約二千年前、主イエスが十字架で死に三日後に復活されました。神の一人子が、罪人のために死なれ、死に勝利された。人類史上、最大の事件。私たちにとって最も重要な出来事。キリストの死と復活です。キリストを信じる者にとって、イエス様の死と復活が、どのような意味があるのか。私の人生にどのように関係しているのか。いつでも覚えておくべきこと、意識すべきことですが、特にイースターを控えたこの時期、イエス様の受難に目を向けたいと思います。
イエス様が磔になり死なれたのは、およそ三十三歳のこと。公に救い主の活動を開始した期間は約三年です。つまりイエス様は生まれてから三十年、人生の殆どの期間を家族に仕え、大工として地域に仕えました。世界の造り主が人となられたというのも驚きですが、人としての歩みの殆どを田舎の大工として過ごされたというのも驚きです。家族に仕え、隣人に、地域に仕えることは大事なことでした。
公に救い主の活動をされた間、具体的にどのようなことをされたのか。四つの福音書を通して私たちは知ることが出来ます。弟子たちを集め、奇跡を行い、説教を語る。言葉においても、行いにおいても、ご自身が約束の救い主であることを繰り返し示されました。イエス様の為されたこと、イエス様の話されたことは、どれも重要なものですが、およそ三年間の活動を通して見ますと、いくつか重要な出来事。転換点となる場面があります。
そのうちの一つが、ピリポ・カイサリアにおけるペテロの告白の場面。マタイの福音書では十六章に記録されています。
マタイ16章15節~16節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」
イエス様が私を誰だと言うかと問い、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答える。麗しく、美しく、神聖な告白。主イエスが、この告白をどれだけ聞きたいと思われていたのか。どれ程喜ばれたのか。
ここまで共に過ごしてきた弟子が、自分のことを明確に「神の子キリスト」であると認識し告白出来た。そのため、ここからは、ご自身が約束の救い主であることを示すだけでなく、その約束の救い主は何をするのか、どうなるのかを明確に示すようになります。このペテロの告白を契機に、イエス様は十字架への歩みを明確にされるのです。
マタイ16章21節「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」
これまで、ご自分が約束の救い主、キリストであることは示してこられた。ここから、キリストである私は、殺され、よみがえることを示されるようになる。「神の子キリスト」という栄光に満ちた存在が、苦しみを受け、死ななければならないと明言されるようになります。イエス様の歩みの中でも、重要な転換点となる場面。今の私たちは、その意味を知っていますが、当時の弟子たちは、繰り返し教えられてもなかなか理解出来なかったキリスト理解です。
今日、私たちが注目するのは、このピリポ・カイサリアでの出来事から六日後のこと。山上の変貌と言われる場面と、山から下りるイエス様と弟子たちの姿です。神の子キリストであるイエス様、栄光に満ちた方が、罪人を救うために苦しみを受け、死ぬために歩みを進めていく姿を見ていきたいと思います。
マタイ17章1節「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」
キリストであるからこそ、苦しみ、殺されることを明確にされるようになってから六日後。イエス様は三人の弟子を連れて高い山に登られます。ピリポ・カイサリアから北へ約二十キロ。二千八百メートル級のヘルモン山と考えられます。
イエス様は、特別な場面で、十二弟子の中から三人を選ばれますが、ここでもいつものペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人とともに山を登ります。同じ場面が記されている他の福音書では、「祈るため」であったとあります。救い主としての歩みの中でも、重要な転換点を迎えた直後。高い山の上で限られた弟子たちとともに祈りに集中されるイエス。
静かな祈りの場面。しかし、弟子たちにとって仰天の場面となります。
マタイ17章2節~3節「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」
祈られていたイエス様の姿が変わっていく。顔は輝き、衣まで輝き出す。ただごとではない。夢か、幻か。しかし、これこそ本当のイエス様の姿。生ける神の子キリストとしての、本来の姿でしょう。人となられた神である方の栄光ある姿。やがて私たちも天で目の当たりにする栄光です。
さらに弟子たちは、主イエスとともに、二人の人がいることに気付きます。見ただけで、それが誰かは分からないでしょう。イエス様が口にされる呼び名によって、弟子たちにも、それがモーセとエリヤであると分かる。旧約の英雄的信仰者までも現れて、いよいよ呆然となる場面。
栄光の姿に変わられたイエス様のもとに現れた二人。旧約聖書という書物を、人物で表現するとなれば誰かと言えば、モーセとエリヤでしょう。律法の代表者モーセと、預言者の代表者エリヤが現れて、主イエスと語り合っていたというのです。一体何について語り合っていたのか。気になるところ、知りたいところ。それが実にありがたいことに、同じ場面を描くルカには、次のように記されています。
