私たちは人と会話する時、初めて会う人、関係が深くない人とは丁寧にします。相手の言いたいことは何か。自分の言いたいことは伝わっているか。確認しながら話を進めます。よく知っている人、関係が深い人とは、言葉が簡単になります。丁寧に話さなくても、それまでの関係から何を言いたいのか、お互いに分かるようになる。家族、夫婦の間であれば、「そこの、あれを取って」という言葉でも、何を取って欲しいのか通じる場合があります。そのため、関係の深い人たちの会話を、第三者の立場で聞くと、理解するのは難しいものです。それまでの関係に基づいて話されているので、背景を知らない人がその会話を理解しようとすると、多くの推測をすることになります。
手紙でも同様です。まだ会ったことのない人、関係が深くない人に宛てて書かれた手紙の場合。第三者でも、その内容は理解しやすいもの。しかし深い関係がある中で記された手紙。また何往復もしている手紙を途中から読み、その中身を理解するのは難しいものです。
新約聖書には多くの手紙が含まれています。二十七の書のうち、何と二十一が手紙。個人に宛てた手紙もあれば、教会宛ての手紙もあります。教会宛ての手紙の中には、一つの教会に宛てた手紙もあれば、複数の教会、つまり多くの人に読んでもらうことを前提にして書かれた手紙もあります。
一つの教会に宛てた手紙にも、色々とあります。「ローマ人への手紙」は、著者パウロがまだ行ったことのない教会に宛てた手紙。著者が送り先の教会と関係が深くない中で書かれた。そのため、自分のこと、自分の信じていること、自分の伝えたいことが丁寧に記された書で、このような意味で、ローマ人の手紙は比較的読みやすいものです。「コリント人への手紙」は、著者パウロと、コリント教会は関係が深く、実際の行き来も、手紙のやりとりも何度もされている。そのため、背景を知らずに読むと、理解しづらい、読みにくいと感じられる書となっています。
断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り八回目。コリント人への手紙第二となります。大牧師、大宣教師、大神学者であったパウロによる手紙。お伝えしましたように、背景を知らないと理解することが難しい書。しかし、背景を知って読むと実に面白い書。パウロとコリントの教会がどのような関係だったのか。パウロとは、どのような人なのか。このような手紙を通して、神様は私たちに何を教えようとされているのか。考えながら読み進めたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。
背景を知らないと読みづらい書。そこで、コリントの教会とパウロの関係を、少し丁寧に確認したいと思います。使徒の働きでは、パウロが最初にコリントを訪れた時の記録が十八章に出てきます。第二次伝道旅行と言われる度の後半です。通常、パウロは新しい町に行くと、まずはその町にいるユダヤ人にキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人が、キリストを受け入れないと、異邦人に専念する。コリントでも同様で、まずは主にユダヤ人たちに語り、拒絶が大きくなると、異邦人への宣教に専念するようになります。このコリントでの伝道の際、神様がパウロを励ました有名な言葉が記録されています。
使徒18章10節~11節
「『わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」
神様の言葉に励まされて、パウロは一年半もの期間、教会開拓に取り組み、その結果建て上げられたのがコリントの教会でした。コリントでの一年半の伝道、教会形成を終えたパウロは、エペソ、エルサレムを経由し、派遣元のアンティオキア教会へ戻り、第二次伝道旅行が終わりとなります。
その後、第三次伝道旅行に取り組むことにしたパウロは、まずエペソに行きます。このエペソでの伝道、教会形成は足掛け三年にも渡る期間。パウロにしては、実に長い間、エペソに滞在します。そして、このエペソにいる時に、パウロとコリントの教会で、様々なやりとりがなされていました。
まず、手紙のやりとりがあったことが分かります。コリントの教会からパウロに対しての手紙(Ⅰコリント7章1節など)もあれば、パウロからコリントの教会への手紙もありました。「パウロからコリント教会への手紙」。私たちは聖書の中に、第一、第二と二つの手紙を読むことが出来ますが、実際にパウロが書いたのはもっと多かったことが分かっています。
Ⅰコリント5章9節
「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。」
