今朝は今年度三回目の、ウェルカム礼拝です。今までの二回は、「信仰」と「希望」について、聖書から教えられました。今朝の三回目は、「愛」をテーマに教えられたいと思います。
愛とは何かということについて、聖書はいろいろと教えています。たとえば、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4)とです。また、愛というものが何よりも大事なものであるということも、聖書は強調しています。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイの福音書22:37-40)とです。あるいは、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第一コリント13:13)などです。
愛がなければ、そのほかのどんなものが豊かでも、何の値打もないと、聖書ははっきりと断言します。またその愛は、神からだけでていると、明確に書かれています。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」(第一ヨハネ4:7)と。そしてその神から出ている愛は、どこを見ればわかるのかということについては、「神はその一人子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(第一ヨハネ4:9)とです。つまり、十字架にかかったキリストに、神の愛が示されているというのです。神の一人子が人間となってこの世に遣わされて、人間の罪を赦すために十字架にかかられたこと、そこに神の愛が私たちに示されたのだと。
さてそこで、今朝は、何よりも重要な愛を私たちに与えてくださるイエス・キリスト。そしてその愛は、この方から出ていると言われるイエス・キリストに出会った一人の人物を通して、そのイエス様の愛というものが、人間をいかに変えてしまうものかということを、ザアカイという人を通してみていきたいと思います。1節、2節「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイと言う名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」
ここに、ザアカイという名の男性が登場します。エリコの町で、税金を取ることを生業として生きていました。取税人の「かしら」というのですから、ほどほどの才覚にも恵まれていたようです。また、金持ちだったというのですから、特に物に不自由をすることもなく、その人生を送っていたことと思われます。ところが、ある日のことです。3節、4節「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることがではなかった。それで、先のほうに走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」
エリコの町をイエス様が通っておられることを知ったザアカイは、イエス様がどういう方なのかを見ようとしました。あちこちで病人をいやしたり、素晴らしいお話をされていた人物に、興味を魅かれたのでしょうか。それとも、物には何一つ不自由な思いをしていない人生にも、何か分からない心の中の空洞があったからなのでしょうか。ともかくイエス様を見たいという思いを持ちました。それも、その思いは結構強かったようで、彼は背が低かったので、群衆に囲まれたイエス様を見ることができませんでしが、それであきらめることなく、進行方向の先にある、いちじく桑の木を目ざして走って行き、その木に登って、ちょこんと座ったのでした。ちょうどその時に、イエス様がそこを通り過ぎようとしておられたというのです。
聖書には、人間がイエス様に出会う場面が、人によってまちまちで十人十色なのですが、このザアカイがイエス様に出会う場面は独特で、一度読んだだけで忘れられない場面です。どこか、ユーモラスでもあります。けれども、そこで言われたイエス様からの一言は、思いにもよらないものでした。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてあるから』」
もしこんなことを私が皆さんに言ったとしたら、きっとびっくりして、気持ちが悪くなると思います。今日教会に初めていらっしゃった方に、「今日は、あなたの家に泊まることにしてある。」などと言いましたら、きっと二度と教会には来たくなくなると思います。しかしザアカイは違いました。6節「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」ザアカイは喜んで、イエス様をお迎えしたというのです。実に不思議な事です。けれども、この不思議さの謎を解くようなことが、続けて書かれていきます。
