2019年3月10日日曜日

Ⅰコリント(18)「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てる」Ⅰコリント8:1~13


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきましたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、様々な点で私たちを驚かせるものでした。これが、本当にキリスト教会かと思うような仲間割れ。兄弟同士のトラブルを教会内で解決できず、この世の裁判所に持ち出して黒白をつけようとする、浅墓な行動。そうかと思えば、自分の母と通じてさばかれた者、遊女の元に通いながら、これを恥じぬ者など、目を覆いたくなるような不品行が横行していました。

さらに、割礼を受けた自分を恥じる者がいるかと思えば、それを嘲る者がいる。奴隷の兄弟を見下す自由人がいるかと思えば、独身者ややもめを軽視する既婚者もいる。と言う風に、この世の価値観がそのまま持ち込まれたため、コリントでは、能力や文化、社会的身分や慣習等、様々な点において、人の上下、優劣が論じられ、少数派にとってはまことに肩身が狭く、居づらい教会となっていたと思われます。

それに対し、かって、自分が精魂込めて建て上げた教会が、かくも悲惨な状態に後退してしまったことに心痛めた使徒パウロは、コリントから送られて来た質問状に、一つ一つ応えてゆきます。パウロの勧めは、驕る者には戒めであり叱責でしたが、自らを恥じる者、弱き立場に置かれた者には慰めであり励ましであること、私たちは確認してきました。

しかし、最初は驚きをもって見ていたコリント教会の問題も、よく読み進めてゆくうちに、気がつくことがあります。それは、彼らコリント教会の抱えていた問題は、決して他人ごとではない、今の私たちたちにも通じる問題であると言うことです。

自らを誇って譲らず、対立する。裁判に訴えるまではしないとしても、自分の権利は手放すまいと、相手をやり込める。いつも性的賜物を正しく管理してきたかと問われれば、はなはだ心もとない自分。文化の違い、社会的立場の違い、結婚か独身か等、神の目から見れば枝葉のことに捕らわれ、いつしか、どの様な立場、境遇にあろうとも、主に仕えることが人生の最大事であることを見失っていた自分。

私たちは、コリント人への手紙を読み進めるうちに、その様な自分の姿を見ることができますし、見るべきでしょう。そして、コリント人に対する使徒の勧めの中に、いかに自らの考え方や行動を修正すべきかを教えられるのです。

さて、今朝の箇所ですが、先に性の賜物と男女の関係、結婚が是か独身が是かと言う問題について語り終えたパウロは、次の質問状を取り上げています。それは、偶像にささげた肉を食べてよいのか否かと言う問題でした。


8:1「次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」


今日の日本と同様、ギリシャの町には、偶像が溢れていました。太陽、月や星、山や川、海、木や草から動物に至るまで、すべてを神々の現れとみる自然宗教は日本にとどまりません。当時のギリシャにも、天の神、太陽の神に月の神、大地の神に海の神、雷の神から森の神に至るまで、おびただしい神々が存在すると信じられていました。こうした多神教が人々の生活を支配する社会に、聖書の神、唯一の神を信仰する者が立った場合、様々な軋轢が生まれることは、当然のことです。

そして、古代の宗教の中心は、神々に対するささげものであり、その後に続く祝宴でした。町毎に行われる大切な会合、職業組合の集会など、社会生活に欠かせない交際、話し合いは偶像の宮で行われるのが習わしだったのです。そうした集まりを避けることは、社会の隣人との交際を絶つこと、仕事を失うことにもなりかねないわけで、クリスチャンには悩みの種でした。また、町の市場で売られている肉も、その多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、食卓に出された肉を食べることに後ろめたさを感じる兄弟姉妹もいたようです。

この様な中、コリント教会内で、「偶像にささげた肉」を食べてよいのか、否かと言う問題が起こります。意見は二つに割れました。ある人たちは、その様な肉を食べることは偶像を認めることになるとして、反対します。これに対し、知的であることを誇る人々は、真の神は唯一であって、本来偶像はなんでもないものであり、その何でもないものにささげられた肉も何でもないものである訳で、食べる事には何の問題もなしと主張しました。彼らは偶像の宮でも、友人、知人の家に招待された場合でも、自宅でも、躊躇うことなく肉を食べていたらしいのです。

この様に、町の人々との接触によって、浮かび上がった問題を巡り、対立は深まりました。「食べるべきではない」とする禁食派と、「食べても構わない」とする進歩派の争いです。どうもコリント教会では、「私たちはみな知識を持っている」を合言葉にする進歩派が優勢、禁食派は劣勢で、少数であったらしく見えます。

まず、パウロは、自ら知識を誇る人々の欠点を突きました。「知識は人を高ぶらせ、愛は人を養う」として、知識を愛の上に置くことの危険を語ったのです。もとより、知識は人生に必要なもの、知識向上に努力することは大切です。しかし、それが人々への配慮と言う愛を捨てて、知識のみを重んじるなら本末転倒でした。知識は愛の反対ではなく、本来よりよく人を愛することを助けるものだったからです。続くは、知識を偏重する者への、痛烈な一言でした。


8:2、3「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。」


 「自分は何かを知っていると思う人」とは、知識を誇る進歩派のことです。「その人は知るべき程のこと、つまり神を知らない」と言うのは、「神のことなら自分たちが一番知っている」と自負していた彼らへの皮肉でしょう。キリストを信じてクリスチャンとなっても、自らの正しさを確信し、隣人への愛の配慮なしに物事を運ぶような人は、神を知らない者、神の前には愚か者ではないかと戒めています。むしろ、隣人への配慮を尽くすと言う愛を実践する人こそ、神に知られている、愛されていると、使徒は教えていました。

