皆様は、仕事に喜びを感じることが多いでしょうか。それとも、苦しみを感じることが多いでしょうか。どんな時に喜びを覚え、どんな時に苦しみを覚えるでしょうか。仕事は生き甲斐でしょうか。それとも、生活の糧を稼ぐ手段にすぎないものでしょうか。
人生において、睡眠時間に次いで多いのが仕事の時間と言われます。また、私たちの生活を、教会生活、家庭生活、社会生活の三つに分けるとすれば、各々の年代にもよりますが、社会における仕事の占める時間がかなり多いと言う人もいることと思います。人によっては、あるいは時期によっては、仕事の時間が睡眠時間を上回ると言う場合もあることでしょう。
今朝は、信仰生活の基本シリーズの第5回。社会生活における仕事について、聖書から学びたいと思います。私たちが人生の多くの時間を費やしている仕事、私たちの人生において、誰もが大切と考える仕事について、聖書は何を教えているのか見てゆきたいのです。
神様は何のために私たちに仕事をお与えになったのか。私たちは、どんな仕事を、どんな考え方をもって求めるべきなのか。仕事の価値とは何なのか。信仰と仕事に関係はあるのか。ともに、聖書から考えてゆきたいと思います。
神様がこの世界を創造した際、何のために人間を創造したのか。それを示すことばが、創世記の1章にあります。
1:27,28「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
神様が人間を創造したのは、人間が子孫を生み、家族を作るため、家族が増え広がり、社会を作るため。さらに、神様が創造した自然や生き物たちを、人間に支配させるためでした。
但し、「支配する」と言っても、人間が勝手気ままに自然や生き物を扱うことができると言う意味ではありません。あくまでも、神様にみこころに従って、正しく治めることが求められているのです。ですから、むしろ「支配する」と言うことばよりも、「管理する、世話をする」と言うことばの方がふさわしいとも言われます。
また、注目したいのは「神は彼らを祝福し、彼らに仰せられた」とあることです。神様が創造した良い世界を、さらに良いもの、豊かなものにするために、人間がこの世界のものを管理し、世話をする。仕事は神様から私たちに与えられた使命であり、祝福であると言うのです。
事実、最初の人アダムとエバが生活したエデンの園は、見た目にも美しく、食べるのにも良い様々な木が生え、たわわに実をつけていましたから、彼らは生きるために働く必要がありませんでした。しかし、その様な楽園に生きる人間に、神様は仕事を与えたのです。
2:15「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」
耕し、守ること。それは自然の仕組みを調べること、作物を生み出すこと、額に汗して働くこと、管理すること。一言で言えば農業と言う仕事でした。「耕す」ことを英語で「カルティベイト」と言います。ここから「カルティベイション、文化」と言うことばが生まれました。耕すことは文化に通じているのです。
私たち人間には、仕事を通して、この地上で神様の栄光をあらわすような文化を作ってゆくと言う、尊い仕事が与えられていたのです。エデンの園で、私たちの先祖は、神様の愛を喜び、お互いに愛し愛される関係を喜んでいただけでなく、勤勉に仕事をする喜びをも味わっていたこと、確認したいのです。
しかし、本来喜びであり、楽しみであったはずの仕事が、神様に背いて以後、苦しみや虚しさを伴うようになったと、聖書は教えています。
3:17~19「また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」
「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」。明治43年、東京の朝日新聞に校正係として入社した石川啄木が作った歌です。「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」。どんなに働いても、なかなか生活は楽にならない。意味は明瞭、生きるために働くことの苦しみを経験した人、貧しさに悩む人の心を動かしてきた有名な歌です。
その頃啄木は、家族四人を北海道の函館から呼び寄せていました。家族を養うため、病弱な体に鞭打って働きに働いた啄木は、生きるために働くことの虚しさをも感じ、その虚しさを埋めるため飲酒などの快楽に金を浪費し、家族との折り合いも悪かったと言われます。こうした無理もたたって、わずか26歳でこの世を去ることになります。
しかし、神様を離れた人間の問題は、仕事に苦しみや虚しさが伴うことだけではありませんでした。弟アベルを殺し、神の前から逃れたカインは、子孫とともに、自らが支配者となる町を建てました。牧畜を行う者、音楽家、鍛冶屋などカインの子孫からは、様々な仕事をする者が現れましたが、カインはそれによって蓄えた富と力を使って、人々を恐れさせ、支配したのです。
自らの力と富を誇るために、仕事をする。仕事を通して得た良いものを、町を良くするためどころか、自分の意のままに隣人を支配するために用いたカイン。神様に背いた人間にとって、仕事は専ら自分のためのものに堕してしまったことがわかります。
同じ創世記には、有名なバベルの塔事件も記録されていました。シヌアルの地、現在のイラク辺りと考えられますが、そこに住む権力者が当時の建築技術の粋を用いて、自らの力を誇るべく、地上はるか高くそびえるバベルの塔を建設したのです。恐らく、多くの人を酷使して塔を建設した力ある者を、神様はさばき、人々は散らされました。
神様に背いて以来、この世界を神様のみこころにかなった良いものにすると言う本来の目的を忘れ、正しく仕事をする能力を失った人間の姿を、聖書は繰り返し描いているのです。
しかし、神様はこの世界にイエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストを信じる人々に、本来の仕事の目的を弁えさせ、正しく仕事をする能力を回復してくださったのです。
イエス・キリストご自身、救い主として活動を始める前は、故郷のナザレ村で、大工の仕事に励み、その仕事をもって神様と隣人とに仕えました。使徒パウロも、伝道活動の傍ら、天幕づくりの仕事に励み、人々の必要に仕えていたのです。