7節「人々はみな、これを見て、『あの人は罪人のところに行って客となった。』と文句を言った。」エリコの人々はザアカイのことを、「罪人」と呼んでいます。その理由は、ザアカイがローマに税金を納める職業に就いているからです。そのことをもって町の人々は、彼を売国奴と決めつけて、罪人呼ばわりをしました。また、罪人と呼んだもう一つ理由があって、当時の取税人は決められた額以上の税を要求して、余分にせしめたお金を私物化していたので、公然とゆすりを働いていたのです。これまた、罪人と呼ばれた所以でした。ザアカイが金持ちであったのも、そういうゆすりという手段で得たお金を、貯めこんでのことだったのでしょう。ですから、ザアカイは毎日毎日、その町の人々の冷たい視線を浴び続けながら生きていた、ということが想像できます。
町のすべての人間の目が、自分のことを否定的に冷たく見ているという日常。これは辛いことです。いくら豊かな財産に囲まれていても、その心はツンドラ地帯の土の中のように、真に凍っていたのではないでしょうか。太陽が燦々と注ぐエリコの町で、どんなにその日光を浴びても、ザアカイは心を凍らせて生きていたことでしょう。そんなこともあって、イエス様に、「今日は、あなたの家に泊まることにしてある。」と言われて、きっと初めてその心に日光が注がれるような、衝撃的な温かさが差し込んだのかもしれません。それでイエス様の言葉が、ザアカイにとっては、これ以上にない嬉しい申し出に聞こえたことでしょう。
けれども続くザアカイの言葉は、ただそれだけでは説明できないことが彼の内面に起こっていた、という内容になっています。8節「しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。』」このザアカイの発言は、彼の心の中に起きた大きな変化を、見事に表しています。その変化は三つあります。
第一は、彼はイエス様のことを、「主よ」と呼んでいるということです。これは、目の前におられるイエス様が、ただの偉大な人間であるということとは全く違う思いの言葉です。「神よ」という言葉なのです。目の前にいる人間が、神であるという告白なのです。最初彼は、イエス様がどんな方なのかと見ようと、興味本位でイエス様に近づいて行ったはずなのですが、何とその方が近づいてこられて、そしてその方と交わってみると、その方がただの人間ではなかったということに、心が開かれてしまったのでした。
つまり彼はこの時、愛そのもののお方に出会っていたのでした。その愛は、人間の持つ自己中心的な愛とは、全く違っている愛です。人間の愛は、条件付きの愛です。相手が自分のお眼鏡にかなえば相手をするけれども、そうでなければ相手にしないという、相手次第という条件付きなのです。「私はあなたを愛します」という人間同士の言葉は、「あなたはこれこれだから愛します」ということであって、「これこれがなくなれば愛しません」という、きわめて冷たい思いが根っこにでんと胡坐をかいている言葉なのです。その思いは、エリコの人々の思いそのものでもあって、売国奴でゆすりたかりをしているようなザアカイは許さない、相手にしない、憎む、という思いでザアカイを見ていたのです。
けれどもイエス様は、そんなザアカイのところに、無条件で泊まると言われたのです。泊まるというのは、ザアカイを受け入れるということです。無条件でザアカイと相対するということです。心がツンドラのように凍っていたザアカイが、人生で初めて無条件の愛の持ち主に出会って、そして心開かれて、イエス様のことを「主」と告白したのです。このイエス・キリストを「主」と告白することは、天動説から地動説に変わるような大転換で、ザアカイの心に起きましたこの大転換によって、その心に愛が注がれていったのです。
そして第二は、それゆえにザアカイは、愛する心を持つようになったということが、「私の財産の半分を、貧しい人たちに施します。」と言っていることで表明されています。それまでのザアカイは、ともかく人から何かを奪うということに心血を注いで生きてきました。「俺の物は俺の物。お前の物も俺の物」とばかりに、毎日他人から何かを奪うために、その才覚を用いていました。私はクリスチャンになる前に、一年間麻雀に凝って生きていましたが、そのころは通行人の顔が、麻雀のパイに見えたものです。ザアカイも人の顔が、お金にしか見えなかったのかもしれません。
私たちの生き方のどこかに、人を自分のために利用するという思いはないでしょうか。殺人というのも、人の命を利用して、自分の立場を守ろうとすることです。嘘をつくことも人をだまして、自分を有利にしようとすることです。姦淫も、他人を自分の欲望を満たす道具として、利用することです。盗みも、他人のものを自分のために利用することです。罪とはですから、他人の物を不当に、自己中心的に利用とする思いや行動であると言っていいのです。あるいは相手から奪うだけの生き方が、罪であると言っていいのです。
