2019年2月24日日曜日

Ⅰコリント(16)「主の奴隷、自由人として生きる」Ⅰコリント7:17~24


皆様は「鶏頭と薔薇」と言うイソップ物語をご存知でしょうか。「ある日、鶏頭がバラに言いました。『あなたはなんて綺麗な花なんでしょう!神様にも人間にも好かれる。美しくて、香りがよくて、あなたは幸せですね。』薔薇が答えました。『残念なことに、私は命が短いのです。たとえ、誰も私をつみ取らなくても、私はすぐに萎んでしまいます。けれど、あなたはずっと花盛りで、いつまでも娘のまま。本当に羨ましい。』」

鶏頭の花は、たとえひと時であっても華やかに咲く薔薇の花を幸せと思う。逆に、バラの花は、それ程華やかではなくても、長く花盛りの美しさが続く鶏頭の花を羨ましいと感じる。人間は、自分の境遇に中々満足できず、隣人の境遇を羨ましがるもの。そんな私たちの現実は、昔からだったのだなあと考えさせられます。

私は中学生の頃、バスケットボール部員でした。バスケットは、背の高い人が有利なことが多いスポーツです。ジャンプ力は練習でアップしますが、身長はいくら牛乳を大量に飲み続けても高くなりません。あと5センチ背が高ければ、シュートもブロックも上手くできるのにと思い、背の高い友人が羨ましくて仕方がありませんでした。

しかし、背の高い人にも悩みがあることを、ある日の新聞で知ったのです。「私は子どもの頃から身長が高く、とてもコンプレックスです。今は、183センチあります。社会人になってから、とても苦労してます。背が高いと良くも悪くも目立つので、波が激しいのです。良いことをすれば、一気に信頼されるけど、ミスをすれば一気に責められる。それも、他の平均的な人たちが連帯感を持っているように感じる。
 そして、立っていても椅子に座っていても、存在感があるためか、ものすごく視線を感じます。
実際、相手が意識していなくても大きいものに目がいくのは物理的に言って当たり前のことだとは思いますが。できるだけ猫背になって、声も小さめで、動作もゆっくりと心がけており、不満をできるだけ顔に表さないように、固まって生きています。できることなら、平均的な身長になりたかったです。みんなと普通に接したいだけです。これが、身長が高い人の気持ちでもあるのです。」

「隣の芝生は青く見える」と言われます。今も、私たちは、与えられた境遇に満足できず、隣人の境遇を羨ましく感じながら生きている。誰しもその様な部分が、或いはその様な時があるのではないかと思います。

私が礼拝説教を担当の際、読み進めてきたコリント人への第一の手紙も、久しぶりとなりました。年末のアドベント、クリスマスの説教、さらには、1月から2月にかけての信仰生活の基本シリーズを挟んで、およそ3か月ぶりとなります。

紀元1世紀半ば。使徒パウロがギリシャ、コリントの町に建てたコリント教会は様々な問題を抱えており、パウロにとって悩みの種でした。文化はアテネ、商業はコリント。当時アテネとともにギリシャを代表する都市となっていたコリントの町は、その頃悪評に曝されていました。「貴族もなく、伝統もなく、しっかりした市民もいない」。「知的には抜け目なく、経済的には豪勢だが、道徳的には腐りきっている」。

その様な中、使徒パウロが去った後、本来ならコリントの町に良い影響を与えるべき教会が、逆に、町の悪しき風潮に影響されていました。仲間割れ、不品行、結婚か独身か、富める者が貧しき者を踏みにじる交わり、礼拝の混乱に復活信仰の問題。これら多くの問題を使徒が整理し、戒め、警告、励まし、慰め等、様々な処方箋を書き送ったのがコリント人への手紙でした。

パウロが最初に取り上げたのは、仲間割れの問題。これに対しては、己が知恵を誇って相手の上に立とうとする人々を戒め、神の御子であられるのに、十字架に死に給うほどにへりくだり、罪人に仕えた主イエスの生き方を見よ、それに倣え、と勧めました。

次に扱ったのは、不品行の問題。パウロは、不品行の罪にとどまり、性的賜物を悪用する者に警告を発するとともに、性的賜物を汚れと考える人々には、それが夫婦に与えられた神様からの祝福であることを説いて、健全な結婚生活を勧めたのです。

その際、独身であることに悩む者には、「独身の賜物を与えられた人がそれを生かして、私のように神に仕えるなら、それも立派な生き方ですよ」と励ましています。また、クリスチャンになったら、異教徒の配偶者とは離婚すべしと考えていたらしい潔癖主義者には、「相手が離れてゆくと言うのなら仕方がないが、それまでは夫婦円満に努めよ」として、性急な行動を戒めました。

こうして、使徒パウロは、性的賜物と結婚の問題について一旦説き終えたのです。しかし、神が結ばれた夫婦の絆までも解こうとしたコリント教会の中には、自分の社会的身分や境遇についても、何とかしなければ、変えなければと焦り、動き回る者がいたらしいのです。

先ずは、自らが受けた割礼を恥じる人々のことです。


7:17,18「ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。」


コリントは貿易と商業で栄えた国際都市。人種の坩堝と言われる程、様々な民族が集まり、教会も同様でした。当時、一般的に割礼はユダヤ人の誇り。彼らは割礼をもって、自らが神の民として祝福されていることを確認していたのです。

他方、割礼なき人々を異邦人、神なき民と呼び、見下す風潮がありました。ガラテヤ人への手紙には、ユダヤ人クリスチャンの中に、異邦人も割礼を受けるべしと強く主張する者がいて、パウロは彼らを恵みの福音に対する反対者として糾弾しています。それ程に、ユダヤの文化において割礼は尊ばれていたのです。

しかし、ギリシャ人ローマ人が優勢なコリントでは、割礼は古臭く、軽蔑すべき習慣に過ぎないと考えられていました。ギリシャ文化こそ知的で、都会的であると誇る人々が多いコリント教会では、身に割礼を受けたユダヤ人クリスチャンは、肩身の狭い思いをしていたのです。