ルカ9章30節~31節「そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」
栄光の姿で、旧約聖書を代表する者たちと何について語り合っていたのか。それは、エルサレムで遂げようとしておられる最後について。つまり、十字架の死について。生ける神の子キリストとしての本来の姿を示しつつ、ご自身の最後、「死」について話されていた。つまり、これもまた、キリストであるからこそ、苦しみ、殺されることを明確されている場面の一つだったのです。
本来、死とは無縁の方。神である方が、ご自身の死について話されている。厳粛な場面。しかしここに、的外れな声が響きます。
マタイ17書4節「そこでペテロがイエスに言った。『主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』」
「栄光あるイエス様の姿。何て素晴らしい。それに、モーセさんとエリヤさんもお揃いで。この場所にいられることは、どれ程素晴らしいことか。どうでしょうか。世俗から離れたこの山で、ともに暮らすことにしませんか。幕屋なら私が造ります。私もご一緒したいのですが。」
感極まるペテロの声が響きます。悪意無く、良かれと思って言ったことでしょう。しかし、的外れな発言。神の子キリストであるイエス様は、ご自身、死ななければならないと言っているのに、この栄光ある姿のままでいて欲しいと願う。イエス様が、山を下り、十字架へ進まなかったら。キリストが罪人のために死ななかったら。誰一人、罪から救い出されることはなくなるのです。願ったことがそのまま実現すると、自分を含め、誰も救い出されないことを願ってしまっている。
六日前にイエス様が語られたこと。また、まさに目の前で栄光に輝くイエス様が、ご自分の死について話されていることの意味を、理解出来ないペテロの姿。
このペテロに対して、父なる神様が語り掛けることになります。
マタイ17章5節~8節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。するとイエスが近づいて彼らに触れ、『起きなさい。恐れることはない』と言われた。彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。」
話途中のペテロに、父なる神様が声をかけられる。「彼の言うことを聞きなさい」と。約束の救い主は苦しみ、死ぬと言われていること。キリストであるから、死ななければならないと言われていること。それが誰のためで、何のためなのか。よく聞くように。あなたの考える救い主像をイエスに押し付けるのではなく、イエス様が語られている救い主の姿を受け止めるように。直接語られても、目の前で話されても、キリストの死を理解出来ない弟子たちに、何と父なる神様までもが、教えようとされている。改めて、主イエスの死が何のためなのか、誰のためなのか考えることが重要であることを教えられます。
ところで、父なる神様はその一人子であるイエスについて「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。これは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、父なる神様が言われた言葉と同じです。(マタイ3章17節)イエス様は、バプテスマのヨハネの洗礼をもって、公に救い主の活動を開始されました。つまり、救い主の歩みの転換点となるピリポ・カイサリアから六日後、この山上にて、父なる神様がイエス様を後押しされる場面ともなっているのです。
弟子たちは、イエス様こそ約束の救い主であると理解するようになりました。生ける神の子キリストである、と。しかし、その本質がどれ程栄光に満ちたものか。神の子キリストという方が、どれ程のお方であるのか、分かっていなかった。その上、その栄光に満ちたお方が苦しみ、死ななければならないということも分からなかった。それが私の罪の身代わりに死なれるということも分からなかった。
神である方。罪と無縁の方が、死ななければならない。この時、イエス様が味わわれている重さと、弟子たちの理解には大きな隔たりがあります。ペテロのために、弟子たちのために、罪人のために苦しみを受けるのに、ペテロも弟子たちも、その意味を理解していない。それでも、イエス様は栄光の姿に留まるのではなく、山を下りていきます。十字架への道を進んで行かれるのです。
マタイ17章9節「彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。『あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。』」
この出来事は、選ばれた三人以外には秘密とされました。救い主が死ななければならないということが、理解されていない状況で、栄光の姿に変わったことだけ伝わることのないようにとの配慮です。
しかし、この言葉を受けて、弟子たちに疑問が出てきます。
マタイ17章10節「すると、弟子たちはイエスに尋ねた。『そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。』
