聖書の神様を信じる者。キリスト教信仰を持つ者の生き方はどのようなものか。信仰生活には様々な側面がありますが、その中の一つは「救い主を待ち望む」という信仰、「救い主を待ち望む」という生き方があります。神を信じる者は、救い主を待ち望む者。
旧約の時代、神を信じる者たちは、約束の救い主が来ることを待ち望むように教えられました。その約束の救い主が来られた後、新約の時代、神を信じる者たちは、もう一度来ると言われたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。いつの時代でも、神を信じる者たちは、救い主の到来を待ち望むように教えられているのです。裏返しますと、救い主の到来を待たない。救い主の到来などないとする生き方を、聖書は悪としています。
Ⅱペテロ3:3-4「まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。『彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』」
聖書を神の言葉と信じる者は、キリストの到来などないとは考えないでしょう。しかし、どれだけキリストの到来を意識して生きているか。いつか来るだろうというのではなく、「主イエスよ、来て下さい」と願っているか。漠然と待つのではなく、待ち望むとは、具体的にどのように生きることなのでしょうか。私たちは、救い主が来られるのを待ち望む者として生きているでしょうか。
このようなことを念頭に置きながら、今日はルカの福音書十二章の言葉を読みたいと思います。
ルカの福音書十二章という箇所は、「数えきれないほどの群衆が集まる中、まずは弟子たちに話され」(12:1)その後で「群衆に向けて」(12:54)語られた、イエス様の教えが記録されているところ。弟子向けの教えと、群衆向けの教えと、この二つを合わせると、十三章九節まで続く、比較的長い「教え」の記録。
有名な言葉、有名なたとえ話も多く収録されているところで、是非とも後でこの一段落を読んで頂きたいと思いますが、全体として「備えること」「未来にどのように向き合うのか」がテーマとなっています。
今日私たちが注目するのは、弟子たちに向けて語られた教えの後半部分のところ。まずは二つのたとえ話からです。
ルカ12:35-40「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」
一つ目のたとえは、「婚礼に行った主人としもべたち」。身支度を整えた主人が、親類や友人の婚礼に向かう。「いってらっしゃいませ」と送り出したしもべたちは、主人不在の家を守ります。夜になれば戸を閉める。奥様は先に休むとしても、しもべたちは、眠いのを我慢しながら、今か今かと主人の帰りを待つのです。主人の足音が聞こえたら準備をし、叩く音と同時に戸を開けて、「おかえりなさいませ」と申し上げる。主人が帰ってくる時には、真っ先にお出迎えをしたい。この主人のしもべであることが嬉しい。主人を愛してやまないしもべたちの姿です。
このお出迎えを主人は喜ぶ。当時の文化からすれば想像も出来ないことですが(ルカ17:7-9)、主人が帯を締め、しもべたちに給仕するというのです。「やあ、お出迎え、ご苦労さん。私の帰りに備えてくれていたのかい、嬉しいよ。さあ、婚礼のお土産だ。私が支度するから、席に着いて待っていてくれ。皆で食べようじゃないか。」というところでしょうか。しもべたちを愛してやまない主人の姿。最後の晩餐で、弟子たちの足を洗うイエス様の姿が思い出されるところ。
ところで「婚礼」と言いましても、これは約二千年前、ユダヤの文化で語られた話。当時の婚礼は、一週間から二週間行われました。その間、参加する者たちは適当に出入りしたようです。そのため、主人の帰りを待つしもべたちは、今日、今晩だけ待っているというのではなく、いつ帰ってくるか分からない主人を、それでも心待ちにしているという話になっているのです。
もう一つの話は、「泥棒」の話。婚礼帰りの主人を待つ話から、泥棒に用心する話。当然のこと、泥棒がいつ来るか分かっているなら、盗まれることはないでしょう。いつ来るか分からない泥棒。だからこそ、いつ来ても良いように、用心しなさい。至って簡単な話。
先のたとえは、主人の帰りを、心待ちにしているしもべたちの話。泥棒に備えるというのは、泥棒が来ないようにすること。来て欲しくない、来ないように備える。同じ備えると言っても、だいぶ異なります。しかし、この泥棒に用心する話も「救い主の到来を待つ」ことを勧めるものです。
