2018年10月28日日曜日

「謙遜の美、福音の力」箴言11:2,16:18,21:4,29:23


箴言には、ひとつの真理を対照的な表現で教えていることばが、しばしば登場します。今日は、福音の力について理解するために、謙遜と高慢について対照的に語ることばに注目します。


箴言112「高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。」

16:18「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」

21:4「高ぶる目とおごる心。悪しき者のともしびは罪。」

29:23「人の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人は誉れをつかむ。」


今日の説教では、三つの真理についてみてゆきたいと思います。

1.謙遜の美、美しさ   2.高慢の醜さ   3.福音の力


一つ目は、謙遜の美、美しさについてです。

謙遜な人とは、どのような人に見えるでしょうか?


C.Sルイスは、「キリスト教の精髄」という本の中で、次に様に書いています。

「もし、あなたが本当に謙遜な人に出会ったとしたら、その人は今日的な意味で、『謙遜な』人だろう,などと想像してはいけない。その人は『私なんか全くダメな人間です』と口癖のように言う、やけに腰の低いお世辞たらたらの人間ではない。

 あなたがその人(本当に謙遜な人)から受ける印象は、多分こうだろう。その人は、快活で、知的な人の様だった。そして、私がその人に話すことを、本当に興味をもって聞いてくれた。もし、あなたがその人を好きになれないとすれば、それは、あなたが、人生をあんなにやすやすと楽しんでいる人間に、ちょっぴり妬みを感じないではいられないからであろう。その人は謙遜さのこと等、少しも考えてはいない。そもそも、自分のこと等すっかり忘れてしまっているのである。」


謙遜なクリスチャンは、特に社会的に重要な立場にない人であったとしても、美しいものです。


箴言12:9「身分など高くなくても、勤勉に働く人は、自ら高ぶって、食に乏しい人にまさる。」


謙遜の美しさは、その人が生きる場所、その人が目を留める人々、その人が求めているもの、と言う点から考えることができます。


場所:イエス・キリストの時代、イエス様が育ったナザレ村は小さく、人々から軽んじられていました。後に主イエスの弟子になるナタナエルが、(最初イエスのことについて耳にした時)、「ナザレから、何の良いものが出るだろうか」と尋ねたほどです。

神様は、後に世界中の人々に救いをもたらす偉大な者とするため、イエス様の生涯を、ごく普通の、むしろ人々から軽んじられていたような場所で始められたのです。あなたは、神様があなたを置かれた場所で、神様に従うことができますか。


人々:イエス様の弟子たちは、しばしば子どもたちをも含め、様々な人を無視し、軽んじました。何故なら、彼らは名声を重んじたからです。ある時、イエス様は弟子たちに尋ねました。「あなたは、この女性を見ましたか。」(ルカ744)(その女性は、人々から見下されていた罪深い女、遊女でした。)

また、別の時、イエス様は、貧しい女性のささげものに目を留めました。誰も、彼女のささげものになど、目を留めていなかったのにです。

また、イエス様は、収税人の机に座って仕事をしていたマタイと言う男に目を留めました。収税人は、当時人々から嫌われ、憎まれていました。

さらに、イエス様は、同じく収税人の仕事をしていたザアカイと言う、ちびの男が木に上っている姿に目を留め、彼の家に泊まったのです。

イエス様は、子どもたちがご自分に近づくことがないよう、叱りつけた弟子たちに言いました。神の国で最も偉大な人は、これらの幼子のようにならなければならないと。


場所、人々、そして・・・

求めているもの:マルコの福音書に、まるでイエス様が何か悪いことをしたかのように、弟子たちがイエス様を叱っている場面が登場します。「すべての人があなたを探しているんですよ。」(マルコ137)弟子たちは、ごく普通の人々のため、全く目立たない奉仕を熱心にやり続けるイエス様に反対したのです。彼らは「イエス様、あなたはもっと自分のことを世間に宣伝しなければなりません。」そう心の中で考えていたのでしょう。


イエス様が、神様に仕えた場所、目を留めた人々、求めていたもの。これらの点に、謙遜の美しさは表れています。

二番目は、高慢の醜さです。


箴言1618「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」


高慢は、私たちの心に、名誉や栄光、自己満足やこの世で偉大になることへの飢え渇きをもたらします。何故なら、神様は高慢に反対するからです。ルイス・スメデスは「高慢は、私たちが神を神としないこと、私たちが自分のために神の地位を奪うことだ。」と書いています。

