2018年8月5日日曜日

Ⅰコリント(11)「教会~罪の問題に取り組む共同体~」Ⅰコリント5:1~13


イエス・キリストを信じる者の集まり、教会はしばしば「罪赦された罪人の集まり」と言われます。イエス・キリストを信じた者は、罪赦され神の子と呼ばれる恵みを受ける。しかし、罪赦されされたからと言って、私たちが罪を犯さなくなるわけではありません。私たちはしばしば、いや日々心の思いにおいて、ことばにおいて、行動において罪を犯す者です。

キリストを信じても罪を犯す。キリストを信じていなくても罪を犯す。そうだとすれば、キリストを信じる者と信じない者、教会とこの世の人とは、どこが異なるのでしょうか。

様々なことが言えると思いますが、今日お話ししたいのは、罪に対する考え方、取り組み方の違いです。聖書の神を知る人は、自分が罪人であることを認めます。たまたま罪を犯すのではなく、自分の中に罪の性質があることを認めているのです。それに対して、聖書の神を知らない人は、悪い思いを抱くことや悪い行いを認めても、罪の性質があることまで認めようとはしません。罪の源に、聖なる神様の存在を認めようとしない、信仰の問題があることを認めようとはしないのです。

私たちが持つ罪の問題に対して、どう対応することが正しいのか。教会は罪の問題に対して助けになるのか。その様なことを念頭に置いて、今日の箇所を読んでゆきたいと思います。

礼拝において読み進めているコリント人への手紙第一も、今日は第5章に入ります。紀元1世紀半ば。この手紙の著者パウロが建てたコリント教会は、様々な問題を抱えていました。仲間割れ、性的不道徳、偶像への供え物、富める者の高慢、礼拝の乱れなど。これが本当にキリスト教会と言えるのかと思われる程の有様、混乱ぶりだったのです。しかし、この様な教会をも神の教会と認めるパウロは、忍耐と知恵を尽くして、一つ一つの問題を取り上げ、適切な助言、勧め、命令を出してゆくのです。

 先ず、パウロは、第1章から第4章まで仲間割れの問題を取りあげ、教会の一致を説きました。今日の第5章では性的不道徳と、その罪に対し間違った対応をしていたコリント教会の問題を扱っています。


 5:1、2「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。」


 父の妻を妻にしている者がいる。余りのことに耳を疑がってしまいます。父の妻、つまり当人にとって母と言うことは、生みの母の場合もあるでしょう。父の後妻、継母の場合もあるでしょう。父の側女と言う可能性もあります。しかし、いずれの場合であっても、その様な女性を妻とすることは、忌み嫌うべき行い。聖書は勿論、当時のギリシャローマの法律でも禁じられていました。

 それを、キリスト教会のメンバーが犯したと言うのですから、驚いてしまいます。そして、この出来事は、性的不道徳で名高いコリントの町でもスキャンダル、噂になっていたらしいのです。そんな噂を耳にしなければならなかったパウロの心は、どれ程痛んだことでしょう。

 しかし、使徒が失望したのは、この不道徳な兄弟に対する教会の対応でした。彼らはこの兄弟のことを悲しむことがなかったばかりか、誇り高ぶっていたと言うのです。パウロ、アポロ、ペテロと言った有名な使徒、教師に指導された教会だからと誇っていたのか。イエス・キリストを信じて救われた者は、何をしても自由、何をしても神に赦されると考え、キリスト者の自由をはき違え、高ぶっていたのか。

 いずれにしても、自ら悔い改めることができなくなる程、罪に捕らわれ、縛られてしまった兄弟の存在を、心から悲しめないコリントの人々、神様の教えを軽んじ、罪に対する正しい対応を怠ったばかりか、それに気がついてさえいないコリントの人々の姿に、パウロは失望落胆したのです。

