2018年10月14日日曜日

一書説教(49)「エペソ書~召された者として~」エペソ2:10


六十六の書が集まって一つの書である聖書。私たちは聖書を神の言葉と信じています。聖書は神の言葉。とはいえそれは、天から本が降って来たという意味ではありません。地中を掘ったら本が出てきたということでもありません。人間の著者がいます。聖書は完成までに千年以上の時間を要し、四十人以上の人が著者として記されたものです。また、著者が筆を持ったら気を失い、気付いた時には書き終わっていたというのではありません。著者はそれぞれ、自分の考えをもとに書を記しています。

人間の著者が、それぞれの考えに基づいて記したものなのに、なぜ神の言葉と言えるのか。それは、神様が著者に選んだ者たちに対して、特別な力を与え、その執筆を守り、誤りなき神の言葉として記すようにされたから。神様の著者に対する特別な恵みによって、他のあらゆる書物と異なり聖書は神の言葉であると私たちは受け取っているのです。著者の意志が反映されているという意味からすると、聖書は神の言葉であると同時に人の言葉でもあると言えます。


 聖書は神の言葉であると同時に人の言葉でもある。この人の言葉であるという点に注目して聖書を読むと、より聖書が味わい深いものになります。当然のことですが、人が何かを記す時、その人の知恵、知識、経験が大きく影響します。同じ人が書いたものでも、10代の時、30代の時、50代の時に書かれたものを比べれば、違いは大きいもの。

パウロは、聖書に収録されているだけでも多くの著作を残していますが、記されている年代順に並べて読み比べると、思想の深まりが感じられます。有名なところで言えば、神様の前で自分をどのような者と考えるのか。

コリント人への手紙第一を記した時、パウロは自分のことを「私は使徒の中では最も小さい者」(Ⅰコリント15章9節)と言いました。キリストから直接教えられた者、使徒と呼ばれる者たちの中で、最も小さいと受け止めています。しかし、その後で記したエペソ人への手紙では自分のことを「全ての聖徒たちのうちで最も小さな私」と表現しました。キリストを信じる者、救われた者の中で最も小さいと考えるようになっていた。さらにその後、最晩年に記されたテモテへの手紙第一では自分のことを「私は罪人のかしらです。」と言います。使徒とか聖徒とすら言わず、自分は罪人であること、それも頭であると見定めるのです。このように見ていきますと、キリスト者の歩みは自分の功績を積み上げる歩みではなく、自分の弱さ、罪深さを確認する歩みであると教えられます。一つの書だけでなく、他の書との関係の中で読むことで、見えてくることがあるのです。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り十回目。エペソ人への手紙となります。パウロの記した後期の書。最晩年に記した三つの書(Ⅰテモテ、Ⅱテモテ、テトス)は個人に宛てたもので、教会宛ての手紙としては最後に記した書(エペソ、ピリピ、コロサイ)のひとつです。

パウロが記した手紙の多くは、伝道旅行中のもの。旅の最中、激務の中、目の前の人々に心を配りつつ、他の地域にいる人たちに思いを馳せて記したもの。エペソ書は、ローマで軟禁状態の時に記したものです。軟禁状態でも伝道活動をしていたパウロですが、とはいえ他の書を書く時よりは落ち着いて記すことが出来た状況でしょう。様々な経験を経た後で、比較的落ち着いて記すことが出来た書。そのためでしょうか、多くの人が激賞しています。「パウロ文書の冠」(ジョセフ・アーミテイジ・ロビンソン)、「パウロ宗教の真髄」(アーサー・サミュエル・ピーク)、「パウロ作品の一つの頂点、おそらく最高の頂点」(ピエール・モーリス・ブノワ)、カルヴァンの特愛の書でもあるとのこと。

 果たして、自分にその奥深さを味わうことが出来るのかと尻込みする思いもありますが、祈りつつ聖書を読み進める歩みを全うしていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 深淵なエペソ人への手紙、具体的に内容を見る前に、いくつか特徴を確認しておきたいと思います。

 特徴の一つ目は、内容が普遍的であるということ。エペソと言えば、パウロが伝道旅行の中では最も長く滞在した場所。長らく滞在した地域、その教会に宛てる手紙だとすれば、具体的な出来事や個人名が多く出てきそうですが、この書には具体的な出来事や個人名が殆ど出てこない。全てのキリスト者に宛てて記されたような印象があります。