そして、こうした社会の中で生きていくためには、ユダヤ人であることを不利と考え、公衆浴場に入る際等、割礼の跡を恥じ、これを手術で隠そうとする人々もいた様です。ユダヤの田舎では誇りのしるしでも、ギリシャの都会では劣等感のしるしだったのです。けれど、不思議なことに、ギリシャ人がクリスチャンになると、神の民ユダヤ人への憧れからか、割礼を願う人々も現れたとも言われます。

割礼を恥じて跡を隠そうとする人、無割礼を恥じて割礼を願う者。どちらの人々にも、「それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。」そう使徒は命じていました。その理由は以下の通りです。


7:19、20「割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」


割礼か無割礼か。そうした枝葉末節にこだわる形式主義は、パウロにもイエス様にもありませんでした。重要なのは、神の命令を守ること。割礼か、無割礼か、人の目を気にする生き方をやめよ。むしろ、神に召された時の自分を恥じることなく、神の命令を守って生きることに全力を傾けよ。このことばをもって、私たちも、キリスト教が霊的宗教であることを確認したいところです。

続いて、パウロは同じことを、奴隷であった兄弟たちにも勧めます。


7:21,22「あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」


当時のローマ帝国には、奴隷制度が存在していました。奴隷は動物や物のように売買され、制裁は主人の自由に任されていました。社会の底辺に置かれた奴隷たちの労働によって、ローマ市民の生活は成り立っていたにも拘らず、肉体労働が軽視される社会では、彼らの仕事が評価されることは滅多になかったでしょう。奴隷を主人の暴力や過酷な労働から守る法律も、十分整備されていなかったと考えられます。

こんな時代、キリスト教会には、市民即ち自由人とともに奴隷人も混じっていたことが、新約聖書の手紙から分かります。それなのに、「あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません」等と語るところを見ると、「パウロは奴隷制度に賛成しているのか」と、不審に思われる方がいるかもしれません。

パウロが、あるいは聖書が奴隷制度についてどのように考えているのか。これは大きな問題で、今日は残念ながら、十分お話しする時間がありません。しかし、声を大にして反対はしていないものの、奴隷制度の非人間性を見抜き、それを改善しようとすることばは、様々な所に見られます。

一例としてあげたいのは、主人の元から逃げ出したものの、やがて捕らわれ、牢獄に行き、そこでパウロと出会い、キリスト教に改心した奴隷オネシモのために書かれた手紙、パウロによるオネシモの主人ピレモンへの手紙の一節です。


ピレモン1517「オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。」


当時、主人にとって奴隷は所有物、生きる道具でした。それを、パウロは主人たるピレモンに、オネシモを奴隷としてではなく兄弟として愛するよう命じています。この世では、主人と奴隷でも、神の前では対等な人間同士、愛すべき兄弟して交わる。ここに、内側から奴隷制度は崩されてゆき、やがて制度自体は、ヨーロッパの世界から消えていくことになります。

こうして見ると、主人と奴隷のあるべき関係は、「奴隷は、主に属する自由人。主人は、キリストに属する奴隷」として、対等で人格的な関係であることが、この手紙にも記されていました。 

勿論パウロは「もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう」と、奴隷が自由人になることを勧めています。しかし、当時自由人になる機会に恵まれた奴隷は少なかったからでしょう。パウロは、次のことばをもって、彼らの存在とその仕事の価値を認め、励ましていました。


7:23,24「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」


主イエスの恵みによって、主人は奴隷を大切な兄弟とし、仕える者に変えられる。奴隷も主人を恐れたり、主人に強いられてではなく、自ら進んで仕事をし、仕える者へと変えられる。「二人は等しく主にある奴隷であり、自由人」と教えられ、主人は自らの横暴を戒め、奴隷は弱り果てた心を励まされたことでしょう。

自分を主人よりも人間として劣っていると思い、苦しむ奴隷。自分の仕事等、誰にも認められない価値のないものと考え、心から忠実に仕事をする気持ちを失っていた奴隷。彼らのために、「主イエスはご自分の命を代価として、あなたがたを罪から贖ってくださいました。主の前では、主人もあなた方も、等しい存在であり、あなたがたが人々の生活を支える尊い仕事をしていることを、主は見ておられます。」そう、パウロは力を込めて語っているのです。

最後に、今日の箇所から学ぶべきこと、ふたつ確認したいと思います。

ひとつ目は、主イエスの恵みは、私たちを人間の奴隷状態から解放するということです。

現在の日本には、割礼か無割礼かで悩む人はいないでしょう。しかし、人の目を恐れ、自分を隠したり、考え方や態度を変えたりする人はいることと思います。また、ローマ時代の様な奴隷制度も存在しませんが、夫と妻、親と子、兄と弟、職場の上司と部下、子どもの社会等、様々な所に、支配する者と支配される者の関係は存在すると思います。

私たちも、人を思い通りに支配したいと言う思いに動かされて、行動している時があります。反対に、人の目を恐れて行動したり、人から強いられていやいや行動する時もあるかと思います。

しかし、主イエスの恵みによって、私たちは社会的立場が何であれ、自らの存在が尊いものであることを喜ぶことができます。主イエスの恵みによって、仕事が何であれ、自らの仕事を主と人に仕える奉仕とし、満ち足りた心で行うことができること覚えたいのです。いつも、自分が主イエスのみ前にいることを意識し、考え、行動したいと思うのです。

二つ目は、コリント教会のユダヤ人クリスチャンや、奴隷であった兄弟たちのように、私たちは多くの場合、自分が望む境遇で生きることはできないと言うことです。社会的立場も、仕事も、家族も、健康も、収入も自分の理想通り等と言う境遇は、現実にはあり得ません。

しかし、今日の箇所でパウロは、私たちが望まない境遇、困難な境遇を、主から与えられたものと考えるよう勧めていました。いたずらに境遇を変えようとせず、主に与えられた境遇の中で、自分が主にある奴隷であると同時に自由人であることを学べと勧めています。その中で神と人に仕えるため自分ができること、なすべきことは何かを考え、実践することを命じていたのです。