高慢は、私たちの心に「私のために周りの人をどう利用すればよいのか。」と囁きます。「どうしたらこの人を、私が称賛され、栄誉を受けるために、利用すればできるだろうか」と、考えさせるのです。


高慢は、自分が賢いと主張しますが、イエス様はそれを愚かと呼んでいます。また、高慢な人は、他の人から忠告されることを嫌います。


箴言112「高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。」


自分は賢いと考えている時、自分が人から無視されたと感じて腹を立てる時、自分が注目されていないと思い、イライラする時、あなたは間違いなく高慢であると言ってよいでしょう。

高慢なクリスチャンは、いつも他の人を見下しています。そして、他の人を見下している限り、あなたには、その人があなたよりも優れていることが理解できないのです。孤児を軽んじたことがありますか。やもめを見下げたことはありますか。社会的地位の低い人を軽蔑したり、障害を持つ人を無視したりしたことはないでしょうか。


高慢な人は、往々にして醜くて、皮肉屋です。何故でしょうか。彼らは、謙遜こそ最高の美徳であることを認めることができないからです。

何があなたの心に、名誉に対する飢え渇きをもたらすのでしょうか?学校での良い成績や、会社での業績を集めて、人生の物語を作ることでしょうか。それとも、人生と言う法廷で、自分が重要な人間であることを繰り返し確認することでしょうか。


アーサー・ミラーの「転落した後に」と言う作品は、私たちの人間関係を、不完全で破壊的なものにしてしまう様々な力について、考察しています。この劇の主人公であるクエンティンは~劇の中の様々な出来事は、主人公の記憶の中で起こるのですが~、「たとえ、自分に不利なことであったとしても、真実を語る。」と言う、裁判のルールに署名しています。


この劇は裁判として構成されています。まず道徳家で、引退した弁護士である主人公クエンティンが登場し、裁判の席につくと、これまで彼が感じてきたこと、彼の価値観、彼の行動について語り始めるのです。


クエンティン:「このところ、ますますそう思えるんだ。人生は訴訟中の事件、一連の証拠ではないかとね。若い頃は、自分がいかに勇敢であるか、いかに頭が良いかを証明しようとする。次には、いかに素晴らしい恋人であるか、いかに立派な父親であるかを証明しようとする。そして、最後には、自分がいかに分別があるか、いかに大物であるかを証明しようとやっきになる。

 しかし、こんなことはみんな、独りよがりさ。ある高さまで上り詰めれば、そこで、正しいか間違っているか、判決を受ける。思うに、私の不幸が始まったのは、ある日ふと見上げると、判事の席が空だったこと、(自分の人生が正しいものだったのか、間違っていたのか。良いものだったのか、良くなかったのか。本当の判決を下す)裁判官の姿が見当たらないこと、無人の裁判官席を前に、自分自身との果てしない議論が始まった時にさかのぼる。別の言い方をすれば、絶望だ。」


あなたは今でも、人生と言う法廷で、判決を待っていませんか。法廷のような人生、繰り返し繰り返し自分を否定される人生に疲れていませんか。

毎日、私たちは最終的な判決を待つ、法廷のような人生を送っています。その様な人生を続ければ続ける程、私たちの心は醜くなっていくことでしょう。

以上、一つ目は謙遜の美しさ、二つ目は高慢の悲惨さについて見てきました。

三つ目は、福音の力についてお話ししたいと思います。


イエス様は、私たちをこの法廷のような人生から解放するために、謙遜になり、へりくだってくださいました。イエス様は、私たちが誰もできないような完全な人生を送りました。イエス様が33年の生涯において行い続けた完全な義、それはただで私たちに提供されています。イエス様は、私たちの高慢さ、つまり、他の人の目から見て重要な人間となるための様々な努力を、十字架の上ですべて取り去られたのです。


イエス様は、私たちを人間が作り出した宗教から解放してくれました。人間が作り出した宗教は、三つの方法で私たちの人生に働きかけます。

第一に、私たちを、神様から報いを受けるための、宗教的な良い行いに励むよう促します。第二に、宗教は、世界を宗教的な良い人間と、悪い人間に分けてしまいます。第三に、宗教は、私たちを、いわゆる悪い人間を見下す高慢な人間にしてしまいます。(ルカの福音書18章でイエス様が語られたたとえ話に登場する、あの宗教に熱心なパリサイ人が、社会の嫌われ者である収税人を見下したようにです。)


