世界宣教の中には様々な活動、様々な歩みがあります。宣教師の一人の友達はきれいな飲み水を確保できない国に行って、井戸を掘る活動をしています。ある時、東アフリカのある国に行って、ある村の人々のために新しい新鮮な水の井戸を掘りました。次の朝家を出て、とても驚くことに、その村の子供達は井戸の水を飲まずに、道の水たまりから飲んでいることを見てがっかりしました。道にはゴミが散らばり、人間や動物の汚物もあるので、その水を飲んで色んな病気をもらう恐れがあります。井戸が掘られたことを知っていたのに、道の水たまりから飲むことに慣れていました。きれいな水が与えられたのに、そこから飲むことは今までの生活習慣でなかったので、新しい井戸を恐れるということでした。
この話を聞いて胸が痛むかも知れないんですが、私たちクリスチャンは毎日同じ誘惑と戦っていると思います。信仰の歩みの中にイエス様を通して、新しい命の水が与えられたのに、それをもらう前の生活に戻るきらいがあります。つまり、救いを得るために、神様の恵にではなく、自分自身の良い行いに頼ることに戻る誘惑です。例えば、良い行いをすれば神様がますます愛してくださるというふうに考えたりします。さらにまた、他人に対しても、認めるかどうか相手の良い行いによることとなります。
聞いてわかるように、イエス様を信じるのみでは、十分ではないと恐れています。こういう恐れは、他の人との関係も、神様との関係をも滅ぼす危険があります。しかし、今日の箇所を読んで、この問題の対策の一つは福音の真理に向かって歩むことだということが明らかです。この対策はどのようなことかというと、主に二つの方法に分かれます。すなわち、偽善者にならないことと、律法に死ぬことです。
まず、今日の箇所で、使徒パウロは自分の教え、自分の福音、自分の権利について言い切っています。何故ならば、数年前、ガラテヤの諸教会を開拓したんですけど、皆さんが覚えている通り、偽りの教師はその教会に行って、別の教えを伝えていました。パウロはもちろんガラテヤ人を愛していて、偽りの教えから守るために、この手紙を送りました。使徒パウロは、自分の教えが、唯一の福音だということを証明するために、ペテロについてこの話を語ります。(この箇所ではケファと呼ばれていますが、ギリシヤ語の名前はペテロ。)クリスチャンたちが偽善者にならないため、この話をします。
いつか、はっきり言えないのですが、教会が幼い頃でした。アンティオキアにある教会で、ペテロは異邦人のクリスチャンと一緒にすごく親しい交わりを喜んでいました。使徒の働き10章によると、ペテロは、もし誰かがキリストを救い主として信じていれば、ユダヤ教のクリスチャンと異邦人のクリスチャンに、何の差別もないことを経験しました。それに従って、ペテロはユダヤ教のクリスチャンであるのに、アンティオキアの異邦人のクリスチャンと一緒に礼拝に出て、聖餐式をいただいて、差別なしに教会活動をしました。
しかし、エルサレムから割礼派という偽教師がアンティオキア教会に行くと、ペテロは彼らを恐れて異邦人から身を引き、離れました。この割礼派の偽教師によると、ユダヤ教のクリスチャンと異邦人のクリスチャンが交わりをすることは全くダメでした。何故かというと、異邦人のクリスチャンは割礼や他の儀式律法に従わなかったので、本当に救われていないと考えていました。驚くことに、ペテロはその偽教師を怒らせないため、神様の声を忘れて、異邦人から離れました。
それで、パウロからするとペテロの行為は非難すべきことでした。ペテロは偽善者のような真似をしていました。つまり、心の中で信じていたことと、手でやったことの間に、大きな矛盾がありました。「異邦人とユダヤ人のクリスチャンの間に差別はありません」ということを、神様から直接受け入れたのに、アンティオキア教会でこのメッセージに従わない行動をとってしまいました。パウロとペテロ、二人ともイエス様の使徒であったのに、何故このケースで、パウロは皆の前でペテロに強く抗議したのでしょうか。三つの理由があると思います。
一、バルナバもペテロのように異邦人から離れました(13節)。教会の中には一人の偽善者がいれば、その影響でより多くの人々も迷わせる可能性があります。
二、教会に偽善者がいれば、大きな混乱が生じます。聖書は一体何を教えているのか。本当の福音はどういうことなのか、などの疑問が出たりします。もし、パウロがペテロの行為に抗議しなかったら、世界中に教会の教えは明らかにならなかったのかなと思います。