「主よ。私に変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる忍耐を、そしてふたつのものを見分けることのできる知恵を与えたまえ。」神学者ラインホールド・ニーバーの祈りとして有名なものです。主のしもべ、主の自由人として生きると言うことは、こういうことなのかなと感じる祈りです。私たちも、変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる忍耐、二つをのもの見分ける知恵を主に求めつつ、歩んでゆきたいと思います。

2019年2月17日日曜日

「信仰者の勇気(6)~罪を告白する勇気~」Ⅰヨハネ1:9~10


 一般的に自分を変えたい、変わりたいと思う人は多くいると言われます。外見か、内面か。社会的な立場や人間関係。取り組みようのないことですが、鳥になりたい、魚になりたいとか、過去を変えたいというのもあるでしょうか。充実した状況にある人も、ある部分は変えたいと思う。辛いことが重なると、全てを投げ出して別人としてやりなおしたいと考えることもあります。

変身が題材となる話は、世界中、どの時代、どの文化にもあると言われます。大人向けのものから、子ども向けのものまで。日本の中だけみても、古事記や日本書紀にも変身譚が含まれ、鶴の恩返しや浦島太郎も変身が重要な題材。中島敦の山月記は、多くの教科書に載っているため有名と言われますが、詩人を目指すもそれが叶わず虎になった男の話。仮面ライダーやウルトラマンのヒーロー特撮物、プリキュアなどのアニメも、変身が大事な要素です。あちらこちらにある変身話。これもまた、自分を変えたい、変わりたいと思う人が多いということでしょう。

ある意味で「変わりたい」と思うことは不幸なことです。今の自分に満足することが出来ない。与えられている良いものに目を留めない。欲望にまかせて、手にいれたいものを追いかけ、変わりたいと言い続けるのは苦しいこと。変えようのないものなのに、変えたいと願い続けるのは大変なことです。しかしある意味で「変わりたい」と願うのは、正しいことでもあります。堕落した世界に生きる私たち。罪ある者として生まれた私たち。神様が意図した本来の私ではない状態。その苦しみを理解し、変わりたいと願うのは正しいこと、聖書的と言えます。

皆さまは、自分を変えられるとしたら、何を変えたいと思うでしょうか。どのように変えたいと思うでしょうか。その「変わりたい」という願いは、不幸な願いでしょうか。正しい願いでしょうか。


 聖書もある意味で「変身」が重要なテーマの書物と言えます。それも、読者である私たちが変わることが出来ると伝える書。私たちは、自分が変わることを願いますが、私たちの神様も私たちが変わることを願っておられます。問題なのは、私が変わりたいと思う姿と、神様が私たちに変わるように教えている姿が同じかどうか。それが同じであれば幸いですが、違う場合は大変と言えるでしょう。

それでは、聖書は私たちにどのように変わるよう教えているでしょうか。実に色々な表現があります。死の中から命の中へ。闇の中から光の中へ。罪の奴隷から義の奴隷へ。汚れた者から聖なる者へ。神を無視する者から神を愛する者へ。失われた者が神様のもとに帰る。裁かれるべき者が神の子となる。あるいは、キリストの証人とか、キリストの香りとか、キリストの使節となるように。さらには、キリストの体、聖霊の宮、神の畑、神の家族として生きるようにとも言われます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。」というような、具体的な教えは多数。例を挙げたらきりがない程ですが、それら具体的な教えに取り組んでいない人が取り組むようになるというのも、大きな変化と言えます。

 聖書は様々な表現で私たちに変わるように教えていますが、短くまとめるとどのように表現出来るのか。私は次の言葉が良いのではないかと思っています。

 ガラテヤ4章19節

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。


 ここに「キリストが形造られる」と出てきます。神様は私たちにどのように変わることを願っておられるのかと言えば、私たちのうちにキリストが形造られるように。つまり、私たちがキリストに似る者となるように。キリストが形造られる、キリストに似る者となる。これが、私たちの目指す変化と言われるのです。

 キリストを信じる者は変わります。どのように変わるのか。先に見ましたように、聖書には様々な表現が出てきます。命の中、光の中で生きる者。義なる者、聖なる者となる。神を愛する者、神の子となる。あるいはキリストの証人、キリストの使節として、福音を伝える者となる。キリストの体、神の家族として、教会を建て上げる者となる。喜び、祈り、感謝する者となる。その他、様々な表現で聖書はキリストを信じる者は変わると言いますが、それはつまり「私のうちにキリストが形造られる」こと。私たちがキリストに似る者となるということです。

 現代の日本では、自分らしいというのは、自分で決めることだと考えられています。私らしいといのは、他でもない私が決めること。私の幸せは私が決める。私が変わりたいと思い、私が目指す姿は私が決める。創造主を信じない、自分を造られた神を認めなければ、そうなります。しかし聖書は、神様が私たちそれぞれを造られたこと。それぞれの人生に神様の目的があり、私らしいというのは神様が定めていると教えています。そして、神様が意図された私らしく生きるということが、私のうちにキリストが形造られること、私たちがキリストに似ることでした。

いかがでしょうか。皆さまは、自分のうちに「キリストが形造られる」ことに興味があるでしょうか。キリストに似る者となりたいと願っているでしょうか。神様が意図された私らしく生きたいと願うでしょうか。


 ところで、私がキリストに似る者となる、本来の私らしい生き方となるというのは、どうしたら良いのでしょうか。キリストを信じたら、後は神様が全てして下さるのか。それとも、私たちが何かすべきことがあるのでしょうか。

 第一には、神様がして下さることだと教えられています。

 Ⅱコリント3章17節~18節

主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


 ここに明確に、私たちが主と同じかたちに姿を変えられていくのは、「御霊なる主の働きによる」と言われています。自分の力で、キリストに似る者となるのではない。自分を打ち叩いて、何とかするのでもない。神様がして下さる。それでは、どのように神様がして下さるのかと言えば、聖書には驚くべき言葉があります。

 ローマ8章28節~29節

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。


 聖書中、極めて有名な聖句の一つ。「神を愛する人、神のご計画にしたがって召された人」というのは、イエス・キリストを救い主と信じる者のことです。この世界で起こりくる全てのことが、キリストを信じる者にとっては益となると言われています。