皆さん、法廷の様な人生を生きることは、止めにしましょう。裁判はもうおしまいです。法廷のような人生から出てゆくのです。神様は、ただイエス・キリストの義しさのゆえに、私たちを義しい者と認め、宣言されました。神様に義と認められたクリスチャンの祈りは、次のようなものであるべきです。


 父なる神様。私のすべての罪は赦されました。ただイエス・キリストの義が私に与えられたゆえに、ただ私がそれを信じて受け取ったがゆえに、私はあなたに義と認められ、受け入れられています。アーメン。


 皆さんは、高慢の罪を赦して下ったキリストを、信頼していますか。キリストの義と謙遜の美しさが、皆さん自身のものとされたことを信じ、安心していますか。


 箴言は、謙遜の美しさと高慢の恐ろしさを比べています。福音の力だけが、これから先ずっと、私たちをキリストのような謙遜な歩みへと導くことができるのです。

2018年10月14日日曜日

一書説教(49)「エペソ書~召された者として~」エペソ2:10


六十六の書が集まって一つの書である聖書。私たちは聖書を神の言葉と信じています。聖書は神の言葉。とはいえそれは、天から本が降って来たという意味ではありません。地中を掘ったら本が出てきたということでもありません。人間の著者がいます。聖書は完成までに千年以上の時間を要し、四十人以上の人が著者として記されたものです。また、著者が筆を持ったら気を失い、気付いた時には書き終わっていたというのではありません。著者はそれぞれ、自分の考えをもとに書を記しています。

人間の著者が、それぞれの考えに基づいて記したものなのに、なぜ神の言葉と言えるのか。それは、神様が著者に選んだ者たちに対して、特別な力を与え、その執筆を守り、誤りなき神の言葉として記すようにされたから。神様の著者に対する特別な恵みによって、他のあらゆる書物と異なり聖書は神の言葉であると私たちは受け取っているのです。著者の意志が反映されているという意味からすると、聖書は神の言葉であると同時に人の言葉でもあると言えます。


 聖書は神の言葉であると同時に人の言葉でもある。この人の言葉であるという点に注目して聖書を読むと、より聖書が味わい深いものになります。当然のことですが、人が何かを記す時、その人の知恵、知識、経験が大きく影響します。同じ人が書いたものでも、10代の時、30代の時、50代の時に書かれたものを比べれば、違いは大きいもの。

パウロは、聖書に収録されているだけでも多くの著作を残していますが、記されている年代順に並べて読み比べると、思想の深まりが感じられます。有名なところで言えば、神様の前で自分をどのような者と考えるのか。

コリント人への手紙第一を記した時、パウロは自分のことを「私は使徒の中では最も小さい者」(Ⅰコリント15章9節)と言いました。キリストから直接教えられた者、使徒と呼ばれる者たちの中で、最も小さいと受け止めています。しかし、その後で記したエペソ人への手紙では自分のことを「全ての聖徒たちのうちで最も小さな私」と表現しました。キリストを信じる者、救われた者の中で最も小さいと考えるようになっていた。さらにその後、最晩年に記されたテモテへの手紙第一では自分のことを「私は罪人のかしらです。」と言います。使徒とか聖徒とすら言わず、自分は罪人であること、それも頭であると見定めるのです。このように見ていきますと、キリスト者の歩みは自分の功績を積み上げる歩みではなく、自分の弱さ、罪深さを確認する歩みであると教えられます。一つの書だけでなく、他の書との関係の中で読むことで、見えてくることがあるのです。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り十回目。エペソ人への手紙となります。パウロの記した後期の書。最晩年に記した三つの書(Ⅰテモテ、Ⅱテモテ、テトス)は個人に宛てたもので、教会宛ての手紙としては最後に記した書(エペソ、ピリピ、コロサイ)のひとつです。

パウロが記した手紙の多くは、伝道旅行中のもの。旅の最中、激務の中、目の前の人々に心を配りつつ、他の地域にいる人たちに思いを馳せて記したもの。エペソ書は、ローマで軟禁状態の時に記したものです。軟禁状態でも伝道活動をしていたパウロですが、とはいえ他の書を書く時よりは落ち着いて記すことが出来た状況でしょう。様々な経験を経た後で、比較的落ち着いて記すことが出来た書。そのためでしょうか、多くの人が激賞しています。「パウロ文書の冠」(ジョセフ・アーミテイジ・ロビンソン)、「パウロ宗教の真髄」(アーサー・サミュエル・ピーク)、「パウロ作品の一つの頂点、おそらく最高の頂点」(ピエール・モーリス・ブノワ)、カルヴァンの特愛の書でもあるとのこと。

