2018年4月8日日曜日

ルカの福音書8章40節~42節、49節~56節「信仰者の勇気(4)~神の言葉を信じる勇気~」


「あなたが信頼する人は誰ですか?」と聞かれたら、皆様は誰を思い浮かべるでしょうか。思い浮かべるのは一人でしょうか。多くの人でしょうか。一般的に、信頼できる人が多くいることは良いこと。自分の周りには信頼出来る人がいないと思いながら生きるのは大変なことです。

また、自分のことを信頼している人はどれ位いるでしょうか。一般的に、信頼してくれる人がいることは、大いに助けになります。誰かの信頼に応えたいという思いは、力を生みます。反対に、自分のことを信頼する人などいないと思いながら生きることは辛いこと、危険なことと言えます。

信頼する多くの人がいる。信頼してくれる人も多くいる。良い信頼関係の中で毎日を生きることが出来たとしたら、それは素晴らしい恵みでした。

しかし、聖書に次のような言葉があるのをご存知でしょうか。

 イザヤ2章22節

人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。

 

 人間は、頼りにする値打ちなどないという強い表現。とはいえこの言葉は、信頼関係など不要と言っているわけではありません。本来、神様にしかしてはいけない程の信頼を、人間相手にはしてはらないと教えている言葉です。

 信頼関係は良いもの。しかし、過度の信頼は良くない。何故でしょうか。それは、信頼は危険が伴うからです。信頼するとは、自分が損害を受けても良い覚悟をすること。もし相手が信頼に応えられない場合、自分に害があっても良いとすること。信頼してはいけないものを信頼するとしたら、自分の人生に大きな損害がある。信頼すること、信じることには勇気が必要なのです。

 

 皆さまは誰を、どのように信頼して生きているでしょうか。聖書は度々、この世界の創り主、主なる神様を信頼するように。私たちの救い主、イエス・キリストを信頼するようにと教えていますが、どれほど神様を信頼して生きているでしょうか。神様にのみむけるべき信頼を、他のものへ置き換えていないでしょうか。

 私たちは、どのように神様を信頼してきたのか。どのように信頼するよう教えられているのか考えたく、聖書を開きます。有名な箇所。イエス・キリストが会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせる場面です。

 ルカ8章40節~42節

さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。

 

 病人を癒し、奇跡を行い、ご自身が約束の救い主であることを示してきたイエス・キリスト。当時、人気を博していた主イエスの周りには、多くの群衆が集まっていました。そこに、会堂管理者のヤイロという人が飛び込んできます。会堂管理者と言えば、会堂、礼拝を取り仕切り、そこに集う方々の様々な人の世話役人。その地方の有力者、名士、人々に慕われていた人です。

 そのヤイロが、群衆に囲まれた主イエスを前に、ひれ伏してお願いします。一体何事かという場面。大人の男、会堂管理者という立場ある者が、こんなところで土下座する。人々は驚いたでしょうか。しかし、ヤイロの身に起こったことを知れば納得の場面。十二歳になる一人娘が死にかけているという事態だったのです。ヤイロからすれば、何としてでも娘を助けたい。何しろ可愛い盛りの一人娘が死の床にある。これまで何人もの病人を癒してきたこのイエスという人ならば、娘も直してもらえると考えた。イエス様にどうしても来てもらいたい。娘を直してもらいたい。足もとにひれ伏しながらの必死の懇願でした。

 

 この願いを聞いたイエス様は、ヤイロの家に向かいます。しかし、ここで一つの事件が起こるのです。長血の女の病の癒しという出来事。(8章43節~48節)。多くの群衆に囲まれながら、イエス様が一人の女性を探し始めるというのです。

ヤイロからすれば、たまったものではなかったでしょう。一刻を争うこの時。その女性を探すのは後ではいけないのでしょうか。その女性と話すのは、娘を癒してからで良いでしょう。とはいえ、こちらはお願いしている身。焦りの中で胸を焦がしながらも、イエス様が進むのをひたすら待つ。

どれくらい、待っていたでしょうか。結局、ヤイロの家に着く前に、ヤイロの家から使いが到着。もしやと思いきや、案の定、悪い予感が当たってしまう。娘は死にましたとの連絡だったのです。

