箴言には、ひとつの真理を対照的な表現で教えていることばが、しばしば登場します。今日は、福音の力について理解するために、謙遜と高慢について対照的に語ることばに注目します。
箴言11:2「高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。」
16:18「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」
21:4「高ぶる目とおごる心。悪しき者のともしびは罪。」
29:23「人の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人は誉れをつかむ。」
今日の説教では、三つの真理についてみてゆきたいと思います。
1.謙遜の美、美しさ 2.高慢の醜さ 3.福音の力
一つ目は、謙遜の美、美しさについてです。
謙遜な人とは、どのような人に見えるでしょうか?
C.Sルイスは、「キリスト教の精髄」という本の中で、次に様に書いています。
「もし、あなたが本当に謙遜な人に出会ったとしたら、その人は今日的な意味で、『謙遜な』人だろう,などと想像してはいけない。その人は『私なんか全くダメな人間です』と口癖のように言う、やけに腰の低いお世辞たらたらの人間ではない。
あなたがその人(本当に謙遜な人)から受ける印象は、多分こうだろう。その人は、快活で、知的な人の様だった。そして、私がその人に話すことを、本当に興味をもって聞いてくれた。もし、あなたがその人を好きになれないとすれば、それは、あなたが、人生をあんなにやすやすと楽しんでいる人間に、ちょっぴり妬みを感じないではいられないからであろう。その人は謙遜さのこと等、少しも考えてはいない。そもそも、自分のこと等すっかり忘れてしまっているのである。」
謙遜なクリスチャンは、特に社会的に重要な立場にない人であったとしても、美しいものです。
箴言12:9「身分など高くなくても、勤勉に働く人は、自ら高ぶって、食に乏しい人にまさる。」
謙遜の美しさは、その人が生きる場所、その人が目を留める人々、その人が求めているもの、と言う点から考えることができます。
場所:イエス・キリストの時代、イエス様が育ったナザレ村は小さく、人々から軽んじられていました。後に主イエスの弟子になるナタナエルが、(最初イエスのことについて耳にした時)、「ナザレから、何の良いものが出るだろうか」と尋ねたほどです。
神様は、後に世界中の人々に救いをもたらす偉大な者とするため、イエス様の生涯を、ごく普通の、むしろ人々から軽んじられていたような場所で始められたのです。あなたは、神様があなたを置かれた場所で、神様に従うことができますか。
人々:イエス様の弟子たちは、しばしば子どもたちをも含め、様々な人を無視し、軽んじました。何故なら、彼らは名声を重んじたからです。ある時、イエス様は弟子たちに尋ねました。「あなたは、この女性を見ましたか。」(ルカ7:44)(その女性は、人々から見下されていた罪深い女、遊女でした。)
また、別の時、イエス様は、貧しい女性のささげものに目を留めました。誰も、彼女のささげものになど、目を留めていなかったのにです。
また、イエス様は、収税人の机に座って仕事をしていたマタイと言う男に目を留めました。収税人は、当時人々から嫌われ、憎まれていました。
さらに、イエス様は、同じく収税人の仕事をしていたザアカイと言う、ちびの男が木に上っている姿に目を留め、彼の家に泊まったのです。
イエス様は、子どもたちがご自分に近づくことがないよう、叱りつけた弟子たちに言いました。神の国で最も偉大な人は、これらの幼子のようにならなければならないと。
場所、人々、そして・・・
求めているもの:マルコの福音書に、まるでイエス様が何か悪いことをしたかのように、弟子たちがイエス様を叱っている場面が登場します。「すべての人があなたを探しているんですよ。」(マルコ1:37)弟子たちは、ごく普通の人々のため、全く目立たない奉仕を熱心にやり続けるイエス様に反対したのです。彼らは「イエス様、あなたはもっと自分のことを世間に宣伝しなければなりません。」そう心の中で考えていたのでしょう。
イエス様が、神様に仕えた場所、目を留めた人々、求めていたもの。これらの点に、謙遜の美しさは表れています。
二番目は、高慢の醜さです。
箴言16:18「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」
高慢は、私たちの心に、名誉や栄光、自己満足やこの世で偉大になることへの飢え渇きをもたらします。何故なら、神様は高慢に反対するからです。ルイス・スメデスは「高慢は、私たちが神を神としないこと、私たちが自分のために神の地位を奪うことだ。」と書いています。
高慢は、私たちの心に「私のために周りの人をどう利用すればよいのか。」と囁きます。「どうしたらこの人を、私が称賛され、栄誉を受けるために、利用すればできるだろうか」と、考えさせるのです。
高慢は、自分が賢いと主張しますが、イエス様はそれを愚かと呼んでいます。また、高慢な人は、他の人から忠告されることを嫌います。