 果たして、自分にその奥深さを味わうことが出来るのかと尻込みする思いもありますが、祈りつつ聖書を読み進める歩みを全うしていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 深淵なエペソ人への手紙、具体的に内容を見る前に、いくつか特徴を確認しておきたいと思います。

 特徴の一つ目は、内容が普遍的であるということ。エペソと言えば、パウロが伝道旅行の中では最も長く滞在した場所。長らく滞在した地域、その教会に宛てる手紙だとすれば、具体的な出来事や個人名が多く出てきそうですが、この書には具体的な出来事や個人名が殆ど出てこない。全てのキリスト者に宛てて記されたような印象があります。

(本論から外れますが、この書をエペソ人への手紙と呼ぶ主な根拠は、1章1節にある「エペソの聖徒たちへ」という言葉ですが、欄外脚注にあるように、写本によっては「エペソの」を欠くものがあります。つまり、パウロが記した書には、もともと「エペソの」と書いていなかった可能性があり、その場合は宛先の地名がない書となります。その可能性を意識しつつ、これはどこの、どのような人たちに宛てたものなのか、考えながら読むのも良いです。)

 特徴の二つ目は、「手紙らしくない」ということ。今から約二千年前。郵便ポストもなく、紙や羊皮紙が非常に貴重な時代。手紙を書き、相手へ届けるというのは大変なこと。当時、個人が手紙を書くのは、自分自身か送り先のどちらかに何かしらの必要があり記されるもの。しかし、エペソ書を読む限り、具体的な必要があり書かれたという印象がありません。記された中に、長い祈りの言葉や賛美の歌が多く含まれる書。そのため、手紙というより、「神学的エッセイ」、「長い祈り」「散文で書かれた詩」と評する人もいます。手紙でないとしたら、自分としてはどのような書とするのか、考えながら読むのも良いと思います。


 内容は深淵、しかし書物としては全六章の小さな書。どれだけ味わえるかはともかく、読み通すだけならば僅かな時間で可能です。大枠としては概観しやすく、前半と後半に分けられますが、前半が一章から三章まで、後半は四章から六章まで。前半が教理篇、後半が実践編という印象です。

扱われている主なテーマは、神様が私たちを召すとはどのようなことか。「神様の召し」についてです。「召し」とは、どのような意味でしょうか。日本語で「召し」とは、「地位の高い人が、役割を任せるために人を選び呼び出すこと」を意味します。神様が人を召すというのも似た意味になりますが、丁寧に言うならば「神様が人を選び、その人を作り変え、その人に使命を与えること」ということです。

「神様の召し」がテーマのエペソ書。神様の選びとはどのようなものか。私たちはどのように作りかえられたのか。神様から使命が与えられるとはどのような意味があるのか。前半に教理的に記され、召された者は具体的にどのように生きたら良いのか。後半に実践的に記されています。


 神様の召しとはどのようなものなのか。このテーマがどのように展開するのか。その書き出しは次のようなものです。

 エペソ1章3節~14節

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。


 書き出しから全速力。一息のうちに、多くのことが語られる。あれやこれやと盛り込まれる言葉に眩暈がするところ。

神様が私たちを召すとは、私たちを祝福することであり、世界の基が据えられる前からの選びであり、私たちを聖なる傷のない者にすることであり、みこころに沿ったことであり、愛に基づくものであり、私たちの罪を赦すことであり、全てのものがキリストにあって集められることであり、私たちを「御国を受け継ぐ者」とすることであり、私たちが聖霊を受けることであり、私たちを神のものとすることであり、神の栄光が褒めたたえられること。

論理的というより情緒的。説明する、解き明かすというのではなく、賛美のような祈りのような詩のよう文。そして驚くことに、もとのギリシャ語では、これで一つの文です。実に長い。(ちなみに、1章15節~23節も一つの文となっていて、エペソ一章は冒頭の挨拶を除けば二つの文で出来ています。)

 一つの文にあまりに多くのことが語られていて、このような表現に馴染みのない私たちには、余計に分かりづらく感じられるところ。とはいえ、練りに練られた言葉であること。私たちに対する神様の御計画は、本当に素晴らしいものであることを伝えたいという情熱は分かります。