益というのは、その人にとって嬉しいという意味ではありません。目的に沿っていること。それでは、その目的とは何かと言えば、キリストを信じる者が、御子のかたちと同じ姿になること。キリストを信じる者が、キリストに似る者となることです。つまり、キリストを信じる者にとって、その生涯に起こることは、その者がイエス様に似るという目的には沿ったもので、有効に働く。仮に本人にとって、嫌なこと、苦しく辛いことでも、キリストに似るという目的には沿った恵みであるというのです。神様が、あらゆることを通して、私たちをキリストに似る者へと変えて下さるという聖書が教える重要な福音です。

 この聖句が真実ならば(私は真実だと信じていますが)、私たち主イエスを信じる者は、キリストに似る者となることに、神様が並々ならぬ思いを持たれていることになります。約二千年前、イエス・キリストが十字架で死なれたのも、私たちがキリストに似るためのこと。神様の世界を支配される力、全知全能の力は、キリストを信じる者が、キリストに似る者となるように用いられている。人間的な表現が許されれば、神様は何としても、私たちをキリストに似る者としようとされているのです。

 このような神様の思いを、私たちはどれだけ真剣に受け止めてきたでしょうか。過ぎし一週間、嬉しいことも、悲しいことも、私がキリストに似る者となるように与えられた恵みと受け止めてきたか。自分を変えたいと思う時、自分の願うように変わることばかりで、キリストに似る者となることをどれだけ真剣に考えてきたのか、心探られます。


 このように、私たちがキリストに似る者となるというのは、神様がして下さることです。それでは、キリストに似るというのは、私の知らないところで、神様が自動的にして下さること、神様がして下さるのだから、私は私の好きなように生きれば良いのかと言えば、そうではありません。

 私たちがキリストに似る者と変えられるのは、第一に神様がして下さること。しかし私たちも取り組むべきことがあると教えられています。

 ローマ12章 2節

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


 神様が私たちを変えて下さる。しかし、そのために私たちがすべきこともある。この箇所では「この世と調子を合わせることなく、心を新たにする」ことが教えられています。

(余談ですが、この箇所は新改訳2017にて改訂された箇所の中で、有名なものの一つです。新改訳第三版では「心の一新によって自分を変えなさい。」と訳されていましたが、これは自分の力で変わることが出来ると誤解を与えかねない訳だったとして、原語に忠実に自分を変えて頂くと訳されました。)

 それでは、「この世と調子を合わせることなく、心を新たにする」とは、具体的に何をすることでしょうか。自分の取り組むべきこととして、私たちは何に取り組んだら良いのでしょうか。キリストに似る者となるため、私たちが取り組むよう教えられていること。「心を新たにする」具体的な取り組みについて、聖書は色々なことを教えていますが、今日はその中の一つのこと。罪を告白することに注目します。


 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。


ここに、私たちが罪を告白する時、神様が何をして下さるのか、明確に記されています。私たちが、罪を言い表すならば、罪は赦され、きよめられるという約束です。

 この言い表すという言葉は、基準に当てはまるかどうか判断するという意味があります。つまり、ここで言われている罪を言い表すとは、自分の感覚として、罪があるかないかを考えるのではない。聖書という基準に沿って、自分には罪があるかどうか考えるということです。


 ところで聖書は、キリストを信じることで罪を赦されると教えていました。どの罪が赦されるのでしょうか。全ての罪が赦されます。キリストを信じる前に犯した罪も、その時に犯している罪も、これから犯す罪も。過去も、現在も、未来も、キリストを信じることで全ての罪が赦されます。自分が把握している罪も、自分で知らずに犯した罪も、告白した罪も、告白出来なかった罪も、全ての罪が赦される。キリストを信じることで、あらゆる罪が赦されるというのが、私たちの信じている福音です。

 キリストを信じる者は、完全に罪赦された者。キリストを信じた者を、罪に定めることは誰にも出来ないのです。それでは何故、キリストを信じる者にも、罪を言い表すこと、罪を悔い改めることが勧められているのでしょうか。既に罪赦されているのに、何故、罪を告白する必要があるのでしょうか。

 もう一度、聖書の言葉を確認します。

 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。


聖書の基準に沿って、自分の罪を言い表す時に、どのような恵みが与えられるのか。「罪は赦され」、「悪からきよめられる」という恵みが与えられると言います。

既に完全に罪赦されている者に、罪が赦される恵みが与えられる。どういう意味でしょうか。これは、罪を告白することで、罪が赦されている恵みを再確認するということです。

キリストを信じる者。既に完全に罪赦された者が、どうせ罪赦されているのだからと、自分の罪に対して無感覚になるようにとは教えられていません。むしろ、罪赦されているけれども、罪を犯す度に言い表すことを通して、この罪も赦されていたと再確認すること。繰り返し、罪の赦しの恵みを味わうようにと教えられているのです。

 罪の赦しを味わい続けることは、キリストを信じる者にとって、極めて重要なこと。イエス様の次の言葉が思い出されます。

 ルカ7章47節

赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。


 キリストを信じる者は全ての罪が赦されている。しかし、罪を告白しない者は、赦されることの少ない者として生きることになってしまう。多くの罪が赦された者として、より多く神様の愛を味わい、自分も神様を愛する者となる。これが、私のうちにキリストが形造られる歩み、私がキリストに似る者となる歩みでした。


もう一つ。罪を言い表す時に、「不義からきよめられる」恵みも与えられると言います。罪赦された者として、二度と罪を犯したくないと思っても、それが出来ない私たち。その悪から抜け出すために、私たちが出来ることは、自分を打ち叩いて頑張るのではなく、罪を言い表すことでした。罪の赦しだけでなく、悪からきよめられるという点でも、神様の助けを願うということ。