(本論から外れますが、この書をエペソ人への手紙と呼ぶ主な根拠は、1章1節にある「エペソの聖徒たちへ」という言葉ですが、欄外脚注にあるように、写本によっては「エペソの」を欠くものがあります。つまり、パウロが記した書には、もともと「エペソの」と書いていなかった可能性があり、その場合は宛先の地名がない書となります。その可能性を意識しつつ、これはどこの、どのような人たちに宛てたものなのか、考えながら読むのも良いです。)

 特徴の二つ目は、「手紙らしくない」ということ。今から約二千年前。郵便ポストもなく、紙や羊皮紙が非常に貴重な時代。手紙を書き、相手へ届けるというのは大変なこと。当時、個人が手紙を書くのは、自分自身か送り先のどちらかに何かしらの必要があり記されるもの。しかし、エペソ書を読む限り、具体的な必要があり書かれたという印象がありません。記された中に、長い祈りの言葉や賛美の歌が多く含まれる書。そのため、手紙というより、「神学的エッセイ」、「長い祈り」「散文で書かれた詩」と評する人もいます。手紙でないとしたら、自分としてはどのような書とするのか、考えながら読むのも良いと思います。


 内容は深淵、しかし書物としては全六章の小さな書。どれだけ味わえるかはともかく、読み通すだけならば僅かな時間で可能です。大枠としては概観しやすく、前半と後半に分けられますが、前半が一章から三章まで、後半は四章から六章まで。前半が教理篇、後半が実践編という印象です。

扱われている主なテーマは、神様が私たちを召すとはどのようなことか。「神様の召し」についてです。「召し」とは、どのような意味でしょうか。日本語で「召し」とは、「地位の高い人が、役割を任せるために人を選び呼び出すこと」を意味します。神様が人を召すというのも似た意味になりますが、丁寧に言うならば「神様が人を選び、その人を作り変え、その人に使命を与えること」ということです。

「神様の召し」がテーマのエペソ書。神様の選びとはどのようなものか。私たちはどのように作りかえられたのか。神様から使命が与えられるとはどのような意味があるのか。前半に教理的に記され、召された者は具体的にどのように生きたら良いのか。後半に実践的に記されています。


 神様の召しとはどのようなものなのか。このテーマがどのように展開するのか。その書き出しは次のようなものです。

 エペソ1章3節~14節

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。


 書き出しから全速力。一息のうちに、多くのことが語られる。あれやこれやと盛り込まれる言葉に眩暈がするところ。

神様が私たちを召すとは、私たちを祝福することであり、世界の基が据えられる前からの選びであり、私たちを聖なる傷のない者にすることであり、みこころに沿ったことであり、愛に基づくものであり、私たちの罪を赦すことであり、全てのものがキリストにあって集められることであり、私たちを「御国を受け継ぐ者」とすることであり、私たちが聖霊を受けることであり、私たちを神のものとすることであり、神の栄光が褒めたたえられること。

論理的というより情緒的。説明する、解き明かすというのではなく、賛美のような祈りのような詩のよう文。そして驚くことに、もとのギリシャ語では、これで一つの文です。実に長い。(ちなみに、1章15節~23節も一つの文となっていて、エペソ一章は冒頭の挨拶を除けば二つの文で出来ています。)

 一つの文にあまりに多くのことが語られていて、このような表現に馴染みのない私たちには、余計に分かりづらく感じられるところ。とはいえ、練りに練られた言葉であること。私たちに対する神様の御計画は、本当に素晴らしいものであることを伝えたいという情熱は分かります。

 この雰囲気は前半の一章から三章まで続きます。まとめるのが難しいのですが、挑戦すると次のようになります。


 世界の基の据えられる前から、私たちに対する神様の御計画があり、時満ちてその計画が実行に移されました。その実行に最も重要な役を担われたのはイエス・キリストです。神様の御計画に従って私たちに与えられるものがどれ程偉大であるのか、知ることが出来ますように。(1章)

 罪の中にいる私たちは、キリストを信じることによって救い出されます。その信仰も神様から与えられるもの。このことによって、恵みによって救われることが示されるのです。神様が信仰を与えるのはユダヤ人だけではありません。これまでユダヤ人と異邦人には大きな隔たりがありましたが、イエス様によって信じる者は神の家族となるのです。(2章)