 この雰囲気は前半の一章から三章まで続きます。まとめるのが難しいのですが、挑戦すると次のようになります。


 世界の基の据えられる前から、私たちに対する神様の御計画があり、時満ちてその計画が実行に移されました。その実行に最も重要な役を担われたのはイエス・キリストです。神様の御計画に従って私たちに与えられるものがどれ程偉大であるのか、知ることが出来ますように。(1章)

 罪の中にいる私たちは、キリストを信じることによって救い出されます。その信仰も神様から与えられるもの。このことによって、恵みによって救われることが示されるのです。神様が信仰を与えるのはユダヤ人だけではありません。これまでユダヤ人と異邦人には大きな隔たりがありましたが、イエス様によって信じる者は神の家族となるのです。(2章)

 神様の御計画は実行に移されましたが、まだ全てが実現したわけではありません。罪から救い出された私たちは、福音を宣べ伝えることで神様の御計画の完成を目指すのです。福音を宣べ伝える働きの中心は、「教会」を通してなされるもの。教会において、キリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなく、とこしえまでもありますように。(3章)


 このように、神様の召しがどのようなものか、それがどれ程素晴らしいものかを滔々と語ったパウロが、それでは召された者はどのように生きたら良いのかと後半に続きます。

 エペソ4章1節

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。


 神様の御計画に基づいて召された私たち。その役割を果たすとすれば、どのように生きたら良いのか。後半にも賛美や祈りの言葉がありますが、前半の雰囲気とは打って変わり、それぞれの言葉が短く、具体的な事柄が多く記されます。

 後半部分で特に有名なのは、教会についての教え(4章)、夫婦についての教え(5章)、親子についての教え(6章)。教会(神の家族)、夫婦、親子。私たちにとって最も身近な人間関係にこそ、召された者としふさわしい生き方があると語られているようです。

統一したテーマではなく、勧めの羅列のように見える部分もあり、内容においても、語り方においても、幅のある後半部分。実に様々な事柄について記されていますが、一書説教のために何度も読みまして「今回」私が特に印象に残っているのは、「言葉」についてでした。何度も口、言葉に気を付けるようにと言われます。「愛をもって真理を語るように。」(4章15節)、「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」(4章25節)、「悪いことばは、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(4章29節)、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえもしてはいけません。また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。」(5章3節~4節)、「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」(5章19節)、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(6章18節)、「私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることが出来るように、祈って下さい。」(6章19節)と。何を語るべきか。何を語るべきでないのか。表から裏から、様々な言葉で勧められます。

 是非とも自分自身に語られた言葉として、この後半部分を読んで頂きたいと思います。自分の生活を顧みつつ、自分自身はどのような点が弱いのか。どのような点で、召された者としてふさわしく歩めていないのか、確認して頂きたいと思います。今回、私が特に気になったのは「言葉」というテーマでしたが、それぞれ読む時、自分が気になるテーマは何か、考えながら読むのも良いと思います。


 以上、エペソ人への手紙です。牧師、宣教師、神学者であるパウロが、年を重ね経験を積み記した書。全六章と短いながら、濃厚な書。その奥深き内容から、多くの人から愛された書。今一度、自分自身がキリストを信じていることの恵み深さとその意味を知ること。神様に召されるということがどれ程素晴らしいことなのか、その召しにふさわしい生き方に取り組むことがどれ程重要なのか、再確認することに取り組みたいと思います。


 最後に一つのことを確認して終わりにします。実際に私たちがエペソ書を読みますと、前半で、神様に目されることの素晴らしさが語られ、後半で召された者にふさわしい生き方が具体的に語られます。そして自分の生き方が、召された者にふさわしくない部分が多くあることに気づかされるのです。どうするでしょうか。多くの場合、私たちは極端な二つの応答をします。一つの応答は、キリストを信じる者は、罪赦された罪人。召された者にふさわしい生き方と言われても、どうせ自分は出来ないと諦める。もう一つの応答は、自分を打ち叩いて、何とか召された者としてふさわしく生きようとすること。恵みによって召されたのに、努力によって召された者にふさわしい生き方をしようとする。私たちはこの両極端を避けたいと思います。