ここで重要となるのは、自分は本当に悪からきよめられたいと思うのか、ということです。自分でも気が付きやすい表面的な悪は、きよめられたいと願いやすい。しかし、心の奥底にある罪、悪について、本当にきよめられたいと願っているのか。自分の欲望、怒りや憎しみ、罪だと分かっていても、手放せない行いや思い。そこからきよめられたいと、本気で願うのか。神様が悪からきよめると約束しているのに、それでも、罪を告白しないとしたら、罪を告白しないということ自体も大きな問題となります。どのような罪、悪でも、きよめられることを願いつつ、言い表すことが出来るようにと互いに祈り合いたいと思います。


 以上、キリストを信じる者が変わること。キリストに似る者となるために、私たちが取り組むべきこと。罪を告白することに焦点を当てて確認してきました。

 自分に罪があると認めることは大変なこと、勇気が必要なこと。しかし、キリストを信じる者にとって、罪を告白し続けることはとても大事な取り組みでした。あれやこれやに目を回して、自分の罪に目を向けないまま毎日を終えることのないように。私のうちにキリストが形造られる、私が主イエスに似る者となることを真剣に願いながら、信仰者の歩みを全うしていきたいと思います。

2019年2月10日日曜日

ウェルカム礼拝「愛について」ルカ19:1~10


今朝は今年度三回目の、ウェルカム礼拝です。今までの二回は、「信仰」と「希望」について、聖書から教えられました。今朝の三回目は、「愛」をテーマに教えられたいと思います。

 愛とは何かということについて、聖書はいろいろと教えています。たとえば、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4)とです。また、愛というものが何よりも大事なものであるということも、聖書は強調しています。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイの福音書22:37-40)とです。あるいは、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第一コリント13:13)などです。

 愛がなければ、そのほかのどんなものが豊かでも、何の値打もないと、聖書ははっきりと断言します。またその愛は、神からだけでていると、明確に書かれています。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」(第一ヨハネ4:7)と。そしてその神から出ている愛は、どこを見ればわかるのかということについては、「神はその一人子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(第一ヨハネ4:9)とです。つまり、十字架にかかったキリストに、神の愛が示されているというのです。神の一人子が人間となってこの世に遣わされて、人間の罪を赦すために十字架にかかられたこと、そこに神の愛が私たちに示されたのだと。

 さてそこで、今朝は、何よりも重要な愛を私たちに与えてくださるイエス・キリスト。そしてその愛は、この方から出ていると言われるイエス・キリストに出会った一人の人物を通して、そのイエス様の愛というものが、人間をいかに変えてしまうものかということを、ザアカイという人を通してみていきたいと思います。1節、2節「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイと言う名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」

 ここに、ザアカイという名の男性が登場します。エリコの町で、税金を取ることを生業として生きていました。取税人の「かしら」というのですから、ほどほどの才覚にも恵まれていたようです。また、金持ちだったというのですから、特に物に不自由をすることもなく、その人生を送っていたことと思われます。ところが、ある日のことです。3節、4節「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることがではなかった。それで、先のほうに走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」

 エリコの町をイエス様が通っておられることを知ったザアカイは、イエス様がどういう方なのかを見ようとしました。あちこちで病人をいやしたり、素晴らしいお話をされていた人物に、興味を魅かれたのでしょうか。それとも、物には何一つ不自由な思いをしていない人生にも、何か分からない心の中の空洞があったからなのでしょうか。ともかくイエス様を見たいという思いを持ちました。それも、その思いは結構強かったようで、彼は背が低かったので、群衆に囲まれたイエス様を見ることができませんでしが、それであきらめることなく、進行方向の先にある、いちじく桑の木を目ざして走って行き、その木に登って、ちょこんと座ったのでした。ちょうどその時に、イエス様がそこを通り過ぎようとしておられたというのです。

 聖書には、人間がイエス様に出会う場面が、人によってまちまちで十人十色なのですが、このザアカイがイエス様に出会う場面は独特で、一度読んだだけで忘れられない場面です。どこか、ユーモラスでもあります。けれども、そこで言われたイエス様からの一言は、思いにもよらないものでした。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてあるから』」

 もしこんなことを私が皆さんに言ったとしたら、きっとびっくりして、気持ちが悪くなると思います。今日教会に初めていらっしゃった方に、「今日は、あなたの家に泊まることにしてある。」などと言いましたら、きっと二度と教会には来たくなくなると思います。しかしザアカイは違いました。6節「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」ザアカイは喜んで、イエス様をお迎えしたというのです。実に不思議な事です。けれども、この不思議さの謎を解くようなことが、続けて書かれていきます。

7節「人々はみな、これを見て、『あの人は罪人のところに行って客となった。』と文句を言った。」エリコの人々はザアカイのことを、「罪人」と呼んでいます。その理由は、ザアカイがローマに税金を納める職業に就いているからです。そのことをもって町の人々は、彼を売国奴と決めつけて、罪人呼ばわりをしました。また、罪人と呼んだもう一つ理由があって、当時の取税人は決められた額以上の税を要求して、余分にせしめたお金を私物化していたので、公然とゆすりを働いていたのです。これまた、罪人と呼ばれた所以でした。ザアカイが金持ちであったのも、そういうゆすりという手段で得たお金を、貯めこんでのことだったのでしょう。ですから、ザアカイは毎日毎日、その町の人々の冷たい視線を浴び続けながら生きていた、ということが想像できます。

町のすべての人間の目が、自分のことを否定的に冷たく見ているという日常。これは辛いことです。いくら豊かな財産に囲まれていても、その心はツンドラ地帯の土の中のように、真に凍っていたのではないでしょうか。太陽が燦々と注ぐエリコの町で、どんなにその日光を浴びても、ザアカイは心を凍らせて生きていたことでしょう。そんなこともあって、イエス様に、「今日は、あなたの家に泊まることにしてある。」と言われて、きっと初めてその心に日光が注がれるような、衝撃的な温かさが差し込んだのかもしれません。それでイエス様の言葉が、ザアカイにとっては、これ以上にない嬉しい申し出に聞こえたことでしょう。

けれども続くザアカイの言葉は、ただそれだけでは説明できないことが彼の内面に起こっていた、という内容になっています。8節「しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。』」このザアカイの発言は、彼の心の中に起きた大きな変化を、見事に表しています。その変化は三つあります。