 けれども、こんな教会であっても捨てておけないのが、親心というもの。続くことばは、コリント教会の生みの親であるパウロにしか語ることのできないものと思えます


 5:3~5「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」


 この時パウロは、コリント対岸の町エペソにいました。しかし、「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました」と言うのです。しかも、あなたがたと私とが主イエスのもとに集まって決めました、とこのさばき、戒規の執行が、パウロの独断ではなく、教会のメンバーが共に祈り、ともに神様のみこころを求めて行ったことであると強調しています。

例え場所は離れていても、親の心は心配する子どもの所に向かう。子どもとともに、子どものために何が最善かを考える。親ならば、誰でも経験することではないではないかと思いますが、この様な非常に厳しい叱責のことばを通して、私たちはコリント教会のことを、パウロがいかに心配していたか、愛していたかを知ることができると思います。

また、「そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです」とあるパウロのことば。これは、教会はキリストの支配するところ、教会の外であるこの世は、サタンの支配するところとする、聖書の世界観に基づいています。勿論、だからと言って、キリストとサタンが対等の存在であるわけではありません。サタンがこの世の支配者と呼ばれているのは、神様がキリストの再臨の時まで、一時的にサタンがこの世を支配することを許可しているからでした。

なお、罪を犯した者がどんな場合でも、教会から除名され、この世の者として扱われることになるのかと言うと、そうではありません。この戒規は、あくまでも兄弟姉妹の助言や祈り、小会の勧めにも関わらず、頑なに罪を悔い改めることをしない者に対する対応でした。イエス様は、「天の父は、どんな小さな者も滅びることを望まない」と語られた後、罪を犯した兄弟にどう対応するべきかについて、こう教えています。


マタイ18:1517「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」


第一段階、二人だけの所で兄弟の罪を指摘する。その結果兄弟が悔い改めたら、それで良し。第二段階、もし悔い改めなければ、今度は二人、三人で集まり、助言する。その結果兄弟が悔い改めれば、それで良し。第三段階。もし悔い改めなければ、教会つまり小会会議がこの兄弟に助言し、その結果兄弟が悔い改めたら、それで良し。第四段階。それでも一定の期間を待って、悔い改めることがなければ、その時初めて小会はその兄弟を異邦人か収税人のように扱うこと、パウロの表現によれば、サタンに引き渡すことが許されると言うのです。イエス様は、私たち教会が、罪を犯した兄弟に愛と忍耐をもって仕えること、悔い改めた兄弟は受け入れることを求めておられるのです。

そして、除名と言う厳しい戒規も、その目的はあくまでも、その人の霊が主の日に救われるためとあることに注意したいと思うのです。処罰のための処罰ではない。悔い改めのため、回復のための対応、訓練であることを忘れてはならないと思うのです。

こうして、戒規を下すことは、罪を犯した兄弟のためであるのですが、同時に教会のためでもあります。人に助言し、人を戒めることは、私たち自身の信仰を引き締めるのです。


5:6~8「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」


ここで、パウロはコリントの人々の中に残っている罪の性質について、よくよく注意するよう勧めています。背景にあるのは、旧約聖書の時代、神の民イスラエルが経験した出エジプトと、それを記念して毎年行うよう定められた過ぎ越しの祭りでした。

神様の導きによって、イスラエルの民がエジプトから救出された際、夜のうちに大急ぎで旅立つ必要がありました。その為、普段ならパン種を入れ、膨らませたパンを食べることができるのですが、この時は種を入れない、平べったいパンを作ることしかできませんでした。これを記念して、過ぎ越しの祭りの食事では、種を入れないパンを食べることが習わしとなったのです。

また、出エジプトの際、「門や鴨居に、屠られた子羊の血を塗った家に、私のさばきはくだることなく、過ぎ去る」と、神様は約束しました。それを信じて実行したイスラエルの民は、エジプトに下された神のさばきを免れ、救われたのです。この出来事には、屠られた子羊が、イスラエルの民の代わりに、彼らの罪を負い、神のさばきを受けたと言う意味がありました。これを記念し、過ぎ越しの祭りの食事で、イスラエルの民は子羊を食べるようになったのです。