 パウロは私たちが神様に召されたこと、その召しにふさわしく生きることについて、短くまとめて語っていました。

 エペソ2章10節

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。


 召された者としてふさわしい生き方。ここで言う「良い行い」は、自分で何とかするのではない。何と、その良い行いも、神様が備えて下さっていると言うのです。これ以上の至れり尽くせりは無いでしょう。召された者としてふさわしい歩みが出来ていない。そう自覚した時、私たちがすべきことは、良い行いをあらかじめ備えて下さっている神様に注目すること。自分自身を見る時、召された者にふさわしい歩みなど、とても出来ないように思う。しかし、神様にはその力があると信じること。召された者としてふさわしくない歩みをしてしまう罪を告白し、ふさわしい歩みが出来るように願い続ける。そのような信仰生活を皆で送りたいと思います。

2018年10月7日日曜日

ガラテヤ(4)「福音の真理に歩む」ガラテヤ2:11~21


世界宣教の中には様々な活動、様々な歩みがあります。宣教師の一人の友達はきれいな飲み水を確保できない国に行って、井戸を掘る活動をしています。ある時、東アフリカのある国に行って、ある村の人々のために新しい新鮮な水の井戸を掘りました。次の朝家を出て、とても驚くことに、その村の子供達は井戸の水を飲まずに、道の水たまりから飲んでいることを見てがっかりしました。道にはゴミが散らばり、人間や動物の汚物もあるので、その水を飲んで色んな病気をもらう恐れがあります。井戸がられたことを知っていたのに、道の水たまりから飲むことに慣れていました。きれいな水が与えられたのに、そこから飲むことは今までの生活習慣でなかったので、新しい井戸を恐るということでした。


 この話を聞いて胸が痛むかも知れないんですが、私たちクリスチャンは毎日同じ誘惑と戦っていると思います。信仰の歩みの中にイエス様を通して、新しい命の水が与えられたのに、それをもらう前の生活に戻るきらいがあります。つまり、救いを得るために、神様の恵にではなく、自分自身の良い行いに頼ることに戻る誘惑です。例えば、良い行いをすれば神様がますます愛してくださるというふうに考えたりします。さらにまた、他人に対しても、認めるかどうか相手の良い行いによることとなります。 聞いてわかるように、イエス様を信じるのみでは、十分ではないと恐れています。こういう恐れは、他の人との関係も、神様との関係をも滅ぼす危険があります。しかし、今日の箇所を読んで、この問題の対策の一つは福音の真理に向かって歩むことだということが明らかです。この対策はどのようなことかというと、主に二つの方法に分かれます。すなわち、偽善者にならないことと、律法に死ぬことです。 


 まず、今日の箇所で、使徒パウロは自分の教え、自分の福音、自分の権利について言い切っています。何故ならば、数年前、ガラテヤの諸教会を開拓したんですけど、皆さんが覚えている通り、偽りの教師はその教会に行って、別の教えを伝えていました。パウロはもちろんガラテヤ人を愛していて、偽りの教えから守るために、この手紙を送りました。使徒パウロは、自分教え、唯一福音だということを証明するために、ペテロについてこの話を語ります。(この箇所ではケファと呼ばれていますが、ギリシヤ語の名前はペテロ。)クリスチャンたちが偽善者にならないため、この話をします。

 いつか、はっきり言えないのですが、教会が幼い頃でした。アンティオキアにある教会でペテロは異邦人のクリスチャンと一緒にすごく親しい交わりを喜んでいました。使徒の働き10章によるペテロは、もし誰かがキリストを救い主として信じていれば、ユダヤのクリスチャンと異邦人のクリスチャンに、何の差別もないことを経験しました。それに従って、ペテロはユダヤ教のクリスチャンであるのに、アンティオキアの異邦人のクリスチャンと一緒に礼拝に出て、聖餐式をいただいて、差別なしに教会活動をしました。

 しかし、エルサレムから割礼派という偽教師がアンティオキア教会に行くと、ペテロは彼らを恐れて異邦人から身を引き、離れました。この割礼派の偽教師によると、ユダヤ教のクリスチャンと異邦人のクリスチャン交わりをすることは全くダメでした。何故かというと、異邦人のクリスチャンは割礼や他の儀式律法に従わなかったので、本当に救われていないと考えていました。驚くこと、ペテロはその偽教師を怒らせないため、神様の声を忘れて、異邦人から離れました。

 それで、パウロからするとペテロの行為は非難すべきことでした。ペテロは偽善者のような真似をしていました。つまり、心の中信じていたことと、手でやったことの間に、大きな矛盾がありました。「異邦人とユダヤ人のクリスチャンのに差別はありません」ということを神様から直接受け入れたのに、アンティオキア教会でこのメッセージに従わない行動をとってしまいました。パウロとペテロ、二人ともイエス様の使徒であったのに、何故このケースでパウロは皆の前でペテロに強く抗議したのでしょうか。三つの理由があると思います。



