皆様は、裸の王様と言うアンデルセンの童話をご存知かと思います。ある王様の元に仕立屋が二人現れて、跪くと、「これは愚か者には見ることのできない布です」と王様に手を差し出します。王様は、布の見えない自分が愚か者だと思われたくないために、「おお、素晴らしい布だ!」と感想を述べました。周りの家来たち達も、布の見えないのは自分が愚か者だと思われたくないため、次々に称賛したのです。
やがて、仕立屋は機械を借り、服を仕立てるふりをして、「服が出来ました」と王様に見せる。家来たちが口々に「美しい服だ」と言うので王様も「やはり自分には見えないが、きっと美しい服なのだろう」と考え、大金で買い取ると、その服を着て町中を凱旋することに決めました。
『愚か者には見ることのできない服』の存在は、町の人々も聞いており、皆が愚か者と思われたくないがために、裸の王様を次々と賛美したのです。しかし、気を良くして歩いていた王様を見て、子どもたちが言い出しました。「王様が裸で歩いているぞ」「裸の王様だ!」それを聞いた町の人々も、徐々に王様が裸であると言い始めたため、王様は顔を赤くして、城に走って逃げ込んだ、と言うお話です。
このお話から様々な教訓を引き出すことができますが、その一つとして、プライドに捕らわれた人間は、自分の本当の姿に気がつきにくいこと。他の人から本当のことを指摘され、初めて高慢な自分に気がつくことができる程の、実は愚か者であること。その様な教訓を読み取ることができるかと思います。
今、私たちが礼拝で読み進めていますコリント人への第一の手紙。使徒パウロからギリシャの国、コリントの町の教会宛てに書かれた手紙にも、裸の王様が登場してきます。
4:8「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。」
パウロが、「あなたがは王様になっています、いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのに」と痛烈に皮肉ったのは、コリント教会で仲間割れし、互いの優劣を争う人々でした。彼らは、私たち抜きで、つまり6年前コリント教会を建てたパウロの教えを忘れ、教師の上下、優劣を決めることができると考える程、自らの知恵を誇り、グループに分かれ、対立していたのです。
同じ神を信じる者同士が仲間割れすると言う、教会としてあるべきところから落ちていたコリント教会。それにもかかわらず、彼らは自分たちは良い教会、何の問題もないと思い、満足していたらしいのです。それを知ったパウロは、「あなたがたは王様になっています。」と叱責しました。「あなた方の高慢が邪魔をして、あなた方は自分たちがどんなに酷い状態にあるのか、気がつかないでいる。あなた方は裸の王様ではないか。」という皮肉です。
しかし、4章8節から13節まで続く厳しいことばは、言うパウロも言われた側のコリントの人々にも、心痛いものだったでしょう。そこで、使徒は自分とコリント人との関係を父と子の関係になぞらえ、彼らを愛する子どもとして抱きしめようとします。
4:14、15「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」
今までのことは、あなた方を敵と思って言ったことではない。父親として子どもを愛し、期待するからこそ語ったことばであって、「あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、諭すため」そう言うのでした。敵とみなして責めたのではない。子どもが自分の本当の姿に気がつき、正しい道に戻ってほしいと願う親心から出たことば、と言うことでしょう。
さらに、コリント人への思いが溢れ出て、「たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」と、パウロは語りかけます。
養育係と言うのは、当時主人の子どもに仕える仕事をしていました。主人の子どもが学校に行く時は持ち物を持ったり、身の周りの世話をする。外出の際は同行して、子どもの安全を守る。時には勉強を教えることも仕事のうちでした。この様に、四六時中子どもと接触していましたから、養育係の中には父親よりも子どもと親しくなる者もいたようです。しかし、どれ程親身な養育係があろうとも、養育係は父親ではない。あなた方の父親は私ただ一人、そうパウロは訴えています。
勿論、パウロには、コリント教会で奉仕した何人もの養育係、つまり教師達をないがしろにする気持ちはなかったでしょう。むしろ、仮に養育係が一万人いてもと語ることで、コリント人への愛情を伝えたかったのだと思われます。さらに、自分たちの派閥に兄弟姉妹を誘いこみ、勢力拡大のために利用する。その様な者たちの動きを黙って見ているわけにはゆかない、と言う思いもあったのでしょう。
「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ。」親が子に仕えるのは、子どもの幸せのため。同じく、パウロがコリント人に仕えたのは、彼らの幸せのため、即ち彼らが福音に生きるように、キリストに従って歩むようになるためでした。しかし、派閥を作って争う者たちは、自分たちのために人を利用し、教会に混乱をもたらしながら、恥じることがなかったのです。
以上、愛とは人に恥ずかしい思いをさせることなく、人を諭すこと。自分のために人を利用することではなく、人の幸いのために人に仕えること。パウロからそう教えられます。
果たして、自分は人を諭す時、その人に恥ずかしい思いをさせぬよう注意してきたか。自分の奉仕は、その人自身の幸いのためであったのか。それとも、自分の思うように行動してもらうためのものであったのか。私たち一人一人、自らの愛について振り返るべきところではないかと思います。
さて、次に語られるのは、仲間割れの問題を扱ってきたこの手紙の第1章から4章までのまとめ、パウロが最も伝えたかったこと、勧めとなっています。
4:16,17「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」
パウロは「私に倣うものとなってください」と願います。「倣う」は、単に従う、学ぶと言う意味ではありません。親子の様に「生き写し・そっくりになる」と言うことです。勿論、これはパウロ派に加われと言う様な勧めではありません。むしろ、「私もアポロもペテロも、自分たち教師はみな等しくキリストのしもべ。協力してあなた方に仕える者、神の前に上下や優劣なしとし、差別を撤廃した私の心を心としてください。」と言う、使徒の切なる願いでした。