「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」と語った時、使徒の心にあったのは、まぎれもなく、十字架の上で私たちの罪のため、私たちに代わって罪の罰を受けてくださったイエス・キリストの姿でした。私たちの罪を赦すため、死に至るまで忠実に、全身全霊、仕えてくださったイエス・キリストへの感謝こそ、私たちを神の子として正しく生きることへと導く力なのです。イエス・キリストの十字架の死に現わされた神様の愛を喜び、よく味わう時、私たちは罪を悔い改め、神様の喜ばれる生き方を選ぶ力を受け取ることができる。それが、パウロの勧めでした。

私たちも、兄弟姉妹に対する悪意や意地悪な言動を悔い改め、自分を戒めたいと思います。誠実な心と真実な言動で兄弟姉妹に接してゆきたいと思うのです。

最後は、パウロの勧めを誤解、曲解した人々からの批判に応じる使徒のことばです。


5:9~13「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」


 「私は前の手紙で~」とありますから、コリント人への手紙第一の前に、パウロはコリント教会へ手紙を書き送っていたと考えられます。それを読んだパウロを良く思わない人々は、使徒の勧めをねじ曲げて取り、批判を展開したようです。

 彼らは、第一に、パウロはこの世の性的不道徳者、悪人、偶像礼拝者との付き合いを一切禁じていると受け取りました。「しかし、そんなことをしたら、私たちはこの世で生活できず、この世から出ていかねばならないでしょう。私の勧めはそうではなく、除名を受けた兄弟たちで、今もそうした罪の中にありながら、一向に悔い改めようとしない心かたくなな人々と、親しく交際しないようにと言うことです」。そうパウロは応じたのです。罪の中にある人が、そのままの状態で良いと感じるような交際をすることは慎むように、と言うのが勧めの趣旨でした。逆に言えば、罪を悔い改めようとしている兄弟であるなら、積極的に交わり、神様に立ち返るよう勧めたことでしょう。

 第二に、彼らは、パウロは父の妻を妻とした男性のことばかり問題にして、相手の女性のことは放っておくつもりかと批判していたようです。それに対しては、教会の外の人たちをさばくことは神様の仕事。私たちの使命は兄弟姉妹の罪を示し、悔い改めを勧めること。そう応じたパウロです。

 私たち教会が慎むべきことと励むべきこと。私たちが責任をもって行うべきことと、神様にゆだねるべきこと。パウロによる、みごとな交通整理でした。

 以上、今日の箇所を読み終えて、皆様は何を思われたでしょうか。私には改めて教えられたことがあります。それは、教会生活とは、私たちが罪の問題に取り組み続けるため、神様が与えてくれた交わりではないかと言うことです。私たちは、生まれつき自分に甘いと言う弱さを抱えています。それは、自分の力で自分の罪を認めること、罪を悔い改めることが非常に難しいと言う課題につながっています。

 それをよくご存じの神様は、私たちの周りに兄弟姉妹を置いてくださいました。教会の交わりの中で、私たちは、愛を持って兄弟の罪を示し、悔い改めを勧める立場に立つことがあるかもしれません。逆に、兄弟から罪を示され、悔い改めに導かれることもあるでしょう。私たちは罪の悔い改めにむけて、人に仕え、人を励まし、人のために祈る使命があります。同時に、へりくだって、人のことばに耳を傾け、悔い改めの勧めを受け入れる者でもあるのです。

この様な意味で、私たちはお互いに助け合う関係にあること、お互いの存在を必要としていることを確認したいのです。自己中心で、高慢な者が、罪の問題に取り組み続けるために、神様が与えてくださった教会の交わりと言う恵み。この恵みを覚えて、教会生活を送る者でありたいと思います。

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