第一は、彼はイエス様のことを、「主よ」と呼んでいるということです。これは、目の前におられるイエス様が、ただの偉大な人間であるということとは全く違う思いの言葉です。「神よ」という言葉なのです。目の前にいる人間が、神であるという告白なのです。最初彼は、イエス様がどんな方なのかと見ようと、興味本位でイエス様に近づいて行ったはずなのですが、何とその方が近づいてこられて、そしてその方と交わってみると、その方がただの人間ではなかったということに、心が開かれてしまったのでした。

つまり彼はこの時、愛そのもののお方に出会っていたのでした。その愛は、人間の持つ自己中心的な愛とは、全く違っている愛です。人間の愛は、条件付きの愛です。相手が自分のお眼鏡にかなえば相手をするけれども、そうでなければ相手にしないという、相手次第という条件付きなのです。「私はあなたを愛します」という人間同士の言葉は、「あなたはこれこれだから愛します」ということであって、「これこれがなくなれば愛しません」という、きわめて冷たい思いが根っこにでんと胡坐をかいている言葉なのです。その思いは、エリコの人々の思いそのものでもあって、売国奴でゆすりたかりをしているようなザアカイは許さない、相手にしない、憎む、という思いでザアカイを見ていたのです。

けれどもイエス様は、そんなザアカイのところに、無条件で泊まると言われたのです。泊まるというのは、ザアカイを受け入れるということです。無条件でザアカイと相対するということです。心がツンドラのように凍っていたザアカイが、人生で初めて無条件の愛の持ち主に出会って、そして心開かれて、イエス様のことを「主」と告白したのです。このイエス・キリストを「主」と告白することは、天動説から地動説に変わるような大転換で、ザアカイの心に起きましたこの大転換によって、その心に愛が注がれていったのです。

そして第二は、それゆえにザアカイは、愛する心を持つようになったということが、「私の財産の半分を、貧しい人たちに施します。」と言っていることで表明されています。それまでのザアカイは、ともかく人から何かを奪うということに心血を注いで生きてきました。「俺の物は俺の物。お前の物も俺の物」とばかりに、毎日他人から何かを奪うために、その才覚を用いていました。私はクリスチャンになる前に、一年間麻雀に凝って生きていましたが、そのころは通行人の顔が、麻雀のパイに見えたものです。ザアカイも人の顔が、お金にしか見えなかったのかもしれません。

私たちの生き方のどこかに、人を自分のために利用するという思いはないでしょうか。殺人というのも、人の命を利用して、自分の立場を守ろうとすることです。嘘をつくことも人をだまして、自分を有利にしようとすることです。姦淫も、他人を自分の欲望を満たす道具として、利用することです。盗みも、他人のものを自分のために利用することです。罪とはですから、他人の物を不当に、自己中心的に利用とする思いや行動であると言っていいのです。あるいは相手から奪うだけの生き方が、罪であると言っていいのです。

けれどもザアカイは、神の愛をいただいてしまったら、もう他人の物を不当に奪おうという思いから解放されました。そして自分の持っているものを貧しい人たちに与えよう、という思いに変えられたのです。ギブアンドテイク、という言葉があります。何かをテイクできれば、何かをギブするという、条件付きのやり取りです。けれどもザアカイのいただいた神の愛は、ギブアンドギブでした。聖書に、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4:11)というみことばがあります。そのように、神に愛されたザアカイは、ちょうど太陽の光を浴びた月が、その光を反射して地球を照らすように、今度は貧しい人たちに、その神の愛という光を放つように変えられていったのです。このギブアンドテイクからギブアンドギブへの変化は、ただ神の愛をいただくことでしか起きない、一大変化なのです。

第三は、罪を告白したということです。「だれからでも脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。」この「四倍」ということばは、旧約の律法にあるのですが、非常な悪意を持って他人の物を不当に奪ったものは、四倍にして弁償しなければならない、というものがあります。つまりザアカイは、自分が今までやってきたことは、非常な悪意を持ってやってきたことであるという、罪の深刻さを告白しているということの表れなのです。

それまでのザアカイは、税金をちょろまかして取るということは、職業上の特権であるとしか思っていなかったことでしょう。そんなことは、取税人ならば誰でもやっていることで、やらないのは損であると思っていたことでしょう。けれども、平気でやっていたその日常の自分の行為が、神の愛をいただいてから、それまでとは全く真逆に見えるようになったのです。神に無条件に愛されるということは、その罪を赦されるということです。罪が赦されますと人間は、その罪を素直に認めるように変えられていきます。私はかつて憎しみという思いをよく持ちました。そして相手を憎むのは、その相手が悪いから、だから憎むのだと思っていました。また、憎しみを持たない人間などいないはずだから、人を憎んでどこが悪いのか、とも思っていました。けれども聖書に、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」(第一ヨハネ3:15)というみことばがありまして、憎むということが人殺しと同等の恐ろしい罪なのだということを、教えられました。そんな人殺しと同等の罪を持っていた者を、イエス様は無条件に愛してくださり、そしてその罪を赦すために、私の身代わりに十字架にかかってくださったのだということに目が開かれていきました。そして私は、自分が悪いのですと告白することしかできませんでした。人のせいにできなくなっていったのです。

実は、その「自分が悪い」という告白は、最初の人間のアダムとエバは、決してできないことでした。禁断の実を食べたということを神に指摘されても、彼らは「いや、エバがくれたので」とか、「いや、蛇が惑わしたので」などと、自分以外のものに責任転嫁をして、決して自分が悪いということを告白しなかったのです。イエス様がそんな人間のために十字架にかかってくださった、という神の愛に触れて初めて、自分の罪をそのまま告白できるようになるのです。