「私に倣う者となってください」と言ったのは、パウロが主イエスに忠実であるその点を見習って欲しかったのでしょう。伝えたかったのは、「私がキリストを見習っている様に、あなたがたもキリストを見習う私を見習ってください」と言うことでした。ですから、「あなた方が忘れたこと、6年前コリントで身をもって示した、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなた方が思い起こすことができるように、テモテを送りました。」そう語るパウロです。
テモテは、パウロにとってコリント人と同じく、愛する子どもでした。信仰に導いた順番からすればテモテが先ですから、テモテは兄、コリント人は弟と言うことになるでしょうか。しかし、自分の片腕とも頼むテモテを派遣することは、大きな犠牲を伴ったはずです。けれども、コリント人のためには、これが最善の方法と考えたのでしょう。「彼は、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれる人」。パウロはテモテに太鼓判を押しています。
テモテと言う貴重な働き人を、自分のことを犠牲にしてでも派遣したパウロ。パウロが、どれ程コリントの人々が争い、対立をやめ、一致することを願っていたかが伝わってきます。それでは、自分たちがこれ程パウロに愛されていることを、コリントの人々はわかってくれたのでしょうか。パウロの思いは、彼らの心に届いたのでしょうか。
この点において、心配な人々がいました。パウロのことを侮る人々の存在です。
4:18~20「あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。神の国は、ことばではなく力にあるのです。」
コリント教会の中には、パウロは使徒のくせに、自分たちを恐れている。自分自身で来る勇気がないものだから、身代わりにテモテを送ってきたに違いない。そう考える者がいたようです。
それを知ったパウロは、思い上がりも甚だしいとして、私は恐れているのでも、敬遠しているのでもない。もし、主が許して下されば、すぐにでもあなた方のところに行きたいと思っている。ただ今のところは、エペソの町での奉仕に専念することが、主のみこころと考えているので、信頼するテモテを派遣したのだと応じました。
事実、コリント教会訪問の計画を、この時既にパウロは練っていました。具体的な時期についても考えていたのです。そんなことも知らずに、パウロの好意を無にするコリント人。パウロが払った犠牲のことは考えず、助けなど不必要と撥ねつけるコリント人。何と手のかかる子どもであることか。高ぶるコリント人のことを悲しみ、タメ息をつくパウロの姿が目に浮かぶようです。
しかし、悲しんでいるばかりでは、父親はつとまりません。子どもたちの実際の生活ぶりを見て、毅然とした対応をとる必要もあるでしょう。「思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。神の国は、ことばではなく力にあるのです。」強いことばが、パウロの口から放たれました。
神の国の王はイエス・キリスト。国民は、イエス・キリストに従う者。神の国の領土は、イエス・キリストに従う者の心ということになります。神の国はことばにはなくとは、パウロを侮る人々が議論好きで、おしゃべりであることへの皮肉かもしれません。神の国は力にあるとは、彼らが神の国の民としてふさわしい生活、生き方をしているかどうか、是非見てみたいものだと言う、挑戦的なことばです。そして、もう一言、使徒は念を押しています。
4:21「あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。」
いつまでも仲間割れを続ける、高慢で愚かな子どもには訓練のむちが、お互いに一致するため、パウロに倣う生き方に取り組む子どもには、愛と優しい心が与えられる。私がどちらをもって行くことを望むのか。それは、あなた方次第です。
これは、パウロからコリント教会へのことばですが、イエス様から私たちへのことばとも考えることができます。パウロがコリントの人々を愛し、その生き方をよく見ていたように、イエス様も私たちを愛し、私たちの生き方を見ておられるからです。
「あなたはわたしが与えた賜物をどう使っていますか。人の上に立つために、使っていますか。人を助け、人を生かすために使っていますか。教会、家庭、職場、社会において、あなたが大切にしていることは何ですか。自分の権利や立場を守ることですか。たとえ、それを犠牲にしても、一致と平和を求めることですか。今この時、この場所で、神の国の民としてどう行動すべきか。考えながら、生活していますか。わたしはあなたのことばではなく、生き方を見ています。」そんな、イエス様のみ声を、私たち聞き取り、「キリストにある私の生き方」について振り返りたいと思うのです。
最後にもう一つ、今日の箇所から確認したいことがあります。パウロが、「キリストにある私の生き方」を見習う様、コリント人に勧めたこと、私たちは見てきました。これは、教会の中で私たちがへりくだること、自分が見習うべき兄弟姉妹を見いだし、交わることにより、イエス様に似た者へとつくり変えられてゆくことを教えている言葉と考えられます。今日の聖句です。
ピリピ2:3「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」
私には四日市教会の中に、また長老教会の中に、尊敬し、見習いたいと思う方が沢山います。神様に対する幼子の様に素直な信仰を見て、励まされる方。聖書を子どもにもわかるよう、生き生きと教える点において、見習いたい方。寛容な心と態度を見習いたいと思う方。あわれみのわざに取り組む姿勢について、見習いたいと思う方。物事を計画し、実行してゆく能力に優れている点を、見習いたい方。あげてゆけばキリがありません。
本当に多くの、キリストにある忠実な生き方を示してくださる方々の存在に、私は励まされ、支えられ、慰められ、刺激を受けてきました。教会の交わりの恵みです。皆様はどうでしょうか。
私たちがへりくだるほどに、神様は兄弟姉妹の中に尊敬すべき点、見習いたい点があることを見せてくれるのだと思います。こうした恵みに、私たちの心の目が開かれるように。教会の交わりの中で、キリストにある私たちの生き方が整えられることを願い、教会生活を送ってゆきたく思います。
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