 ルカ8章49節

イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。』

 

 ヤイロのもとに、これだけは聞きたくないという連絡が到着しました。この時のヤイロの気持ちを想像出来るでしょうか。

「残念無念。万事休す。これで手遅れ。あと少しだけ、早く着くことが出来れば良かった。あの女が現れなければ。いや、イエスがあの女のことを気にしなければ。口惜しい。本当はなんとかなったのではないか。数時間前から、もう一度やり直せたら。こんなことなら、最後まで娘のところにいれば良かった。」

 普通であれば、絶望と怒りで我を失うところ。ところが、このヤイロという人は、イエス・キリストに対してとてつもない信頼を寄せている人でした。

娘の死を知った後の、ヤイロの願いがマタイの福音書には、次のように記されています。

 マタイ9章18節

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、『私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります』と言った。

 

 私たちは、イエス様が死人を生き返らせることが出来ることを知っています。信じています。しかし当時、どれ程の人が、主イエスに対して、このような信頼を寄せていたでしょうか。娘の死を知らせに来た使者は、「お嬢さんは亡くなったので、先生を煩わせることはないでしょう。」として、イエス様なら死人を生き返らせられるとは考えていませんでした。ところがヤイロは、娘は死ぬも、イエス様来て下さい。手を置いて下されば、生き返りますから、と言うのです。(ルカの福音書は、時系列で記されていないものですが、7章にナインの町にて、やもめの一人息子を生き返らせる奇跡が記録されています。ヤイロはその奇跡を見聞きしていて、イエス様なら生き返らせることも出来ると信じていたのかもしれません。)

 目を瞠る信仰。絶大な信頼。よくぞ言った、という場面。(とはいえ、実際に娘が生き返えった際には、ヤイロはひどく驚きました。)

 このヤイロに対して、イエス様の声が響きます。

 ルカ8章50節

これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。』

 

 この場面で、不思議な言葉。「恐れないで、ただ信ぜよ。そうすれば、娘は直ります。」自分がヤイロの立場であったとしたら、このイエス様の言葉をどのように受け止めたでしょうか。「確かに娘は死にました。でも、私が生き返らせます。」と言われたのなら分かります。そうではなく、「ただ信ぜよ、娘は直る」(直訳では救われるという言葉)と言われた。娘の訃報が届き、ヤイロ自身、イエス様なら生き返らせられると信じているのですが、まるで娘は死んでいないかのようなイエス様の言葉。

 このやりとりの後、一行はヤイロの家に到着します。

 ルカ8章51節

イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。

 

 部屋が狭かったのでしょうか。大騒ぎになることを避けるためでしょうか。特別な場面で同伴が許されるいつもの三人の弟子と、ヤイロとその妻のみ、家の中へ。

外には、親戚や隣人が集まっていました。娘の死を哀しみ、一足違いで、娘の死に立ち会うことが出来なかったヤイロの無念さを思う。色を失い、涙する者たち。ここにイエス様の声が響くのです。

ルカ8章52節~53節

人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。『泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。』人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。

 

 人々はヤイロがイエスを迎えに行ったことを知っていたでしょう。今か今かと待ち、その間に娘が息絶えた。あと少しで間に合わなかったという事態に、混乱し、哀しみつつ、涙していたのです。そこに、噂のイエスが来て、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」との宣言。

 こう言われて、人々はどのように思ったのか。「なんだと。眠っているだけだと。それこそ、寝言ではないか。ヤイロさんはお前を迎えに行ったばかりに、娘さんの死に立ち会えなかった。それを今更来て、泣かなくても良い、眠っているだけだ、なんて。失礼だ、不謹慎だ。」それまで悼み、哀しんでいた人々に、侮蔑の色が広がった場面。

 それでもイエス様は、寝ている娘を起こすかのような行動をとります。

 ルカ8章54節~56節

しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。『子よ、起きなさい。』すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。

 

 「子どもよ、起きなさい。」との叫び声。叫ばれたというのは、外にいる群衆にも聞こえるためでしょうか。「生き返りなさい」ではない、「霊が戻ってくるように」、でもない。起きなさい、と。あくまでも、娘は寝ていたものとするイエス様の言動。