以上、愛は知識の上に立つこと、知識は愛のために役立ってこそ意味があることを説いたパウロは、いよいよ本題に入ります。


8:4~6「さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」


 ここで、パウロは「偶像にささげた肉を食べることに何の問題もなし」と主張する人々の正しさを認めています。「私も偶像の神は実際に存在しないこと、実際に存在するのは父なる神のみ、主イエス・キリストのみであること。この世界のすべてのものも、私たち人間も、この唯一の神によって創造され、支えられていると言うあなたがたの考えに同意している。この考えに異論を挟むつもりはない。」そうパウロは言うのです。

 そして、恐らく使徒は、彼らの考え方の正しさそれ自体は認めることで、迷信的に偶像を恐れる人々が、自らの知識をもう一度検討し、修正するよう求めているのでしょう。

 しかし、より重大な問題は、その正しい知識を盾に、禁食派の兄弟姉妹たちへの配慮を欠いた行動をとる進歩派の方でした。


 8:7~9「しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。」


 私たちには、各々長年の間に染み付いた感じ方、考え方の習慣というものがあります。コリント教会の中には、偶像の神々など実際には存在しないという知識に、まだ確信を持てない人々がいました。彼らは、長年の間なじんできた偶像の神々への恐れ、迷信を、未だ心の中から吹っ切ることができなかったのです。

 これに対し、自らの知識の正しさに立つ人々は、この様な兄弟姉妹を未熟者と軽蔑しました。肉を食べる自分達こそ神により近い者、肉を食べない禁食派の人々は、その点において損をしていると考え、嘲りました。自分たちの行動を正しい権利とし、禁食派の兄弟たちの心を踏みにじったのです。この様な傍若無人な言動こそ、パウロが戒めるものでした。

 「あなたが、この世界でただ一人住んでいると言うのなら、肉を食べようが食べまいが自由でしょう。しかし、あなたにはともに生活する兄弟がいます。自分の知識、自分の良心だけでなく、兄弟の知識、兄弟の良心のことにも配慮して、どう行動するかを考えるべきではないですか。」パウロは、自分の正しさを剣にして隣人を切り捨てる者たちの行動に、ブレーキをかけたのです。

 さらに、使徒は、彼らの言動が弱い兄弟に対する罪であるばかりか、主イエスに対する罪であると踏み込んでゆきます。


 8:10~12「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」


 ここに、己を正しいと考え、自らのふるまいを顧みない者たちへの怒りが、爆発しています。隣人の良心を土足で踏みつけるような言動、弱い兄弟に対する配慮なき振る舞いが、厳しく戒められたのです。

 当時は、偶像の宮において町の人々の重要な会合や職業組合などの集まりが行われていました。その様な場で、偶像にささげた肉がふるまわれ、出席者たちはこれを寝そべった状態でともに食べる風習があったとされます。

 その様な席上で、進歩派の人々が大胆に肉を頬張る姿に後押しされて、未だ悪霊への恐れから解放されていない弱い人々は、「これが偶像崇拝にならないだろうか」と疑いながらも肉を食べてしまう。その後、彼らが自らの行動に罪責感を覚え、苦しむ。救いの確信を失う。教会から離れてしまう。恐らく、そんな悲しむべき出来事が、実際にあったのでしょう。

 「あなたが『信仰の弱い者』」と一段下に見ていた人々、あなたが心にかけようとしなかった人々のためにも、イエス・キリストは十字架で死んでくださったのではなかったのですか。」この言葉から、いかにパウロが弱者のことを悲しみ、強者の行動を激しく怒っていたかが、伝わってきます。

 そして、弱者の心を踏みにじる者の行動を、弱者に対する罪であるとともに、彼らのために十字架で死に給う程、彼らを愛したもうイエス・キリストに対する罪でもあると指摘。罪の悔い改めを迫りました。こうして、最後は、パウロによる念押しのことばとなります。


8:13「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。」


未熟な者には、たとえその心を踏みにじることになっても正論を通すべきとか、自分がお手本を示すべきとか。そんな風に自らを高くして隣人の上に立つ者とは、全く正反対のパウロの姿がここにあります。むしろ、弱い兄弟を躓かせないためなら、進んで自分の権利を放棄する。兄弟を養い、徳を高めるために最善のことをする。隣人に仕える人、神のしもべパウロの姿を、私たちはここに見て、コリント第一8章を読み終えることにします。

最後に、ふたつのことを確認しておきたいと思います。

一つは、私たちの中にも、コリント教会の進歩派のように、知識の面か、信仰の面か、あるいは道徳的な面でか、相手よりも自分の方が正しいと感じる時、自分を相手の上に置く高慢な性質が、あるのではないかと言うことです。高慢さは、余りにも自然に私たちの中に生まれてくるので、気がつきにくいものではないかと思います。

高慢さは、たとえ自分のことばが、相手に対する配慮に欠けていても、「言っていることは正しいのだから仕方がない」と、私たちに思わせます。たとえ自分の行動が、愛に欠けていたとしても、自分はすべきことをしただけだと、私たちに思い込ませるのです。高慢の罪によくよく注意し、自戒したいと思います。

二つ目は、高慢に陥らないために私たちにもできることがあると言うことです。自分の良心だけでなく、隣人の良心に配慮すること、隣人の徳を高めるためなら、自分が当然と思う権利であっても進んでこれを捨て、何ができるかを考えること。これをパウロの姿から、学びたいと思うのです。

パウロが、キリストの恵みによって、時間をかけ、困難な経験を通して身に着けたこの生き方を、私たちも、キリストの恵みと日々の実践によって身に着けること、目指したいと思うのです。


コリント第一 81b「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」

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