三、ペテロは偽善者の行為をして、そうしたことでキリストの犠牲の十分さを否定しました。「律法を行うことによっては義と認められない」のですが、ペテロの行為はそうではないということでした(16節)。14節によりますと、この偽善者の行為は「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないの」です。この行動はどれぐらい危ないかというと、パウロがペテロに抗議する程でした。恐らく、パウロが何も言わなかったら、現代の私たちは本当の福音を理解できる機会はなかったかも知れません。
先々週の土曜日は長女の運動会でした。しかし、その日大雨で中止となり、日曜日に開催することになりました。安息日の大切さを守る気持ちもありましたし、長女はずっと前から運動会のために備えていました。私と妻、どうすればいいか迷ってしまいました。「運動会に行くべきか、教会に行くべきか、神様どちらでしょうか」と祈りました。多分、その日教会に来て誰が出席したのか、誰が欠席したのかを気にする人が恐らくいるでしょう。こういう問題について自分と違う態度をとる人に対し、私たちは批判的に考える傾向があります。偽善者になる危険もあります。
パウロによると、安息日に何をすべきかについて、ある程度自由さがあります(例:コロサイ2章16節)。しかし、一つはっきり言えるのは、他のクリスチャンに対して、律法を行うことによって救われるような態度で接しないことです。偽善者にならないことです。それは、本当の福音を否定するようなことです。私たちは、自分自身にとってイエス様を信じることのみで十分ではないと恐れると、自分の行いに頼るしかありません。他の人も行いによって非難するしかないでしょう。しかし、イエス様の犠牲は十分であることをわかったら、自分も神様から憐れみを受けたので、他の人を憐れむことができるようになります。
続きまして、福音の真理に歩むことは、人間関係に影響を与えるだけではなく、神様との関係とも繋がっています。16節から21節を見れば、「律法に死ぬこと」の大切さがわかると思います。どのようなことかを説明するため、三つのポイントを中心にして見ていきたいのです。
一、「律法に死ぬこと」というのは、キリストを信じるだけで完全に義と認められることに安心するという意味です。旧約時代のモーセの時から、ユダヤ人は神様から律法が与えられました。パウロもペテロもユダヤ人だったのに、律法に従うことで救われる人は一人もいないことは知っていました。ユダヤ人もユダヤ人じゃない人も救われる道は一緒です。つまり、律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められます(16節)。
当時、割礼派の偽教師は律法の役割を誤解したのです。神様の律法というのは、救われるための方法ではなく、救い主イエス・キリストの必要性を、私たちに見せてくれる手段なのです。17節で、パウロは偽教師の一つの訴えに答えています。彼らが言っていたのは、キリストを中心にするとは、律法を捨てるのと同じだということです。律法を捨てるよう勧めるとしたら、キリスト自身も罪に仕える人となる、と彼らは言いました。しかし、パウロはそう言っていないのです。パウロの考え方としては、律法そのものを見捨てることではなく、罪人を救う手段としないことだけを勧めています。
二、「律法に死ぬこと」は信仰によって救われた人々が、律法に戻らないことです。律法を救われる手段としないことは、パウロによると、律法を打ち壊す事です。但し、打ち壊した後、また律法によって救われようと行動するなら、自分が違反者であると証明することになるのです(18節)。私たちは、「天は自ら助くる者を助く」と言う教えを信じる誘惑が強いのですが、
これはイエス様の福音と全然違います。神の救いは進行中のものではないのです。クリスチャンが神様に受け入れられた理由は、自分自身の服従によるものではなくて、イエス様の完全な犠牲によります。
三、「律法に死ぬこと」は、キリストが私たちのうちに生きておられることです。20節はこう語ります。「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」これは非常に個人的な関係です。仮に、神の御子は世界中の人々のためにご自分を与えたとは言えるとしても「私のために」「この私を愛して、この私のために死んでくださった」と言えるでしょうか。あなたがたのうちにはキリストが生きておられますか。
このことについては、言うなれば「義認」ということです。日常会話の中に「義認」や「義」ということはあんまり言わないんですが、神様の働きを理解するためにものすごく重大な聖書の教えなのです。義認とは、私たちが罪あるままで、神様に義と認められること、イエス様のように義しい者として受け入れられることです。