 一、バルナバもペテロのように異邦人から離れました(13節)。教会の中には一人の偽善者がいれば、その影響でより多くの人々も迷わせる可能性があります。

 二、教会に偽善者がいれば、大きな混乱が生じます。聖書は一体何を教えているのか。本当の福音はどういうことなのか、などの疑問出たりします。もし、パウロペテロの行為抗議しなかったら、世界中教会の教えは明らかにならなかったのかなと思います。

 三、ペテロは偽善者の行為をして、そうしたことでキリストの犠牲の十分さを否定しました。「律法を行うことによっては義と認められない」のですが、ペテロの行為はそうではないということでした(16節)。14節によりますと、この偽善者の行為は「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないの」です。この行動はどれぐらい危ないかというと、パウロペテロ抗議する程でした。恐らく、パウロ何も言わなかったら、現代の私たちは本当の福音を理解できる機会はなかったかも知れません。


 先々週の土曜日は長女の運動会でした。しかし、その日大雨で中止となり、日曜日に開催することになりました。安息日の大切さを守る気持ちもありましたし、長女はずっと前から運動会のために備えてました。私と妻、どうすればいいか迷ってしまいました。運動会に行くべきか、教会に行くべきか、神様どちらでしょうか」と祈りました。多分、その日教会に来て誰出席したのか、誰が欠席したのかを気にする人が恐らくいるでしょう。こういう問題について自分と違う態度をとる人に対し、私たちは批判的に考える傾向があります。偽善者になる危険もあります。

 パウロによると、安息日に何をすべきかについて、ある程度自由さがあります(例:コロサイ2章16節)。しかし、一つはっきり言えるのは、他のクリスチャンに対して律法を行うことによって救われるような態度で接しないことです。偽善者にならないことです。それは、本当の福音を否定するようなことです。私たちは、自分自身にとってイエス様を信じることのみ十分ではないと恐れると自分の行いに頼るしかありません。他の人も行いによって非難するしかないでしょう。しかし、イエス様の犠牲は十分であることをわかったら、自分神様から憐れみを受けたので、他の人を憐れむことができるようになります。


 続きまして、福音の真理に歩むことは、人間関係に影響を与えるだけではなく、神様との関係とも繋がっています。16節から21節を見れば、「律法に死ぬこと」の大切さがわかると思います。どのようなことかを説明するため、三つのポイントを中心にして見ていきたいのです。        

 一、「律法に死ぬこと」というのは、キリストを信じるだけで完全に義と認められることに安心するという意味です。旧約時代のモーセの時から、ユダヤ人は神様から律法が与えられました。パウロもペテロもユダヤ人だったのに、律法に従うことで救われる人は一人もいないことは知っていました。ユダヤ人もユダヤ人じゃない人も救われる道は一緒です。つまり、律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められます(16節)。

 当時、割礼派の偽教師は律法の役割を誤解したのです。神様の律法というのは、救われるための方法ではなく、救い主イエス・キリストの必要性、私たちに見せてくれる手段なのです。17節で、パウロは偽教師の一つの訴え答えています。彼らが言っていたのは、キリストを中心するとは、律法を捨てると同じだということです。律法を捨て勧めるとしたら、キリスト自身も罪に仕える人となる、と彼らは言いました。しかし、パウロはそう言っていないのです。パウロの考え方としては、律法そのものを見捨てることではなく、罪人を救う手段としないことだけ勧めています。

 二、「律法に死ぬこと」は信仰によって救われた人々、律法に戻らないことです律法をわれる手段としないことは、パウロによると、律法を打ち壊す事です。但し、打ち壊した、また律法によって救われようと行動するなら、自分が違反者であると証明することになるのです(18節)。私たちは、「天は自ら助くる者を助く」と言う教えを信じる誘惑が強いのですが、


これはイエス様の福音と全然違います。神の救いは進行中のものではないのです。クリスチャン神様に受け入れられた理由は、自分自身の服従によるものではなくて、イエス様の完全な犠牲によります。

 三、「律法に死ぬこと」は、キリストが私たちのうちに生きておられることです。20節はこう語ります「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」これは非常に個人的な関係です。仮に、神の御子は世界中の人々のためにご自分を与えたとは言えるとしても「私のために」「この私を愛して、この私のために死んでくださった」と言えるでしょうか。あなたがたのうちにはキリストが生きておられますか。