先に婚礼帰りの主人に扮したイエス様が、今度は泥棒に扮して語られる。自由自在というか、変幻自在というか。救い主の到来という重要なテーマを、主人の帰宅にたとえるのは分かりますが、泥棒の襲来にもたとえる。お茶目なイエス様と言って良いでしょうか。(とはいえ、救い主の再臨を泥棒の襲来にたとえるのはこの箇所だけではなく、第一テサロニケ、ヨハネの黙示録でも同様に表現されています。)
ともかく、この二つのたとえ話をもって、イエス様が弟子たちに教えているのは、救い主を待つことにおいて、くれぐれも用心するように。気を抜かないように。イエス様が私たちに願っておられる信仰生活は、救い主の到来を意識して生きること。
果たして私たちは、どれだけ真剣に、イエス様がもう一度来られることを意識して、日々の生活を歩んでいるでしょうか。「御国を来たらせたまえ」という祈り、「主イエスよ、来て下さい」という祈りを、真実なものとして祈っているでしょうか。今すぐイエス様が来られても慌てることはない、という信仰生活を送っているでしょうか。
さて、二つのたとえを話されたイエス様は、ここでペテロの質問を受けることになります。ペテロは何と質問したのか。
ルカ12:41「そこで、ペテロが言った。『主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。』」
ペテロからすると、このたとえ話が自分にも語られていることは分かった。しかし、自分含め、十二弟子だけへの勧めなのか。それとも、他の弟子も含めて語られたことなのか。気になったようです。何故、気になったのか。
もしかすると、「主人がしもべたちのために食卓を用意する」あの特権は十二弟子に限定されたものではないかと考えたのか。主イエスの弟子という者も多くいるが、特に最も近くで、ご一緒している私たち十二弟子こそ、主人に給仕してもらう者として相応しいように思う。いささか手柄顔で、「この特権は十二弟子のものということで間違いないでしょうか」との問いだったと言って良いでしょうか。
他の誰よりも長くイエス様に従ってきた。ともに過ごしてきた。「私には大きな特権があるはず」と考えるペテロに対して、イエス様はむしろ責任があると釘を刺すことになります。あなたがたは特別優遇されるどころではない、むしろ重大な責任があると話が続いていくのです。
ルカ12:42-46「主は言われた。『では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。』」
先に語られた「婚礼に行った主人としもべたち」の話に似ていますが、こちらの方は、主人の留守中にしもべが何をしていたのかに焦点が当てられる。賢い忠実なしもべと、悪いしもべの姿を通して語られます。
賢いしもべとは、主人がいない間、与えられた役割を忠実になしている者。主人が帰ってきた際に、その忠実さを主人が認めるような者。片や悪いしもべとは、どうせまだ主人は帰ってこないとして、与えられた役割を放棄し、むしろ与えられた力を自分のために使う者。与えられた役割を忠実にこなしながら主人の帰りを待つしもべは、主人から絶大の信頼を得る。片や、主人が帰ってくることを忘れたかのように振る舞った悪いしもべは、厳しい罰を受ける。これもまた、簡単明瞭なたとえ話です。
キリストの弟子として、他の者よりも年数を重ねた者。私こそ主イエスの直弟子、側近。私こそ主イエスの格別なおもてなしにあずかるのに相応しいと思っていたペテロに、責任の重さが告げられる場面となるのです。
ところで想像してみて下さい。もし自分が家の管理を任された者だとしたら。賢いしもべとして生きることが出来るでしょうか。悪いしもべとして生きてしまうでしょうか。
主人に家の管理を任され、最初のうちは意気揚々と働きます。その働きに就けることを栄誉に思い、忠実に働きたいと願います。しかし、待てども待てども主人は帰ってこない。そもそも、いつ帰ってくるのか教えられていない。次第に気持ちは緩み、どうせまだ帰ってこないのだからと、さぼり始める。それが続くと、まるで自分が主のように振る舞い始め、他のしもべを打ちたたき、飲めや歌えの宴会を始める・・・。このたとえ話を自分に当てはめて真剣に想像してみますと、重要なことに気付きます。それは、主人がいつ帰るのか、語られていないということです。
自分が家の管理を任されたしもべだとして、一週間なら賢いしもべとして過ごせるかもしれません。一ヶ月でも大丈夫かもしれない。しかし、五年、十年、いやそれ以上となったらどうでしょうか。真剣に想像してみますと、いつ帰ってくるか教えてもらってない状況で、忠実に働きを続けることは容易なことではありません。
主人がいつ帰って来るか分からない中、それでもいつ帰って来ても良いように働くしもべ。この賢いしもべのような生き方が、信仰者に期待される生き方となるのです。