義と認められることは、神の子とされることと一緒です。どういう子であるかというと、世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選び、私たちに神の子としての身分を与えられたのです。この全ての例を見れば、全ての働きは神様のものだとわかると思います。救いにおいて、私たちがやることは全くゼロです。
全ての人間は先天的に、神様の目から見て、自分は正しい人間と思われたいと願う傾向があります。しかし、もし主イエス・キリストの名前を呼び求めれば、すべての人は、もうすでに自分が神様から完全に愛されていることを確信できます。パウロがペテロを強く責めたのは、この福音の真理が危うくなるからでした。神様の敵であった私たちが、イエスの死によって神様と和解させていただきました。神様は私たちが律法に従うまで待たなくて、私たちが一生懸命に良い行いをするまで待ちませんでした。罪人であった時にも私たちのことを愛して、ご自分を与えてくださいました。なので、パウロのように律法に死ぬべきです。そうしないと、神の恵みを無にすることになります(22節)。
自分自身にとってイエス様のみでは十分ではないと恐れると、自分の行いに頼るしかありません。そうならば、自分の罪を隠すしかない、神様は本当に自分のことを愛しているかどうか疑問が生じます。キリストと離れていると感じると、自分がやっていることは十分ではないのではないかという気持ちになります。
しかし、パウロのように律法に死ねば、この状態は変わります。そうすると、自分の罪を自由に他の人にも、神様にも告白できるようになりますし、聖霊様の助けがないと神と人を愛する人になれないと認めることができるようになります。律法に死ねば、イエス様に対して個人的な愛が溢れるようになります。
それでは、まとめとして、ニュースで聞いた話を伝えたいと思います。ダ二エルさんはルーマニアの孤児院で生まれ育ちました。その孤児院は資源が限られていたので、その子供たちはベビーベッドから出られず、外にも出かけられず、誰にも愛されずに育ちました。しかし、7歳の時にアメリカ人の夫婦に養われることになり、ダ二エルさんはオハイオ州に移り住みました。
最初はダニエルさんと新しいお父さんお母さんはお互い、大変喜んでいましたが、時間が経つにつれて大きな問題が出てきました。ダニエルさんは幼い頃から本当に愛してくれる人が誰もいなかったので、誰も愛することができなくなっていました。恐れがいっぱいで、新しい親たちに愛されているのに、一緒に歩むことが難しかったです。いわゆる「愛着障害」という精神病でした。なので、かわいそうなダニエルさんは思わず出てしまう乱暴なふるまいをやめられずにいました。ダニエルさんは孤独で、恐れでいっぱいで、とても混乱していました。 親達も彼を怖がり、年を追うごとに数人のカウンセラーにみてもらうようになっても、無駄でした。 愛する息子は親の愛を決して知ることはないんじゃないかとさえ思われました。
やがてお母さんはある実験段階にある治療法のことを聞いて、お医者さんと相談のうえ、すぐそれをやり始めました。親の愛を明らかにするため、6ヶ月間お母さんのそばを全然離れず、生まれたばかりの赤ちゃんのように親は愛情にあふれる接触を計っていくというセラピーでした。6ヶ月後、ダニエルさんは治りました。親が親の愛を明らかに示してくれたおかげで、ダニエルさんの悩みは消え、愛することができるようになったのです。
皆さんは、私と同じように考える方なら、神様との関係の中、時にダニエルさんのように振る舞うことがあります。自分に対して神様の愛は十分ではないと恐れると、罪を犯して不安を感じると思います。しかしながら、ダニエルさんのお母さんのように、天のお父様は私たちに対して、どれぐらい愛しておられるかを示すために、自分のすべてを犠牲にするまで行動しました。十字架の上でこの愛を示してくださいました。あなたを愛し、あなたのためにご自分を与えてくださいました。もし、今朝、イエス様を救い主として信じていれば、今日皆さんがやること、やらないことによって、神様の愛を減らすことも、増やすこともできません。たった今、完全に神様に義と認められています。恐れることはありません。このようにして、福音の真理から目を離さずに歩みましょう。
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