 このことについては、言うなれば「義認」ということです。日常会話の中に「義認」や「義」ということはあんまり言わないんですが、神様の働きを理解するためにものすごく重大な聖書の教えなのです義認とは私たちが罪あるままで、神様に義と認められること、イエス様のように義しい者として受け入れられることです。

義と認められることは、神の子とされることと一緒です。どういう子であるかというと、世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選び、私たちに神の子としての身分を与えられたのです。この全ての例を見れば、全ての働きは神様のものだとわかると思います。救いにおいて、私たちがやることは全くゼロです。

 全ての人間は先天的に、神様の目から見て、自分正しい人間と思われたい願う傾向があります。しかし、もし主イエス・キリストの名前を呼び求めれば、すべての人は、もうすでに自分が神様から完全にされていることを確信できます。パウロペテロを強く責のは、この福音の真理が危うくなるからでした。神様の敵であった私たちが、イエスの死によって神様と和解させていただきました。神様は私たちが律法に従うまで待たなくて、私たちが一生懸命に良い行いをするまで待ちませんでした。罪人であった時にも私たちのことを愛して、ご自分を与えてくださいました。なので、パウロのように律法に死ぬべきです。そうしないと、神の恵みを無にすることになります(22節)。

 自分自身にとってイエス様のみでは十分ではないと恐れると、自分の行いに頼るしかありません。そうならば、自分の罪を隠すしかない、神様は本当に自分のことを愛しているかどうか疑問が生じます。キリストと離れていると感じると、自分がやっていることは十分ではないのではないかという気持ちになります。

しかし、パウロのように律法に死ねば、この状態は変わります。そうすると、自分の罪を自由に他の人にも、神様にも告白できるようになりますし、聖霊様の助けがないと神と人を愛する人になれないと認めることができるようになります。律法に死ねば、イエス様に対して個人的な愛溢れるようになります。


 それでは、まとめとして、ニュースで聞いた話を伝えたいと思います。ダ二エルさんはルーマニアの孤児院で生まれ育ちました。その孤児院は資源が限られていたので、その子供たちはベビーベッドから出られず、外にも出かけられず、誰にも愛されずに育ちました。しかし、7歳の時にアメリカ人の夫婦に養われることになり、ダ二エルさんはオハイオ州に移り住みました。

 最初はダニエルさんと新しいお父さんお母さんはお互い、大変喜んでいましたが、時間が経つにつれて大きな問題が出てきました。ダニエルさんは幼い頃から本当に愛してくれる人が誰もいなかったので、誰も愛することができなくなっていました。恐れがいっぱいで、新しい親たちに愛されるのに、一緒に歩むことが難しかったです。いわゆる「愛着障害」という精神病でした。なので、かわいそうなダニエルさんは思わず出てしまう乱暴なふるまいをやめられずにいました。ダニエルさんは孤独で、恐れでいっぱいで、とても混乱していました。 親達も彼を怖がり、年を追うごとに数人のカウンセラーにみてもらうようになっても、無駄でした。 愛する息子は親の愛を決して知ることはないんじゃないかとさえ思われました。


 やがてお母さんはある実験段階にある治療法のことを聞いて、お医者さんと相談のうえ、すぐそれをやり始めました。親の愛を明らかにするため、6ヶ月間お母さんのそばを全然離れず、生まれたばかりの赤ちゃんのように親は愛情にあふれる接触を計っていくというセラピーでした。6ヶ月後、ダニエルさんは治りました。親が親の愛を明らかに示してくれたおかげで、ダニエルさんの悩みは消え、愛することができるようになったのです。


 皆さんは、私と同じように考える方なら、神様との関係の中、時にダニエルさんのように振る舞うことがあります。自分に対して神様の愛は十分ではないと恐ると、罪を犯して不安を感じると思います。しかしながら、ダニエルさんのお母さんのように、天のお父様は私たちに対して、どれぐらい愛しておられるかを示すために、自分のすべてを犠牲にするまで行動しました。十字架の上でこの愛を示してくださいました。あなたを愛し、あなたのためにご自分を与えてくださいました。もし、今朝、イエス様救い主として信じていれば、今日皆さんやること、やらないことによって、神様の愛を減らすことも、増やすこともできません。たった今、完全に神様に義と認められています。恐れることはありません。このようにして、福音の真理から目を離さずに歩みましょう。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...