される必要があるでしょう。しかし、能力によって、人間の存在価値を決めてしまうことは、知恵の間違った使い方であり、高慢の罪でした。
パウロを批判する人々は、パウロの説教が単純であること、パウロが他の使徒と違い、生活のために肉体労働をしていたことを批判しました。彼らの価値観からすれば、パウロは、教師として下の下と思われていたのでしょう。しかし、パウロは彼らの批判を一蹴しています。
4:1~3a「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。」
パウロは、自分を神の奥義の管理者と考えています。管理者とは、神様から仕事と賜物を与えられた者と言うことです。そして、管理者として自分が何よりも気にかけるべきは、仕事と賜物を与えてくれた神様に忠実なこと、神様のみこころを知り、それに従って生きることと弁えていたのです。
事実6年前、パウロは与えられた賜物を用いて、全力でコリントの人々に仕え、教会を建て上げました。まだ小さな群れであった、コリント教会の人々に経済的な負担をかけまいと、教会から報酬を得ると言う権利を捨て、自ら額に汗して働き生活の糧を得ていたのです。
ですから、神に忠実と言う点において、私は精一杯力を尽くしているので、やましいことはない。神様の評価こそ第一のことなので、あなたがたの批判は、私にとっては小さなこと。そうパウロは言うのです。
それなのに、あなた方ときたら、神様から豊かな賜物をもらっていながら、間違って用いていませんか。ことばの賜物を、争いに勝って、人の上に立つために使っていませんか。知恵の賜物を、自分の正しさを示すため、人を攻撃し、人を倒すために使っていませんか。自分の立場や権利が、そんなに大事ですか。どうか、あなたがたに賜物を与えてくださった神様のみこころを踏みにじらないでください。そう訴えるパウロは、4章の最後でこう勧めていました。
4:16「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。」
それでは、パウロに倣うとはどういうことでしょうか。パウロの生き方に倣うことです。そして、パウロの生き方は、このことばに集約されていました。
1:22~25「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
イエス・キリストは、人々に嘲られ、罵られ、十字架に死にました。その姿は、ユダヤ人にとって余りにも弱弱しく、神とは思えませんでした。ギリシャ人は、そんなひどい死に方をした男を神とするキリスト教信仰を、愚かなものと考えました。
しかし、パウロはキリストの十字架に、神様が罪人を救うために全力で仕える愛を見ていたのです。キリストの十字架に現れた神様の愛が、自分を生かす力と感じていたのです。また、パウロは、キリストの十字架に、人に仕えるため与えられた賜物を使い尽くすという、あるべき人間としての生き方を見ていたのです。キリストの十字架こそ、パウロが倣うべき神の知恵でした。
キリストの十字架を見つめ、神様の愛を味わい、感謝する。キリストの生き方に倣い、イエス様だったらこの場合、どう相手に仕えたかを考える。これが、仲間割れをやめ、一致を生み出す生き方として、パウロが勧めたことではなかったかと思います。
今NHKでは、大河ドラマ「西郷どん」が放送されていて、ご覧になっている方もおられるでしょう。西郷隆盛は明治維新の英雄。この時代活躍した人々の中でも、一際人気があります。しかし、この西郷隆盛に勝るとも劣らない人気を誇るのが、坂本龍馬です。
若くして暗殺された龍馬には子どもがいませんでしたが、姉の子どもを養子として迎え、可愛がっていたそうです。その養子が坂本直寛。直寛は熱心なクリスチャンで、高知教会の会員でした。その直寛が龍馬の法要を行った際、今井信雄と言う元武士を招きました。
今井信雄は、龍馬を暗殺した見回り組の一員。尋問された際、唯一人「私が殺しました」と罪を認めた人物で、その潔さを知った西郷隆盛が特別に恩赦を願い、釈放されたと言われます。その後、横浜の教会でキリスト教の福音を聞き、心打たれ、改心。静岡県の小さな村で村長となり人々によく仕えていた彼は、法要の席に出席することにします。
坂本直寛の友人は、「父にあたる龍馬を殺した男を法要に招くなんて、そんな馬鹿なことがあるか」と止めようとしました。今井信雄の友人は、「そんな所にのこのこ出かけて行ったら、お前殺されるぞ」と忠告しました。しかし、法要の席で、命を奪った龍馬の子どもに今井信雄が謝罪。父の仇の謝罪を子どもは受け入れ、二人は和解。過去のことは忘れて、これからキリスト教をもって、どう日本を良くしてゆくかを語り合ったと言うエピソードが残っています。
父親の仇を責める権利を捨て、心を開いた坂元直。恩赦で与えられた折角の命を、自ら捨てる覚悟で、和解を求めた今井信雄。二人の間には、十字架のイエス・キリストを力とし、知恵とする者同士の一致が生まれたのです。
私たちも家庭で、教会で、職場で、社会で、対立や仲間割れではなく、一致を生み出す生き方、実践してゆきたいと思うのです。
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