さてこのように、イエス様を「主」と呼び、愛の表明と罪の告白をしたザアカイに対して、イエス様は次のように言われました。9節、10節「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』」「救い」というのは、キリストの愛をいただくことです。神様ありがとうと言って、愛であるイエス様をいただくことです。それをいただかなければ、救いはありません。救いに来られた方を拒否すれば、当然その人自身が自分の救いを拒んでいることになるからです。10節の「失われた人」というのは、神の前から失われた人ということです。木の枝から離れた実は、ただ腐るだけですが、そのように、神から離れている人間の魂は、ただ他人を自分のために利用するだけの、恐ろしい罪を犯すことしかできなくなったのです。イエス様という方は、ちょうど迷子の羊を捜して連れ戻す羊飼いのように、神の前からいなくなった人間を捜して、天に連れて行ってくださる羊飼いでいる救い主なのです。ご自身はそのために来たのだ、と10節で言われているのです。そして罪人を天に導いてくださるために、十字架で死んで救ってくださった、愛の救い主なのです。

今朝の礼拝も、そのイエス様の捜索活動のなされている礼拝でもあるのです。この場で、愛であるイエス様を両手を広げていただいて、「主よ」と呼び、そして愛を持つ魂に変えられ、そして罪を告白し続ける者として、祝福されたいと思います。 

2019年2月3日日曜日

信仰生活の基本(5)「社会生活・仕事」創世記1:26~28,Ⅰテサロニケ4:9~12


皆様は、仕事に喜びを感じることが多いでしょうか。それとも、苦しみを感じることが多いでしょうか。どんな時に喜びを覚え、どんな時に苦しみを覚えるでしょうか。仕事は生き甲斐でしょうか。それとも、生活の糧を稼ぐ手段にすぎないものでしょうか。

人生において、睡眠時間に次いで多いのが仕事の時間と言われます。また、私たちの生活を、教会生活、家庭生活、社会生活の三つに分けるとすれば、各々の年代にもよりますが、社会における仕事の占める時間がかなり多いと言う人もいることと思います。人によっては、あるいは時期によっては、仕事の時間が睡眠時間を上回ると言う場合もあることでしょう。

今朝は、信仰生活の基本シリーズの第5回。社会生活における仕事について、聖書から学びたいと思います。私たちが人生の多くの時間を費やしている仕事、私たちの人生において、誰もが大切と考える仕事について、聖書は何を教えているのか見てゆきたいのです。

神様は何のために私たちに仕事をお与えになったのか。私たちは、どんな仕事を、どんな考え方をもって求めるべきなのか。仕事の価値とは何なのか。信仰と仕事に関係はあるのか。ともに、聖書から考えてゆきたいと思います。

神様がこの世界を創造した際、何のために人間を創造したのか。それを示すことばが、創世記の1章にあります。


1:27,28「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」


神様が人間を創造したのは、人間が子孫を生み、家族を作るため、家族が増え広がり、社会を作るため。さらに、神様が創造した自然や生き物たちを、人間に支配させるためでした。

但し、「支配する」と言っても、人間が勝手気ままに自然や生き物を扱うことができると言う意味ではありません。あくまでも、神様にみこころに従って、正しく治めることが求められているのです。ですから、むしろ「支配する」と言うことばよりも、「管理する、世話をする」と言うことばの方がふさわしいとも言われます。

また、注目したいのは「神は彼らを祝福し、彼らに仰せられた」とあることです。神様が創造した良い世界を、さらに良いもの、豊かなものにするために、人間がこの世界のものを管理し、世話をする。仕事は神様から私たちに与えられた使命であり、祝福であると言うのです。

事実、最初の人アダムとエバが生活したエデンの園は、見た目にも美しく、食べるのにも良い様々な木が生え、たわわに実をつけていましたから、彼らは生きるために働く必要がありませんでした。しかし、その様な楽園に生きる人間に、神様は仕事を与えたのです。


2:15「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」


耕し、守ること。それは自然の仕組みを調べること、作物を生み出すこと、額に汗して働くこと、管理すること。一言で言えば農業と言う仕事でした。「耕す」ことを英語で「カルティベイト」と言います。ここから「カルティベイション、文化」と言うことばが生まれました。耕すことは文化に通じているのです。

私たち人間には、仕事を通して、この地上で神様の栄光をあらわすような文化を作ってゆくと言う、尊い仕事が与えられていたのです。エデンの園で、私たちの先祖は、神様の愛を喜び、お互いに愛し愛される関係を喜んでいただけでなく、勤勉に仕事をする喜びをも味わっていたこと、確認したいのです。

しかし、本来喜びであり、楽しみであったはずの仕事が、神様に背いて以後、苦しみや虚しさを伴うようになったと、聖書は教えています。


3:17~19「また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」


「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」。明治43年、東京の朝日新聞に校正係として入社した石川啄木が作った歌です。「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」。どんなに働いても、なかなか生活は楽にならない。意味は明瞭、生きるために働くことの苦しみを経験した人、貧しさに悩む人の心を動かしてきた有名な歌です。

その頃啄木は、家族四人を北海道の函館から呼び寄せていました。家族を養うため、病弱な体に鞭打って働きに働いた啄木は、生きるために働くことの虚しさをも感じ、その虚しさを埋めるため飲酒などの快楽に金を浪費し、家族との折り合いも悪かったと言われます。こうした無理もたたって、わずか26歳でこの世を去ることになります。

しかし、神様を離れた人間の問題は、仕事に苦しみや虚しさが伴うことだけではありませんでした。弟アベルを殺し、神の前から逃れたカインは、子孫とともに、自らが支配者となる町を建てました。牧畜を行う者、音楽家、鍛冶屋などカインの子孫からは、様々な仕事をする者が現れましたが、カインはそれによって蓄えた富と力を使って、人々を恐れさせ、支配したのです。

自らの力と富を誇るために、仕事をする。仕事を通して得た良いものを、町を良くするためどころか、自分の意のままに隣人を支配するために用いたカイン。神様に背いた人間にとって、仕事は専ら自分のためのものに堕してしまったことがわかります。

同じ創世記には、有名なバベルの塔事件も記録されていました。シヌアルの地、現在のイラク辺りと考えられますが、そこに住む権力者が当時の建築技術の粋を用いて、自らの力を誇るべく、地上はるか高くそびえるバベルの塔を建設したのです。恐らく、多くの人を酷使して塔を建設した力ある者を、神様はさばき、人々は散らされました。

神様に背いて以来、この世界を神様のみこころにかなった良いものにすると言う本来の目的を忘れ、正しく仕事をする能力を失った人間の姿を、聖書は繰り返し描いているのです。