けれどもザアカイは、神の愛をいただいてしまったら、もう他人の物を不当に奪おうという思いから解放されました。そして自分の持っているものを貧しい人たちに与えよう、という思いに変えられたのです。ギブアンドテイク、という言葉があります。何かをテイクできれば、何かをギブするという、条件付きのやり取りです。けれどもザアカイのいただいた神の愛は、ギブアンドギブでした。聖書に、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4:11)というみことばがあります。そのように、神に愛されたザアカイは、ちょうど太陽の光を浴びた月が、その光を反射して地球を照らすように、今度は貧しい人たちに、その神の愛という光を放つように変えられていったのです。このギブアンドテイクからギブアンドギブへの変化は、ただ神の愛をいただくことでしか起きない、一大変化なのです。
第三は、罪を告白したということです。「だれからでも脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。」この「四倍」ということばは、旧約の律法にあるのですが、非常な悪意を持って他人の物を不当に奪ったものは、四倍にして弁償しなければならない、というものがあります。つまりザアカイは、自分が今までやってきたことは、非常な悪意を持ってやってきたことであるという、罪の深刻さを告白しているということの表れなのです。
それまでのザアカイは、税金をちょろまかして取るということは、職業上の特権であるとしか思っていなかったことでしょう。そんなことは、取税人ならば誰でもやっていることで、やらないのは損であると思っていたことでしょう。けれども、平気でやっていたその日常の自分の行為が、神の愛をいただいてから、それまでとは全く真逆に見えるようになったのです。神に無条件に愛されるということは、その罪を赦されるということです。罪が赦されますと人間は、その罪を素直に認めるように変えられていきます。私はかつて憎しみという思いをよく持ちました。そして相手を憎むのは、その相手が悪いから、だから憎むのだと思っていました。また、憎しみを持たない人間などいないはずだから、人を憎んでどこが悪いのか、とも思っていました。けれども聖書に、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」(第一ヨハネ3:15)というみことばがありまして、憎むということが人殺しと同等の恐ろしい罪なのだということを、教えられました。そんな人殺しと同等の罪を持っていた者を、イエス様は無条件に愛してくださり、そしてその罪を赦すために、私の身代わりに十字架にかかってくださったのだということに目が開かれていきました。そして私は、自分が悪いのですと告白することしかできませんでした。人のせいにできなくなっていったのです。
実は、その「自分が悪い」という告白は、最初の人間のアダムとエバは、決してできないことでした。禁断の実を食べたということを神に指摘されても、彼らは「いや、エバがくれたので」とか、「いや、蛇が惑わしたので」などと、自分以外のものに責任転嫁をして、決して自分が悪いということを告白しなかったのです。イエス様がそんな人間のために十字架にかかってくださった、という神の愛に触れて初めて、自分の罪をそのまま告白できるようになるのです。
さてこのように、イエス様を「主」と呼び、愛の表明と罪の告白をしたザアカイに対して、イエス様は次のように言われました。9節、10節「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』」「救い」というのは、キリストの愛をいただくことです。神様ありがとうと言って、愛であるイエス様をいただくことです。それをいただかなければ、救いはありません。救いに来られた方を拒否すれば、当然その人自身が自分の救いを拒んでいることになるからです。10節の「失われた人」というのは、神の前から失われた人ということです。木の枝から離れた実は、ただ腐るだけですが、そのように、神から離れている人間の魂は、ただ他人を自分のために利用するだけの、恐ろしい罪を犯すことしかできなくなったのです。イエス様という方は、ちょうど迷子の羊を捜して連れ戻す羊飼いのように、神の前からいなくなった人間を捜して、天に連れて行ってくださる羊飼いでいる救い主なのです。ご自身はそのために来たのだ、と10節で言われているのです。そして罪人を天に導いてくださるために、十字架で死んで救ってくださった、愛の救い主なのです。
今朝の礼拝も、そのイエス様の捜索活動のなされている礼拝でもあるのです。この場で、愛であるイエス様を両手を広げていただいて、「主よ」と呼び、そして愛を持つ魂に変えられ、そして罪を告白し続ける者として、祝福されたいと思います。
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