 神様の御計画は実行に移されましたが、まだ全てが実現したわけではありません。罪から救い出された私たちは、福音を宣べ伝えることで神様の御計画の完成を目指すのです。福音を宣べ伝える働きの中心は、「教会」を通してなされるもの。教会において、キリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなく、とこしえまでもありますように。(3章)


 このように、神様の召しがどのようなものか、それがどれ程素晴らしいものかを滔々と語ったパウロが、それでは召された者はどのように生きたら良いのかと後半に続きます。

 エペソ4章1節

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。


 神様の御計画に基づいて召された私たち。その役割を果たすとすれば、どのように生きたら良いのか。後半にも賛美や祈りの言葉がありますが、前半の雰囲気とは打って変わり、それぞれの言葉が短く、具体的な事柄が多く記されます。

 後半部分で特に有名なのは、教会についての教え(4章)、夫婦についての教え(5章)、親子についての教え(6章)。教会(神の家族)、夫婦、親子。私たちにとって最も身近な人間関係にこそ、召された者としふさわしい生き方があると語られているようです。

統一したテーマではなく、勧めの羅列のように見える部分もあり、内容においても、語り方においても、幅のある後半部分。実に様々な事柄について記されていますが、一書説教のために何度も読みまして「今回」私が特に印象に残っているのは、「言葉」についてでした。何度も口、言葉に気を付けるようにと言われます。「愛をもって真理を語るように。」(4章15節)、「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」(4章25節)、「悪いことばは、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(4章29節)、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえもしてはいけません。また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。」(5章3節~4節)、「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」(5章19節)、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(6章18節)、「私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることが出来るように、祈って下さい。」(6章19節)と。何を語るべきか。何を語るべきでないのか。表から裏から、様々な言葉で勧められます。

 是非とも自分自身に語られた言葉として、この後半部分を読んで頂きたいと思います。自分の生活を顧みつつ、自分自身はどのような点が弱いのか。どのような点で、召された者としてふさわしく歩めていないのか、確認して頂きたいと思います。今回、私が特に気になったのは「言葉」というテーマでしたが、それぞれ読む時、自分が気になるテーマは何か、考えながら読むのも良いと思います。


 以上、エペソ人への手紙です。牧師、宣教師、神学者であるパウロが、年を重ね経験を積み記した書。全六章と短いながら、濃厚な書。その奥深き内容から、多くの人から愛された書。今一度、自分自身がキリストを信じていることの恵み深さとその意味を知ること。神様に召されるということがどれ程素晴らしいことなのか、その召しにふさわしい生き方に取り組むことがどれ程重要なのか、再確認することに取り組みたいと思います。


 最後に一つのことを確認して終わりにします。実際に私たちがエペソ書を読みますと、前半で、神様に目されることの素晴らしさが語られ、後半で召された者にふさわしい生き方が具体的に語られます。そして自分の生き方が、召された者にふさわしくない部分が多くあることに気づかされるのです。どうするでしょうか。多くの場合、私たちは極端な二つの応答をします。一つの応答は、キリストを信じる者は、罪赦された罪人。召された者にふさわしい生き方と言われても、どうせ自分は出来ないと諦める。もう一つの応答は、自分を打ち叩いて、何とか召された者としてふさわしく生きようとすること。恵みによって召されたのに、努力によって召された者にふさわしい生き方をしようとする。私たちはこの両極端を避けたいと思います。

 パウロは私たちが神様に召されたこと、その召しにふさわしく生きることについて、短くまとめて語っていました。

 エペソ2章10節

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。


 召された者としてふさわしい生き方。ここで言う「良い行い」は、自分で何とかするのではない。何と、その良い行いも、神様が備えて下さっていると言うのです。これ以上の至れり尽くせりは無いでしょう。召された者としてふさわしい歩みが出来ていない。そう自覚した時、私たちがすべきことは、良い行いをあらかじめ備えて下さっている神様に注目すること。自分自身を見る時、召された者にふさわしい歩みなど、とても出来ないように思う。しかし、神様にはその力があると信じること。召された者としてふさわしくない歩みをしてしまう罪を告白し、ふさわしい歩みが出来るように願い続ける。そのような信仰生活を皆で送りたいと思います。

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