 しかし、神様はこの世界にイエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストを信じる人々に、本来の仕事の目的を弁えさせ、正しく仕事をする能力を回復してくださったのです。

 イエス・キリストご自身、救い主として活動を始める前は、故郷のナザレ村で、大工の仕事に励み、その仕事をもって神様と隣人とに仕えました。使徒パウロも、伝道活動の傍ら、天幕づくりの仕事に励み、人々の必要に仕えていたのです。

パウロが天幕を作ると言う肉体労働をしていたがゆえに、ギリシャの教会の中には、パウロを使徒として認めない、あるいは軽視する人々がいました。当時、ギリシャでは、政治家、哲学者、芸術家、雄弁家など、所謂知的労働につく者たちを尊び、肉体労働をして生活の糧を得る者を低く見ると言う風潮があったのです。

 そんなパウロが、自分は伝道と言う高尚な仕事をしているのだから、兄弟姉妹に養ってもらうのは当然と考え、それなのに、この世で仕事をする兄弟姉妹を低く見ていた者たちに対し、命じているのがこのことばでした。


 4:9~12「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」


 ここは見てわかりますように、前半の910節が兄弟愛の勧め、後半の1112節が、社会における仕事に励むようにとの勧めです。パウロは、ふたつを並べることにより、兄弟愛を実践する教会生活も、仕事に励む社会生活も、等しく大切なものであることを教えていました。

 特に「自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」との勧めは、社会の下層階級の人々が多かったテサロニケ教会、従って当時低く見られていた肉体労働に従事する人々のための励まし、と考えられます。

 「友が皆 我より偉く見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」。これも石川啄木の歌です。「友が皆 我より偉く見ゆる日よ」。啄木は、自らの生活の貧しさを恥じていたようです。社会的に認められるような立場で仕事をする友人と、新聞社の校正係の仕事しかもらえなかった自分を比べ、劣等感を抱いていたと言われます。

 良く分かる気がします。私たちは、自分の仕事に対する社会的な評価が気になります。社会的に評価される様な仕事、収入の多い仕事こそ価値ある仕事、それに比べて自分は…と考えがちです。

就いている仕事によって、自分の存在価値が決まってしまう。そんな社会に生きているのです。

 テサロニケ教会の中にも、そうした人々が存在しました。パウロは、そのような思いを抱く兄弟姉妹のことを良く知っていたからこそ、「どんな仕事であれ、神様から与えられた自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」「社会がどう思うと、収入がどうであろうと、自分の仕事をもって、神様と人々に仕え、励んでいるなら、その仕事を名誉とし、誇りを持ちなさい。」そう語ったのです。これを聞いて、どれ程多くの兄弟姉妹が勇気づけられたことでしょうか。

 他方、「外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」とのことば。これは、イエス・キリストの再臨が近いから、伝道こそ最も価値ある仕事とし、勤勉に働くことを軽視していた者たちへの戒めであったと考えられます。

 教会の歴史と言う視点から見ますと、カトリック教会が同じような考えを持っていた時代がありました。教会で仕事をする者を聖職者、聖なる働きにつく者と呼んで、これを尊ぶ一方、農夫、職人、商人など、教会の外の社会で仕事をする者を低く見ていたのです。この様な教会関係以外の、この世の、一般的な仕事は、それほど重要ではない、霊的な意味はないと言う考え方は、今でも残っているように思われます。

 この様な考え方を打破し、全てのクリスチャンは、自分の仕事をもって神様と社会の隣人に仕えることができるし、仕えるべき使命があると説いたのが、宗教改革の先輩たちでした。

 家の中で、赤ん坊のおしめを代えることも、教会の講壇から説教を語ることも、畑を耕し、作物を育てることも、工場で車を組み立てることも、社会の治安を守ることも、新しい薬を開発するために研究をすることも、どんな仕事であれ、私たちがその仕事を神様からの使命と考え、励むなら、それを神様は尊い働きと認め、喜んでくださるのです。

 もし、仮にですが、今すべての人が仕事をやめてしまったら、どうなるのでしょう。一体どんなことが起きるのでしょうか。家のテーブルからは食べ物が消えてなくなり、ガソリンスタンドに行っても、給油もできず、ストーブの灯油を買うこともできません。町のパトロールはなくなり、犯罪が頻発し、道路では交通渋滞や交通事故が多発、けれど駆けつけてくるはずの警察官も、救急車も存在しません。水道や電気といった生活の必要なサービスもなくなります。キリスト教会では、日曜日の礼拝の時間になっても、多くの人が集まることができないでしょう。

 もちろん、仕事を選ぶ際には、生活が営めるだけの収入が得られるかどうかを、考えなければなりません。また、自分の賜物に合った仕事、情熱を傾けられるような仕事を探すことも大切でしょう。しかし、もし、私たちが社会の必要を満たし、この社会を良くするために仕事をすると言う意識を失ってしまったら、恐ろしく、悲惨な社会、荒れ果てた、野蛮な世界が待っているような気がします。

 私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活に示された、神様の恵みによって救われています。神様が、すでに私たちの価値を認め、受け入れてくださっていますから、仕事によって自分が有能であることを示そう、認めてもらおうとするストレスから解放されています。むしろ、安心して、自分に与えられた仕事に励み、良い仕事をするために努力をすることができると思います。単純作業を見下すような態度を改め、社会的地位のある仕事を羨む必要もなくなるのです。

 神様の恵みを知った私たちの内側には、何の代償も求めずに私たちを救い、受け入れてくださった神様を愛し、社会の隣人を愛する方法として仕事に励み、専念する情熱と力が回復しつつあるのです。自分のような者が、神様から尊い働きを任されていることを喜び、誇りに思えるのです。

 最後に、初代教会に多く存在したと言われる奴隷たちに対し、パウロが語った励ましのことばを今日の聖句として読みたいと思います。当時、社会の最も下に置かれ、仕事の価値を認めてもらう機会の最も少ない、厳しい環境で働いていた人々に向け、パウロが本気で語ったことばです。


 コロサイ32324「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...