 このイエス様の言葉に、娘の霊が戻ってきて、生き返ったと言います。先ほどまで、死の床についていたことを思うと、この娘はしばらく食事もとれていなかったのでしょう。食事をとるようにとの勧めまでされています。

 焦り、戸惑い、混乱しているのは周りにいる人だけ。イエス様ご自身は、至って普通。それこそ、寝ていた娘を起こしただけ。当然のことを当然のこととして行っているだけ。その平常心が際立つ場面です。

 

 このようにヤイロの娘を生き返らせる奇跡の場面を見通しますと、徹底して、「娘は死んだのではない。寝ているだけ。」とする主イエスの姿が印象的です。何故、娘は死んでいるが、生き返らせると言われなかったのか。ここでのイエス様の姿は、イエス様の友人、ラザロを生き返らせる時と比べると、違いが明確です。

 ヨハネ11章11節~14節

イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。』弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。』イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。『ラザロは死にました。』」

 

 ラザロを生き返らせる際。「ラザロは死んでいない、眠っているだけ」と考えている弟子たちに、イエス様は「ラザロは死んだのです。」と言われました。ヤイロの娘を生き返らせる際、人々は「娘は死んだ」と言う状況で、イエス様は「死んでいない、眠っているだけだ。」と言われました。

この違いは何でしょうか。このヤイロの娘を生き返らせる出来事を通して、イエス様はご自身がどのような存在だと示したかったのでしょうか。死人を生き返らせる力を持っていることを示そうというならば、「娘は死んでいます。でも私が生き返らせます。」と言われたでしょう。しかし、イエス様は、娘は死んでいると一度も言われませんでした。(そもそも、ヤイロ自身、イエス様なら生き返らせることも出来ると信じていました。)それでは、一体、何を伝えたかったのか。

 

この時、ヤイロの娘は心臓が止まり、呼吸をしていませんでした。私たちは、それを死んでいると言います。しかし、もしその状態の少女について、イエス様が死んでいないと言われたら、どうなるのか。それが今日の箇所に示されていることです。

仮に私が、心臓が止まり、呼吸をしていない人を前に、この人は生きていると言ったとしても、何もなりません。事実に反する言葉を言っただけです。ところが、もしイエス様がそのように言われるとしたら。何が起こるのか。

目の前に起っていることと、イエス様の言葉が相反するように思える時。どちらが事実であるのか。心臓が止まり、呼吸をしていなくとも、主イエスが死んでいないと言うのであれば、それが事実となる世界。私たちの生きている世界は、神の言葉が事実となる世界であると教えられるのです。死人を生き返らせる力どころではない。語られた言葉が、世界となる。そのように主イエスの言葉を、神の言葉を信じられるかどうか。

 

 神様は私たちを理性的な存在として造られました。知恵、知識をもって、神様を知り、神様を信頼することは大事なこと。訳が分からなくても、神を信じるように。妄信すれば良いというのではありません。

 しかし信仰生活を続ける中で、聖書に示された神の言葉と、自分の感覚、自分の考え、自分の判断、自分の評価に違いが出てきます。「神が世界を造り支配しているとは思えない。」「神に愛されているとは思えない。」「全ての罪が赦されるとは思えない。」「全てが益となるとは思えない。」「苦しみ、悲しみに意味があるとは思えない。」「正しく生きることに価値はあるとも思えない。」などなど。そのような葛藤の最中にいる時、私たちはどうするのか。自分の感覚、自分の考え、自分の判断、自分の評価を正しいとするのか。それとも神の言葉を正しいとするのか。

自分の感覚、自分の考え、自分の判断、自分の評価よりも、優先させるというのは大変な信頼、勇気がいることです。しかし、神様を信頼することにおいて、この勇気を持ちたいと思います。自分の考えに合っているから信じる、納得出来るから信じる。それ以外は信じないとして、信仰生活が終わることのないように。この方の言葉によって世界が創られ、この方の言葉によって世界が支配されている。私たち一同で、神の言葉を第一とする信仰生活を送りたいと思います。

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