最後に今一度、神を知る者、キリストを信じる者の責任の重さが語られます。
ルカ12:47-48「主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」
大きな木はそれだけ日光を受けるも、同時に強い風雨も受けることになる。主人の思いを知る者、多く与えられた者、多く任された者は、責任が増す。神を知る者、キリストを信じる者は、神様の思いを知り、自分が管理者であることを知り、やがて主イエスが来られることを知る者。その私たちが、主イエスを待ち望むことをしないとしたら。与えられた人生を、管理者として忠実に生きないとしたら。それは大変な悪であることを教えられるのです。
私たちはどれだけ真剣に、キリストの到来を待ち望んでいるでしょうか。自分の人生を、神様から託されたものを管理する者として生きているでしょうか。
以上、救い主の到来を待つことについて、確認してきました。主の到来を待つ、再臨を待ち望むというのは、いつかイエス様が来られることを信じているというだけではありません。神様から与えられたと思う役割を忠実になしながら、いつイエス様の到来があっても良いように生きること。私たちが主の到来を待つというのは、ただ待つだけでなく、備える信仰、忠実に生きる信仰と言えるでしょうか。
仮に、今晩、イエス様が来られるとします。その時、私たちの過ごす一日はどうなるでしょうか。その想像した生き方が、私たちの毎日の歩みとなるように。腰に帯を締め、明かりをともしている。主の到来を待つ信仰とは、今、イエス様が来ても良いとして生きることでした。
今日、イエス様の到来があるものとして日々を生きようと志す時、英国の信仰者、マックチェインという人の祈りが思い出されます。マックチェインは朝になると「主よ。今日でしょうか。備えております。」と祈り、一日の終わりには「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」と祈ったそうです。
「主よ。今日でしょうか。備えております。」
「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」
救い主の到来に備える生き方、与えられた人生を忠実に生きること。その具体的な生き方の一つは、このような祈りを日々ささげながら生きることでした。
もっとも、主イエスにお会いするというのは、再臨の時だけではありません。私たちが死ぬ時の場合もある。自分の死は、いつかは分からない。何十年後かもしれないし、今日かもしれない。老いも若きも、与えられた役割に忠実に生きなければならない。
皆様は神様から与えられた役割とは何か、考えているでしょうか。
祈るように導かれていることはないでしょうか。愛を示したい人、励ましたい人、福音を伝えたい人はいないでしょうか。赦すこと、赦されること、和解が必要な関係はないでしょうか。教会を建て上げるために、世界を祝福するために、賜物や情熱を用いて労したいと願っていることはないでしょうか。自分に与えられたものを、神様のために用いるために、ささげようと思いが与えられていないでしょうか。私たち一人一人、異なる役割、使命が与えられていますが、それが何かよく考え、忠実に取り組むことをしているでしょうか。祈り、聖書を読み、礼拝をささげ、キリスト者の交わりを持ちながら、自分に与えられた役割、使命を見出すこと。そして、その働きに取り組むこと。そのようにして、キリストの到来を待ち望む者の歩みを全うしたいのです。
神様に与えられた人生を忠実に生きる。そのことに取り組みたいと思える人は幸いです。その思いすら持てなくなる時。神様の思いを知りながら、果たすことが出来ない時。聖書に従うことが出来ない時、どうしたら良いでしょうか。忠実に生きることすら出来ない私のために、イエス様が何をして下さったのか思い出すことです。忠実さに欠ける私を、イエス様なら造り変えることが出来ることを信じることです。「神様、忠実に生きることの大切さを教えられましたが、自分の役割が分かりません。自分の役割を果たすことが出来ません。どうぞ憐れんで下さい」と祈ることです。この礼拝が、神様に願い決心する場となりますように。主イエスとお会いする時、「私に与えられた役割はこれだと考え、忠実に取り組みました。」と言うことの出来る幸いを、皆で味わいたいと思います。
信仰者の勇気をテーマに、特に救い主の到来を待ち望むことに焦点を当てて考えていきたいと思います。
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