ここに記された「前の手紙」は、失われたもの。つまりパウロが教会へ宛てて書いたものが、全て聖書として残っているわけではないのです。(パウロがコリント教会へ宛てて書いた手紙がどれ位あったのか正確には分かりませんが、多くの人が四つ以上と考えています。)
手紙だけでなく人の交流もあり、コリントの教会からパウロのもとへ訪問客も来ていました。(Ⅰコリント16章17節、Ⅰコリント1章11節)パウロが、コリントの教会へテモテを送ること(Ⅰコリント4章17節)、テトスやその他の人たちを送ることもありました。(Ⅱコリント8章18節)。使徒の働きからは、パウロは計二回、コリントの教会へ行っていますが、手紙によるとパウロは三回コリント教会に行っていることが分かります。
Ⅱコリント13章1節
「私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。」
テモテやテトスを送っただけでなく、(使徒の働きには記されていない)パウロ自身によるコリント教会の訪問もあった。他の教会と比べて、パウロとコリントの教会はよく交流していたことが分かります。
なぜ、パウロはコリント教会と頻繁に関わりを持つことになったのか。一つの理由は、コリントの教会に多くの問題があり、その問題を解決するためです。もう一つの理由は、パウロとコリントの教会の一部の人たちと関係が良くなかった。緊張関係があり、それを何とかしたいと考えたからです。いくつか確認すると、
Ⅰコリント4章18節~19節
「あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。」
Ⅰコリント9章3節~4節
「私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。」
「思いあがっている人たち」とか「私をさばく人たち」と、強い表現が使われています。第一コリントの手紙を書く段階で、それなりに緊張関係があったことが分かります。
パウロ自身による伝道、教会形成によって建てられたコリント教会。様々な問題を抱え、緊張関係にある人もいる。人を送り、手紙を送り、自分自身も行き、何とかコリント教会を良い状態にしようと取り組んできたパウロ。そのパウロが三度目の訪問(第三次伝道旅行の終盤、使徒の働き20章3節)を前に記したのが、このコリント人への手紙第二という書です。
さて、それではこの手紙を書く段階で、コリントの教会はどのような問題を抱えていたのでしょうか。パウロとコリント教会の関係はどのようなものだったでしょうか。手紙から分かるのは、コリント教会に新たに起こった問題は、「偽使徒」に関する問題。そして、パウロとコリント教会の関係は、より深刻になっている印象です。
Ⅱコリント11章4節、13節
「実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。」
もともと、コリント教会の一部の人たちとパウロは緊張関係にありました。そこに、大使徒を自称し(Ⅱコリント11章5節)、話し方は雄弁(Ⅱコリント11章6節)、その振る舞いによって自分自身を偉大な者と思わせることが出来る(Ⅱコリント11章20節)者が現れます。結果、パウロは「顔を合わせている時はおとなしいのに、離れていると強気になる人」(Ⅱコリント10章1節)、「手紙は重みがあるが、会うと弱々しく、話は大したことない。」(Ⅱコリント10章10節)と攻撃されたようです。
様々な問題を抱えていたコリント教会。パウロからすれば、緊張関係があり、さらに偽使徒が現れ、自分と教会を引き離そうとしている。この状況で、手紙によって、自分の伝えた福音に引き戻す必要がある。非常に難しい状況だと思います。果たして何を、どのように書いたら良いのか。
この問題にパウロはどのように解決を与えようとしたのか。偽使徒たちが語ったとされる「別のイエス」や「異なった福音」について、それがいかに間違った教えであるか。手紙の中で、具体的にその間違いは指摘されていません。それよりも、話し方が雄弁であるとか、偉大な者であるかのように振る舞うことが出来る。語られている内容でははく、語り方に魅かれたコリント教会の姿勢を正そうとします。教会が、伝えるべき福音よりも、いかに伝えるかに集中する時。キリストよりも、伝える人自身に注目する時。それ自体が、教会の問題となる。「異なった福音」に陥る危険があると言う指摘。
伝えるべき福音よりも、いかに伝えるかに集中している。キリストよりも、伝える人自身に注目している。その問題を抱えたコリント教会に、福音を伝えるとはどのようなことか。福音に仕えるとはどういうことか。伝える者も、伝えられる者も、キリストに注目するとはどのようなことなのか。これがこの手紙のテーマです。