パウロが天幕を作ると言う肉体労働をしていたがゆえに、ギリシャの教会の中には、パウロを使徒として認めない、あるいは軽視する人々がいました。当時、ギリシャでは、政治家、哲学者、芸術家、雄弁家など、所謂知的労働につく者たちを尊び、肉体労働をして生活の糧を得る者を低く見ると言う風潮があったのです。
そんなパウロが、自分は伝道と言う高尚な仕事をしているのだから、兄弟姉妹に養ってもらうのは当然と考え、それなのに、この世で仕事をする兄弟姉妹を低く見ていた者たちに対し、命じているのがこのことばでした。
4:9~12「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。
また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」
ここは見てわかりますように、前半の9節10節が兄弟愛の勧め、後半の11節12節が、社会における仕事に励むようにとの勧めです。パウロは、ふたつを並べることにより、兄弟愛を実践する教会生活も、仕事に励む社会生活も、等しく大切なものであることを教えていました。
特に「自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」との勧めは、社会の下層階級の人々が多かったテサロニケ教会、従って当時低く見られていた肉体労働に従事する人々のための励まし、と考えられます。
「友が皆 我より偉く見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」。これも石川啄木の歌です。「友が皆 我より偉く見ゆる日よ」。啄木は、自らの生活の貧しさを恥じていたようです。社会的に認められるような立場で仕事をする友人と、新聞社の校正係の仕事しかもらえなかった自分を比べ、劣等感を抱いていたと言われます。
良く分かる気がします。私たちは、自分の仕事に対する社会的な評価が気になります。社会的に評価される様な仕事、収入の多い仕事こそ価値ある仕事、それに比べて自分は…と考えがちです。
就いている仕事によって、自分の存在価値が決まってしまう。そんな社会に生きているのです。
テサロニケ教会の中にも、そうした人々が存在しました。パウロは、そのような思いを抱く兄弟姉妹のことを良く知っていたからこそ、「どんな仕事であれ、神様から与えられた自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」「社会がどう思うと、収入がどうであろうと、自分の仕事をもって、神様と人々に仕え、励んでいるなら、その仕事を名誉とし、誇りを持ちなさい。」そう語ったのです。これを聞いて、どれ程多くの兄弟姉妹が勇気づけられたことでしょうか。
他方、「外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」とのことば。これは、イエス・キリストの再臨が近いから、伝道こそ最も価値ある仕事とし、勤勉に働くことを軽視していた者たちへの戒めであったと考えられます。
教会の歴史と言う視点から見ますと、カトリック教会が同じような考えを持っていた時代がありました。教会で仕事をする者を聖職者、聖なる働きにつく者と呼んで、これを尊ぶ一方、農夫、職人、商人など、教会の外の社会で仕事をする者を低く見ていたのです。この様な教会関係以外の、この世の、一般的な仕事は、それほど重要ではない、霊的な意味はないと言う考え方は、今でも残っているように思われます。
この様な考え方を打破し、全てのクリスチャンは、自分の仕事をもって神様と社会の隣人に仕えることができるし、仕えるべき使命があると説いたのが、宗教改革の先輩たちでした。
家の中で、赤ん坊のおしめを代えることも、教会の講壇から説教を語ることも、畑を耕し、作物を育てることも、工場で車を組み立てることも、社会の治安を守ることも、新しい薬を開発するために研究をすることも、どんな仕事であれ、私たちがその仕事を神様からの使命と考え、励むなら、それを神様は尊い働きと認め、喜んでくださるのです。
もし、仮にですが、今すべての人が仕事をやめてしまったら、どうなるのでしょう。一体どんなことが起きるのでしょうか。家のテーブルからは食べ物が消えてなくなり、ガソリンスタンドに行っても、給油もできず、ストーブの灯油を買うこともできません。町のパトロールはなくなり、犯罪が頻発し、道路では交通渋滞や交通事故が多発、けれど駆けつけてくるはずの警察官も、救急車も存在しません。水道や電気といった生活の必要なサービスもなくなります。キリスト教会では、日曜日の礼拝の時間になっても、多くの人が集まることができないでしょう。
もちろん、仕事を選ぶ際には、生活が営めるだけの収入が得られるかどうかを、考えなければなりません。また、自分の賜物に合った仕事、情熱を傾けられるような仕事を探すことも大切でしょう。しかし、もし、私たちが社会の必要を満たし、この社会を良くするために仕事をすると言う意識を失ってしまったら、恐ろしく、悲惨な社会、荒れ果てた、野蛮な世界が待っているような気がします。
私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活に示された、神様の恵みによって救われています。神様が、すでに私たちの価値を認め、受け入れてくださっていますから、仕事によって自分が有能であることを示そう、認めてもらおうとするストレスから解放されています。むしろ、安心して、自分に与えられた仕事に励み、良い仕事をするために努力をすることができると思います。単純作業を見下すような態度を改め、社会的地位のある仕事を羨む必要もなくなるのです。
神様の恵みを知った私たちの内側には、何の代償も求めずに私たちを救い、受け入れてくださった神様を愛し、社会の隣人を愛する方法として仕事に励み、専念する情熱と力が回復しつつあるのです。自分のような者が、神様から尊い働きを任されていることを喜び、誇りに思えるのです。
最後に、初代教会に多く存在したと言われる奴隷たちに対し、パウロが語った励ましのことばを今日の聖句として読みたいと思います。当時、社会の最も下に置かれ、仕事の価値を認めてもらう機会の最も少ない、厳しい環境で働いていた人々に向け、パウロが本気で語ったことばです。
コロサイ3:23、24「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」
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