箴言11:2「高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。」
自分は賢いと考えている時、自分が人から無視されたと感じて腹を立てる時、自分が注目されていないと思い、イライラする時、あなたは間違いなく高慢であると言ってよいでしょう。
高慢なクリスチャンは、いつも他の人を見下しています。そして、他の人を見下している限り、あなたには、その人があなたよりも優れていることが理解できないのです。孤児を軽んじたことがありますか。やもめを見下げたことはありますか。社会的地位の低い人を軽蔑したり、障害を持つ人を無視したりしたことはないでしょうか。
高慢な人は、往々にして醜くて、皮肉屋です。何故でしょうか。彼らは、謙遜こそ最高の美徳であることを認めることができないからです。
何があなたの心に、名誉に対する飢え渇きをもたらすのでしょうか?学校での良い成績や、会社での業績を集めて、人生の物語を作ることでしょうか。それとも、人生と言う法廷で、自分が重要な人間であることを繰り返し確認することでしょうか。
アーサー・ミラーの「転落した後に」と言う作品は、私たちの人間関係を、不完全で破壊的なものにしてしまう様々な力について、考察しています。この劇の主人公であるクエンティンは~劇の中の様々な出来事は、主人公の記憶の中で起こるのですが~、「たとえ、自分に不利なことであったとしても、真実を語る。」と言う、裁判のルールに署名しています。
この劇は裁判として構成されています。まず道徳家で、引退した弁護士である主人公クエンティンが登場し、裁判の席につくと、これまで彼が感じてきたこと、彼の価値観、彼の行動について語り始めるのです。
クエンティン:「このところ、ますますそう思えるんだ。人生は訴訟中の事件、一連の証拠ではないかとね。若い頃は、自分がいかに勇敢であるか、いかに頭が良いかを証明しようとする。次には、いかに素晴らしい恋人であるか、いかに立派な父親であるかを証明しようとする。そして、最後には、自分がいかに分別があるか、いかに大物であるかを証明しようとやっきになる。
しかし、こんなことはみんな、独りよがりさ。ある高さまで上り詰めれば、そこで、正しいか間違っているか、判決を受ける。思うに、私の不幸が始まったのは、ある日ふと見上げると、判事の席が空だったこと、(自分の人生が正しいものだったのか、間違っていたのか。良いものだったのか、良くなかったのか。本当の判決を下す)裁判官の姿が見当たらないこと、無人の裁判官席を前に、自分自身との果てしない議論が始まった時にさかのぼる。別の言い方をすれば、絶望だ。」
あなたは今でも、人生と言う法廷で、判決を待っていませんか。法廷のような人生、繰り返し繰り返し自分を否定される人生に疲れていませんか。
毎日、私たちは最終的な判決を待つ、法廷のような人生を送っています。その様な人生を続ければ続ける程、私たちの心は醜くなっていくことでしょう。
以上、一つ目は謙遜の美しさ、二つ目は高慢の悲惨さについて見てきました。
三つ目は、福音の力についてお話ししたいと思います。
イエス様は、私たちをこの法廷のような人生から解放するために、謙遜になり、へりくだってくださいました。イエス様は、私たちが誰もできないような完全な人生を送りました。イエス様が33年の生涯において行い続けた完全な義、それはただで私たちに提供されています。イエス様は、私たちの高慢さ、つまり、他の人の目から見て重要な人間となるための様々な努力を、十字架の上ですべて取り去られたのです。
イエス様は、私たちを人間が作り出した宗教から解放してくれました。人間が作り出した宗教は、三つの方法で私たちの人生に働きかけます。
第一に、私たちを、神様から報いを受けるための、宗教的な良い行いに励むよう促します。第二に、宗教は、世界を宗教的な良い人間と、悪い人間に分けてしまいます。第三に、宗教は、私たちを、いわゆる悪い人間を見下す高慢な人間にしてしまいます。(ルカの福音書18章でイエス様が語られたたとえ話に登場する、あの宗教に熱心なパリサイ人が、社会の嫌われ者である収税人を見下したようにです。)
皆さん、法廷の様な人生を生きることは、止めにしましょう。裁判はもうおしまいです。法廷のような人生から出てゆくのです。神様は、ただイエス・キリストの義しさのゆえに、私たちを義しい者と認め、宣言されました。神様に義と認められたクリスチャンの祈りは、次のようなものであるべきです。
父なる神様。私のすべての罪は赦されました。ただイエス・キリストの義が私に与えられたゆえに、ただ私がそれを信じて受け取ったがゆえに、私はあなたに義と認められ、受け入れられています。アーメン。
皆さんは、高慢の罪を赦して下ったキリストを、信頼していますか。キリストの義と謙遜の美しさが、皆さん自身のものとされたことを信じ、安心していますか。
箴言は、謙遜の美しさと高慢の恐ろしさを比べています。福音の力だけが、これから先ずっと、私たちをキリストのような謙遜な歩みへと導くことができるのです。
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