「イエス様、あなたが約束の救い主であることは信じています。そして、律法学者たちは、約束の救い主が現れる前に、預言者エリヤが現れると言っています。聖書にある通りなので、そうなるのでしょう。そして先ほど、エリヤが現れました。これはまさに、あなたが約束の救い主であることを、ますます証明する出来事ではないでしょうか。そうであれば、これは言い広めるべきことです。それなのに、秘密にせよとは、どういうことでしょうか。エリヤが来るというのは、別な意味があるのでしょうか。」との問い。真っ当な質問です。
この問いに対して、イエス様が答えます。聖書が伝えていたエリヤというのは、先ほど現れたエリヤのことではなく、その約束は既に成就していること。それに加えて、恐ろしいことを言われます。
マタイ17章11節~13節「イエスは答えられた。『エリヤが来て、すべてを立て直します。しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。』そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。」
聖書が告げていた約束の救い主の前に来るエリヤ。それは、バプテスマのヨハネのこと。バプテスマのヨハネにおいて、その約束は成就していると言われます。イエス様は直接的に名前を出していませんが、弟子たちもそれがバプテスマのヨハネのことだと分かりました。そして、ここで恐ろしいことを言われています。約束の救い主の前に現れるエリヤ。そのヨハネに対して、人々は何をしたのか。好き勝手なことをしたと言います。好き勝手なことをした。
好き勝手なこととは、何のことでしょうか。真っ先に思い出されるのは、領主ヘロデがしたことです。(マタイ14章)ヘロデが自分の兄弟の妻ヘロディアを奪ったことについて、ヨハネが糾弾したため、ヘロデはヨハネを捕え牢に入れました。自分の悪を指摘されたら、牢に入れるという好き勝手。さらに、そのヘロディアの娘の踊りを見た時、求めるものは何でも与えると約束し、ヨハネの首が欲しいと言われると(このことから、ヘロディアもヨハネを嫌っていたことが分かります)、心を痛めながらも、面子を保つためにヨハネを殺します。ヨハネの命よりも、己の保身、己の面子を優先させるという好き勝手。
また祭司長、律法学者たちも、バプテスマのヨハネについて、どこから来たのか。天からか、人からかと問われると、「分からない」と答えます。(マタイ21章)よく考えて分からないと答えたのではなく、自分たちの保身のために分からないと言う。祭司長、律法学者という、これ以上ないほど聖書に精通していた者たち。しかし、ヨハネに対して、その知識を用いませんでした。聖書が教えていることは何か。神様が願われていることは何かではなく、私が判断したいようにするという好き勝手。
無茶苦茶だということです。何が正しい、何が良いことかは関係ない。何が聖書的か、何が神様の喜ばれることか関係ない。自分のやりたいようにするという好き勝手。人々は、バプテスマのヨハネに対して、好き勝手なことをした。ひどいこと、恐ろしいこと。しかし、イエス様は更に恐ろしいことを言われています。人の子も同じように苦しみを受ける。つまり、イエス様も、同じように好き勝手なことをされると言っているのです。
苦しみを受け、死ぬために山を下りているキリスト。その決意のほどを、私たちは真剣に受け止めたいと思います。それも、救い主としての目的を全く理解しない者たちのために。自分に対して、好き勝手なことをする者たちのために、死のうとされる。これから死ぬというのに、本来の目的と全く違う理由で、それも好き勝手なことをされて殺されるという苦しみを、確認したいと思います。身代わりの死でも十分な苦しみ、しかし、その意味を理解せず嘲笑の中で死にいく苦しみとは、どのようなものなのか。
山を下りたところにある苦しみは、このような苦しみでした。しかし、イエス様は山を下りられた。栄光の姿に留まるのではなく、罪人を救うために山を下りられる。私を救うために、山を下り十字架へと進まれた。理解されればその者のために死ぬというのではない。全く理解しない、好き勝手なことをする。それでも、罪人を救うという救い主。
私たちも、自分勝手に生きていた者。好き勝手に生きていた者。キリスト苦しみや死の意味など全く関係ないものとして生きていた者。しかし、その私のために主イエスが死なれたこと、復活されたことを信じて、キリスト者となったのです。
それでは、今の私たちは、どれだけ真剣に、イエス様の苦しみの意味、十字架の死の意味を意識し、考え生きているでしょうか。好き勝手に生きていたところから、キリストを通して神の子とされた。その私たちが、もう一度、好き勝手に生きていないか。何としても、私を救おうとされたイエス様の決意、その愛を無視して、生きていないか。今日のイエス様の姿を前に、今一度再確認したいと思います。
不条理な死であろうとも、父なる神様の御心に従われた救い主。好き勝手なことをする者たちのために命を捨てる救い主。このイエス様の命を頂いた者として、自分はどのように生きるのか。よくよく考えながら、イースターへと歩みを進めていきたいと思います。
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