パウロはこのテーマについて、様々な視点、様々な表現で語りますが、特に大事にしているのは、「弱さを誇る」という視点です。
手紙の後半に、パウロが自分のことを誇るという有名な箇所があります。ここは非常に面白いところで、パウロが、自分で誇ると言い出しながら、誇ることを嫌がるのです。まるで、誰かに自慢話をするよう強制されているかのように、本当は嫌なことだけど、しょうがなくするという雰囲気。繰り返し言い訳めいたものを言いながら、話し始める。面白いところなので、少し確認しますと、
Ⅱコリント11章1節
「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。」
Ⅱコリント11章17節~18節
「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。」
Ⅱコリント11章21節b
「何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私はおろかになって言いますが、私もあえて誇りましょう。」
こうして、やっと話し始めた自慢話ですが、すぐに数々の悲劇を数え挙げる、奇妙な自慢話になります。(Ⅱコリント11章22節~30節)雄弁さを誇った偽使徒に対して、苦しみの数々を通して労してきたことを誇ったと言えるでしょうか。様々な労苦を語った後で、一度、次のようにまとめます。
Ⅱコリント11章30節
「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」
しかし、続いてもう一度、自分を誇ると言い出し、今度は本当に誇りと思うことを話すのです。このあたりが、この手紙の分かりづらいところであり、面白いところ。パウロの気持ちが二転三転しているように読めるのです。それでは何を誇ったのかと言えば、パウロが経験した神秘的な体験。天に引き上げられ、天の声を聴いたというのです。たしかにこれは、自慢話になりうる。このような体験を誇ることで、自分は特別な者、偉大な者と思わせることが出来る。ところが、パウロはこの話をした途端に、また弱さを誇ると言い始めるのです。
Ⅱコリント12章7節~10節
「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
結局、弱さを誇る。この信仰の姿勢を保ち続けるパウロの姿が印象的です。福音を伝えるとはどのようなことか。福音に仕えるとはどういうことか。伝える者も、伝えられる者も、キリストに注目するとはどのようなことなのか。様々な答え方をすることが出来ますが、この書におけるパウロの思いをまとめると、「弱さを誇る」ことに集約されているように読めるのです。
なぜ「弱さを誇る」ことが福音を伝える上で重要なのか。なぜ「弱さを誇る」ことが、キリストに注目することにつながるのか。次の言葉によくまとめられていると思います。
Ⅱコリント4章6節~7節
「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」
福音という宝は、土の器の中に入れられた。ここで言う、土の器とは、弱さの象徴です。なぜ、弱さの中に福音という宝は入れられたのか。それは、そもそもキリストを信じることの入り口が、自分の弱さを認めることにあるから。私は弱く、自分で自分を救うことが出来ない。自分で自分を変えることも出来ない。そのように弱さを認めた者が、福音という宝を手にすることが出来るのです。
また、弱いからこそ、その力が神のものであることが明らかになるという意味もあります。人の弱さが、神様の力を示す重要な舞台となる。キリストの力が大いに示されるために、自分の弱さを誇る。
以上、コリント人への手紙第二でした。是非とも、福音を伝えるとはどのようなことなのか。キリストに注目するとはどのようなことなのか。いかに伝えるべきか考えるとしたら、何を意識したら良いのか。考えながら、この手紙を読み通して頂きたいと思います。
そして、自分自身の信仰の姿勢はどのようなものか、顧みたいと思います。「キリストが私のために何をされたのか」よりも、「私が何をしたいか」に焦点が向いていないか。神様は、私を弱さの中から救って下さったことは分かっている。しかし、弱さの中で、豊かに生かして下さっていることを無視していないか。「弱さを誇る」という信仰生活。より私たちが使う言葉で言えば、「弱さを認める」「弱さを受け入れる」「弱さを許す」信仰生活と言えば良いでしょうか。神様の前で弱くなり、人の前でも自分の弱さを示すことが出来る。それこそ、神の民にふさわしい。私たちにふさわしい歩みであることを覚え、「弱さを誇る」歩みを送りたいと思います。
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